オルテガとの再会

私の興味、関心は状況依存的である。
高校野球を見れば、なぜ日本社会が高校野球を神聖化するのかを考え、
バスに乗っておばさまの愚行を目にすれば、おばさまの心性を考える。

そして、どれもが私の一貫した研究テーマに沿って結論がなされる。

そして、必ず不思議に思うことがある。それは、関心があるテーマについて関連する
事象が私の身の回りで起こることが多いのだ。例えば、おばさまの心性を考えていたとき
同僚が私にプリモプエルの話をしてきた。私はもちろんプリモプエルなんて知らない。ふんふんと話を聞いて分かったことは、プリモプエルとはぬいぐるみである。しかも、話しかけると「こんにちわ」などと答えてくれるらしい。おもちゃ会社は淋しい20代の女性対象に考案したのだが、実際のメイン購買層は50代の女性らしい。それがもの凄い数で売れているらしい。その人形のために入学式とか開催されているとか、恐るべし。
結論はおばさま達は淋しいのだということ。

前置きが長くなったが、関心あることが次々と起こるのだ。
これはシンクロニシティ以外のなにものでもないと思う。

私が現在関心があることは人の平等について、である。
何をもって平等とするのか、平等のはずなのに社会的秩序を保つためのヒエラルキーとは・・・などといった思春期の中学生でも考えるようなことを人に言われ考えている。
何かものごとを考える際に私は一応アカデミックな人間として過去の知識人の思考をレビューしていることにしている。今回はニーチェを参考にした。
ふむふむ、なるほど「神は死んだ」のか。それが人間社会なのか。とね。
定期的にニーチェを読んでいても、読む人間の興味が変化していれば付箋を付けて鉛筆線を引く場所は必然的に異なる。なので、毎回私は異なることを同じ本から学ぶことが多いと経験的に知っている。これは大切だと思う。

そして、長い前置きのあとだが、今回は『偶然』にオルテガと再会した。
もちろんオルテガは、重要な人物である。かなり読み込んだこともある。しかし、過去の出会いはスルーされ、私の頭にストックされているオルテガの知識は忘却の彼方へと埋没しかかっていた。学生に「オルテガって何した人ですか?」と問われても
「オルテガね。えーと、哲学者で・・・「大衆の反逆」を書いた・・・」
と専門性のダークサイドを露呈することになる。

そして、2007年オルテガと再会したというのは、全然関係のない人の著書を読んでいる際にたまたまオルテガが引用されていただけ。そう、ほんとたまたま。
そして、見る見るうちに埋没したはずの知識が浮上してきて、オルテガとの再会を無為なものにしてはならないと私の頭が危機感を発信してくれた。
そして、オルテガこそが、人の平等について明確な説明を提示してくれた。

長くなったので、オルテガ先生から得たことは次回。