先週に天理教本部でおこなわれた天理教青年会総会に参加したことを書きたい。知り合いの天理教人と3人で中庭と言われる場所の端っこの方で見ていた。中央にいる集団には、怖くて近寄りがたかった。式次第が順調に進められていたが、私は天理教人と色々な話ができ、濃密な情報やリアルな天理教人の思いを収集することができた。そのやりとりの中で私が「天理教を信仰するメリットって何だろう」と呟くと、すかさず「天理教人が、それを一般の人に説明できないことが大きな問題だ」という教会長の洞見を得た。天理教の垂直的な組織構造は、下部成員の思考停止を招いている。そのために、下部成員は自らの頭で考えることを放棄してしまったということである。
天理教のメリットという言い方は、棘がある。天理教の人にとってみてれば、信仰をメリットで語ることの抵抗もあるだろう。信仰は生き方や哲学であって経済用語ではない、と。しかし、天理教を知らない人が天理教に接するときに「天理教を信仰することで、人生にどのような善きことがあるのか」という問いは自然な態度である。思えば天理教も、立教当時は「病だすけ」という人間的メリットを契機とし、布教戦略の本命に置いていた歴史がある。その後に、いろいろな抽象的教義の肉付けがおこなわれたのだろうが、「病だすけ」というメリットがなければ、天理教がここまで巨大化することはなかったであろう。
「天理教のメリット」を問うたところで、自分の言葉で説明できる天理教人は私は数人しか知らない。それ以外の天理教人の多くは、センセイから拝借してきた抽象的な言葉を同語反復しかしない(できない)。青年会総会では天理教のトップである真柱の講演もあった。その内容は非常に抽象的・歴史的なものであった。しかしトップは、一定の方向性を示すことが仕事であり、抽象的な話でよいのだと思う。しかし、それを聞いてる下部成員たちが、真柱と同じような言葉を反復しているようでは、聞いている私は天理教という船がどこに向かっていくのか想像もできなかった。つまり、青年会総会の後に、詰所でおこなわれた決起集会のようなものも聞いたが、真柱が話した以上に具体性があったものや、オリジナル性をもったものはなかった。具体性といえば、「来年までに、おさづけの拝戴者を○名いただく!」というお決まりの形骸化した数値目標しかなかった。結局、人数かよ。以前、自民党の安倍さんが「美しい日本にする」と言った。もし、これを政策実行部隊である官僚や行政職員が言ったとしたら、私たちは腹が立つだろう。「お前が言うなよ」と。トップはトップの、下部は下部の仕事があるだろうが、天理教では真柱が何人もいるのだろう。
数年後には天理教は節目を迎えるようだ。それは今後の天理教がどうなっていくのかの大きなターニングポイントであると思う。そのときまでに天理教人から天理教を信仰するメリットを天理教人の言葉で聞いてみたいものだ。陽気ぐらし世界の建設というぼんやりした言葉ばかりは、もうお腹いっぱいだ。
http://www.tenrikyo.or.jp/jpn/?p=6011
tenrikyosyakaigakulavo@hotmail.co.jp
1. 教団信仰のメリットはだれにある?
「おさづけ拝戴者を○名いただく」というスローガンで、天理教の信仰目標は語るに落ちています。
本来は、「おさづけを通じて○名をたすける」というべきところのはず。「おさづけ」が「効かない」ことを知っているから、「おさづけ拝戴者の人数」や、もっと愚かなことに「おさづけした回数」を競うわけです。
先日の『天理時報』に麗々しく「諭達第3号」が出てましたが、教友の大半はその空疎な言葉の羅列にため息をついています。
同じ号に本部人事も載ってました。教祖の弟子の子孫たちばかりが本部の要職についていることが分かります。悪いけど、こうしていい立場にありつけ、役徳でいい思いのできる一握りの人たち以外には、こんな封建的な組織は魅力がまったくありません。
下々の教会子弟や信者子弟の苦労をよそ眼に、本部のエライ人たちの子弟はちゃっかり首都圏の大学や海外の大学に行かせてもらっています。
教団信仰のメリットはこういう幹部クラスの人たちにとってこそあり、下々のようぼく信者には何もありません。だから、彼らは自分の言葉でそのメリットを語れないのです。
教団の教会教義と中山みきの教義は違うという、植田義弘先生の主張は本当に重い意味を持っています。
天理教を信仰することのメリットといえば、他の宗教には無い、「陽気ぐらし」ということであろう。
だが、その陽気ぐらしは、教団の教えでは、たんのう、すなお、という言葉とセットになっているところに、陽気ぐらしが本来の陽気ぐらしではなく、実際は教団スローガンにしか過ぎない、という現実になっているのだ。
このままこの神秘的な運動は終わるのか?
神が天下る地場神屋敷はいつか再現されるのか?
誰か永遠の嘘を聞かせてくれ。
記事以外のコメントの欄が、投稿多すぎて、サーバーの動きが重いから関連のあるこちらに書きます。
私の様な、女房がようぼくで女房の実家の付き合いで、おじば帰りで天理の友人ができた子供が、いろいろあって地元の高校を避けて天理高校に進学しただけで、自分も女房も別の信仰をしてるだけなら、何も悩まないんです。 困らない適度な金額のお供えを出して、別席を運んでと言われたら、オープンスクールの時に、運ぶだけです。 適度にお参りして、適度に付き合ってます。それだけなので、何も困らない。
何か、お供えとか、無理を要求されたら、離れるだけです。 それに、いろいろ本を買って読んだけど、正直言って、教えとかよく分からないです、理屈っぽくてめんどくさくて、 全然染まり様が無いです。
天理教人の、お供えするのが功徳だ? 的な発想に、どうしたらなれるのだろう? 私はなれない。 だから、普通に、軽く、天理教に参加してる人達は、距離を取れるから、別に困らないんですよね、
困ってるのは、教会など、ドップリと浸かって、一世、二世と身動き取れない方々ですね。 この方達が、身も心も、豊かになって、天理教のお陰様ですよって、これが陽気暮らしですよって、布教できたら、良いですね。
私と1歳しか違わない所属? 先の教会長は、信仰三世で、道一筋です、そこは尊敬してますが、私のこう言う話は拒否される・・論じようとはしません。 私自身は親神様のお陰で、身も心も満たされています! と仰いますけど、それが、私には伝染してこない、共鳴して来ない・・必要以上のお金は、神様に感謝の気持ちでお供えしてると言う思想? これに共鳴はできません。 一般的には、共鳴できないと思います。
天理教の入り口付近で、適度に付き合ってる分には困らないんですが、中に入るのは、ちょっと怖いと感じさせます。
この、信者の2柔構造がありますよね? 組織に深入りせず、神様だけを求めてる分には、困らないんですよね。 そんな信者でも、親神様のお陰だって言える事があったり、気持ちが落ち着くなら、信仰するメリットは、ありますよね。 普通一般的な人は、そんなものでしょう、 お供えも、適度にしか出さないしね。
そんな信者は本部にはメリットが無いと言う事ですかね? (笑)
相談事があり、教会長おたすけ相談に電話したら土曜、日曜、祝日、年末年始、祭典日などはお休みとのガイダンスが流れて来た。それも聞き取れない小さな声で、何回も聞かないとわからない。やる気があるのかと言いたくなる声だった。
営利企業じゃあるまいに、予断を許さない命の相談があるかも知れない。相談事を受けた教会長もこんなお役所仕事の様な対応では興ざめするだろう。悩み事に土日祝日、年末年始も無いのは人助けの本部ならわかっているはずの事。本部のこういう対応は正直言って人に寄り添う気持ち、温もりがない事を改めて証明している。
当番制で出来るはずです。人助を念頭に日々真面目に取り組んでいる全国の教会長に今日は休みです、と割り切ってどうする。今後は教会業務も土曜、日曜、祝日、年末年始休みましょうかね。本部の姿勢には多々疑問を感じる事が多すぎる。
天理教を信仰するメリットってなんでしょうね?
義兄夫婦は、義姉のお母様が熱心な天理教徒でもあって、天理教での紹介で結婚しています。 夫婦でようぼくです、それで、子供、(私から見たら義理の甥っ子) の事で守護を頂いたとかで、毎月1回はおじばに参拝するくらい、熱心? なのですけど、お供えに関しては・・所属教会が遠いお陰か、基本的に出してない様です。 参拝時にお賽銭を入れてるのかも、怪しいくらいです。 義兄夫婦は金にシビアですから。
あしげく、おじばに参拝すると言う意味では、熱心ですが、教理その他については、この夫婦、あまり理解も意識もしていないと言う印象です。 義兄と言っても、年下ですけどね。
他にも、おじばには、年に何度か参拝するけど、教会にお供え? なにそれ? 位の知人も知っています。 もちろん、教理とか、ほぼ知らない・・日本の神社を詣でる、参り信仰の延長上で、天理教に参加してる人って言うのも、結構、多数じゃないでしょうか?
そう言う人は、教会に毎月、何万円もお供えするのが、神様の守護を頂ける感謝だと言う発想は、持ち得ないですね。 そんな教え? 常識が天理教にある事すら知らない。
私も、そう言う発想は全く持ち得ないから、所属の教会長が、お供えは、神様に守護して頂いてると言う事に対する、お礼であって、健康保険を払うのと同じ様な物です・・・と、私に説明した時は・・まあ、私だけに対しての説明かもしれませんが、いやもう、全く、賛同も、共感も、持てる話ではありませんでした・・・・
上の匿名さんのお話である、教会長お助け相談ってなんでしょうね?
命の電話でもそうですが、そう言うのに電話してくる極限状態の方に、うまく寄り添って、良い方向に導く、気持ちを和らげてあげるのは、一つの技術ですよね、訓練を受けないと、誰でもできませんよね。
相手のモノローグをしっかりと聞いて、気持ちを吐き出させる、客観的に心理状態を観察して、共感しつつ、誘導して、落ち着かせるのは、プロの仕事です。
天理教の普通の、教会長とかが、なんの訓練もなく、できるのでしょうか?
私の印象は、一方的に神様のお話をするのは得意でも、こちらのお話は聞かないと言う印象がありますけど、それは、エホバの証人の布教師だって、布教を目的と、する人はそういう傾向がありますからね。
だから仕事上、お助け相談って言ったって、それは、天理教に関してだけだと言う印象しか無いので、まかり間違って、本当に切羽詰まった人が、そこにかけたら? 大丈夫なの? って思うので、もし、ちゃんと訓練を受けて、対応できるなら、24時間やって下さいって思いますけど、そうじゃないなら、日中だけの方が、返って良いのでは無いでしょうかね・・
と思いませんか?
天理教社会学研究所ツイッター2月21日より
>お金は誰に?と聞くと施しが必要な貧しい方にとのこと。
イスラムの方が本来の天理教に近いのでは?ちなみにラマダンの時期はある程度まとまった金額を献金しますが、それはモスクにするのではなく病院や福祉施設にします。私の知るムスリムはおじいさんの友人が院長をしている病院にしています。その病院ではラマダンの時期に集まるお金で毎年最新の医療器械を買っています。
この神さん?いや中山みきの霊か(大笑い)、あきれるほど金が好きだねぇ。ちゃ~んと子孫にバッチリ遺伝してるじゃん。
みきは、阿弥陀さんの極楽浄土へ往生出来てないなぁ。
もういい加減さぁ、誰かみきを浄土へ往生させて成仏する修業法教えてやったら?浄土宗の坊主じゃ無理だな。高野山か比叡山の大阿闍梨さんじゃないと、みきを往生させるのは無理。
みきが成仏しないから、子孫と大馬鹿者の取り巻きどもがが悪さばっかりして世界中の人間を苦しめてるんだよ。
新次郎・正善・善衛。。。そして、クズの極み、国学院(大爆笑)卒のスケに、その息子だい。
スケ、だいは、これから相当痛い目に合うぜ。もうヤバいんじゃないの。
善司は気の毒だから許してやるよ。善司よ・・・お前さん、よくやったよ。辛かったんだろ?許してやるよ。
この先、不景気はさらに続きそうですから、一般的な人は、そんな、毎月万単位のお供えをする事は、しないでしょう。 それだけのメリットを、天理教団は信者に与えられるのでしょうか?
何か良いことがあった時、幸運に恵まれた時、そう、それが親神様の守護だ! と言って見たところで、だから、教会にお供えをして下さいって言うことにはなりませんよね?
