前回はひのきしん編として、天理教構造の一端を取り上げた。今回は、より深度を高めて考察したい。ひのきしんの意識の方向性に対して、どうしても神に向かってしまうのは、身体は神からの「かしもの•かりもの」という教えに由来すると推論できる。そして、その神に向かう行動は、必然的に自己満足な内面的限界と対峙しなければならない。特にひのきしんの行動的選択に関しては、人間の裁量以外にはありえない。「神のため」「人のため」とは言うものの、「じゃあ一生、その行為をやりつづけなよ」ということはできない。ここまで言ってしまうと私は非常に嫌味な奴だが、ラディカルに考えれば「神のため」「人のため」と全能知で人間的思考をマスキングする偽善に対しての論理的破綻を無視はできない。ひのきしんの行為選択、開始•終了選択は、どれだけ神の教えを組み入れようとも人間の行動でしかない。かしもの•かりものの教義的解釈は色々とあるのかもしれないが、とりあえず天理教ホームページの解釈を是として議論を前進させる。天理教ホームページでの「かしもの・かりもの」の解釈を引用すると
だれもが自分のものであると思って使っている身体を、親神様からの「かりもの」と教えられます。
そして、心だけが自分のものであり、その心通りに身の内をはじめとする身の周りの一切をご守護くださるのです。
これを、「人間というものは、身はかりもの、心一つが我がのもの。たった一つの心より、どんな理も日々出る」(おさしづ明治22年2月14日)と仰せになっています。
従って、借りものである身体は、貸主である親神様の思召に適う使い方をすることが肝心です。
この真実を知らずに、銘々に勝手気ままな使い方をすることから、十全なるご守護を頂く理を曇らせ、ついには身の不自由を味わうことにもなってきます。
天理教人の行動は、真実という目的的な行動でなくてはならないということである。しかし真実というものの定義が非常に曖昧模糊としている。引用での真実の説明は「神様の思し召しに適う使い方」となる。この点について議論をしてしまうと結論が出ないアポリアになるので保留にする。真実の定義については、仏教的な雰囲気があるが今回は問題としない。
この「かしもの•かりもの」という教えは、宗教学として非常に特徴的であり、天理教の根幹であり、天理教の衰退の一因でもあると私は感じている。その意味をこれから説明したい。
宗教学として非常に特徴的と言ったのは、ユダヤ、キリストやイスラム、また宗教の原初において、我々(の肉体)は神からの被創造物であり神から贈与されたものであるというのが一般的教説である。これらの宗教のあらゆる行為において神の存在を突き詰めて行くと、それは「神は人間に贈与をおこなうもの。ゆえに我々が存在している」ということになる。それは天理教人の「神様に生かされている」という言葉と符合すると考えていいだろう。レヴィーストロースが人間関係の原初において贈与論を展開したことからも人類存続の重要な装置である。贈与というのは宗教(人間)というスイッチがオンにされた時点から開始する。つまり我々は神から贈与されたために、それを次の者にバトンタッチすることが最大の使命となる。信仰を伝えるために後世に言葉を伝え、人類を存続させるために異なる民族と女性を交換する。この贈与論は、人間関係と信仰の始まりとなる。しかし天理教では、この文化人類学的洞見や西欧教義に対して意義を申し立てる。かしもの•かりものというのは、こういった古典的宗教の贈与論に対して、天理教は貸与論であると私は解釈する。そして、この貸与論こそが、天理教の衰退に関与していると考えることができる。
宗教的な贈与論は、神から与えられたものを次は人間に伝えることを主に指す。レヴィーストロースが言った等価交換や反対給付という概念は、人間同士の交換という行為を前提としている。農耕民族の物々交換からはじまり、民族間、人間同士の交流が生まれ民族が拡大する。与えられた者は別の者に与えなければいけないという義務感を背負う反対給付によって世代間伝達が促進され人類は存続する。経済でさえもお金の交換であり、人類の原初形態に則している。西欧から入ってきた資本主義の原初形態は贈与という行為であり、その資本主義を形成した土壌はキリスト文化である。以前、私はブログにて「天理教人が天理教の発展を望むのであれば、天理教以外の異性と結婚するような教外婚を推奨するべき」と提案した。それは「天理教の(教会の)息子は、天理教を信仰している(教会の)女性と結婚すべきである」(天理教の娘は天理教の息子のところに嫁ぐべき)という暗黙の了解が存在し、実際に天理教内のファミリー婚の多さに驚愕したからである。