今回は天理教組織とは離れて文学的なエッセイを書きたい。
少し前に天理教人と話していて、大変興味深い話を聞いた。天理教が始まったとされるのは、教祖が神の天啓を受けたときである。その日を境に中山みきの体内に神が入ったということである。
天理教学では、その史実や意味解釈にいろいろあるのだろうと思う。実際に私が調べても、理解ができない古語が並ぶばかりであった。「今の天理教が言ってることは歴史事実から間違っている」と忠告をいただくことも多いが、それはそもそも天理教の古典文献の少なさを考えると証明の必要条件を満たさない。1冊2冊の文献を取り上げて「これが正解」というのは、若者が「外国では19歳から酒が飲めるから19歳から飲んでもいいじゃん」と言っているのと変わりない。ということで私は教義解釈に関しては「色々な解釈があってどれだっていいが、とりあえずお酒は20歳からって社会は合意している」ということを採用してとりあえず議論を転がしたい。
私が大変に興味深く感じたことは、教祖の体内に神が降臨したという瞬間に先行して教祖の息子が足を痛めたことである。もともと教祖の中に神が入ったのも、教祖が息子の足の回復を願う祈祷をしていたことによる。この「足を痛めた」という事象が、古代キリストとの共通点を見出さずにはいられない。
キリスト教を考える際に「足」はキーワードである(と私は思っている)。異端を見つけるための踏絵という歴史があり、穢れを落とすために洗足式がある。キリスト教やイエスの歴史において、足を扱った物語や逸話は多い。そして最も私の知的興奮をかきたてたのは、キリスト教に影響を与えたギリシャ神話のオイディプスの神話を思い出さずにはいられない。
この神話は日本では心理学や文化人類学で大変に有名な話である。
オイディプスが生まれる前に、父であるライオス王は「息子が生まれると、息子はあなた(父)を殺すだろう」という神託を受けた。それでライオス王は、生まれた子供オイディプスを捨てた。捨てられたオイディプスは羊飼いに育てられ成長した。ある日、オイディプスが道を歩いていると、前からライオス王の行列がやってきた。オイディプスは王に道を譲るように命令されたが、オイディプスは拒否した。それに怒ったライオス王は、オイディプスの殺害を命じたが、逆にライオス王がオイディプスに殺された。オイディプスはライオスが父とは知らずに、父を殺害したのである。もちろんライオス王もオイディプスが息子と知らぬまま、神託通りに殺されたのである。その後、オイディプスはテーバイの街へ向かう。テーバイではスフィンクスという怪物が人間を襲っていた。スフィンクスが出す謎解きに答えられないと食われてしまうのである。スフィンクスはオイディプスにも謎を出した。「朝は4本足で歩き、昼は2本足、夜は3本足で歩く生き物は何か」という問題であったが、オイディプスはすぐに「人間」と答えスフィンクスの退治に成功したのである。赤ちゃんは四つん這いであるき、そののち二足歩行になり、老人になると杖という3本で歩くという意味である。これも足にまつわる重要なポイントである。
その後、オイディプスはライオス王の国を奪い、実の母親イオカステを母親とは知らずに妻として迎えた。その間に子供を授かったが、国は衰退の一途をたどった。そこで改めて神託を求めると、原因はオイディプスにあると言われ、父殺しや近親相姦の事実が判明する。母でありながらも息子の子どもを生んだイオカステは自害し、オイディプスも目をえぐり国を追放されたという話である。
そして、オイディプスという名前こそが「足を痛めた者」という意味である。父であるライオス王も同様に足を怪我している者という意味である。
以上のことから、天理教教祖の息子である中山秀司が天理教創世記において足を痛めたことは、とても文学的要素が組み入れられていると感じた。これが事実かどうかはしらないが、天理教の教典が二代真柱の命により、当時の小説家や知識人などによって編纂されたことを考えれば、ギリシャ神話からヒントを得た経緯があっても不思議ではない。推測で恐縮だが、天理教には中山秀司が足を痛めた以外にも足に関する出来事や事故が、天理教や社会の情勢を反映するように扱われているという逸話はあるんじゃないかと思う。知らないけど。キリスト教でも、足を痛めた者やふらついている者に対して、信仰の足並みや迷いとして解釈する場面が多い。中沢新一は、「キリスト教は創世記からふらついている(不安定な、脆弱な側面を持つ)宗教だ」と言い切っている。
話は飛躍するが、天理教はキリスト教と構造的に共通点があると感じることが多い。異端の多さや、イエス(教祖)は人なのか神なのかという矛盾を創世記から抱えていることも同じである。そういった意味で、これらの宗教における足という概念への考察は非常に学術的価値があると思う。
