若者の気持ちなんて分かりはしない

前回のブログで若者の伝道について書いたら、いくつか反論をもらった。反論の中心は「天理教の若者は熱心」ということである。
その反論について、私は「そうですか」としか言えない。私もデータを示しておらず、あくまで個人的感想の域を出ないからである。たとえば、天理教の若者イベントの参加者数や、天理教子弟の割合なんかを示していただけると話は早いのだけど。
私の感想というのは、何年か前に観察した若者のイベントと、天理大学の先生と話したことや、知り合いの天理教教会の若者たちと接した経験をもとに話し手おり、「カインが言ってることは主観的な感想にすぎない」と言われても「はい、そうですか」としかいえない。その上で、私は発言を止めない。自分の主観が主観に過ぎないのかを試したいし、現在の天理教の組織構造という点を考えたときに私の主観は、多くの点で妥当性があると思っている。そういった意味では、このブログを読んでいる天理教の方や、そうでない一般の方に評価してもらえればいいと思っている。

その上で、私の若者論をここに記録したい。「最近の若者は…」というフレーズは、どの時代にも言われることである。私も酔っぱらった席では言っているのかもしれない。会社などで入社したばかりの若者を見ると、そう言いたくなる気持ちも分かる。一方で「最近の若者は独特の感性をもっているんだ」と幇間になるつもりもない。若者は所詮若者であり、迎合するつもりもない。

ただ厳然たる事実として「将来」という道は、若者が担っていることは確定している。そのためにも若者にどんどん育ってもらわなくてはいけない。

私は仕事柄大学生と話すことは多い。そこで感じることは「若者は、我々中年の考えや心配なんて、全く興味が無い」ということである。テレビでも有名なコメンテーターが「社会構造の欠点」を偉そうに並べているが、そのコメントを本当に聞くべきだろう人は、そんな番組をまったく見ていないのと一緒の構造である。同じように天理教でも、「縦の伝道」というフレーズがあるが、本当に必要な人には全く届いていない印象がある。その上で、大人が伝えるべきことは何なのかを考えたい。

話を戻し、私に届いた反論から話を始めたい。私の若者論の出発点であり、色々な若者論の盲点は「あたかも若者の気持ちを理解できそう」という大人側の驕りや幻想だと思う。「若者」という通過点は、大人が全員通ってきたポイントである。そのために、大人たちが若者について話をするときは必ず自身の過去に退行せざるをえない。それが個人的経験なのか、同時代的意識に由来するのかは分からないが、「自分も通ってきた道」という点で、すでに大きな勘違いを生じている。「若者の気持ちなんてわかっている」という勘違いがないと、伝導という概念は生まれない。私は若者の気持ちなんて分からないし、分かりたいとも思わない。

一方、天理教の若者を対象にしたイベントを見ると、その過剰な適応性には驚愕する。どの若者もハイテンションに「イェー」と自己顕示的に大声で言っている。一方で、その組織に対する、また教義に対する従順さには恐怖すら覚える。天理時報などで天理教のイベントに参加した若者が「神様に生かされているって素晴らしい」や「天理教が大好きです」という非常に好意的な涙ながらのコメントを見ることがある。あれを天理教人はどう見ているのか私は知りたい。逆に聞いてみたいのが「尊師は素晴らしい」や「オウム真理教が大好きです」というコメントを天理教人が聞いたらどう思うのだろうか。一般の人であれば、どちらも恐怖感を覚えるのは想像に難くないのではないだろうか。マインドコントロールとまでは言わないが、私が天理教人に対して「バランス感の喪失」と言っているのは、そのような「自分(天理教)はいいが、相手(オウム)はダメ」というジャイアン的自己愛に対してである。もちろん、犯罪行為については許されるべきものではないが、問題は宗教性や信仰に対する態度についてである。