広く地球を治めるのが、親神様だと言うなら、この幸運、守護を、お供えでお返しするなら、当然、地球のために供える・・つまり、社会奉仕などに寄付するのが正しいと言う事になります。
東風Z さんとかが、普段書いてる事が、正しいお供えって事になります。
親神様の守護に感謝して、親神様が作ったこの地球のために、還元するのは、親神様に、お供えする事になりますよね? だから、イスラム教とか、正しい面もあると思います。
天理教団に寄付を要求するなら、天理教の信徒に向けて、何か恩恵と言うか、メリットが無くてはいけませんよね? おさずけで、治らない病が治った・・おさずけで通らない事が通った時に、天理王の命のおかげだから、聖地、おじばに寄付しようって言うのは、判りますけども・・・
親神様が、キリスト教の主と同様な存在にした時、実は、天理教団にお供えを集約する理由も薄れてしまうと言えますよね? おさずけも、通る通らないと言う理の話になって、神の狭い範囲の直接の守護で無くなると言う説明にすると、通った時も、社会にお供えした方が、親神様は喜ばれると言う事になりますよね?
おさずけが、天理王の命様が、直接、信者に力を下さると言う奇跡なら、教団にお供えするのは、当然ですよね。 ちょっと不謹慎な利益誘導にも感じますが、直接的な守護なら、教団にお供えは、正当でしょう。
その辺の、考え方を、教会長とかに聞くと、正直、怒って終わって、議論にならないので、実際どう言う風に捉えているのか、よく判りませんです。
だから、今の天理教団は、必要な建物と職員の維持運営費以外は、社会に寄付して下さいって言うのが、本筋なのかな? 御守護神が絶対的な地球の神様になると、現代では、一教団の教勢を広げるには、ふさわしく無くなってしまい、もっとパブリックに捉えないといけなくなりますよね?
そんな事を思ったりします。
私も、息子が天理高校に行ってますから、その維持運営費の一助にって、年金、数万円のお供えをしてる訳です。 子供が、学校に行ってますから、私のメリットは、そこにもある訳です。
訂正、年金じゃ無いです、年間、数万円です。
ちなみに、私はこのスレッド、天理教のメリットについて書かせて頂いています。
それ以外のコメントは、別欄にと言う事らしいですので、お気をつけ下さいませ。
あと、名古屋のトヨちゃん。あんたも大罪犯してるよ。
あんたのお袋きみさんは相当の苦労人だ。大したもんだ。きみさんは崇拝はできないが人として尊敬するよ。
でもトヨは金と女と権威に目が眩んだね。
名古屋で落ち着いてからのトヨちゃん、挙句の果てには自分が神であるかのように振る舞った。
佛道で言ったら「増上慢」とういやつだ。
人知れず数多くの人をあんたは泣かしたんだ。極悪非道だぜ。
ダイスケよ、パンダよ、あらきとうりょうを自認する脳筋お花畑金満のオール天理青年よ。オール天理女子青年よ。
度胸満点で、シリア市中、レバノン市中へ、バグダッド市中へ行きなさい。
中山みきが人類の親神、天理の地場が人類創造の地だと声高らかににおいがけに行ってきなさい。
そして黒法被着て拍子木叩いて旗持って「なむてんりわうのみこと」と大声で連呼して「よろづよ八首」奉唱手踊りし、「世界助け」に行きなさい。
「やまのなかでもあちこちと てんりわうのつとめする」
んだろ?
そのくらい朝飯前だろ?
中山みきは、自分が人類の親神だと筆先に自らはっきり記してしまっている。明らかに増上慢である。これが最大の致命的欠陥である。
中山みきが清貧で困窮者や病人を助けたというのも9割9分9厘「嘘」。
天理王命と言う神の名は妄想の産物。佛の名や御真言でも少なくとも1200年以上前のでないと大変危険。
天台宗の総本山比叡山延暦寺で毎日おつとめで読まれている根本経典「台宗課誦」の法華懺法の中に「南無妙法蓮華経」とあるが、読みは「なもべうはうれんがけい」。称えるのは一回だけ。日蓮オリジナルではないし、日蓮題目の連呼する唱題とは意味合いが全く違う。
中山家と前川家は近親婚が繰り返されている。と、言うことは中山家の金貸し因縁・強い色情因縁がみきにも遺伝子として脈々と流れている。金儲けの天才。女詐欺師である。
あの霊懸かり?は、「霊懸かったふり」をしていたのだろう。だとすれば、みきは潜在的自己顕示欲が相当に強い。
陽気遊山、陽気ぐらし、世界一列みな兄弟というのは、実現不可能。人間は各々の個性を持ち合わせている。各々遺伝子が違う。地球上の人間すべてが中山みきの教えに服従できるわけがない。
事情身上は道の花というが、単なる「バチが当たった」「神罰」などと同じ意味合いだ。
モーセ・釈迦・イエス・ムハンマド・役小角・最澄・空海は「自分は神だ」「自分は人間の親だ」などと決して宣言しない。釈迦でさえも「自分は悟った」とは言わない。
今こそ、中山みきの呪縛から、さっさと逃げるべきだ。
中山みきの思想で幸福を望むのは無理。
中山みきの思想でせめて心だけでも癒されたいなんて無理。
中山みきの思想では、病は治癒しない。
みきよ、そなたは世界中の人間を不幸にしてしまったことを自覚し、早急にさんげせよ。償いなさい。
触らぬ神に祟りなし。
もうだいぶ前に2ちゃんねるで見たことを思い出した。
投稿者は
「中山みきは人間だ。おやさまは親神様だ」
とあった。
詭弁にすぎぬ。
各々も先祖を辿り辿ったら中山みきにすべて行き着くと寝言をほざいた布教師もどきがいた。
洗脳と言うのは本当に恐ろしい。
私は、人間中山みきとその極悪非道の悪党どもに、身体と精神をズタズタにされてしまった。
割れたグラスは元に戻らないとはよく言ったものだ。
こんにちは。
私は、息子が天理高校に、お世話になっているし、常識的な範囲のお供えしかしないし、洗脳される事も無いし、息子も、非天理家庭で育っていますから、天理教の倫理? に完全に染まる事は無いです。
だから、天理教を誹謗抽象する必要も無いし、否定するものも、無いんです。
子供の頃は、霊友会家庭であり、20歳過ぎからもう、30年も、今の日神会で、実在神信仰をしていますし、身内に天理教とエホバの証人もいますからね、宗教と信仰には、自分なりの考えもあります。
ところで、自ら神信仰をしていて、他を全否定したり、罵詈雑言、上から目線の高施設って、あり得ないんですよ・・人を不安にさせる事も、威張る事も、悪口を言う事も、本来、あり得ない。
だから、それらの行動が出てる方は、何を鑑に、自分を律しているのか? 私には理解できませんけども
私は、ただの父親として、人として、宗教団体に参加する意味とメリット、信仰を持つとはどう言う事か?
どこかの教本では無しに、自分自身の模索から、多少論じて見たいと思っています。
天理教も、始まりは、天の将軍と名乗る神霊が、中山みき様に、降りて来た・・
残ってる御筆先については、よく判りませんけど、神霊的に、考察して見たいなあ〜と思います。
天理教を信仰する、メリットとは、何か? ですね。
今の私は、天理教の別席を運んでる最中ですが、実は、まったく本部とは関わりが無いですし、本部が何を言おうと、常識的なお供えや、行動しかしないよ?って、決めているし、息子が卒業したら、余計に関係ないので、本部については、まあ・・・どうでも良いんですよね。
読者の皆さんもご存知のことと存じますが、長年、天理教教会本部神殿入口に鎮座していた黒門なる構造物が、解体撤去されて現存しません。解体撤去の理由は、耐震強度不足で危険なためということですが、耐震強度を満たす黒門を再建する予定があるのか教会本部に問うたところ、天理教の教えとは関わりのない宗教的に意味のない構造物、いわゆる装飾品なので再建しないという返答でした。黒門という構造物も、その昔、教会本部が信者から奪い取った「お供え」で建築されたものです。黒門を解体撤去するにあたり、教会本部は解体する理由を天理時報等の媒体で信者に周知し、承諾を得たのでしょうか? そうではありません。教会本部の独断で強行したのです。三島神社の移転も然りです。黒門に限らず、宗教的に無意味で莫大な維持費がかかる天理教の構造物は天理市内に数多くあると思いますが、信者に周知した上で、信者の同意と承諾を得て、解体するなり、天理教とは関係の無い意義ある公共施設等に転用するなりしたらよいのではないでしょうか?解体するにしろ改築転用するにしろ巨額の費用がかかるはずですが、教会本部ブルジョア貴族のポケットマネーでまかなえばよいのではと思うのですが・・・。
私の様な関わりをしている程度の人や、おじばに参拝する程度の、義兄夫婦にとっては、天理教の組織って、ほとんど関係無いので、勝手に参拝して、気持ちだけ、お賽銭を出して、祈って満足してたりします。
当然ですが、お尽くしをして見えてくる世界がある・・と言われても、へえ〜そうですか、それは良かったですね〜 私は遠慮しておきます・・で、終わりです。 実際、別席を運んでいても、へえ〜そう言う世界観か、神話の世界だよね? 概念的には、理解できるし、判るけど、本気で信じる根拠は無いな・・です。
へえ〜 良いお話を聞かせて頂きました・・ありがとうございますって、終わりですね。
布教師から何名かの教会長を知ってもいるから、出会えば、こんにちは? ご無沙汰してます〜って、言います。 まあ、基本的に人付き合いと、神社を参拝する延長位で、関わってる人が、圧倒的多数じゃないですか? 一般的な常識の範囲でのお供え、年に3万以下くらい? の人なら周りに居ますが、今のところ、毎月教会に、万単位でお供えする人に会ったことがありませんし、そうなる可能性もゼロパーセントです。
教えだけで、お供をしてくれる信者が増えるなら、楽チンでしょう? どこの団体も、資金的に苦労してますよ、だから、会費制で、明朗にしていますし、お守りや、祈願するお札とかの販売もしているんです。
利益誘導と言われても、実際、お守りとかには代価を支払う人は多い・・お金を出すなら、目に見える対価が欲しいと言うのが、普通です。
だから、御守護神が、絶対神です? と言う存在、パブリックな存在になると、逆にお守りとかの販売はしにくいですね。 キリスト教と一緒で、本部に、お布施を払うと言う理由も、矛盾してるんですよ。 だから、本尊はプライベートな、神様の方が、お金集めには、都合がいいんですが、ここに天理教の無理があるんです。 親神様が、地球規模の絶対神なら、お供えは、社会に還元した方が、正しくなります。
真柱様が、おいでになると・・100万円! その代償は? メリットは、なんなのでしょう?
真柱様が、100万円を持って来てくれるなら、大歓迎ですよね? (笑)
お金を持って来る人は、大歓迎ですが、持って行く人は、それに見合う、代償が無ければ
絶対、歓迎などできません。
本部にとって、お金を運んでくれる信者を歓迎するなら、本部はそれに見合う功徳、徳を与えて
くれないと、おかしいですよね? 本部がお金を運んでくれる信者を求めているなら、
本部も、各教会に、お金を運んであげるか? それに見合う、代償、目に見える徳を
運ばなければ、いけないでしょう? 共に親神様に支えてる人間同士ですからね。
本部は、末端教会から、お金を運んでもらいたいなら、末端教会が信者に渡せるだけの
メリット、代償、徳を、末端に降ろしてあげられるのが、筋と言う物ですよね?
徳があるから一方的に取っていく? 一般的な常識では、あり得ません。
取って行ったら、徳が減るでしょう? 与えるから徳が上がるんですよね?
奪うだけなら、徳は落ちますよね? それが、一般的な常識ですよね?
前世の因縁を解消するために、今世があるなら、生まれた時から、徳がある人なんて
いない!と言うことになります。 今世で前世の因縁を解消するために
徳を積む生き方をするんですよね? 末端信者が、お供えをするのは徳を積む行為と言うなら
持っていくだけの人は、次は、徳を失って、来世は逆転すると言う事になりませんか?