1. おふでさきに出てくる「あし」
おふでさきには、「あし」が5回出てくる。
一号31.〔これまでのざんねんなるハなにの事 あしのちんばが一のさんねん〕
32.〔このあしハやまいとゆうているけれど やまいでハない神のりいふく〕
37.〔このあくじすきやかのけた事ならバ あしのちんばもすきやかとなる〕
38.〔あしさいかすきやかなをりしたならバ あとハふしんのもよふはかりを〕
15号24.〔いまゝてハ四十三ねんいせんから あしをなやめたこれがしんはい〕
教祖みきの長男、秀司がおふでさきが書かれたころ、足が悪かったことは、おふでさきの記述からしても知られることであるが、最近では、ほとんど語られることはない。私が聞いた話によれば、歩くときは、ひざとあごがぶつかりそうになるほどだったというのがある。
では、現在伝えられる秀司の足に関することは、立教場面で、加持祈祷の原因になったということが、稿本教祖伝に描かれている。
2. 立教時秀司の足は悪かったのか?1
おふでさき1号31.〔これまでのざんねんなるハなにの事 あしのちんばが一のさんねん〕
31のお歌ではじめて「神の残念」の対象が誰であるかが「あしのちんば」という表現で示されます。「あしのちんば」に該当する人が秀司であることは、だれもが認めるところです。
『おふでさき註釈』には、≪26 註 教祖様の長男秀司先生は、長年患うておられる足部の疾患が容易にいえないで、時時痛みがはげしくなる。教祖様はこれに対して、病気ではない、親神様の御意見だから、十分さんげして心を改めるよう教戒せられ、屋敷の掃除をお急き込みになられたのである。≫とあります。
ここで秀司の足のやまいに関しては、通説では、天保9年の立教の時の原因でもありました。『稿本教祖伝』に、「天保八年十月二十六日のこと、十七歳の長男秀司は、母親みきに伴われて麦蒔の畑仕事に出た折、急に左足に痛みを覚え、駒ざらえを杖にして辛うじて家に辿りついた。(P2)」ことから、修験者市兵衛に寄加持を頼み、これが立教の発端になったとあり、この時からの長年の患いということになります。
3. 立教時秀司の足は悪かったのか?2
これを裏付けるものとして、十二号
118〔みのうちにとこにふそくのないものに 月日いがめてくろふかけたで〕
119〔ねんけんハ三十九ねんもいせんにて しんばいくろふなやみかけたで〕
が取り上げられます。
『おふでさき註釈』は、≪118-120註 秀司先生は、もともと身体に何処にも故障が無いのに、旬刻限が来て親神様がこの世に天降られる機縁の一つとして、わざわざ秀司先生の足に患いをつけられた。≫とし、さらに≪いがめては、秀司先生の足をいがめられた事。≫とも記しています。
しかし、118、119の文字をそのまま読むと、体はどこも不自由な所はないのに、月日(教祖)がいがめて苦労をかけ、それは39年前のことで、心配、苦労、悩みをかけたということです。ちなみに、「いがめる」という言葉には、「いじめる、こまらせる」という意味もあります。
天保9年以降、教祖は蔵にこもってしまったといったことが伝えられ、母親や主婦の役目を教祖は一般のそのような立場にある人、あるいは立教以前の教祖の働きとを比較した場合、かなりの程度放棄してしまったといえるのではないでしょうか。これは長男である秀司の立場から見れば、「いじめられている」ような状況といえます。
何も、足を捻じ曲げなくとも、秀司は十分にいじめられ、悩まされ、苦労をかけされられていたのであり、12号118.119のおうたは、教祖の秀司に対する思いやりが表現されていると思われます。
4. 足から少しずれますが。。。
いつも興味深く読ませていただいています。
さて「足」の話から少しずれますが、
教祖様の息子さん「秀司さん」は神様から苛められ 悩まされ、
教祖様が 神のお社になる際も 神様から家族は脅されたと思います。
神様は人間を 威かし 脅し 苛め そして言いなりにされるのでしょうか。
キリスト教では神さまは「愛の存在」で クリスチャンの教会でよく聞く言葉は「God Loves you」です。
ユダヤ教では やはり人間に契約を結ばせるために脅します。
ですので 天理教は私には どちらかと言えばユダヤ教に近いような
神様に脅されながら 言う事を聞かないとトンでもないことが起きるから 契約(約束)をしなさいという点で似ている気がします。
間違っているかもしれませんが。。。
カインさんの考察を読むのは楽しみです。これからも是非 続けてください。楽しみにしています。
5. つとめは、秀司の足を治すため?!
