おたすけの距離について

今日のニュースに
東京で少年たちが公園で寝ているホームレスに火をつけて殺人未遂で逮捕された
というニュースがあった。(実はホームレスではなく偶々寝ていた人だけど)
また少年たちの供述が「ホームレスは社会に迷惑を及ぼしているから」という理由に
ニュースのコメンテーターたちのこの若者達に対する批判は烈火のごとくだった。
私は「何言ってんだよ、ったく!」と思っていたが、
一緒にTVを見ていた天理教の先生と言われている方も猛烈に少年バッシングをしていた。
私は彼の部下ではないが目下なので「そうですね・・・」と引きつった顔で返していた。
(私は動物化した人に対してケンカするほど元気ではない。平和主義だし。)

こういった方はご自身の発言と「おたすけ」ということを全く別ものとして考えているのだろうか。この少年たちの歪んだ思考を発生させた原因の一つとして私たち大人が構造的に作り出したかもしれないという蓋然性は考慮されないのであろうか。甚だ不思議である。
同じ社会の構成員として、歪んだ社会に対して「私にも責任がある」という思いは非常に大切だと思う。前述したバッシングを平気でできる人というのは「私は正解であり、少年たち(又はその両親)は間違っている」という距離を明確にしている。そして、おたすけこそ距離ではないかと思う。対人援助では、いかに援助者ー被援助者の距離を縮めるかであり、両者とともに歩んで行こうとする内省が一番大切なのだと思う。また、用木が陥りやす問題として、頭から「この少年たちを助けたい」と思うことでさえも距離を明確にするという点では同様であろう。偉そうだしね。この少年達に「君たちは可哀相な人間だから助けてあげるよ」と言うあほな用木はいないだろう(似たような人は沢山いるけど)。社会の歪みこそ「私にも大人として責任がある」と思うことが距離を縮める第1歩であり、「おたすけ」の本質に近いだろうし、陽気暮らし的であろう。

参考文献
東浩紀『動物化するポストモダン――オタクから見た日本社会』