いろいろ、疑問が尽きません・・・・
仰る通りですね。天理教は筋なんて通っていません。疑問を話題に挙げて筋を通せば答えられなくて黙ってしまうのが今現在の大教会長や会長連中です。
彼らにとって文句を言わずに大金を運ぶ信者や教会長は熱心な人と言って大切にされます。熱心か熱心でないかの判断基準は金。額面です。
大教会に沢山お供えしている教会は、自分が大教会を支えている一番の屋台骨だと誇らしげに胸を張る。彼らの関心事は大教会に評価されるか、されないか額面競争なんです。
哀れにも自身が洗脳されている事に気がつかず、金集めを毎月の目標に挙げ、今月は◯◯万円上納出来た、と一喜一憂する。数字の書かれた教会の頑張り表で数字を競い合い、周囲と比較する。自分が一番と満足する。自分は駄目だと消沈する。
今流行りの「承認欲求」を満たす為のその程度の信仰なんです。そんな競争に巻き込まれて各教会は数字を上げる事が信仰活動だと思う。哀れな姿です。
皆さんのご意見を大変興味深く読ませて頂いているのですが・・・。
「大教会と教会」を「会社と社員」に置き換えると、世間一般では当たり前の価値観になるのが不思議です。
>大教会に沢山お供えしている教会は、自分が大教会を支えている一番の屋台骨だと誇らしげに胸を張る。彼らの関心事は大教会に評価されるか、されないか額面競争なんです。
↓
『会社に沢山利益をもたらす社員は、自分が会社を支えている一番の屋台骨だと誇らしげに胸を張る。彼らの関心事は会社に評価されるか、されないか額面競争なんです。』
>哀れにも自身が洗脳されている事に気がつかず、金集めを毎月の目標に挙げ、今月は◯◯万円上納出来た、と一喜一憂する。数字の書かれた教会の頑張り表で数字を競い合い、周囲と比較する。自分が一番と満足する。自分は駄目だと消沈する。
↓
『哀れにも自身が洗脳されている事に気がつかず、売上を毎月の目標に挙げ、今月は◯◯万円売上が出来た、と一喜一憂する。売上数字の書かれた営業社員の頑張り表で数字を競い合い、周囲と比較する。自分が一番と満足する。自分は駄目だと消沈する。』
宗教なのだから世間一般とは違うというご意見もあるかとは思いますが、どういう形や価値観なら『宗教』として褒められるのかと興味がわきました。
いえ、決して『匿名様』のご意見を否定するつもりも批判する意図もありません。
会社は給料くれるけど、営利法人中山商店はくれないよ?ブラック企業よりひどい。
大教会に沢山お供えしている教会は、自分が大教会を支えている一番の屋台骨だと誇らしげに胸を張る。彼らの関心事は大教会に評価されるか、されないか額面競争なんです。
おはようございます。ただの父親です。
教会長のお仕事とは、何なのだろう? 布教活動の最前線でしょうか? ならば、天理教の信者を増やすのを、競争するのは、分からなくもありません。 今月は信者何人獲得! でしょうか?
天理教は会費制じゃないので、布教する最前線は、何人と言う数値の価値より、何円と言う金額になるんでしょうかね? 集められたお布施の額が、布教者の働きであり、親神様が、評価してくださる?
よくやった、集めたお金は、お前の徳だ・・集めた金額の分、お前の徳としてやろう? と言ってくださるのでしょうか? 誰か、その想いを教えて下さい。
1歳年上の、所属先の教会長は、お供えは自由です、ただの父親さんに要求はしませんよ、私が大変だと思うなら、私が息子さんの為に働いてくださってありがとう、と思うなら、下さればいいし、くれないのも、別に自由ですから・・私は、お供えが目的で、動いている訳ではありません、神の御用、(親神様の思し召しだったかな?) として動いていたら、どうにか生きて行けるように、親神様が通して下さるので、お供えが目的では無いんです、履き違えてはいけません。 と言う様な事を言ったかなあ? それ自体は判ります、道一筋に生きていたら、生活は、なんとかなります、親神様の守護もあります、生かされている事に感謝します。 とまあ、こう言う話ですよね? 同年輩ですが、だから、私はこの教会長の気持ちは分かるし、なので、お布施は、常識的には、渡しますけど・・毎月ではありません。
この信仰三代目の教会長の言う事は、だいたい理解できます。 ただ、親神様へのお供えは、守護して頂いてる事に対する感謝の気持ち、保険代の様な物です・・健康保険の様な物? と言う話は、ちょっと判らない・・
え? 親神様は、大いなる神、主に該当する神様だと言ってたよね? 守護に保険代の様な物? 1人1人の道筋も、主の計らいがある様な事を言った様な気がするが・・保険代を (守護に感謝してお供え、それも、天理教と言う集団に?) 払う意味は、どう言う事かな?
うーん・・なんか違うな、なんか違和感あるな・・と感じています。
加藤ハルアキ 2019年2月26日 10:51 PM 様
>『哀れにも自身が洗脳されている事に気がつかず、売上を毎月の目標に挙げ、今月は◯◯万円売上が出来た、と一喜一憂する。売上数字の書かれた営業社員の頑張り表で数字を競い合い、周囲と比較する。自分が一番と満足する。自分は駄目だと消沈する。』
会社にとっては売り上げを上げることが目的であり、社内にて当たり前の価値観・基準であり、「洗脳されている」とは言わないと思いますが。
上も下も、当然の目標としていることだと思います。
↑の匿名様。
金集めは会社なら当然の目標です。しかし宗教団体が金集めを目標にしたらいけません。営利企業と宗教団体が同じ目標を持つことは有り得ないが残念ながら今の天理教は営利企業に成り下がっていますが。
天理教では貧に落ち切り財産差し出す事があなたの助かる道であると信者達を洗脳してきた。洗脳された教会長は信者から金品を出させる事が即ち人助けだとの間違った認識で長い間、信者から金品を奪ってきた。徳を積ませてやったと。
多くの教会関係者達は「洗脳」されてきたのです。
今、目の醒めた会長さん達から静かにブーイングが起こりつつあるのは当然の事です。
匿名 2019年2月27日 2:29 PM 様
>宗教団体が金集めを目標にしたらいけません。営利企業と宗教団体が同じ目標を持つことは有り得ないが残念ながら今の天理教は営利企業に成り下がっていますが。
同意見です。会社が売上増加を目標にするのは、洗脳ではなく当然のことですが、今の宗教法人天理教は、会社と同じように、「売上=上納」をたくさん上げることが信仰の強さを示すものと「洗脳」されていることは、大変に嘆かわしい限りです。
そして、それに気が付いている人がどれぐらい居るのだろうかと。
「大教会長様がお喜びくださるように、お供え〇〇万がんばれ!」の声に惑わされないようにしたいものです。
匿名 様
2019年2月27日 2:29 PM
>金集めは会社なら当然の目標です。しかし宗教団体が金集めを目標にしたらいけません。営利企業と宗教団体が同じ目標を持つことは有り得ないが残念ながら今の天理教は営利企業に成り下がっていますが。<
営利企業の中にも、創業者や経営者の崇高な経営理念により、儲けた収益の一部を社会福祉事業に寄付したり、災害復旧事業等に協力したりしている立派な企業もあります。また、企業の収益は給与や賞与として社員に支払われ、社員やその家族の生活を支えています。営利企業の最終目的は営利の追求ですが、企業が研究開発し製造した商品や製品、あるいは生み出すサービスは社会の役に立っています。一方、教会本部から下々から奪い取る「お供え」は、意味の無い無駄な構造物の建築維持費や教会本部ブルジョア幹部の「贅沢三昧暮らし」のために費やされる「死銭」以外の何ものでもありません。天理教は営利企業どころか「詐欺師集団」と言っても過言ではないでしょう。「社会悪」以外の何ものでもありません。
崩壊様の仰る通りです。有益な企業は自身の儲けを追求しつつも、社会の幸せに寄与しようと崇高な精神性をも持ち合わせているものです。ひるがえって天理教団はどうでしょう。集めたお金の使い道は無駄な建造物の維持やトップの贅沢。信者が質素倹約して捻り出した尊いお供え金が正に死銭と化しています。
平成が終わり、象徴としての在りようを深く追求してこられた私心なき天皇の人々の安寧を思う祈りの姿を拝見してテレビの前で思わず涙が出てしまったが、我らのトップに信者の心を動かす崇高な精神性が垣間見えないのが残念です。詐欺まがいの営利追求団体なら当然でしょう。
こんばんは。
今日は、東名阪道で天理に向かわず、そのまま伊勢神宮に参拝して来ました。
久しぶりに、内宮、下宮、猿田彦神社を回って来ました。
伊勢神宮もね、ある場所では、暖かいオーラを感じ、ある場所では、冷たいオーラを感じました。
空っぽの社もあります・・でも、いつ行っても、サッパリしますね。
日本の詣で信仰の総本山かもしれません、それでも、平日なのに、大勢の参拝者です。
大量のお賽銭が飛んでいますし、多くのお札、お守りが求められていますよね?
参拝する、メリットがあるんですね? (笑)
私も、年に一回くらい、伊勢参りします。 対して意味はないんです。
詣でて、ただ、今年も来れました〜 ありがとうございます! って手を合わせ
お賽銭を、ほうって来るだけです。 家には伊勢神宮のお札もありますよ
文化ですね、文化・・気持ちがスッキリします。
おかげ横町も、伊勢神宮のご利益で潤っていますよね。
さて? 天理教のおじばに参る人って、どうでしょう?
天理教徒は、伊勢神宮に参る人を、内心、バカにしてませんかね?
地元の神社に参る人を、内心は、小馬鹿に思ってはいませんか?
しかし、日本の神社は、強いですよ? 日本の文化ですからね。
教会に大勢の参拝者が欲しいですよね? 天理教の教会に通うメリットとは、何でしょう?
ちょっと、他にも、お寺の文化についても、考察をしたいと思います。
さて、ここは、天理教を信仰するメリット、と言う投稿欄です。
ただ父親は、主旨にそって、コメントを続けますね。
まだまだ続きます。
おはようございます。
伊勢神宮は日本の神道の頂点です・・ただそれは明治からの国家神道の流れですよね? 天理教も、この国家神道に組み込まれた時代があった訳です。
本来はそうではありませんよね? 別に伊勢神宮は日本の神社の頂点ではありませんでしたよね。
日本の神社は、自然崇拝や祖霊信仰から、作られた存在であり、御神体は山だったり、人だったりしてるわけです。 多くの日本人は、神社の御祭神すら、意識していないで、参拝しているのが、結構普通ですよね?
伊勢神宮は、つまり、唯一無二の絶対神ではありません、これが、日本人の底流に流れる、文化でしょうね。 神話上、800万の神の頂点だという設定であっても、唯一無二の存在では無いんです。
だから、人が参拝するのは、プライベートな神だとも言えます。 自分の人生、運勢を全て司る絶対神と言う存在を想定せず、人知を超えた存在に守護を願ったり、願いを聞いてもらったりと言う存在、川の流れは勝手に流れているが、その流れを良い方に望む方に導いてもらう、船頭の様な存在の神様? と言ったら、当てはまりますかね? そういう神様、あるいは仏様に詣でるのが、日本人の基礎的な、信仰心だとも言えますよね。
この不景気の時代、神様に手を合わせも、良くなりそうに無いし、商売繁盛は努力だけど、それでも、商売繁盛を、願掛けして、無用な災いが身に降りかからない様に、必死に祈ったりしている訳ですね。 それで、1年無事なら、どうもありがとうございました、今年もお願いいたしますって、また祈る訳です。
心の安寧と、目に見えない守護を願掛けする・・こういう需要が、日本にはある訳ですね。
新興宗教は、どういう形であっても、この需要を拾うか? 掘り起こさないと、流行らない訳ですね?
信者にどんなメリットを提供できるか? きっとそこが重要な訳ですよね・・
また続けます。
>さて? 天理教のおじばに参る人って、どうでしょう?
>天理教徒は、伊勢神宮に参る人を、内心、バカにしてませんかね?
>地元の神社に参る人を、内心は、小馬鹿に思ってはいませんか?
これは激しく同意いたします。
こう言う思想を作り上げたのは、正善、善衛、諸井慶一、深谷忠政です。関根豊松だって同じです。イエスの教えを自分たちの都合の良いように捻じ曲げた、あの悪名高きパウロ・ペテロ教のバチカン神学を更に悪用しました。選民思想をも悪用し本部上層部に浸透させました。諸井慶一に至っては、なんとイスラーム神学をも悪用する暴挙をしました。諸井慶一はとんでもない鬼畜生以下です。諸井慶一は早死にしましたが。一歩間違えればイスラーム諸国で処刑されていたでしょう。
バカで白痴のふりをして、腹のなかがドス黒い善衛は三島神社を平気で退かした・・・つぶしたと言ってよいでしょう。これこそバチカン神学に染まっている証左です。
関根豊松は助けてやった代わりに、先祖代々の仏壇を焼き払って檀家寺を焼き払えと、村中全部天理教に改宗しろとまで言い放ったとんでもない輩です。
こんにちは。
匿名さんのおっしゃりたい事も判ります。
天理教自体は、従来の神様の詣で信仰とは違う存在である事は、さすがに承知しています。
どちらかと言うと、キリスト教の様な一神教ですよね? でも、日本で広がるには
従来の詣で信仰文化を全否定すると、なかなか広がりません
一時期、800万人と言われる時代も、天理教にはあった訳ですけど、その時は
一神教の思想として広がったと言うより、道の路銀・・おさづけの救い
と言うのが、大きいのでは無いかと思っています。
天理教自体は、思想宗教として広がった訳では無く、おさづけの効用で、助かった?
と実感できる人が多いから、広がったのでは無いかと思います。
あるいは、中山みき様や、本席様からの、代理ですが、神の言葉が聞けたからですかね?
