青年さんは運転手


前回のブログで、何人かの方がコメントを残してくれた。私の意見の足りないところを補足・修正してもらっている。感謝したい。一方で天理教独特の用語が私には分かりません。各系統に世話役の先生を付ける“世話人”は知っているのですが、“修理人”とは何でしょうか。また修理人に対するお礼などの相場も教えていただけると幸いです。修理人とは、以前に私が聞いた各教会が変なこと(異端)をしていないか、公安のような監視役のことでしょうか。
先生へのお礼について、私が天理教人から聞いた中では各教会にくる先生にはお礼とお車代(交通費)が必要と言っていました。お車代は大教会の車で来ても実費プラス1万円くらい渡すと聞いたことがあります。もしよかったらメールでもいいので誰か教えてください。

先週末に、昔一緒に働いた同僚と話をした。一緒に働かなくなってからは、年賀状の形式的やりとり以外はまったく疎遠になっていた。今回突然連絡をもらい驚いた。なんと病気になり仕事を辞めてしまったようだ。病気は大病ではなく、治療と休養で回復しつつあるようだ。仕事を辞める必要などなかったが、”区切りをつけたい”ということで退職してしまった。そして彼が次にやろうとしていることは出家である。そのために今は関西地方の山間部の由緒ある寺で修行をしているようだ。
どんな生活かというと、食事は精進料理で夜は早く寝て、朝日よりも早く起床する。食事、動作、作務、禅すべてに決められた作法や型がある。最初は、決められた型を覚えるのに必死だった。やっと型を覚えたら、次に待っていたのは徹底的に自分と向き合うことである。これが以外に難しいということである。作法というのは無になる空間のための儀式(スイッチ)に過ぎない。本質は、型にあるのではなく、型の中にあると言っていた。師匠は、ただ何も言わずに型の遂行だけを毎日繰り返すのみ。解脱や、悟りといった境地なんて想像もできないほど遠く、現在の自分がいかに雑念に捕らわれているかが悔しいほど身に染みていると言っていた。ただ、その雑念のおかげで私に連絡しようと思ってくれたことには感謝した。ゆっくり話す時間がなく、彼の成長を期待して頑張れよーといって別れた。雑念に塗れている私には到底無理だと、尊敬の念をこめて思う。

天理教では修行的立場に当たるのは住み込みの青年さんと言われる立場の方が近いのではないかと思う。しかし天理教における修行的な要素は何かと考えると、それは自己を鍛錬するという要素が乏しいと言わざるを得ないのではないかと思う。私が天理教の青年さんの実態を知らないだけかもしれないから偉そうなことは言えない。青年さんOBや、現在も青年さんをやっている若者を10人ほどは知っているつもりだが、その生活を聞いてきた中では、天理教の青年さんというものは、いわゆる、先生(理の親)と言われる人の「便利屋さん」でしかないのではなかろうか。青年さんの日々の用務の中にはおつとめの練習や布教という宗教行為もあるようだが、それらには明確な外在的目的があり、徹底的に自己と向き合うという誰にも邪魔されずに行わなければいけない内的成長を目指した過程が志向されているとは思えない。そこにあるのは、先生の意向(人間思案)が優先される小間使いでしかないのではなかろうか。私は青年さんに指示をする先生たちを見て「この青年を立派に育てるんだ」という気概や教育的配慮は感じたことがない。そういった建前があったとしても言動からは到底垣間見れない。少なくとも外で見ている私にはそう見える。もちろん反論もあろう。しかし、その反論が「雑用係だろうが、便利屋だろうが、人に言われたことを喜んで素直に通ることが大切なのだ」という域を出なければ反論にならない。なぜそれが反論にならないかというと、それは弱者の言葉ではないからである。百歩譲って、教祖がそのようなことを言っていたとしても、それは強者の我を通すものではなく、弱者の自発的意思に基づくものであるべきでろう。そうでないと陽気ぐらしの筋が通らない。その意味で、私は自らすすんで青年さんを志すものを否定はしない。しかし契約や権力で縛られた若者が、やらされている側面を看過しない。