この教外婚という概念は文化人類学的な知見からヒントを得たことであるが、天理教の婚姻形態をレヴィーストロースが見れば、天理教は民族的に淘汰され減少していくだろうと言うことは想像に難くない。それほど天理教内ファミリー内での結婚は多いと感じる。むしろ天理教を全く知らなかった女性が、天理教の教会に嫁ぐというケースは、私の皮膚感覚では少数派だと思う。天理教人の知り合いが複数いる人であれば「あの人とあの人は親戚」という多さには驚きを禁じ得えず、こんな時代が、まだ日本にあったのかと異様な恐怖を私は覚えた。あくまで文化人類学的に見ると、同じファミリーでの交換は血が拡大しない。血が拡大しないということは、自然に緩やかに民族は減って行く。他民族との交換は、そのまま遺伝のリスクヘッジになり、拡大し世代間で継続する。
閑話休題。一方、贈与論に比べ天理教の貸与論では、必然的に神との二者関係が求められる傾向が生じる。贈与論では、神から与えられたものを他者に伝えることが目的になる。しかし、天理教の場合は神から借りた肉体を神に返礼することが目的となる。だって借りてるんだから返さないといけない。天理教の貸与論は、個人的には非常に好感を持っており、また日本文化では貸与論の方が馴染みやすい傾向があることも感じる。しかし神から与えられた身体は、最終的に神に返却しなくてはならない。ここが本論のポイントであり天理教の特異点である。この教えは、陽気ぐらしで「人のため」という実践よりも、より根底に流布するものである。天理教本部の解釈は知らないが、「陽気ぐらし」よりも「かしもの•かりもの」が学術的に本質的である理由は、陽気暮らしは行為レベルで、かしもの•かりものは存在レベルだ
1. ぢば・かんろだい について
お久しぶりです。「ぢば」に関する資料を探しておられるようですので、我田引水になって恐縮ですが、
「かんろだい問答=ぢば・かぐらづとめ・元の理の関係について」と題する資料(私のHPサイトに収録)をお知らせします。
「かんろだい問答」で検索すれば表示されます。本文の文字を拡大すると読みやすくなると思います。カインさん個人のメールアドレスが不明ですので、コメントしました。
2. 無題
秀司さんはリウマチだったという不確かな話もありました。私は秀二さんの再婚(先妻とその子)を考えると、こどもの有無が真実の証とはいえないのかなと思ってしまいます。
3. 無題
はじめまして。私は天理教人ではありませんが、某布教所とご縁がありました。今では「お道」の勉強をしていますが、私の夫はキリスト教徒です。そして北アメリカで暮らしているので友人もキリスチャン(非カソッリク)が殆どです。
それで宗教学的な記事が読みたくてNETを検索したところこのカインさんのブログに当たりました。
これも何かのご縁だと思います。色々考える参考にさせて下さいませ。
有り難うございます。
4. ホームページの解釈を信じちゃっていいの?
「以前天理教人から聞いたが、天理教には物の貸借に関する教義がある。どんな教えかは詳細は忘れたが、「人からものを借りたら、なるべく早く返して礼を尽くせ」ということだったと思う。」
これは、おふでさきの3号28のおうた、「人のものかりたるならばりかいるで はやくへんさいれゑをゆうなり」のことだろうと思います。
このおうたは、明治5年におはるの後妻として梶本家へ嫁いだこかんに対して、3年の約束だからお屋敷に戻ってこいということを 表現したおうたです。28のおうたは、明治6年に書かれており、7年を迎えると足掛け3年になるので、約束通り戻りなさいというわけです。
また、「かしもの」という言葉があるおふでさきをその前後を含めて読むと、天理教ホームページにある解釈が適切かどうか私は疑問に思います。
天理教の教理は、教祖没後、明治、大正、昭和の時代に政府の干渉を受けながら、また、教団拡大の方針にそって形成されてきました。その点を考慮して考察しないと、ピントが外れたものになる可能性があります。
秀司の足の病に関する資料は、「復元」という本にまとめられています。「稿本教祖伝」以上の考察を行おうとすれば、これに当たるしかないでしょう。WEBページに載せる程の考察をしている人は多分いないでしょう。
5. 天理教の教理と教祖の教理は違う1
「貸し物、借り物」といえば、天理教の最重要な教理といえるかと思います。「おふでさき」には、「かしもの」「かりもの」の用例が、5つあって、そのうち3例が、三号に出てきます。三号以外では、六-120、十三-46です。