当時の本部は、なんでも、お伺いを立ててますもんね。
関根豊松氏の、愛町が大きくなったのも、実際、関根豊松氏が、奇跡を起こした
この門をくぐって助からぬ者はない、と言われるほど、おたすけが実際に起きたからであって
ただ、思想や考え方だけで、大きくなった訳では無いと思います。
今の愛町の事は知りませんが、ただ、なんのご利益も救いも実際に無いなら
ただただ、思想だけなら、だんだんと廃って行くのでは? と思います。
天理教は、一神教の思想として広がった訳では無く、従来の詣で信仰を否定せずにその形の中で
強力な、実際のご利益がある神様として、大勢の信者を獲得できたのではないか?
この神様は、本当に、ご利益がある? と言う実感が、末端教会でもあったと思うんですよね?
キリスト教は、この時代になっても、未だに、日本で大きくは広がっていません。
従来の日本の信仰文化を否定するキリストは、あまり広がらないと言うのも事実です。
日本人って、結構現金ですよ? 信仰心にも実利を求める傾向は強いですよね?
メリットを感じないと、直ぐに、放り出す傾向が、強いと感じます。
まあ、そんな感じで、個人的な、勝手な、意見を書かせて頂いてます。
適当に、読んでください・・ただの父親ですから。
ありがとうございます。
正直なところ父親さんの投稿を読むと気持ちが悪くなる。
どうしてかな。
正論を述べているけれど、多分、実在神という言葉を使っているから引っ掛かりを感じてしまうのかもしれない。
気持ちが悪く感じるならば無視すればよいだけなのだが、ここまで堂々と書き連ねるのは確信的な根拠があっての意見だからとみるのが当然の推理という事ではないかな。
「霊」に捉われる信仰って、言うならば習俗の部類だと思うよ。
日本人や日本文化は自分の属性だから大切に思うけれど、ちょっと、それとこれとは別物だと私は仕訳している。
私自身もその一人ですが、日本人の中にも「一神教」こそ神の素性だと思う人も普通にいます。それこそ、幼児の頃の自分の体験から私は自分で獲得した、誰に教えてもらったわけでは無しに理解した事として大切にしている人間としての基盤なのです。
父親さん、ご自身のブログを立ち上げることをお勧めしますよ。
こんばんは。 天理教者の良くある反応ですよね、ありがとうございます。
私自身の信仰についての話は、ちゃんと、掲示板があるので、そちらはもっと
自分のお話をしていますけど、こちらとは関係は無いです。
ブログもあります。そういうのは、同じ信仰者に向けて書いています。
あくまで、天理教についての、個人的な考察です。
実際、教会長や、リアルに関わりあるけど、はっきり言って、皆さん自分の神の話は
とうとうとなさるが、ちょっと疑問を出すと、ムッとされます。
その弱さは、純粋にそれしか知らないからです。
だから、気持ち悪いのは、あなたに、そう言う他宗派の話に、免疫が無いからですよ。
まあ、私の話は、どうしたら、天理教の教会に、もっと信者を呼べるのか?
もし、私が、天理教者なら、こうしてみる、と言う話をしてみたいんです。
天理教を信仰するメリットとは、これじゃないか? と言う、個人的な考えを書かせて下さい
まあ、気持ち悪いのは申し訳ありません、なので、スレッドに沿って
メリットについて、論じます。
しばらく、捨て置いて下さいませ。
ちなみに、私は、このスレッドでは、実在神と言う言葉は使っておりません。
前半部分では、パブリックな主と言う存在は、小さな守護ではなく、主の作った道筋を通る信仰が要求されると言う事ですよね、この世の出来事は主の思し召しであって、よくも悪くも、主の思し召しを理解して生きていこうってなる訳ですよね?
この世を作ったのが、主なら、主の喜ぶ事はこの世をよくする事ですよね、陽気暮らしの実現ですからね、だから、儲けたお金を社会還元して、この世をよくしていくのは主の思し召しに沿う事になります。
本来、富の独り占めは、神に嫌われる行為だとも思うんですが、世界は富が片寄っていますよね・・・
天理教本部に、お布施を運ぶのは、富の片寄ですし、社会還元でもない、真柱様が100万円、持っていく理由はないでしょう。
守護の見返りに、お布施を教団本部にするのは、そう言うのは、絶対神に対する信仰では無いだろう? って事を、先ずは言いたいんですよね。
ただの父親様
いつもながら、とても参考になるコメントだと思って読んでいます。
どうぞ、続けて書き込んで下さいね。
ただの父親さん
>日本人って、結構現金ですよ? 信仰心にも実利を求める傾向は強いですよね?
>メリットを感じないと、直ぐに、放り出す傾向が、強いと感じます。
それで良いと思っております。大変腑に落ちました。
日本の神さん、天理の神さんは、非常に見返りを求めますね。
中山みきが「私が人間を拵えた親神だ」嘯いた神名である天理王命もしかり。
関根豊松に至っては『東京に行っても、苦しい時は、名古屋の方を向いて『関根先生』と言いなさい。』と、諭したという。諭された人は、それで、言われた通りにして、治ったという。自分が、神のように振舞っていた。そして、自分にすがれば、たすかると諭す。
異端の言動というしかない。
これだって、見返りを求めている臭がプンプンします。
人のものかりたるならばりかいるで はやくへんさいれゑをゆうなり 三 28
この筆先の意味は全くよくわかりません。みきが記した筆先など理解精査する価値や必要は全くありませんが、なんだか中山みき=天理王が見返りを求めているような感じがします。
なんだか、みきと豊松がごっちゃになった文面になってしまいましたけれどすみません。
2ちゃんねるのネット番長がしゃしゃり出て、わたくしの中山みきと豊松に対する恨み憎しみ怨念に反論してくるのをを承知で敢えて書きました。人を呪わば穴二つと世間の先人はよく言いますが、私、みきと豊松の怨念にブーメランされても良いのです。私には失うものはもうなにもないし、ステージ4の進行性癌と診断され余命半年ですから。
最後に、わたくしの上級だった会長は「毎日の朝夕のおつとめ、月次祭の執行、お供えは命の御礼」
命の御礼・・・ゼンスケと同じニュアンスの言葉を50年以上前から言ってましたっけ。
あなたに救われた思いをされた方々はおられると思います。
教祖は御覧になっておられると思います。
おはようございます。 ただの父親は、ただの一個人であり、学者でも、研究者でもありませんので、自分の感想として、思ったことを、書いているだけです。
この人は、こう言う風に、捉えているんだな? 程度に見て下さいな。
日本は、基礎的に、自然崇拝と祖霊信仰、先祖崇拝と言う文化がありますよね。釈迦仏教に本来、先祖供養と言うのは無いのですが、日本では仏教は先祖供養を担っていますからね。 位牌とかは道教の影響が大きいかと思います。
戦前の国家神道の強制を除いて考えたら、天皇崇拝ってのは、庶民には新しい感覚で、本来は、神道は自然崇拝や、祖霊信仰からが、主体だと思いますよね。
日本の旅行では、神社詣でも行楽の一つですからね、伊勢参り、大山詣りとか、江戸庶民の、行楽でもあったと思います。私は昨年、滋賀の太郎坊神社に旅行に行きました。ここのご祭神は、「正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊(マサカアカツカチハヤヒアメノオシホミミノミコト)」という神様で、お母さんはあの天照大神らしいですが、それ以前から、巨石信仰の場所であり、天台宗も入って、天狗の方が有名で、太郎坊の名前の方が知られている訳です。 ご利益が大きく、大勢の人が、参拝してますし、祈願成就のお礼もされてるらしく、巨大な石の鳥居が寄贈されています。
詣で信仰って、お願いはするけど、代わりに自分を縛るものって、無いですよね?
お百度詣りなら、念を込めると言えるし、他に何か絶ったりする事はありますけど、基本的にお願いするだけで、自分の行動を縛る何かは、あまりない・・
神社のお賽銭は、神様に願いを叶えてもらったことに対するお礼の気持ちであり、お賽銭をお供えし、願いを叶えてもらったことのお礼を伝え、その後で次のお願い事をするのがお参りの基本的な流れらしいです。
神様にお供えをする文化は、ここらに元がありますかね? 祈願成就のお礼に、お供えをする・・守護の見返りに、お供えをする・・
神様にする、お供えそのものが、詣で信仰の日本の文化の流れを汲んでいますよね?
一神教の絶対神を信仰する文化で、守護の見返りに、神様にお供えをするってのは・・・・・?
私は聞いたことは無いですね?
続きます。
天理王命とはいったいどういう神様なのであろうか。古い資料では、みき様に天下った神は「我は天の将軍なり。」と言われたそうである。時は江戸時代、徳川将軍が居た頃だろうから、そのような表現をされたのも分かる。が、経典には「我は元の神、実の神」と言われた、と書かれている。
修養科では、天理王命とは、十柱の神名の総称であるとも教わった。
親神はこの世が泥海ばかりなのを味気なく思召して、人間の陽気遊山の様を見たいと、後に十柱の神名を与えて人間に拝をさせると約束して道具衆を貰い受け、人間をお造りになったそうだが・・そうすると、天理王命と親神とは別なのか。
教祖は、お筆先に「天にては日様、月様である。」また、「神はあると思えばある、無いと思えば無い。信じる心の誠によって成って来る利益、それが神の姿や。」と言われた。(神はないと思えばない、とはっきり言われた教祖は、当時において、卓越した思考能力をお持ちだったと感心する。)
親神とは自然そのものである、とか「理が神」という意見もある。この世を動かす法則、摂理であると。
つまり、私が言いたいのは、天理教信者が信仰している「神」というものが、捉え方によっていろいろ違うのではないか、ということ。朝夕のお勤めによって「なむ天理王命」と唱えていても、その神は漠然としているのではあるまいか。
ただの父親様が神殿で、以前、天理王命の気配を感じた、と書かれていたと記憶している。ただの父親様のご意見では、修行中の神霊だと書かれていたように思う。それに異を唱える訳ではありません。そうかもしれない、とも思います。
つまり、あまりに漠然としていて、親神という存在は、各信者が、それぞれの思い、掴み方によって、想像(創造)する他ないように思うのです。
こんにちは。
私の書いた事を覚えていて下さり、ありがとうございます。
ここでは、霊的な、お話は避けて、普通に文化的な面から、考察した事を書かせて頂きます。
まずは、天理教のお供えと言うのは、日本の詣で信仰の延長線上にあり
一神教の絶対神信仰としては、守護の見返りにお供えと言うのは、無いだろうと言う事です。
次は、仏教的な面から考察します、まだしばらく続きますから、お願いいたします。
>教祖は御覧になっておられると思います。
それがどうした、と言いたいです。
今時、日本人の二人に一人が何らかの癌になる時代。十把ひとからげの因縁論でかたずける教えそのものが説得力を欠いているというか、破綻しているというか、どっちでもいいことだが。
苦しむ人たちに鞭打つな。
こんばんは。
自分の掲示板にて、前世の因縁は、あるのか無いのか? 前世はあるのか?って、最近、議論しましたが、まあ、前世の因縁を、正確に知るためには前世の因縁を記録している存在を知る必要があると思いますし、もしそうなら、別世界にクラウドの様に記録している本体があり、我々は、因縁を解消するために存在する端末かもねって言う仮説が立ちました。
それでも、前世の因縁を解消しながら、実際、他の来世の因縁を背負い込んでるのが、人の性ですよね。それを繰り返しながら、大成して行けるのか? そうなると大成するのは、いろんな経験を積む、クラウドの本体であって、我々は、繰り返し因縁を解消するだけの端末的存在なら、現世に神様の指導も救いも、無くても良い? と言う理屈が成り立つ事にもなりかねないと、考えられますよね。
実際、霊界は、誰にも見えないですし、私も、祈りの中で、神の導きは受けられますが、全ては見えません。 もし、前世の因縁を解き明かし、人を指導できる、そう言う人がいるとしたら、前世からの、生きてる経験を記録した存在にアクセスする能力があると言えませんか? それは、まさに神に通じる能力ですよね?
霊的なものを否定しながら、前世の因縁など、判定はできないと、言えませんか?