もし、それらが青年さんの将来的可能性を飛躍させるための行為であるならば、もしくわ雇用契約として雑用の対価(給与)を支払われているのであれば私は何も言わない。しかし仏教とは違い、青年さんは飛躍するための羽をすでにもがれている。前回論じたお金の問題もそうだが、自己鍛錬という精神的側面でも同様である。つまり自己と対峙する時間的空間的な場は用意されず(むしろ天理教では、バカになれと強者に都合のよい思考制止を求められる)、「先生の言うことを文句言わずに従う(素直)」という先生の都合に合わせてすり替えられる。先生すらも容易に間違え、先生であっても修行の身であるという仏教(人間)では当たり前の常識が、天理教にはない。少なくとも私にはそう見える。

天理教本部でも、大教会でもいいが、行事があると青年さんが運転する車が並ぶ(天理教本部で言えば、祭典日の東側礼拝場の道路)。機会があれば、今度その写真でも撮ってこよう。どんなに近い距離でも車を使用して、青年さんが運転する車を待たし、並んで迎えられることが大教会長たちのステータスなんだろうか。
「おう、ちょっと駅まで送ってくれ」と言われている青年さんを何人も見てきたが、これを「ちょっと天理教っておかしいんじゃないか」と思うのは私だけではないと信じたい。

青年さんは運転手」への5件のフィードバック

  1. 匿名

    1. 確かに…
    おかしいかもしれませんね。
    私の旦那も運転免許を持っているというだけで送り迎えや買い物などの運転手として昼夜問わず呼び出されています。
    たまにお小遣いがいただけるようで、本人が嫌々行っているわけでもないしなんとも言い難いのですが、天理教全体で青年が運転手としていることが当たり前化しているのは疑問を感じます。人の為に役立っているので良いと言えばいいのかもしれませんが…

  2. 匿名

    2. Re:確かに…
    >nijihahaさん
    人の為の役にたっているのでしょうかね・・?
    会長には都合が、いいでしょうが、社会の為にも世の中の為にもなって、いないかもしれませんよ。

  3. 匿名

    3. 無題
    現役青年です。家族で教会に住み込んでいます。
    はっきり言って、教会の長年の慣例として、「ここにいる」というだけで、教会の役には立っているのでしょうが(便利屋という意味では)、小学校に通う子供たちにとって、「お父さんはなんの仕事してる??」という質問は、一番酷だと感じています。
    やりがい、仕事のしがい、生きがいといった、モチベーションはまったくありません。
    こんな気持ちでここにいることが、時間の無駄ですし、周囲の皆様にも申し訳ないと思います。
    前述どおり、教会にはいたら便利な人材かもしれませんが、「それがどうした??」という心境です。「素直になれ」「阿呆になれ」という言葉によって、個人の人格や主体性を奪われ、人生をも狂わす、この制度に、そろそろ世の青年さんたちは声を挙げてもいいのではないでしょうか???少量の給料と、まったくない休日。
    休みの日に子供を連れて公園へ行く周囲の同級生の家庭の光景をどれだけ憧れてみているか。こんな生活も4年目を迎えます。
    先は無期限です。

  4. 匿名

    4. Re:無題
    >zakkさん

    教会の役に立つ=社会の役に立つであるなら、どんな仕事でもやりがいがあると思います。
    でも、そうでないなら、残念ながら教会長の便利屋さんでしかありえません。
    今の教会は社会からすっかり背を向けてしまっています。
    「素直になれ」「阿呆になれ」という言葉は、そのまま会長さんに返してあげましょう。
    そして、まず何よりもzakkさんはご自分の思いに素直になりましょう。

    それにしても、いちれつきょうだいの教えなのに、大教会長一家が別棟のりっぱな会長宅に下男下女を従えて住むのは、おかしいです。
    天理教の教えがどんなに良くても、現実の教会の姿を見たら、だれもが恐ろしくて身を引いてしまいます。

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