生命倫理をちゃんと考えているとは思えない

少し前のブログで臓器移植に対する天理教の姿勢について批判的に書いた。「天理教は臓器移植に反対の立場だ」と。すると何人かの方から「天理教はそんなこと言ってない。レファレンスを示せ」というメールをいくつか頂いた。
本件に関する私の情報ソースは、①天理時報の「視点」と②「みちのとも」における「天理やまと文化会議」の見解の2つである。
①については、このブログでも過去に取り上げたことがあるので参照していただきたい。http://ameblo.jp/tenrikyosyakaigakulavo/entry-10331233283.html
天理時報の「視点」というのは、天理教幹部数人が書いているエッセイのような記事である。その時々の著者はほぼ匿名である。天理時報の性質は対外的な色彩が濃い。匿名であっても、それは天理時報の社説という性質と同等である。天理時報の社説ということは「視点」の見解が天理教の見解と推論することは自然なことである。つまり、その「視点」を書いた人間が「これは私見にすぎない」と言ったところで、読者が「天理教の総意」と捉えることは避けられない。特に私のように天理時報から主に情報を収集している者にとっては当然である。今は購読していないけど。
②「みちのとも」については1年以上前に私が天理教の臓器移植論を調べていたときに、知り合いの天理教人に教えてもらった。「みちのとも」とはA4サイズで厚さ5mmくらいの黄色い表紙の月刊誌である。私は購読していないが、コアな天理教人にとってはフォーマルな情報が載っている。天理時報は表面的(対外的)な天理教の動静が主であるが、「みちのとも」は対内的な性質であり、天理教の財政状況や人事などは「みちのとも」で扱われるようだ。
「みちのとも」に掲載された臓器移植に関する記事は、「ほら、載っているよ」と教えてもらって読んだだけである。内容は詳細に覚えていないが天理時報と同じような内容だったと思う。今回、その「みちのとも」がいつ発行されたものだったかを調べていると、ある天理教人のブログに当たった。その中で「みちのとも」の臓器移植の箇所が引用されていたので引用する。

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立教173年3月号の「みちのとも」誌で、臓器移植に関する本教
の立場が明らかにされた。もっとも、23名の委員で構成される
【天理やまと文化会議】による見解であって、必ずしも教団の見
解を代弁するものではないし、まして親神様や教祖の神意を表
明するものでもない事は自明のことである。
その見解の要点は以下の如きである。
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「それぞれの魂にふさわしい」とは、身体は”その人のみ”に貸し
与えられた”固有”のかつ”専用”のものであるということである。
顔形や指紋、遺伝子とその発現が一人ひとり異なるということを
思い起こせば、容易に了解されるだろう。
このことから、体が「かしもの・かりもの」であるということは、借り
手には”使用”だけが許され、”譲渡”といった、”処分”までは許
されていないと思案するのが順当だと思われる。
このことはまた、移植を受けた人の身体が他者の臓器を、”異
物””非自己”と認識して排除しようとするため、移植を受けた人
は終生、免疫抑制剤を服用し続けなければならないという事実
とも符合する。
そう考えれば、身体の一部をやりとりする臓器移植は、本来的に
は親神の思召にそぐわない、不自然な営為であると考えざるを
得ない。
    