もし、前世の因縁を説いて、人を導くなら、もうそれは、神そのものの能力があると言う事です、そうでないなら、それは、人の知恵であり、こじつけだとも思えます。
ガンになるのは、いろんな理由があります。 放射線、添加物などの環境ホルモン、食品添加物、ストレスなど、もともと、がん細胞は誰にでもあるんです、それがストレス等で、免疫力が負けると、増えたりしますし、オカルトですが、念や、心の想い (自己消滅、自念障害) 恨みの念力とか、あるいは、憑霊霊のマイナスエネルギーです、オカルトと言われますけど、科学でが測れない、エネルギーも影響します。
だから、前世の因縁と言うほど、物事は、簡単では無いだろうと、私は、考えております。
私の身に付けた神霊能力は、プラスに変えるエネルギーを神様から頂いて、ガン細胞に浴びせて、少しでも、マイナスエネルギーを解消して、あわせて原因になりそうな、心の持ち方や、考え方、生活についてアドバイスをします。
だから、痛みが消えたり、ガンの進行が止まったりするんです。 一応ちゃんとそれなりの理由が説明できます。
病気で、人を脅したり、誘導してはいけませんよね? 前世の因縁など、正確に判断できるのは、神様そのものです。 神の思召しは、人の知恵では判らないのです。 ただ、天理教も、一心に親神様に祈ると・・このエネルギーを親神様か、何かが、下さり、回復する場合があります、それこそ、おさずけの祈りのエネルギーの仕組みだと思いますけど、今回は、そう言うオカルトの話は、一番最後に、教会に人を呼ぶ方法について思う所で、ちょっと自説を書きます。
おさずけは、神の思召しに沿って守護を得るのか? 神からエネルギーを頂くのかは、意見はいろいろあると思いますし、教団はエネルギー説は否定されてますので、ここでは、しないつもりです。
すいません、東風Z さんのおっしゃることは、私は、もっともだと思いますので、ちょっと自説を挟みました。 また、普通の考察を 続けさせて下さいませ・・・・
絶対神であり、万能なる主を信仰する、一神教の元祖、クリスチャンの友人が
こんな事を、FBに投稿されていました。
「 神はその誠実さ、忠実さ、そして愛をもって、人間のために全てのことを静かに行っている。しかし神は自身の行うこと全てに対して不安を持ったり後悔したりすることは一切なく、また人間から何らかの形でのお返しを必要とすることもなく、人間から何かを得ようとする意図も一切ない。神がこれまでに行ってきたこと全ての唯一の目的は、神が人間の真実な信仰と愛を受け取ることができるようになるためである。」
「 一つの愛が空から来ます、山より高く、海より深い、これは神様の愛です!神様の愛は私たちの傍から離れたことは一度もなく、私たちを連れて困難や障害を乗り越えて、希望と光をもたらしました、神様の愛と導きのゆえに、私たちの人生は輝いています。」
ハレルヤ〜 アーメン・・・・この方、日本人じゃありませんけどね。
守護のお礼に、お供えをするのは、やっぱり、日本の、詣で信仰の伝統かと思いますよね? (笑)
父親さん、下記の点は決めつけのようですよ。
「あくまで、天理教についての、個人的な考察です。
実際、教会長や、リアルに関わりあるけど、はっきり言って、皆さん自分の神の話は
とうとうとなさるが、ちょっと疑問を出すと、ムッとされます。
その弱さは、純粋にそれしか知らないからです。」
だから、気持ち悪いのは、あなたに、そう言う他宗派の話に、免疫が無いからですよ。」
私は他宗教の方々と話をする機会があるのですが、当然ながら神に対する概念が異なりますから、その様な時には共通認識をどこに置くかという作業が初めに必要なのです。
父親さんはそこを飛ばして自説を述べられているように感じられるので(あくまでも個人的な印象ですよ)、言葉に敏感な反応をする方々にとっては認識のずれが気持ちの悪さにつながるのかもしれませんよ。
または想像するに、父親さんの周囲の天理教関係者の方に対する「いら立ち」。以前から頻繁に会長さんの事に言及されていますから覚えてしまいました(笑)
東風Z様。おはようございます。2019年3月1日 4:10 AMの匿名です。
2019年3月2日 5:55 PM
>>教祖は御覧になっておられると思います。
>それがどうした、と言いたいです。
>今時、日本人の二人に一人が何らかの癌になる時代。十把ひとからげの因縁論でかたずける教えそのもの
>が説得力を欠いているというか、破綻しているというか、どっちでもいいことだが。
>苦しむ人たちに鞭打つな。
ありがとうございます。
年齢は、生存しているならば今年の夏で65歳になります。発見が遅かったので、もう手の施しようがないのです。
あとは只々、阿弥陀さんのお迎えを待っています。
天理教には全く良い思い出がありませんでした。やはり生まれた時から幼少の頃から、お前は因縁が悪すぎると上級教会一族に言われて生きてきました。この場に及んでも、まさしく、これでもかこれでもかと鞭を打たれているのです。
東風Z様、神よりも中山みきよりもおさづけより何よりも貴殿のコメントで心だけでも救われました。
本当にありがとうございました。
となふれば ほとけもわれも なかりけり 南無阿弥陀佛 南無阿弥陀佛
「捨て聖」一遍上人の和歌より。
おはようございます。
匿名さんのご指摘は、留意します。
私の話は、ちょっと飛んでる様で、まあ、互いに、相容れず・・
友人の教会長とは、噛み合わないから、互いに触れない様になりました。
私の経験では・・
基本的に、信仰する神様は絶対的存在だと言う、一神教の宗教の場合、他と共存はしにくいです。
イエスキリストを主にしてしまったキリスト教は、他とは共存しにくい
エホバの証人は、あなたの神様も、エホバ様です、とか精霊です、大元はエホバですって言います。
イスラム今日のアッラーは、唯一の神様、マホメットは代理人ですね。
アッラーも、エホバも、親神様も、同じ存在と言う事になります。 広めた代理人が違うと言う事になる。
キリスト教の三位一体論は、私は理解できてないので、良く判りませんけども
だいたい、主がいて、預言者、代理人が神の思召しを説いて始まるのが、一神教ですね。
私は、個人的には、共存しにくい宗教だと感じます。
日本では、他の新興宗教を見ていても、日本らしく、詣で信仰の延長上である事が多いと思います。
この世界で守護してくれる、導いてくれる、ご利益のある、プライベート神ですね。
絶対神とは、別のプライベート神なので、並列に存在できます。
天理教は、もともとは、江戸、明治の日本では、プライベート神として広がった感があります。
守護のご利益を授ける、プライベート神として広がった・・詣で信仰の延長上にあるのが
昭和初期から、絶対神信仰の思想宗教に切り替わって来たので、いろいろ辻褄合わせしてる?
そう言う印象です、このスレッドでは、そこについて、考察してみたくなったのです。
絶対神信仰なら、教団にお供えをするのは、教団運営費だけで十分で、社会を陽気暮らしに変えるなら
社会に還元せよ・・建物とお供え額は私欲であり、競ってはならない・・となってもおかしくない・・
天理教外の立場からすると、こう感じます。
末端には絶対神信仰を広げさせて、本部は詣で信仰で運営しているチグハグさ? を、感じるんですよね。
まあ、私の信仰は、プライベート神です、絶対神の所まで届いた、プライベートなご守護神から、そのエネルギーを引いて、自分の魂の存在も、生存中から向上させ、自分の心の管理も神に沿って厳しく戒めます。
最終的には、ご守護神のエネルギーに沿って天界を登り、絶対神に会えます。
このご守護神は、元人であり、信仰する自分も向上する事で、同じく神の道を歩む事になります。
だから、他のプライベート神信仰の人とは、引っ張るご守護神が違うだけなので、平行に共存できます。
天の将軍なら、プライベート神ですが、元始まりなら、判断は微妙です。
私自身は、本席が、入れ替われる時点で、天理教の親神様は、一つのプライベート神だと感じてますが、これは、天理教者には、受け入れられ無くても、致し方無いです、すみません。
私のメリットの話は、天理教の、プライベート神と絶対神の部分を分類して見ることです。
ありがとうございます。 まだしばらく、考察したいですので、お願いいたします。
匿名2019年3月3日 6:20 AMさま。
>となふれば ほとけもわれも なかりけり 南無阿弥陀佛 南無阿弥陀佛 「捨て聖」一遍上人の和歌より。
まずは貴殿様の心の平安を至心に祈ります。
さて、中山みきは、何もかも捨て遊行の旅に出て人々を教化しただろうか?
みきは、捨ててない。ましてや難儀している人を助けるために遊行の旅に出ていない。屋敷に籠っていただけじゃないか。
貧のどん底?・・・とんだ作り話。まあ俗に言うあんたの息子の秀司の米相場の失敗だ。
大塩平八郎のように、飢饉に喘ぐ民衆のために、大社高山である時の幕府に対して蜂起したか?・・・していない。
「聞きたくばたずね来るならゆてきかそ~」と言うくらいであるから、
「わしの教えを聞きたかったらここの屋敷に来い!助かりたかったらわしのところに来い!」・・・
ずいぶんと高慢ちきで自己顕示欲の塊の鬼婆じゃないか。
私は天理教を改革したい、してもらいたい、それに賛同したいとは全く思わない。
私は中山みきというペテンと中山新治郎はじめ正善・善衛・善司・大亮・中田表統領、山澤一派、深谷一派、諸井一派ほか天理教団の残滅消滅を心から願っている。黒く塗りつぶされることを心から願っている。
みきよ、私のようなイカれた廃れ者が一人ぐらい居ても良かろうよ・・・なぁ。
神仏の存在を信じておられる方々から、私を見られた場合、哀れな奴だとか、バカじゃないかと思われると思っています。でも、それでもいいんです。自分自身が納得していますから。
81歳目前の人生の中で、2度の死地を彷徨う病気をしました。特に、一度目の時は20歳代の後半でした。医師が家族に後1月どころか指で数えるほども持たないだろうと伝えていました。
ところが、どっこい今も元気で生きています。死に際の頃には教会関係者からも見放されてしまいました。罹病当初は因縁論や日頃の行いの悪いところばかりを指摘されていたのですが、死期が迫るとそっぽを向かれてしまいました。
2度目の病は6年前です。尿毒症が出て死期が近づいたとき、1本の点滴が奇跡を生みました。
この時は教会には何の連絡もしませんでした。
一度目の病の時は父母が居ましたので、その後も教会との繋がりは維持していました。単なるおカネの運び屋だったと思っています。二度目の病の時は教会には連絡はしませんでした。
二度も危機を乗り越えられたのは父母の徳のお陰だと陰口に近いことを言われ続けましたが、二度目の病の時は父母は居無かったので、私はそうは思っていません。いい医師にめぐり合わせたことだったと思っているんです。今は一切の日常服用する薬剤のお世話になっていません。
話は変わります。海外旅行の御礼参りに三重の有名な神宮に行く途中に、新幹線の中で焼身自殺を図った男の巻き添えで命を亡くされた方が居られました。神仏が存在し、その加護があるのであれば、この方は亡くなることはなかったであろうと思うし、そもそも災難に遭われることもなっかと思うのですが、この考え方は間違いでしょうか。
宗教は人の生き方の指針に過ぎないと思っています。日々、自分に打ち勝つ生き方、すなわち克己心をいかに培うかにかかっているのではないでしょうか。こう悟れば宗教じゃないでしょう。
一度目の病の後、廃人に近かった私を採用してくれた企業、その企業が73歳まで採用してくれたことに感謝をささげて今を元気に生きています。
ただ、一人ひとりの方々が宗教の世界に生きられることは否定しませんし、否定は出来ませんよね。それこそ個々人の自由ですから。
↑の匿名様、あなた様はイカれてなんかいませんよ。すたれ者なんて言わないでください。現行天理教団から見ればそう思っているんでしょうが、勝手に思わせておけばいいんです。
自分自身をしっかりと見つめて生きて頂きたいと思っております。いや、私が云うまでもなくしっかりと生きておられると想像しています。
匿名2019年3月3日 6:20 AMさま。
ご丁寧な投稿に何と申し上げてよいのか言葉がございません。
上の投稿の捕捉を投稿致します。
26歳の時に肺結核・左腎臓結核・混合感染膀胱炎でした。尿毒症の苦しみは言葉では表すことが出来ないほどのものでした。
二度目は左腎臓がんで切除しました。何もかも諦めて抗がん剤の治療は受けませんでしたが、不思議と転移が無いのです。
二度の経験から、そっとしておいていただくのが一番安らぎました。今も、これに尽きると思っているのです。失礼いたします。コメントが遅れましたことお詫び申し上げます。
ただの父親です、学者じゃ無いんで、個人的な模索を書かせて下さい。
大きな川の流れを司るのが、絶対神的な、大きな神なら、川を渡る私を導いてくれるのが、プライベートな神様、小さな神様とでも言いましょうか?
洪水や、津波、台風は、物理的に来る事は判っていますし、それらは人類が進化して、防災、減災の知恵を出していく事を、大きな神は求められていると考えるべきでしょうね。 災害を引き起こしてるのも、神なのですから、本来は、主よ、津波からお守りくださいってのは、ズレている気もします。この世の災厄もまた、神の思召しだと考えられますから。
大きな流れは変えられ無いけど、津波が来た時、自分や家族が助かる様に、そこに居合わせ無いように願うのは、プライベートな神様なら、有りでしょう? 自分に災厄が降り掛からないように、守護をお願いするのは、プライベートな神様なら、筋が通ると思います。
大いなる神が、大勢の思惑が交錯する社会で、一人一人の人生の筋を細かく決めていると考えるのは、無理があると感じます。 全てが、神の思召しなら、全ての行動に守護があると考えるのが普遍的ですよね。
私は、大きな流れを守護する存在は、個々の小さな事は、関知されていないと感じます。 全知全能の神は、流れを作ってるだけで、あとは任されているから、陽気暮らしになる様に、導く存在が、随時、世の中に表れ、代理人を通して導いている。
もし全知全能の神なら、人類全てに普遍的で無ければ、宗教同士の戦争も、全知全能の神の責任になってしまうと言えます。 絶対神に逆らう事が出来るわけですよね?