論理的に考えるのであれば、天理教が将来において発展を望んでいるのであれば、ここまで組織に従順な若者を育てているようでは不可能ということである。そして、天理教では組織に従順な若者を育てることを目標にしているように見える。反対を押し切って社会に出た優秀な若者たちは、そのエネルギーを天理教には向けてくれない。だって構造的に無理になってるんだから。ブレークスルーというのは、既存の枠組みを乗り越えることである。その枠組みを乗り越えるのは、既存の枠組みの中にいる人間では難しい。

日本の企業も、かつては年功序列で年齢と共に段階的に上昇できた。しかし、幹部の役職を輪番で既得権益を手放さなかったために組織は緩やかに減衰し続けてきた。カルロスゴーンもハワードストリンガーも最大の目的は古典的日本風土を打破するために呼ばれたというのは有名な話である。そこにはどれだけ優秀な日本人がいても、日本人である以上、現状を打破する経営は無理ということである。もちろん、生え抜きではない外部の“血”を入れることは大きな抵抗があったに違いない。「外部の人間に分かるわけがない」と。しかし錆びた構造を打破するためには、一番やってほしくないことをやる決断が大切なのかもしれない。

そして現在の天理教幹部もまた、一部の同じ権力的な苗字ばかりが並んでいる。それが悪いと言っているのではない。幹部には“理”という絶対的な権力カードがあるのだろう。私が主張したいのは、その是非ではなく「そのカードを保持していると、周りから冷めた目で見られているよ」ということである。そう考えると、今後の天理教も従順な若者が、順番通りに(理の通りに)重要なポストに就いていくことは想像に難くない。そして天理教という船は今まで通りにゆっくりと沈んでいくのだろうと推測する。

もう一つエピソード。数年前にある天理大学関係の研究会に出席した。そこで天理大学の先生であり天理教の信仰者である方が、数名の学生に対して「君は胸を張って、私は天理教を信仰していると言えるのか。言えなきゃダメだ」と言っているのを聞いたことがる。私としては「そりゃ言えねーだろ」と思った。同時に「マインドコントロールはこのようにして形成されるのか」とも感じた。つまり、天理教がIBMや電通のように誰もが知っていて、「おーそんな会社で働いているのか、すげー」という存在であれば「俺の会社はIBMだぜ」というように「俺って天理教だぜ」と言えるだろう。しかし現在の天理教の社
会での許容度を考えたときに、「俺って天理教だぜ」ということで何が達成されるのか私には分からない。その行為は天理教と社会の距離の増大を招くしか作用していないのではないだろうか。そういった意味で、私は「俺って天理教だぜ」と言えない天理教の若者の感性に1票を投じたい。

天理教では若者が声(批判的、革命的に)をあげれば、会長たちは遠い目をして「俺たちも若い時はそうだった」という。一方で「俺たちもそうだった」以外のことが生じれば猛烈に対抗するようだ。天理教の若者の進路や婚姻を巡るトラブルは多い。複数の事例を私は本人たちから聞いている。その他にも裏付けはできていないが、このブログを通して“理の親”や実の親による宗教ハラスメントと言えるような脅迫的な事例をいくつか教えていただくことがある。

私は若者が悪いとか、上層部が悪いと言っているのではない。構造システムが問題であると言いたい。天理教本部がどれほど革新的な若者育成の手法を採用しても、どれほど若者が声を上げようとも、今の天理教の組織システムでは能力を持った者、意欲に溢れた者は潰されていく。天理教の組織論は、親の言うままに進路や結婚をさせられていた江戸時代や明治時代であるかのような錯覚に陥ることがある。「それ、ほんまに今の時代のこと?」と聞いてしまうこともある。

先ほどの若者の件も、天理教本部は「末端のことまで知らない」というだろう。しかし、その脅迫的な悲しみを生んだシステムを採用している以上、共犯である。

結局、私が天理教の若者論で言いたいことは何かと言うと、若者の育成に対して「口を出すな、金をだせ」ということである。各教会の会長や大教会長は権力に無自覚であるものが多すぎる。その権力構造にどっぷり入っているものには、私の声など全く届かないだろうがね。
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