『天理教教典』の第7章「かしもの・かりもの」では、まずこの3首
〔三号 41/にんけんハみな/\神のかしものや/なんとをもふてつこているやら〕
〔三号126/にんけんハみな/\神のかしものや/神のぢうよふこれをしらんか〕
〔三号137/めへ/\のみのうちよりのかりものを/しらずにいてハなにもわからん〕
が紹介され、次におさしづから、「心一つが我がの理」が引用され、心の間違った使い方として、「ほこり」の話から、ほこりが積もった状態の「いんねん」論に移り、最後に、
〔六号120/このよふハ一れつハみな月日なり/にんけんハみな月日かしもの〕
が引用されて締めくくられています。
教典の「貸し物・借り物」論は、一言でいえば、「前世のいんねん論」として展開されているのです。
6. 天理教の教理と教祖の教理は違う2
しかし、「おふでさき」の5首を読む限りでは、いんねん論的な表現をそこに見出すことは、出来ません。
三-41と、三-137は、その前に、
〔三-40、三-135/
たん/\となに事にてもこのよふわ/神のからだやしやんしてみよ〕
という同じ御歌があって、人間が、この世界すべては神の体であることを知らないこと(「なんとをもふてつこているやら」・「しらずにいてハなにもわからん」)を、神の立場(かしもの)、人間の立場(かりもの)からの表現で、嘆いておられ、六-120では、三-40.41、三-135.137で話されたことを一首にまとめて表現されています。
また、三-126、十三-46では、それぞれ、前に
〔三号125/高山にそだつる木もたにそこに/そたつる木もみなをなじ事〕
〔十三号 45/高山にくらしているもたにそこに/くらしているもをなしたまひい〕
が、置かれ、人間に高低はないことを、教えられています。
これは、
〔三号121/上たるハせかいぢううをまゝにする/神のざんねんこれをしらんか〕
〔三号124/上たるハせかいぢううをハがまゝに/をもているのハ心ちかうで〕
〔六号121/せかいぢうこのしんぢつをしりたなら/ごふきごふよくだすものわない〕
の御歌を読ませていただけば、「上」の、神の心を知らない「ハがまゝ」な行いを嘆き、戒めるために、「かしもの」という表現がとられていると考えられます。
ここで知らなければならない「神の心」とは、
〔十四号 25/月日にわにんけんはじめかけたのわ/よふきゆさんがみたいゆへから〕
でありましょう。
この『教典』と「おふでさき」原典での、「かしもの、かりもの」の教理解釈の違いは、いつごろから現れたものなのか、なぜそのような違いが生じてきたのかは、非常に興味のあるところです。
7. 天理教の教理と教祖の教理は違う3
この教理の違いは、いつごろから現れたものなのか、古い教理書から考察してみましょう。
取り上げる本は、『世界最後の天啓教』、『天理教道しるべ』、『正文遺韻』の三冊。この3冊にしたのは、特に理由はありません。手近にあったというだけのことです。
最初に、それぞれの本の説明をしておきましょう。
『世界最後の天啓教(以下『天啓教』)』(奥谷文智著.1915)は、30年祭の前年、大正4年、今から90年前に出された物です。布教用パンフレットとして印刷された本文12ページの小冊子。
2冊目は、大正二年に出された『天理教道しるべ(以下『道しるべ』)』です。これも著者は、奥谷文智氏で、いろいろな団体(教会)から、そこの名で出されたようです。これは、本文24ページ。
最後は、『正文遺韻(以下『遺韻』)』です。これは、明治21年からおぢばに住み、明治36年に亡くなった山名初代諸井国三郎の息子、諸井政一氏が教理などを書き綴ったものです。現在でも、『正文遺韻抄』として、道友社で入手できます。
では、内容に入ります。
『天啓教』では、「教理の概説」と題された2ページほどのところに、ほぼ、現教典の7章と同じ内容が書かれています。
≪天啓に現はれた天理教の教理とは如何なるものであるかと云ふに、教祖が「つきひ(神)ありてせかいあり。せかいありてそれぞれ(万物)あり、それぞれありてみのうち(人間)あり」と示されたる如く。≫
ではじまり、三-126〔にんけんハみな/\神のかしものや/神のぢうよふこれをしらんか〕の引用から、「心一つが我がの理」→「悪しき心遣い」→「八つのほこり」→「前世、今世のほこり=悪因縁」→「懺悔」→「人を助ける心」という流れで、教理が展開されています。
8. 天理教の教理と教祖の教理は違う4
