読者から天理時報の「視点」についてコメント求められた。既報の通り、私は天理教の新聞である天理時報を購読していない。今年春までの1年間か2年間くらいは、知り合いの天理教人が勝手に我が家に届けてくれていた。しかし今は読んでいないので内容も分からない。
天理時報の視点というコラムは、天理教幹部による社説のようなものである。天理時報は毎週?のように発行されており、毎回時事に関してのコメントが載る。天理教にしては非常にスピード感がある。天理教幹部による社説のため、体裁としてはあくまで個人的見解のようである。しかし、書き手の名前は伏せられている。つまり、読者にとって書き手の主体は「○○先生が言っていた」ということではなく、「天理時報に書いてあった」ということになる。それは必然的に 「視点」=天理時報の見解=天理教の総意 ということになる。
天理時報を社説といってしまうことに違和感がある人も多いと思う。なぜなら社説とは、時事に対する社の見方である。しかし「視点」が天理教の見方とは天理時報を読む限り思えないからである。つまり天理教の視点は、天理教の「思考」や「見方」ではなく「説明」にすぎない。
小学生の教員をしている知り合いから聞いたことだが、小学生に読書感想文を課すと、ほとんどが読書感想文ではなく読書説明文になってしまうということである。つまり本の主人公やスト-リーの説明ばかりで、「作品を読んで、どのように感じたのか、どのように考えたのか」といいう読書感想文の趣旨を理解できないということである。
天理時報の「視点」においても、全体の9割ほどが時事の説明になる。例えば、今回私がコメントを求められた「新しい出生前診断法をめぐって(9月16日号)」http://doyusha.jp/doyu/top/?page_id=13866を見ていただきたい。出生前診断法についての天理教的見方は、最後の2段落しかない。「視点」での大部分は天理時報以外の新聞・テレビなどのメディアで詳報されていることを掻い摘んで説明しただけである。より踏み込むのであれば-といっても以前に何度も指摘していることだが-最後の2段落も「親神様の教えに沿ってやりましょう」といういつも通りの予定調和の貧困なコメントしかない。読者が知りたいのは「出生前診断をどのように信者に説明するのか?」という実際的な視点ではなかろうか。
ここを踏み込んでしまうには「視点」の字数では説明できないことは理解できる。しかし既存の字数ですら何も天理教的な匂いを醸し出せないようでは社会的に何も意味がない(意味がない時点で天理教っぽいけど)。
前に天理教人の嘆きを聞いたが、ここ数年の天理教の出版物の動向として外部の知識人や有名人のインタビューや記事を掲載することが多い。すきっぷ?だったかな。これに対して内部である天理教人の溜め息は大きいようである。端的に申し上げるのであれば、天理教の思想的土台をきちんと築かずに外部評価だけを求めることに、どのような経営戦略があるのだろうか。
私はこのブログを開設してから一貫して「天理教の見方」を求めているが、天理教を覗けば覗くほど、中身がからっぽであることに気付かされる。これは天理教の大きな特徴だと思うが、天理教を知らない専門家を呼ばずに(そんなことはNHKで十分である)、天理教幹部や天理教研究者にしっかりと思考させ、発言をさせてはどうだろうか。何度も言うが、今回の出生前診断などの生命倫理を巡る考えこそ、宗教が最も大切にしなくてはいけない議論である。むしろ宗教の一番大切な仕事は「いのち」をどのように考えるのかではないのか。天理教の「いのち」に対する考え方は、天理教を知らない医学者や哲学者では不可能である。こんな中途半端なことばかり掲載して天理時報の記者にはジャーナリストとしての矜持はないのだろうか。天理教は、混迷する社会に対してどのような道筋をつけたいのかさっぱり分からない。私の読解力がないだけだろうけど。
ということで、今回コメントを求められた「新しい出生前診断法をめぐって(9月16日号)」についてはコメントのしようがない。おわり。
tenrikyosyakaigakulavo@hotmail.co.jp
1. たしかに・・
たしかに、本部の先生は末端の教会の現状を人事のように話をしておられる。
2. 天理教を覗けば覗くほど、中身がからっぽ
なぜそうなってしまったのでしょうか。
教祖存命中は、中身はあったはずですね。
145年前から誰かさんがお金儲けを教祖のそばで始めだし、カインさんが「要するにお金ってこと」の3連作を書かねばならない状況に至って、それと反比例して中身はなくなって、今は落ちるところまで落ちてしまったということでしょうか。
教理あっての宗教団体ですから、教理のないところに人も寄らなくなって、お金儲けもできなくなりつつあります。ここらで、初心に帰って、まさに出直さねばなりません
3. Re:天理教を覗けば覗くほど、中身がからっぽ
>山田太郎さん
誰かさんとは、秀司さんのことですね。
中身がからっぽ、つまりは、なんら、発信する意見も何も無い、という事ですね。頭にあるのは、お供えの金額がどれ位集まるか、の算段だけなのかも。しかし、情けないですね。