天理教本部は信者のネットを使用した情報発信を快く思っていない。というようなことを以前に書いた。それは天理時報の視点(天理教の新聞の社説)をソースにしている。今回も、教団の情報発信について社説で扱われたという連絡を受けたので、天理教道友社(天理教の子会社)のホームページから当該記事を読む。
以前よりも表現は柔らかいが、やはり信者個人がSNSで天理教のことについて情報を発信することを快く思っていないようだ。
まとめの部分を以下に引用する。
一方で、このようなメディアの進歩に伴い、それらを利用する私たちのメディアに対する考え方も成熟していかなければならないと切に思う。
「こどもおぢばがえり」では、帰ってきた子供たちが普段味わえない雰囲気、広い意味での天理文化にふれ、来年もまた帰ってきたいと思ってもらえるように、携わる人々は暑さもいとわず、心と体を尽くしてお世話取りをしている。そうした姿をソーシャルメディアを通してうまく発信できるような工夫は、今後の課題の一つとなるだろう。
もとより、それぞれの言動、態度あるいはそれによって生まれる雰囲気を通して、一人でも多くの人にお道のにをいを伝えるうえからも、普段から教えに沿った生活態度を心がけることの大切さを肝に銘じたい。
ここで重要なことは主語と目的語が曖昧なことである。「私たちとは誰?」「成熟とは何?」「うまく発信する工夫の指針は?」ということが明記されていない。読み方によっては読者である信者に対する指導的側面が強いと感じる。この記事で使われている言葉は宙ぶらりんのようでありつつも、信者個人への注意として突き刺さる。「お前らのような未熟な信者が適当に天理教を発信してんじゃねーよ」と。いつも思うが天理教人の書く文章は、官僚と同じでなぜこれほど不透明で偉そうなんだろ。そうじゃないと言うなら著者は主語を「私は」とはっきり明記すべきだろう。私はこういった曖昧な言葉で、暗に人を脅すやり方は人として嫌いだ。
今回の「こどもおぢばがえり」でも、同様にソーシャルメディアを利用する姿が見られる。写真やビデオ撮影に関していえば、従来のカメラに交じってスマートフォンで撮影している人が多い。なかには、すぐに友人、知人が見られるように映像を送信している人も少なくないようだ。
誰がSNSを利用しているなんて携帯の画面かタイムラインを見るしか判断できない。まさか一人一人の画面を盗み見しているわけではないだろう。つまり今回の記事で天理教本部は天理教に関連するツイッターやSNSの情報を常に監視しているということになる。
私には関係ないから問題ないが、こういった天理教の姿勢は社会に発信べきであろう。どんなに情報を監視統制しようが、未成熟な私が何を言おうが、天理教の評価は社会がおこなうのだから。
http://doyusha.jp/doyu/top/?page_id=13282
1. 大丈夫
世の中には誤解がつきものです。
誤解ならば必ず時間が解決します。
何を言われても、書き込まれても心配することはありません。
正々堂々と向かって行けばいいだけです。
でも、言われたくない書き込まれたくない、と思っていると、ちょっとした事にでも敏感になります。
何か隠しているような事があれば、なおさらです。
何もやましい所がないのですから、何でも書いてもらえば良いのではありませんか・・・!
大丈夫です。
2. 天理教批判をする人
私の周りでの体験ですが、天理教にあまり係わりの無かった人は、おおむね天理教の事は、無関心か良い印象を持っておられます。
以前、信仰をしていた人で今は離れている人や、身内に信者さんがおられたような人は、悪い感情を持っておられる人があるようです。
これは、天理教の純粋な教理というより、教団の運営や会長の言動に不信を持ったり疑問を感じておられるようです。
教会や会長の値打ちをお供えの額や別席者の数で、追い詰めてしまっているからだと思います。
お供えは出来なくても、信者は出来なくても、しっかりとした信仰と信念を持っている人が輝ける組織であって欲しいと思います。