だから、地球における宗教は、全て、その時代や社会に合わせて、人を指導する様に、代理人を通して現れる、プライベートな神様と考えた方が、私は、納得しやすいと考えています。 宗教はその時代の代理人の知恵が、加味されていて、普遍的では無い教えだと考えます。だから時代と共に、教えは人の知恵で書き換えられていると思います。
全知全能の存在は、大きな流れを与えて、見守っている。 災害は防災を、戦争は平和な社会の仕組みを、考えて作って欲しいと言う、大いなる想いで、見守っている。と言った感じでしょうか? 滅ぶのも滅ばないのも、私達に託しておられる・・
絶対神への信仰なら、神にお供えをしたり、個別に守護をお願いしたり、因縁だなんだと引き合いに出すのは、筋違いではないかと、私は感じます。
お供えを要求するなら、プライベートな神様であり、神社に詣でる詣で信仰となりますけど、それでも、先にお供えをするって言うのは、無いんですよね。
守護があった、ご利益があった、だから、寄付をする・・豊かになれたお礼に、お供えをするのが、普通であって、自分が苦しい想いをしてもお供えをするのが功徳? と言うのは、詣で信仰ですら無い・・
そう言う意味では、天理教は、新しい信仰形態だと言えますよね。 (笑)
まだまだ、続きます・・・・
上記のコメントの繰り返しにもなりますが、お願いいたします。
全知全能の神を主とする信仰なら・・
宇宙の法則、惑星の寿命、巨大地震、天候の変化は、宇宙的な法則です、巨大な津波が千年に一度来る訳です、判っていても、止められない。これは、地球の法則です、変えられない、でも、大きな神的意思を想像すると、社会の進歩と共に、防災をすれば、被害は減らせます。 巨大なコンクリート堤防が良いのか? 樹林堤防が良いのか? 神的には何が最適か? 神の思召しを思案して、考えたら良いと思います。
戦争は? 社会の発展と共に、世界大戦も2度起き、次は核戦争・・人類の歴史に終止符を打つことができますって、判ってる訳です。 判ってるなら、戦争は一部の人間が欲で引き起こします、それを防げる政府を、みんなで作るしか無いんです。 神的な視点を持てば、作れますが、人には悪魔心もあります。
人はみんな神様の祝福を得て、この世に誕生するなら、当たり前ですが、人が人の命を奪ってはいけないと言う事ですよね。
しかし、悪魔の心も、神が与えたもうた・・なぜか?と模索する事も重要ですよね。
人はたかだか百年の命ですし、目に見えた罰則が無ければ、やったもの勝ち、大洪水よ、我の亡き後に来たれ! になりますよね。それでは滅んでしまいます。
いろいろ未来に伝える知恵、人類としての知恵を高めて、蓄積して行くにはどうしたら良いのか? その一つに宗教があり、偉大なる神のご意思を、しっかりと模索して、知恵に変えて行く事が求められます。
絶対神の宗教は、思考の枠が大きいですよね?
前世の因縁だとか、心を定めよ! とか、そう言うのは、小さな事かもしれません。
与えられた生を、一生懸命に生きる・・世の中を良くする・・神の思召しを模索する、神と同じ愛を持って生きる事を模索するのが、全知全能の神を想定した、信仰では無いだろうか? と、私は思います。
朝晩のお勤めを行うとしたら、大いなる神の想いを模索して、その思召しを我が身の物とする、そう言う祈りなら筋が通りますよね?
権勢を示す大伽藍など、必要も無いですしね? 指導者は、納得出来る、大いなる神の想いを、皆に伝えられないと、教団の存在の意味が無いように感じます。
私は、中山みき様に降りた、神的存在はプライベートな神様であり、絶対神では無かったのに、人知を加えていつの間にやら、絶対神にされて、都合よく教理を作られたので、なんだか、当初の神の想いとは違ってしまったので、今は呆れて見ておられる・・そんな印象を持ってる訳です。
それでも、真摯に祈る信者には、守護と導きを与えて、下さっているとも感じます。だから親神様はいらっしゃる! と感じる人も見えると思います。
あくまで、個人的な、思いと感想ですから、笑って気にしないで、お許し下さい。
次は、仏教と比較して、教会の存在を考察して見たいと思っています。
ありがとうございます。
こんにちは。 天理教のメリットに進むのに、仏教のメリットについても、個人的に感じた事をコメントします。
仏教も、天理教も、悟るには、時間がかかるので、印象だけで、適当に書いてますので、適当に読んで下さい。 コメントですから、端折っています。
現在、お寺は全国に7万箇所あるそうです。 お寺は、本来は御釈迦様、仏様?を招いて説法してもらう為の場所だそうで、仏教の聞法会場が元で、仏教を学びたい人の、修行の場でもあった訳ですね。 お寺に行く目的は、仏教を学んで、悟りを開く、仏陀を目指すためですね。 葬式とか、先祖供養は、後付けの商売と仕組みとして作られたと言う事な訳です。
その葬式でも、先祖供養でも、日本の場合、全部、修行を積んだ?住職にお任せですよね? そして、日本の場合、普通の人は仏陀を目指してません だから日本のお寺は、葬式をする場所であり、供養を委託する存在であり、戸籍を管理する行政機関であり、文化的存在になっていった訳ですね。
仏教って、そもそも、輪廻転生がありますけど、調整待機場所の霊界は無かったですよね? 直ぐに転生して、それを繰り返して、解脱できたら、仏陀になれる・・仏陀、悟った人ですね、仏陀になれば、輪廻転生をしなくなる訳です。
仏陀・・大宇宙の真理を悟った存在? と言う訳です。輪廻転生を繰り返して修行して、大宇宙の真理を悟ればいいんですね? お経とは、その悟りの境地に至る為の、いろいろな、仏様の知恵、模索が書いてある訳ですよ・・
ただ、それは、人が書いたもの、大元は御釈迦様が仰った事でもあるんですね・・
お寺は、本来、そのお経を聞く場所? お経を学んで、悟りの境地を目指す場所、その修行者からも教えを学ぶ場所・・みんなで、経典を学び、勉強しあい、悟りを目指す場所って事ですね・・
ちょっと、乱暴に結論を端折ると・・・仏教に方便と言う表現がありますが、仏教関係者が説明する因果応報とか、前世の因縁とかは、模索探求した知恵であり、物は言いようの方便でしか無いとも、判断できますね。
あの世も、阿弥陀仏の浄土も、模索して求めた方便であり、思想な訳です。
阿弥陀仏、盧遮那仏、大宇宙の中心にいらっしゃる、仏陀・・と言う想定ですね。
本来、仏教は、お経を毎日読んで、仏の心を模索して、悟りの境地に近ずいて行くと言う信仰ですよね・・その凡夫を導いてくれる菩薩とかも、たくさん存在してるらしいですが、それは、どこにいる何なんだろう・・霊界は無い設定なのに。
千日回峰行とかって、ただの厳しい修行なのに、終えると、すごい聖人扱いですが、側から見てると、すごい根性のある人、と言うだけですかね・・仏の加護が有ったから、できたのかも知れませんが、山歩きで何か宇宙の真理に触れられるのでしょうか?
お経は本来は自分で読んで、自分で悟りを目指すものですね? でも、私のやってた霊友会だと、先祖に読んで聞かせて、成仏して下さいって願う事になっています。
生きてる時に読んでも意味の判らないお経を、死んでから聞かされて、悟れるのか? その道は、おそらく、大変に厳しい物になるでしょうね・・無理でしょ・・
現在のお寺は、布教所でも無ければ、仏教を学ぶ場所でも無くなっていて、先祖を供養してもらう場所であり、詣でて拝んで供養や子孫の守護をしてもらう場所になっていますよね。 厄落としや、安全祈願を行ったりする、有り難い仏様がいらっしゃる場所と言う認識でも、いいでしょうか?
お寺は、お願いする場所では無く、修行したり、学ぶ場所であり、自分が仏陀を目指す場所のはずが、いつのまにか、祖霊信仰と詣で信仰になっていて、神社と変わらない、仏様を拝んで、導いてもらう、守護してもらう場所になっているんですね・・
仏像も、工芸美術品の文化であり、お寺にお参りして、それを見て、拝んで、ご利益を願って、寄進したりする、詣で信仰文化になった訳です。
乱暴な言い方ですが、日本に来ると、みんな、祖霊信仰、詣で信仰に変化してしまう訳ですね・・・
日本人の平均的な思考はそう言うのに、みんなメリットを感じるんでしょうかね?
天理教の教会って、何の為にあるの? ねえねえ、教えて? 答えられ無いと、ボーッと生きてんじゃねえよ! って、チコちゃんに叱られます・・
私は、よく知らないんです。 教会の名は末代まで続くとか、神が与えた名だから、絶対に無くせないとか? オメドウとか? 良く判らない・・ 加藤ハルアキ氏関連の、離脱についてのブログを一式読みましたが、教会の存在は、天理教にとって何か特別な意味合いがある様に感じましたけど、私には、まだ良く判らないですね。
天理教の若い教会長のブログを読んでいても、なんの為の教会なのか? 何をやったら良いのか? 皆さま試行錯誤されていたりしますもんね・・
私自身が、HPを読んだり、友人の教会長との世間話しから感じた事を、続けて行きます。 天理教を信仰するメリットとは、何だろうか? それは自分自身のの信仰を問うことでもあるので・・・・
不定期ですが、コメント続けたいと思っています。
ありがとうございます、感謝いたします。
「よく見かける言葉だけれど、「起きることは全てそれまでの行いによるもの」という言葉には、いつも打ちのめされるなあ。」
これは、我が子を、体罰や言葉のハラスメントによる指導者からのいじめで、自殺で、失ってしまった、母親のFBでの投稿で、その方は、私のFBFでもありますけども、これに関わる投稿を読んでいると、私も本当に気持ちが苦しくなります。
学校も教育委員会も責任を取らず、むしろ、子供が弱い、気にしすぎ、親の育て様が悪いと叩かれて、2度、我が子が殺される気持ちになったそうです。 それで、裁判とかで戦ったり、そう言うシンポジウムとかに参加されてますが、今でも気持ちはまったく癒えてはおらず、辛いそうです。
もし、これが、前世の因縁だとか、因果応報とか言われたら、もう打ちのめされる・・なぜ、神はこんな試練を与え、私は苦しめられ続けねば無ければならないのか?
こう言う人に、寄り添うには、宗教や信仰はどうしたら良いのか? どうしたら、心の痛みを和らげてあげられるのか? 私も、これ見ていろいろ模索しています。
こう言う心を、癒してあげられたら、宗教もメリットが、ありますよねえ・・・・・・
続きます・・・・・・
いつも、いろいろ、コメント読んでるけど、救いの無いコメントが多いよなあ・・・・
さっさと、天理教から、離れろよ? ・・と思いつつコメントを書いてます。
天理教の教会について、書き溜めて、推敲してます。
天理教的価値観だと、私は打開策を思いつかない・・と言うか、ここに書けない・・
でも、独立する覚悟があれば、プライベート神としての、天理教の神は、変わりなく力を下さる・・としたら、いろいろ、打開策が浮かぶ・・
概念としての神、思想としての神なら、末端教会に信者を増やす、方法は書けない、と言うか、もう無くね?
無理があるんだよね、思想としての、親神様なら、理屈は通るけど、実のたすけって、ある? 無いことも無いけど、それ自体、プライベートじゃ無いかなぁ?