『道しるべ』では、「かりもの」と「ほこり-いんねん」の話が、別々の章で語られています。
まず、「身体は神よりの借物なり」という章で、「人間の身体は親様の肉体の一部を借り受けて天地の親様の懐ろにて親様のご守護によりて生死して居るのでありますから、我が物でもなく又我父母のものでもありませぬ天の親様のであります」と説き、それゆえ、「借り捨てにせぬ様心掛け報恩の道を謀り神と一致するような心と行とを持たねばならぬ」と結ばれています。
次に「天理教の修行」の章で、「ほこり-いんねん」が出てきます。
≪禍の種たるべき前生より積み重ね来るりたるあしき心づかいを改め変えて心のほこりとなるべき心づかいを祓い清めて清浄無垢なる澄みたる水の如き心に洗い改へ人倫を明らかにし、信心修行を怠らなかったならばやがて親様の御慈悲によりて罪深き悪因縁より救い出されて・・・・身も心も安く神の如くなる事が出来るのであります≫
9. 天理教の教理と教祖の教理は違う5
最後は、『遺韻』です。これは、道友社の売店で手に入りますから、原文を読んでいただきたいのですが、「八埃の理(p170)」、「身上かりものゝときわけ(p186)」、「因縁(p224)」とそれぞれ別になっています。
その中に、「貸し物の理」「ほこり」「いんねん」の軽重について
≪さて、かしものゝ理、八つのほこり、いんねん、みな理を聞き分けねばなりませんが、ぜん申しますとほり、身上かしもの、かりもの、心一つがわがの理。これ、をしへのだいでございまする。・・・・この理を感じねば、なんにもわからん。(p192)≫
と書かれています。
結論的に、以上をまとめてみると、「前世のいんねん論」として展開されている現教典の「貸し物・借り物」論は、大正5年ごろには、ほぼ同様の説き方が完成していましたが、時代を遡るに連れ、「貸し物の理」「ほこり」「いんねん」の教理は別々のものとしてあり、明治36年段階では、三つの中では、「貸し物の理」が最重要であることが強調されています。
ちなみに、「おふでさき」では、「貸し物の理」「ほこり」「いんねん」の教理は、まったく別なものとして語られているように思います。
明治から大正にかけて、天理教は、拡大していきます。それを支えるための教理、拡大しやすい教理が作られていったようです。
それは、文化人類学的洞見や西洋教義と比較して論ずるには、あまりに拙いものでしかありません。そのようなものだから、身内で結婚していくしかないのです。
10. 東電
今の本部は、東電、関電と似ているように思います。
自己の権利と保身の為に、教理を曲げているように思います。
11. 感嘆しました
贈与論に対する貸与論の問題性をめぐるカインさんの着眼点、原典と教典における教理の亀裂を鋭く指摘した山田太郎さんの論点、それぞれに新しい視点であり、とても感嘆いたしました。また、これらを読んだこのブログの多くの読者にとっても、非常に啓発的な問題提起になると思います。
陰ながら応援している教友が大勢いますので、カインさん、山田太郎さん、今後もこのように斬新な問題提起を続けていってください。
12. 無題
山田太郎さん、こんにちは。
かしわともうします。一つお聞きしたいのですが、以下の解釈の根拠は何処にあるのでしょうか?教えて頂ければ幸いです。
これは、おふでさきの3号28のおうた、「人のものかりたるならばりかいるで はやくへんさいれゑをゆうなり」のことだろうと思います。
このおうたは、明治5年におはるの後妻として梶本家へ嫁いだこかんに対して、3年の約束だからお屋敷に戻ってこいということを 表現したおうたです。28のおうたは、明治6年に書かれており、7年を迎えると足掛け3年になるので、約束通り戻りなさいというわけです。
1、(神の)かしもの(人は)かりものの、2、(人の)こころ通りの(神の)守護。
1、地位や名声、血統や財産等諸々と自己同化しながらいらぬ重荷を背負っているわけです。
かりものを聞いたとたんに、そのよけいな荷物を含めた、この身体にさえ自己同化がハズレ身軽になるわけです。
2、心と心の道(魂に付けた因縁)通りに現象を(神)が現し続けている。
この1、と2、の間に身体を含めた全存在を親神の大守護と映せたら、神の大恩を感じると共に、神を仲介とした人の心と現象に関わる因果の法則を想像するのです。
ただ常人は過去生を映す能力に乏しいが故に、教祖的な人物にサトシを乞えば、心が納まって、諸事情が納まっていった。というのが御在世当時の実情だったのではないでしょうか?