  立教173年3月号 みちのとも P33 21行~P34 15行
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この引用は、おそらく私が読んだ「みちのとも」と同じ記事だと思う。ここで扱われている「臓器移植に反対」という見解は「天理やまと文化会議」の見解であり、教団の公式見解とは異なるらしいが、それはただのズルい言い訳である。活字にした以上は、それが天理教の総意と見られることからは逃れられない。
上記引用したブログの記事が間違っていれば、私も訂正する。しかしこれが正しければ「天理やまと文化会議」が出した見解は、著しくバランス感覚を逸している。これはカルト教団の見解に近く、原理主義的である。つまり「かしもの•かりもの」だから「臓器移植は認められない」というのは中学生でも思いつく理路である。私の周りの天理教人たちが苦慮し、知りたいのは“その先”のことである。しかし「天理やまと文化会議」では“その先”のことはスッポリと抜けている。臓器移植された肉片は“自分”のものとは異なるから、一生免疫抑制剤を服用しなくてはいけない。天理教の教えは、その医学的事実と符合するんだぜ、と「天理やまと文化会議」は言っているが、それは“今”の科学技術でしか見ておらず、“これから”の医療の進歩は無視している。今後、医療技術が進歩して、免疫抑制剤を一生服用しなくてもよくなり、「天理やまと文化会議」の見解と符合しなくなった時代がきたときは、どうするつもりなのだろうか。話は臓器移植だけの簡単なものではない。IPS細胞も人工授精(代理母)など生命倫理に関する“これから”の難しいトピックは「かしもの•かりものがあるから」というだけでは解決できなくなるのは明らかである。その意味で、先に挙げた天理時報の「視点」や「みちのとも」の天理やまと文化会議の見解は拙速であり、稚拙な結論である。そして天理教以外の人間が知りたいのは、「かしもの•かりものがあるから」というプロセスはどうだってよくて、「天理教は臓器移植に反対だ」という結論でしかない。天理教がそこまで公表しておいて「公式見解ではない」というのは責任回避の上であまりにズルい。「天理やまと文化会議」というのは天理教のシンクタンク的役割みたいだが、本件に関して天理教の知的リソースはまともな思考回路ができていないか、メンバーは中学生ばかりなのだろうかと思う。
一方で、厚労省の臓器移植提供施設一覧において天理教傘下の「憩の家病院」はどうやら認定を受けているようだ。http://www.pref.nara.jp/imu/iryokeikaku/h15/pdf/03_04_10.pdf
天理教は「言っていることと、やってることが違う状態」である。これは天理教傘下の病院を教団がコントロールできていないのか、それとも天理教の臓器移植論はその場しのぎのパッチワーク理論なのか。いずれにせよ天理教の生命倫理に関する足並みはバラバラであると私は見ている。
私は生命倫理こそ宗教が最も大事にしなくてはい

生命倫理をちゃんと考えているとは思えない」への4件のフィードバック

  1. 匿名

    1. 無題
    自分も天理教知ってます☆

    臓器移植は別に悪いことだとは思いません!
    なんか難しいですが、頑張って下さい♪

  2. 匿名

    2. 責任回避の本部指導部体質
    現実の教会本部は、真柱の任命責任を問いたくなるほどの人材不足なんです。
    本部体質が教祖のご苦労を水の泡にしているんですよね。よろずいさいを説き聞かせて頂く事を期待して本部の先生方に質問しても、教祖の言葉の一部を利益誘導に利用する事しか能がないんですね。
    教会本部の存在意義は無いかもね。

  3. 匿名

    3. ギャップ
    自分も天理教知ってます!
    カインさんは、「天理教」というものを、組織として機能していると思われている(そのようなものとして扱ってこのページを作っている-その目的が何なのかがよくわからないが-興味深いことは確かである)ようですが、このページを読んでいる人々の一部は、あるいは大部分は、もうこの組織はおしまいだと思っています。時報の「視点」にしても、みちのともの記事にしても、ろくに天理教の勉強などしたことがない人が書いている。「天理教の勉強」って、何だといわれると、これも難しいことかもしれませんが。
    教祖直筆といわれる「おふでさき」や「みかぐらうた」をまともに解釈できる人が、教内にはいない。まともに解釈すると、自分たちがやってきた嘘がばれるから、勉強もさせない。
    その辺を感じ取れる人は、、時報の「視点」は天理教の社説だろうといわれると、違和感がある。ギャップを感じる。今の天理教って中身がないのである。昔からなかったという意見もあるかもしれない。中身とは、「教祖の教え」お言い換えられるかもしれない。

  4. 匿名

    そもそもが魂と心の誠と現象としての神の身体の関係性の一切を解き明かし、心身共の健康を増進し、人類を、より深い陽気暮らしに導いてゆくというお地場の神の道であったものを、本席以後は、心を忖度する道が劣ってきた訳です。健康の回復を医学に頼るだけでは、心の道が、魂の浄化にまで昇華しにくいのではないか?
    したがって、人類の更生にも、本部は役立たずになっているのではないか?
    御神言の解釈においても、神が出て何か一切を説き聞かせる構造の復元を待つばかりである。

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