プライベート神として、教会長が、天啓者になる覚悟があるなら、我は、関根豊松氏の様になると言う決心があるなら、たすけってあるかなあ・・・って感じてます。
天理教信者に普遍的に通じる理を持って、神を論じ、中山みき様に降りた、神的存在と、現在の教会長達につなげられるか? などと、大それた想いを、模索して、書いてます。
教会に、大勢の信者来たら、助かるでしょ? と思いつつ・・・・
3月3日AM8:55 匿名さま
八島氏の中山みき研究ノートを読んで思うこと。
みきはペテン師でもあり、統合失調症でもあったのではないかと。
近所に50歳で統合失調症を発症された方と似ているんです。
みきは、自ら浄土宗の教えの転輪王になって人類救済すると言ってる時点で、気違いと神は紙一重で、昔だから神にできたんでしょう。
今なら、病院で治療です。
息子の秀司が信仰を商売にして金儲けして、つとめ場所の建築の材木も踏み倒ししています。
儲けても金払わず、子孫代々受け継がれています。
許可取らず、銭湯や旅館を営み脱税しています。
同じ釜の飯を食べています。
転輪王の力で、中山家は王として君臨できたか。
匿名さまと同じような思いで天理教をみています。
匿名様
教祖の暮し振りについてはもやもやした気持ちをずっと持ち続けて来ました。
確かに教祖は旅館業や風呂屋で儲けたお金が元手の、同じ釜の飯を秀司達と共に食べてますよね。貧に落ち切っていたとは思えません。年切り質に入れた田畑も買い戻しています。お金の工面をつけて買い戻して居ると言う事は、貧には落ち切っていないのです。。
また天の将軍とまで名乗った人が何故周囲の言う事を聞かない人間に対して厳然と筋を通し切れなかったのか。その押しの弱さ、ダメなものはダメと押し切れず結局秀司に為されるがままで現天理教設立の基を立ち上げさせてしまった。今時の世間の言う事を聞かない息子に押し切られた普通の母親ですよね。
また 貧に落ち切ったと言っても、教祖存命中、参拝者が日に日に増えてお供え金もどんどん増え、教祖自身家族と共に同じ釜の飯を食べ、同じ住環境で生活していて当時としては結構贅沢なものを食べていたと言う記録が残っています。教祖は芝居などを観に行く余裕があったようです。当時としてはセレブに属する主婦だったようです。秀司は毎日毎日入ってくるお供え金の記録をこまめに記録していたようです。現中山家の先祖はこうして宗教稼業に味をしめたのです。天理教発祥のスタートでした。
結局の所、現天理教の言う貧に落ち切った教祖のひな型と言うイメージと生身の実際の教祖の姿とは大きな乖離があるように思えてなりません
真相は単なる精神病だったのかとも思えてくる、、、
天理教創作話を疑わず信じた人たちのお陰で中山家は権力と巨万の富を得、信じた者は極貧の暮らしの中を陽気ぐらしだとか、喜べ勇め!と教えられ、揚げ句の果てに家族崩壊してます。
宗教詐欺としか考えられないです。
「身体が「ノー」と言うとき、抑圧された感情の代価」
緩和ケア専門医でサイコセラピストでもあるガポール・マテ医師が書いた本に、感情が病気を発症させ、また治癒させる。それほど人間は心と体が密接に繋がっていることを書いた良書です。
自然治癒力を無視し、治れば神さんのお陰、悪ければ因縁が悪い、信仰が足りんと言うのは、素人が神さんの名を借りて言っているとしか思えない。
所詮、天理教は修業もせず、素人集団が立ち上げた宗教である。、
私自身、母から「こかんさまのようになってくれ」と言われたが、見たこともないこかんに、どのようにしろって母に言いたかった。。作られた話を鵜呑みに信じた母の馬鹿さ。もっと早く中学生の時に母を私の心から捨てるべきだった。
親孝行しろとよく言われ、いい子過ぎた自分に未だに苦しんでいます。
天理教は、いったい世の為、人の為に尽くしてきただろうか?残念ながら、人を苦しめるために作られた宗教です。
母だけではなく、曾祖母から天理教を盲信している家ですので、恨み、辛みはたくさんあります。
天理教という悪縁は、早く断ち切った方が良縁に恵まれます。または、貧困から脱却できます。
天理教を信仰して栄えたことなし!
栄えたのは中山家と上層部のみで、これからはどちらも没落していくでしょう。
マルチ商法かねずみ講ですね。
このつとめ十人にんぢうそのなかに もとはじまりのをやがいるなり (6-30)
このよふをはぢめだしたるやしきなり にんけんはじめもとのをやなり (6-55)
月日よりそれをみすましあまくだり なにかよろづをしらしたいから (6-56)
にんけんをはじめだしたるこのをやハ そんめゑでいるこれがまことや (8-37)
にんけんをはじめたをやがも一にん どこにあるならたつねいてみよ (8-75)
いまなるの月日のをもう事なるわ くちわにんけん心月日や (12-67)
しかときけくちハ月日がみなかりて 心は月日みなかしている (12-68)
みきは自分で自分のことを人類創造の「親神」だと宣言してしまった。これこそ人類の恥。
盲信している奴らよ!もういい加減にしてくれ!中山みきは断じて神ではない、人間だ。
所詮、中山も前川も裕福だったから、みきは苦労人でない。難儀な人の助けなんか口先だけだ。
金貸し因縁、色情因縁の塊だからな。
みきの監獄の苦労?←当り前じゃないか。人心を惑わせた詐欺師なんだから。
ムハンマドは孤児で不遇な幼少を送った。人間イエスしかり。ゴータマは王子を捨て城を出て遊行の旅に出た。沙弥教信、空也上人、一遍上人は何もかも捨て遊行し民衆の心を教化し、空也上人に至っては京都市中の無縁さんを誰彼構わず供養した。東京大手町にある平将門の「首塚」は一遍上人の系譜の弟子が建立し供養したのが始まりだ。念仏で供養し始めたら将門の怨念がや祟りが治まったのは史実だ。
みきは詐欺のペテン。もっと悪質な関根豊松よ貴様も同様だ。ただの自己顕示欲の塊。ずるい奴らだ。
みき、天理王命の神名、関根豊松、愛町一統、伊蔵、新治郎、正善、善衛、善司、大亮、中田善亮、山澤一族、深谷・諸井一派、お前ら不動明王の灼熱の炎に燃えつくされて消えてしまえ。イスラームの呪詛で灼熱地獄へ落され燃えつくされてしまえ!
中山家だって宗教だけでやっていたわけではなく、結局のところ銭湯や旅館といった世俗の労働で金儲けしていたんじゃないですか。
なら各教会が立地条件に応じた商売をやって金儲けするのは、中山家を見習っているので決して悪いことはではないはずです。でも現実にそんなことをしたいといえば「人間思案」と却下する本部。これおかしくない?
事情教会率9割。残った教会も四苦八苦。立地条件に応じた商売をやって、お供えに頼らずに維持していってもいいと思います。
↑の匿名さん、中山家も前川家も決して裕福ではない。
どちらも所詮百姓の身分であり、名字帯刀は許されなかった。
それより、末端の教会のほうが武士の出であったりして、わけのわからん天理教に改宗して寂しい思いをしているかもしれません。
金さえあれば、家系図も買え何でもありの時代です。
電気のない時代に狭い部屋で、男と女が肩を寄せ合って踊れば行きつく先は?
みきは、勝手に菊の紋を着ていたんです。天皇とみきは同じ身分だと言ってますが、
今、平民が菊の紋の着物を着ていた人を見かけたら引きます。
みきは、最初自分が転輪王になると言っていたが、多くの人が来るようになったら、
勘違いして自分を神にしたかったんでしょうね。
おやがみも造語であり、みきも精神が狂ったただの人間です。
今の天理教教団は信者離れが甚だしく、だれも近寄らないことが見て明らか。
なぜ、いちいち本部に伺い立てる必要があるのだろうか?
給料もなく、社会保険もなく、母が生きていれば85歳です。もちろん納める年金もお供えしていたので無年金者です。
考えたら恐ろしいです。母の生活を見るために、子供を大学まで進学させれなかったと思います。
尽くせ、運べばかりで、何も責任を取らない教団。
領収書の切らないところには、お金は出さない!これが私の持論です。
名古屋の従妹が、愛町の信者です。
戦前から住んでいた従妹の家を、地主さんが土地を買ってくれなければ出ていってほしいと言われ、地主さんの好意で格安で購入したのが3年前、それをわざわざ宗教法人にしてしまいました。
従妹とも法事で会うくらいですが、いつも貧乏自慢してます。そして教会を売り、棄教した私に説教するんです。
だから、私は「熱心に信仰しているね」と言ってあげると喜んでいます。
賢い子だったけど、アホになってしまったな~と思ってます。
中山家は秀司の博打等の借金払いに田畑を売り貧のどん底に落ちた。決して人助けの為ではなかった。小かんの難波布教も兄の博打の借金払いに探しに行っただけと聞いている。今の様に携帯電話など無い時代だから神名を流して拍子木を打ち鳴らせして歩けば兄に自分の居場所がわかるだろうと。
教祖のひな型を言うなら、最後まで貧に落ち切っていない。確かに息子の道楽で貧乏した時期があったが、綿問屋や質屋をして(仕事をしていた)一家を自力で支えていた事が記録として残ってる。
晩年にはお供え金が集まり始め、秀司と同じ釜の飯を食べ、当時山村の人が普通に食べない様な高価な食材も寄せていたと言う記録が残っている。
例えば砂糖。明治5年頃には砂糖というものは一般家庭に入って居ない。砂糖が入ったのは明治30年以降からの様だ。しかし明治5年頃から中山家はすでに砂糖やカマス、まぐろ、ぶり、浅草海苔、蒲鉾、鶏などの上等品を購入した記録を残している。多額のお供え金が上がっていてこれは秀司による覚書に日付け順に賽銭の金額と共に細かく記録されている。
手元にある書籍によると、教祖夫婦の貧乏は実際的な生活困窮の苦しみの味を味わうのではなく、被差別の難儀を共にしてその苦難の気持ちを物心共に背負う事を意味していたのであり、物を施しつつも、名門意識の価値観を徹底的に捨て切ることだったと。実際には中山家の米の収穫量は一家では消費し切れない剰余米が出ていたらしいですね。
上記は「教祖とその時代」天理教史の周辺を読む 石崎正雄編 からの紹介です。
つまり貧に落ち切るとは物質的困窮では無く、人の心を我が事として寄り添う心になれ、そして施せ、と言う事。田畑を売り払ってすってんてんになれと言う事では無いのですね。教団本部の金儲けに都合の良い偽教理として偽ひな型として、我々は騙されて来たと言う事です。教祖は決して貧に落ち切ってはいない。綿屋、質屋、終盤には反対はしたが風呂屋、旅館業、、、と言う仕事をしていた。田畑も買い戻した。
中山家、教祖の日常は決して貧乏ではなかった!
長々失礼しました。
みきさんは、密教の至宝高貴なる仏「転輪聖王」の名を騙って、「おたすけ」と称し弱いものを騙し金儲けをしました。
みきさんが「三度までは許す」と言ったそうだが、そっくりあなたにそのままお返しいたします。仏の顔も三度と言いますからね。もう仏様もアッラーも、ヤハウェもあなたを許さないでしょう。
20年ほど前ネット番長さんが「教祖は民衆の債務奴隷からの開放を教えた」と叫んでいましたが、我々を債務奴隷に貶めたのは、みきさんあなたとあなたの子孫ととりまきじゃないですか。
みきさん、あなたは神でもなければ、まして密教の転輪聖王や天の大将軍でもなんでもないんですよ。
そうですそうです、思い出しました。20年前ネット番長がやたらと神名にこだわっていました。みきさんは産まれた時から最初から「天理王命」だと。その彼、正善の応法レトリックと善衛に気持ち悪いほど陶酔していました。八島先生の神名の件で、理の間違いだと気が狂ったように執拗に攻撃し続けていました。
みきさんへ、あなたの子孫と山澤、歴代真柱、深谷諸井系。旧皇典講究所の名を張っていながら今や日本革命的共産主義者同盟革命的マルクス主義派の傀儡拠点となっている国学院卒ゼンスケ、その実子ダイスケ。
そして、東京時代からすでに時代遅れ甚だしくさながらチンピラ893のごとく短刀を携え粋がって既成仏教を馬鹿にし潰しにかかった、そして岩滑に居を構えてから、まるで自分が神のごとく、メシアのごとく振る舞い弱い人を助けたふりして自身の奴隷とし、助かった人々洗脳し奈落の底に貶めた天下の極悪人関根豊松くん。
偽神なるものがゆるしたとしても、人間の怨念執念があなた方を許しませんぞ。
このスレッドは、天理教のメリットについて、コメントする場所ですからね。
その他の意見は他の場所が、よろしいかと思います。
こんにちは。 ただの父親です。
関根豊松さんが初代様と呼ばれる、愛町分教会は、巨大な分教会ですし、関根豊松氏の考えで、いろいろ災害備蓄もしており、伊勢湾台風の被害の時、愛町分教会から、大量の災害支援を行ったと、資料で読みました。 この門をくぐって助からぬ者は無い・・つまり、実際に助かったから、多くの人が集まり、お供えをしたわけです。
名古屋人は、ケチですよ・・(笑) 女房の実家は名古屋の下町の商売屋です、祖母が天理教徒ですが、義父母は、天理教の布教氏に食事を提供したりしてますが、無用な寄付は一切しません。
名古屋人は、一般的にケチですよ、その名古屋で、大勢の信徒を増やすには、実際のご利益を見せる必要があるんです。 つまり、関根豊松氏には、お助けの力が、あった・・どうも、異端レベルの神霊能力であり、私は、関根豊松氏は、本席様以上に、親神様と言う存在と通じていたとも思えます。 異端になりますが、霊視、霊査、予知も、おたすけと一緒に行っていたと言う話も聞きました。 今の愛町にも、天理教的に言うと、初代様は、存命されて助けている。 私的に言うと神霊として、愛町の信者にエネルギーを下さっている。 と言う印象を持っています。
だから、本部も文句が言えないくらい、信者を集められたし、独立も可能なくらいの本席様以上の能力もあったが、いろいろ、現世の筋を立てて、分教会長として、終えられた、と思います。
まあ、2代目、3代目にその能力があるかどうかは別ですけどね。
もし、ペテンと、理論理屈だけで、教会に人が集められるなら、これほど事情教会は増えないでしょうし、若手の教会長も、迷う事なく、そのペテンと詐欺能力と、理論理屈を習えば良いんです。
ペテンと詐欺能力と理論理屈の教科書は、世間にありますが、それだけで、沢山の信者にお供えを出させるのは、誰にでも出来る事では無いです。
救いも無いのに、お供えを出せる人こそ、少数派でしょう。
メリットを感じさせるから、お代をいただけると言うのが、基本だと思いますよね?