基本的な教え、かしものかりもの心通りの守護を聞いて、よどみなく喜びの心を発揮する為には、教祖的人物との縁が必要なのではないだろうか?
神とか魂とか霊とか心とかと現象との関連性をどこまでも探求してゆく道、かしものかりもの心通りの守護への理解を深める道が、お地場の存在理由の一つだと思うのですがね。
かしものかりものの教理は謙虚さを、こころ通りの守護は創造性をかきたてられるお言葉ですね。
全ては神からの借り物であり、神と共に甘露台文明を築いてゆくといったイメージですね。
その神の意志の発露機関である教会本部が汚れている事で汚れた中山文明になりつつある事は遺憾です。
又そのことで、先々の方々の魂の浄化が遅れてしまう事に神の残念を彷彿させる今日この頃です。
神のかしものかりもの、心通りの神の守護。
全知全能の神に守られた人間は、全てに感謝の心を深めながら、永遠の人生を優しく通る、という教えだろうとは漠然と感じるのだが。
その場その場で何が優しい事なのか、何が絶対善なのか、現状では、おやさと館を破壊する事なのか?その建設に貢献する事なのか?それともストップする事なのか?
人類の身体の健康増進につながる心の健康増進のための教えではあるのだろうが、宗教建築にどれほどの意味があるのかな?
「借りものである身体は、貸主である親神様の思召に適う使い方をすることが肝心です。
この真実を知らずに、銘々に勝手気ままな使い方をすることから、十全なるご守護を頂く理を曇らせ、ついには身の不自由を味わうことにもなってきます。」
カインさんの記事を読んで、何やら初めて、かしものかりもの論に違和感を感じてしまった。神の思召しに適う使い方、つまり、神に束縛されるということではないのだろうか。勿論、人の為に、人を助けて生きよ、ということであるが、しかしそれでも、何やら、人間は自由に生きられないのか? という重苦しさを感じた。(悪いこともしていい、とかいう問題では無く)
又、神の思召しに添うように、ということの、神が教団上層部になっている事が、衰退の原因である事は言うまでも無いが。
我々は、神動エネルギーで動く超便利なパワースーツを永遠にお借りしている。という事かな?
そしてそのパワースーツは、神の思召しに適う生き方をしていれば、エネルギーがどんどん補充されるが、神の思召しに適ってなければ、燃料切れを起こす装置が仕掛けられているみたいですね。
生かされているってことじゃないですかね。
俺の身体は俺のもんだ、そうですね。それでもいいと思います。
かしもの借りものの論点。色々あっていいはずです。
けれど、地球という星の中でしか、我々は生きられません。フリーザみたいに、宇宙空間でも生きられるなら別ですが。
地球というカゴの中で、我々は生かされ、生きていくしかありません。
摂生は長生きの秘訣であることは、科学的にも、科学のない昔のひとも、知恵として知っています。早寝早起き腹八分。
天理教本部に集まる、とくに中山家を中心としたごく一部のカスどもは、立教時にあった神からの木っ端微塵にしてやるという出来事が、そろそろあるんじゃないでしょうか。つーかあってほしい。
是非、ご自身のお身体、メンタル面、ご自愛下さい。
ボンクラ会長如きのモラハラ、パワハラに付き合う必要はなく、義務もありません。教祖の言葉にも、無理に来いとは言わんでな、いづれ段々つき来るでとありますよね。気が向いたとき、顔を上げれば良いのです。
かしもの借りものの理は、自分を大切に出来ない人が、他人に大切なことの何が言えるのか、そんな意味もあるのかと解釈しております。
生命進化の頂きでもあり、神の最高傑作ともいえるこの身体。永遠に人間の健康は最高価値だと思います。
無理な単独布教や無理な献金集めのために、それが祟って寿命を縮めた人達がいた事も史実なんです。それを勧めながら適切な補助保証もしなかった指導部は、特攻作戦を考案したした人達と同じくらい罪が深いのではないか? とも感じる今日この頃です。
匿名 様。
大いに共感致します。
ブログ<原典からの出発>植田義弘先生のブログです。
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天理教の「御供え」についてをリンクします。
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命の泣き声~天理教への信仰でお悩みの方へ~
「命の泣き声」さんのホームページのリンクを張ります。
http://inochinonakigoe.grupo.jp/
みき様はその魂の理と時代背景を含む諸事情によって、お地場に救済システムを実現するための特段の御苦労を余儀なくされたが故に、90歳で現身を隠されたとしても。
個々人は、神からのかりものの身体を、子々孫々に亘って、18心と40姿115歳まで病まず死なず弱らずを実現することが雛形の道なんじゃないのか。
心身共の健康と安全の増進に逆行するような事情、血の涙を集める様な指導があったとしたら、本部上層部のサンゲだろう。
慎みの乏しい、本部の過分な普請は、徳ある中山家さえ、断絶の憂き目を見る事につながっているのではないだろうか?