おふで先15号24.〔いまゝてハ四十三ねんいせんから あしをなやめたこれがしんはい〕を読むと、15号は、明治13年に書かれているから、43年以前は、天保9年である。
おふでさきは、25.〔このたびハなんでもかでもこれをはな もとのとふりにしてかやすでな〕
28.〔この事をなにをたのむとをもうかな つとめ一ぢよの事ばかりやで〕と続く。
天保9年に、秀司の足を治すための加持祈祷から始まった天理教は、その足を治すために、つとめを急きこまれた、ということになる。これは、病だすけの天理教にとっては、大変都合がよい解釈である。
あまりうまい話は、裏があるのが、世の常である。疑ってかかったほうが、自分のためかもしれない。
6. 山田さんへ
山田太郎さん、こんにちは。
かしわともうします。
天理教の構造 かしもの•かりもの編 出掛かれたコメントについて、一つお聞きしたいのですが、以下の解釈の根拠は何処にあるのでしょうか?教えて頂ければ幸いです。
これは、おふでさきの3号28のおうた、「人のものかりたるならばりかいるで はやくへんさいれゑをゆうなり」のことだろうと思います。
このおうたは、明治5年におはるの後妻として梶本家へ嫁いだこかんに対して、3年の約束だからお屋敷に戻ってこいということを 表現したおうたです。28のおうたは、明治6年に書かれており、7年を迎えると足掛け3年になるので、約束通り戻りなさいというわけです。
7. コメント5.山田太郎さんに一言
前略「天保9年に、秀司の足を治すための加持祈祷から始まった天理教は、その足を治すために、つとめを急きこまれた、ということになる。」後略、と曰く。
此れは大いなる誤解です。
「教祖・中山みきは天理教を作ってない」です。
「天理教は教祖・中山みき死去後、中山眞之介-字が違うかも-を中心に中山うじ(氏)と親戚で固めた教団です。そして今、現在も続いてます。
教理の一部は「教祖・中山みき」の言った事ですが、おかしな事も多いようです。
8. Re:つとめは、秀司の足を治すため?!
>おふでさき
夕勤め後おふでさきを毎晩読まされていましたが、漠然とした気持ちで読んでいましたが、これって中山家の問題であり、中山家の発展のためのおふでさきだと思えば納得します。
天理教は、先祖供養を軽んじる宗教だと思っておりましたが、教理の教えがそうさせていたのですね。今は、秀司の足と神の降臨の結びつきを知りたいです。
当時の中山家周辺には天啓の受け皿として、道具衆の魂達が引き寄せられていたわけです。
夫善兵衛様ではなく、最初にみき様に神が天下ったのはその心根がもともと常人ではなかったからでしょう。
こかん様の天啓録は公表されていませんが、早い時期にお地場にお帰りになられ、長命されていたら、その天啓録も原典と呼ばれていたことでしょう。
神様から見れば、天啓者の永続と、道具衆の魂と、お地場の存在理由は切り離せないものだったのでしょう。
そういった方々が現在どこに生まれ変わっておられるのか、お地場の先生方に伺えないないのが現状ですが。
神の想いに溶け込む事で、エゴと支配欲の重荷から解放されて、陽気暮らしを味わいたいという動機からこの道を求めている者ですが、お地場とは、将来的に、人類のひながたになるような超人格者達が大勢実現してゆく場所じゃないんですか?
当時の、中山家ご家族の病だすけを契機に始まった神の道ですが、人類を陽気に、善道、先導すべき魂達が混じっていた訳ですね。
神が、たいへんな年月をかけて、そのような魂をお地場に引き寄せておられたとしたら、現在のお地場周辺にも、そのような魂の方々がいらっしゃるのかもしれません。
魂の配置を見通す程の超能力者がいなければ、真実は闇の中ですが、聞くべき機構がお地場に存在しない事が第一残念です。