身の丈に合わない、大きい、無理な、豪華な、高い教会普請をした教会担当者の家々の御事情を見聞きすれば、ネガティブな意味で神の実在を感じてしまうのだが。
本部上層部のお偉いさまの皆さまには、感謝・慎み・たすけ合いの精神を養われた上でのご指導を賜りたいものです。
この神世が、喜びには喜びの理を廻す神の世界であるなら。信心は喜べる範囲を心掛けるべきでしょうね。
煎じ詰めれば、エゴと支配欲を蒸発させて、感謝と優しさに満ちた陽気で健康な世の中にしましょうよ。とお地場に神が現れて言った。
のに、残された指導者達がエゴと支配欲を温存・増長させちゃって困ってます。という状態なのか??
けれども神は世界をろくじに踏み均されていると同時に、お地場を鏡屋敷・神屋敷・雛形屋敷として、よろずたすけの本拠地に復元進化させる為にも働かれているから、神の理に合わない人達の掃除も同時進行中である。
という現状なのか?
神様の心は人間にはわかりませんね。神様は今後おぢばをどうするおつもりなのか?
人間達が心の汚れを洗いきるまでは、神はおぢばを放っておかれるおつもりなのでしょうか?
かしものの中でも特段に神様の想いが深くかかっているのが人間の身体の健康だとしたら、地上ではお地場に対してではないでしょうか?
神様がおや様に天下られてからの道具衆の魂を身近に寄せられる物語は、一見強引・残酷とも感じられる程です。
「なんでも難儀はささぬぞえ・たすけ一条のこのところ」の実現成長が神の望みなのでしょう。
熱心な教会担当者・後継者の皆さんの心の苦しみも、煎じ詰めれば、たすけ一条のこのところのはずのお地場の霊救力が教祖、本席様在世当時より落ちていると感じるところでは無いでしょうか?
神のたすけたい想いと人間の想い、正しい希望が合致すれば、お地場の霊救力を高めるための屋敷の掃除を最優先になさるのではないか?と想像します。すでにそのように働かれているのに人間の側が気づいていなかったのかもしれませんが?
永遠に健全な精神には永遠に健全な身体が借りられるという教えでもあるだろう。
健全過ぎたおやさまは不健全過ぎた当時の社会の中ではご苦労下さったわけだから、例外もあるだろうが。
健全さの重要要素である、感謝と喜びと優しさと謙虚さと人と物を大切にする精神が、本部上層部には麻痺していたのではないか?
部内の人間を使用人と勘違いしている輩さえいたもんだ。善亮氏はどうだか知らないが。
神のかしものにより感謝を深めより優しい心になろうよ。っていう教え。
かしものという教えを利用して部内先々を支配し、弱い信者を食い物にした、中山家ご一統さん、おそうじしなきゃね。
神のかしものだからって、レンタル料を徴収して、当たり前はないだろう。
本部はもっと教えを深めなさい。
かしものの身体に、身上の手入れ、病気との関連を説く機関、本席様の埃の仕事場のような場所も、お地場には必要なのではないかな?
心と身体の健康がリンクしているのだから、心通りの守護をケースバイケースで諭せるような、前生が見える話医者とも云える超人の様な人達を探して、お地場にお座り願えばいいんじゃないか?
病院群が悪いとは言わないが、そちらの方が本質的ではないかな。
健康長寿を皆さんに授かって戴くという心はお地場の偉いさんにはないのか?
イエスキリストが十字架上で「神の御心のままに」とおっしゃった。
身の内かりものを聞き分けて、欲と高慢を脇に置いて、感謝と共に神の守護にゆだねる。
と病気が改善しやすい。
出直す時も又同じ心境で去っていきたいですね。
夜 眠りに入る直前は必ず 親神様 おやさま ありがとうございました
っていってました
最近は ありがとうございました だけになりました
体調も良くなってきました
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本当にありがとう
私も手を振っての座り勤めなどはせず、ただこうべを垂れて今日一日の御礼を申し上げる毎日です。21回数字を数えながら祈れるものではないです。間違いなく数えられたら、ノルマ達成、みたいな。義務的な祈りでしかない。教祖が教えたお勤めではあるが、私は、ただ畳に頭をすりつけて、正真正銘の「 心 」のこもった祈りの時間を持っている。この方がはるかに自分らしく、心が落ち着く。祈りは「 心 」であるから心が天に届く方法は様々あっていいのではないか?数を数えるのが祈りの純粋性を邪魔して、どうにも自分らしくないのだが。天理教信者としては邪道であるが、こういう祈りの形は非難に値するでしょうか??
私の場合、自分流のお勤めに変えたら、晴れ晴れとして、体調がはるかに良くなりました。こういう祈りの姿勢、親神は受けとってくれるでしょうか???親様はこんな我流、受け取らないでしょうね?そこが心配です。
指をカズトリ替わりに、右親指1、右人差し指2、・・・という感じで数えてますね。
非難できる程できた人は、非難しないでしょう。
我々ネット信者は、非難に見えて、答えを探しているんでしょう。
きりのない問と答えなのかもしれませんが・・・。
2016年5月31日 6:44 PM 匿名様
心を込めて祈ることが一番大切であり、形にこだわる必要は無い、と私も考えています。
21回のあしきはらいの座り勤めは、教祖の教えたものでは無い、というコメントもありましたね。
そうなのですね。21回数える座り勤めはだれがはじめたのでしょうか?知っておられる方、教えてください。教祖が教えたのでなければ後ろめたさがなくなり、気分がずいぶん軽くなります。毎日の我流に罪悪感を感じているもので。
確かに「あしきをはろうて」は教祖が教えたのではないと聞いたことがあるのですが、では誰が始めたのか知りたいです。
だから、天理教異端では、「ちょいとはなし」からお勤めを始めているところもあるとか。(異端の方が親様の教えにより近いと思っています。)
匿名さま。
第3節(せきこむ)を二つに割ったという説を聞いたことがあります。
神が教えたのに「あしきを はろうて たすけたまえ てんりわうのみこと」は変です。
人間(本部)の立場から作ったように思いますが。
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天理教社会学研究所さんのブログです。
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古い教会長さまへ
第3号 45 たすけでもをかみきとふでいくてなし うかがいたてゝいくでなけれど
第3号 46 このところよろつの事をときゝかす 神いちじよでむねのうちより
第3号 47 わかるよふむねのうちよりしやんせよ 人たすけたらわがみたすかる
おふでさき注釈では
人を救けると言うても、今までのように単に拝んだり祈祷をしたり、乃至は伺いをたてて救けるというわけではないが。
このぢばでは、神一条の理によって人間元初まりからの親神の守護を委細説き聞かし、心の底から澄み切らして救けるのであるから、親神の胸の中を自分の心に悟るようよく思案するがよい。人を救けたら、その理によって我が身が救かるのである。
たすけてください、たすけてくださいといくら呪文のように拝んでもたすかりませんよ、と解釈しましたがいかがでしょうか?
「あしきを はろうて たすけたまえ てんりわうのみこと」は人間思案の呪文のことばのようです。神が教えたことばとは考えられません。
ちょっとお邪魔。
ある教会に来られた婦人会長さんの講話で、「天理王の命、天理王の命・・・」と、1時間も、それ以上も、ず~っと祈っていたら、事がいい方向に動き出します、と話されておりました。こんなデタラメを聴かされる信者さん達も可哀そうですね。
自他共の、人類のあしきを払ってという意味ですね。
自他共の、人類のあしきには天理教教会本部のあしきを包括したすべてのあしきと言うこと、ガッテンしました。そうすると毎日のお勤めは漫才のようで可笑しくて涙が出てきます。教理の原理原則を外れた議論など無意味ですぞ!
喜べない心はあしき心。あしき心からあしき現象が現れてくる。逆に喜び深い心には喜び深い現象が満ちてくる。
神が我々人間の陽気な暮らしの為にこの世界を存在さしめ善導しているのだから、神への感謝を日々深めてゆくのが信心。
無理な献金主義をつくってしまった事は指導層のサンゲ。その指導層の中心は教会本部。加害者は教会本部。被害者は先々の地方教会等。
徳ある加害者達も、魂の浄化のために次生は先々の教会関係者に再生しているのかもしれない。
地方教会関係者達は、前生自らがしてきたことに不満を抱いているのかもしれない。魂のブーメラン。前生いんねんのサンゲが必要なのかもしれない。
たんのうの心をもって上納金主義の撤廃と上層部の人事改革を要望すべし。お地場の中心人衆は神人に入れ替えるべしと。
全教会がこれを願い続ければ、神が働いて、上層部の掃除が進むのではないか?それが神の想いとほぼ一致しているのだろうから。
どんなことにも喜べと教えて来た、上層部の罪深さは許されない。そのために、まともな意見を出すことすら、罪と感じて、口を封じられて来た、末端の苦しみはいかばかりだろうか?たんのうは、自分の思うようにならない人生に対してするものであり、上の横暴に忍従することを言うものでは無いと思うのだが。
道がのうては出るに出られん。
本部が汚れ過ぎて神がでる魂が現在のお地場に居ないのかもしれないし、我々が出かけたくなくなっているのかもしれない。
上層部の話しは神を利用した上の話し、なんですね。教祖本席当時から、側近者達にはそんな風潮があったんだろうね。
本部や大教会の無茶な普請のとばっちりが地方教会に来ている現状を、後継者達が見抜いているから、だれも後を継ぎたがらないのだよ。
それでもけなげに神への感謝の勤めを守りたいという地方教会の財布を狙って、本部や大教会の財政のひっ迫から取り立てが厳しくなっている訳です。
そもそも本部大教会の無茶な普請そのものが神に許しを得たものはごく一部なんですね。
もし本席様が生きて居られたら、大正以降の無理の掛かった普請など許すことがなかっただろうと想像します。
時期尚早、自業自得。そんなものの維持費は出せません。又上納金制度でしか維持できない建ち屋は取り払いか自存自営かリストラで頑張ってください。
我が教会長にも上納金を少額にするよう求めます。
身体を含む森羅万象は、全知全能の神からの、借り物でもあり賜り物でもある。
感謝を深める事が信心の基本ではあるだろう。
神、全存在への感謝はあっても、教会本部の無理な集金に対してはお断りします。
ネット信心 様。
>神、全存在への感謝はあっても、教会本部の無理な集金に対してはお断りします。
それが、出来ないのが末端教会の性なのです。まあ、付き合い程度のお供えにしていくくらいですね。
ブログ<原典からの出発>植田義弘先生のブログです。
http://tenkoku0805.blog9.fc2.com/
天理教の「御供え」についてをリンクします。
http://6706.teacup.com/5051/bbs
命の泣き声~天理教への信仰でお悩みの方へ~
「命の泣き声」さんのホームページのリンクを張ります。
http://inochinonakigoe.grupo.jp/
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かしものかりもの。は謙虚さを養う教えでもあるのだろう。
謙虚さって、低い心って、なかなか養えないものですが、全てが全知全能者からの与え物、賜り物、借物であると思えたら、又その真実を認識できていたら、少しは養えるかもしれません。
謙虚さと喜びの心は正比例しているのだろうけれど、神の教える低い心と権力者に強いられた卑屈さとは違うように思うのだが?
徳薄いのなら徳を養い、悪因縁が深いのなら、魂を磨けばいい。と簡単に言うけれど、今の教会本部は、その道を鮮明に示せているだろうか?
身体はじめ不思議で成り立っている現象世界全てが、全知全能の親なる神のかりものだから、いつも思い返して、心の道の土台に感謝を深めるというのは、教えの素晴らしく共感するところですね。
日常的な高慢故に忘れている、かりもの意識を、せめて朝夕に想い出して首を垂れようとおもいます。
かしもの意識が深まると同時に根源的な感謝と喜びと安心が魂に鎮まってゆくのでしょう。
その際の目標は心像の中の純粋なお地場です。
かしものかりもの、心どおりの守護、心一つ自由、どんなことも心一つに乗って、たすけ一条の神が守護する世界。
神がよき守護する心の誠とは、ありがたい。けっこう。やさしい。ひくい。もったいない。といった心である。
本部に神の様な人間達がいれば、問題のほとんどは解決する世界なんでしょうね。いない事が大問題ですね。
この有限に思える身体は、永遠の魂が顕在化した部分であって、永遠の魂は身体の潜在化した部分であるのだろう。自由な心の道を種として繰り返す永遠の人生は、神がたすけ一条の親心故に、心の種を映し返して下さっている運命なのだろう。
我々が、より幸多き健康な人生を賜るには、神の教える誠の心に近づき続ける事なんだろう。
身体を含め森羅万象を親なる神の賜物と感謝を深めつつ、お地場の先生方には、健康で幸多き雛形と共に、誠一つの天の理を説き続けていただきたいものです。