今は医療も江戸時代とは比べ物にならぬほど発達し社会保障もあるので、宗教に頼らずして生きていける時代です。天理教のようなコンセプトの宗教は役割を終えました。精神的な救済など現代人は必要性を感じていません。だから今どこの宗教も人が来ないのです。
こんな時代にあって何とか教会を存続させるには、救済ではなく保育や介護や安宿業といった多くの人が要求するサービスを売るしかありません。本部も「人間思案で教会維持を」と残った10%の教会にいい、お供えではなく商売で教会を維持せよというべきです。
こんにちは。
こんな時代にあって何とか教会を存続させるには、救済ではなく保育や介護や安宿業といった多くの人が要求するサービスを売るしかありません。本部も「人間思案で教会維持を」と残った10%の教会にいい、お供えではなく商売で教会を維持せよというべきです。
仰りたい事判りますけど、これは、教会長は仕事を持っても良いと言う意味でしょうか? 教会を使って起業せよ? と言っても、資金も要れば、起業出来る人材で無ければなりませんよね。
親神様に守護の代わりに、お供えをすると言うマインドでは、商売はできないし、NPOの様な組織だって、誰でも出来るものではありませんし、それをしていたら、サラリーマン同様、時間は自由になりません。
もし、本部が、自由に営利活動してもいいから、本部に上納だけせよ! と言うなら、教会長は忙しくて、どの道、本部の手伝いには、一切出られなくなりますよね。 副業を許可する、つまり、教会は独立せよ、と言うに等しい・・それは、本部も、自立して下さいと言う意味になりますよね。
まあ、普通の宗教は、会費制で、本部が運営されていて、布教師も、一般の人であって、霊友会の支部など個人宅を使っていますし、もちろん専従職ではありません。無償ボランティアの布教です。
支部で集いを行う時のお茶菓子はみんなで持参、トイレとか全部支部長の負担です、だから、最近はみんなでお経をあげずに、喫茶店とか貸し切って集いだけ行なったりするそうです。
私の信仰している、日神会も、本部以外は会員は平等な存在で、上下も横のつながりもありません。 会員は、会費を年払いするだけですし、 布教活動もありませんし、集まったりもしません。
天理教も、一般的な宗教団体になる? 教会は教会長個人の物であり、布教は無償ボランティアで、教会長は自分で生活費を稼ぎ出す事、ただし、ようぼくは会費制で会費を本部に納めなさい? とかでしょうかね。
自分の所の教会には、会費を収める義務は無く、お供えは、志で・・とかですかね?
最初っから、そうしてたらよかったんでしょうけどね、今更、それも不可能でしょう。
教会長 2世、3世と世襲させたのも、無理はありますよね、初代は、教会を開くだけの布教力があった、人的な力があっても、2代目、3代目では、無理です。 世間一般でも、世襲させるなら、優秀な参謀がついた大企業ならまだしも、中小企業なら、世襲は厳しいんです。 よほどの後継者教育をしないとなりません。
後継者教育とは、なんだろう?
企業なら、目的はハッキリしていますよね、営利団体ですから、老舗なら、連綿と続いた伝統を守りつつ、現代に合わせたアレンジをしたサービスを提供するとか、商品開発、顧客サービスとか・・それでも、2代目は維持するのがやっと、3代目で倒産とか、珍しく無い・・
つまり、今ココ!ってやつですね・・教会長、3代目で何やって良いのか、判らない? あるいは、倒産寸前の会社だからと、逃げ出される・・だから90%の教会が、形しか残っていないと言うわけですね。
上級、大教会の跡取りが、ボンボンだったら、普通の企業なら、参謀が実務を取って、維持するでしょうかね? まあ、ここらは、語り尽くされた、お話ですね。
今更、おじば以外に、巨大な建造物は要らないと言うのも、語り尽くされた、お話ですね。
大教会の存在意義はなんなのか? 甘露台を指して、地場に神名を授けられたのなら、おじばが信仰の中心なのは判りますけど、 教会とは、信者が集まって、お勤めなどをして、まとまる場所ですよね?
私などは、天理教に染まって無いせいか、おじばに参拝しようとは思っても、教会に行こうとは思わないし、逆に、教会長が、おじばに行った時、息子とか尋ねて様子も見てくれるので、それに対して、お供えをしますが、本部に供える気持ちは、ほぼ無いです。おじば参拝時のお賽銭だけですね。
話が、バラけました・・
いったい、なんのために存在するんだろう? 目的は? メリットは? 模索はつきません。
医療で、宗教に頼る人は、ほぼいない時代ですが、詣で信仰とかは、衰えていませんよね。 パワースポット巡りとか、パワースポット神社には、参拝者も多いし、そのお守りは、並んででも求められたりしていますよね。 精神的な拠り所は、むしろ昔より、求められていますよね。
医療も、難病や、原因不明の偏頭痛、痛みとか、神頼みの人もいますからね。むしろ、おたすけが実行力が伴うなら、十分に需要はあると思います。
宗教とか、信仰は、現代でも求められているけど、その需要に見合う形に変化しないと、顧客を失うってことですね? たぶん・・天理教は、今の需要を拾える体勢がとれていないと言う事でしょうかね。
2011年以来、3月11日付けの新聞を開くのには一種の気後れというか、ためらいがある。今年の新聞の社会綿にも、つらい過去を背負って生きる人の記事がある。
天理教の親神が居るというのであれば問いたい。親神は一体何人の人命を奪えば気が済むというのか。
神の勝手な想いで人間を造り、陽気暮らしをするのを見て共に楽しみたい、なんて言わないでほしい。
何の罪もない幼児が津波に呑み込まれる様を想像するだけでも身の毛がよだつ。それを乗り越えて生きる人たちが居られる。
この人たちに天理教が説く因縁論は鞭以外の何物でもないように感じる。
この世に生きている限り現実を受け止めなければならないことは余りにも多い。何時までも消えない悲しみに耐えている人たちに対して何ができるというのか。私はそっと見守ってあげること以外にないのではないかと思っている。
人を助けるなんて大上段に構えながら、行き着く先に待っているのは御恩報じの言葉の裏に隠されたおカネが待っている。それが現実だ。
神仏なんてあろうはずがない。
良く、変換ミスをするようになりました。社会綿→社会面に訂正します。81歳はダメかなぁ。
また、震災の日がやって来ましたよね、私も震災関連で友人を1人亡くしてはいますが、直接的には、遠い場所の出来事であり、想像したら悲しいですが、人がFBとかにアップしてるの見て、ああ、そうだった、悲しね・・っって、思う程度の人間です。 復興に関しても、いろいろ問題があるでしょうけど、直接は何もできないので、同じ国民としては、納税して、毎日必死に生きるのみ、今の与党の政策は嫌いなので、野党を応援するのみです。 被災地に祈りと想いは寄せても、みんなそれぞれ生きるのに必死ですからね。
私は、親神様が絶対神だとすると、筋が通らない事が出来て、辻褄が合わなくなると、ここに書いてきました。 絶対神は、宇宙の外におり、ビックバンを起こし、いくつもの閉ざされた宇宙を作られた存在であり、巨大な意思を持つエネルギー体であり、大きさは銀河一つより大きいのです。 宇宙と同時並行で存在する異次元があり、人間もエネルギー体になって、その世界を超えて行くことになると思うし、見ている。
それは思想ではなく、事実として捉えて、その流れに乗るのが信仰なんです。
だから、天理教徒から見たら、荒唐無稽な世界観を持っていますし、信じられなくて普通ですから、信じられない人は、別に、信じなくて良いんです。 これは他人に見せられない世界、浄霊で御守護神のエネルギーを引いていると、だんだん解って来る世界なので、致しかたありません。
私は今なぜ、絶対神は、その世界を見せない、分からなくして私達を存在させたのか? と言う事を模索していますが、その答えも、少しづつ見えてきました。 まあ、これは自分達の掲示板で書いているので、ここはここまでにします。
東風Z さんのコメントに、自分なりに模索した事を書いて見ます、ここに書いてる事の、繰り返しになりますけども。
天理教の教理をのっけから否定することになりますが、ここに繰り返し書いて来ましたが
前世の因縁なんて存在しません。 そしてこの地球は不合理、不条理です。
地震も事故も戦争も起きます。 なんの為に生まれてきたのかわからない命だってある。
災害は繰り返し起きます、人には、社会を作り、伝えて行く力と知恵が与えられています。だから、災害は防災によって防ぐ事が出来ますし、東北大震災も1000年前にも起きている訳ですから、予測して供える事は出来る。 津波てんでんこ・・こう言う知恵や津波石とか、昔からあるんです。 フクイチも高さ的に危険であると指摘され、全電源喪失の可能性が指摘されたのに、首相はありえないと否定したんです。
20世紀は戦争の世紀でした、だから当時の日本人は平和憲法を歓迎したんです、みんな戦争はもうこりごりだ・・本気でそう思ったのに、戦後生まれの首相が、恥ずかしい憲法だとか言い出してるわけです。
しっかりと伝えて、良い事は守り、悪い事は止める様にしていかないと、繰り返し、また酷い目にあうと言う、そう言う試練でもあるんです。
地球は試練の場所なのですよね。 我々は、駒の様にこの世界に放り出され、与えられた生を、生きて行かなくてはならない・・辛い、辛すぎる・・・そこに救いをもたらし、希望を見出すのが、本来の宗教、信仰の目的であり、メリットと言う物でしょう?
だから、のっけから、この地球は試練の場所であり、神が降りてきて、世界を一変させる様なアセンションも、最後の審判も、起きないんですよ。
起きるのは、今の目の前、神の存在など感じさせない、厳しい現実だと思います。
陽気暮らし社会の実現は、人類1人1人の心がけ、そう言う社会を作って行こうと言う、現実的な努力しか無いんですよね。
甘露は、物理的に降って来るものではなく、そう言う社会を目指して作ろうと言う想いに与えられる、神の愛だと感じます。 地球は試練の場所です、だから、永続的な社会も世代を繰り返すとまた、戻ってしまいます。 つまり、常に目指そうとして、ようやっと維持できるか?出来ないかの、話だと想像できます。
何度戦争を経験しても、その世代がいなくなると、また戦争を始めてしまうんですよね? イスラエルなど、自分達がホロコーストにあっているのに、パレスチナ人に圧政を強いて、虐殺していますよね?異教徒に人ごとの様に冷たいユダヤ人に幸せな世界が来るなら、神はいないが、実際、憎しみを買うイスラエルは、また痛い目にあうだろうと、予想しています。
しかし、誰かを虐げての安寧はないと思いたいですが、この地球は不条理ですから、一旦はそう見える世界が存在します。 ならそう言うのは、なんなんだろう・・
私は、この地球に何度も生まれ変わりたいとは、思わない・・得るものもあるけど、辛すぎる事もあります、だから試練は一回で良いです、戻って来たくはありません・・(笑)
そう言う地球に、絶対神の守護があるとしたら、きちんと法則が守られると言う意味になると、繰り返し書いて来ました。 試練もまた、神の思召しであるから、試練からの守護を願うのは、絶対神相手では、叶えてくれません。 絶対神は、川の流れだとしたら、船を導く、泳いでいる人を対岸まで導いてくれる存在に、お願いしないと無理です。 現実には、奇跡で海は割れないんですよね・・・
段階を追った異次元が存在します。絶対神の世界まで幾重にも重なる世界が存在します、(否定しないで、そう仮定して模索して欲しい) 地球には、地球の運行が物理法則通り働き、地上に生命が生まれる様にエネルギーを送っている守護神がいます、あくまで地球の運行に関わるだけです。
社会を導く存在もいます、個人を導く存在もいます。 もちろん魔界、魔人もいます。 守護をしながら、それ自身も、異次元を登っている存在がいます、人から見たら、それは、神だと思えます。
あなたを守り導いている神と、私を守り導いている神は違う神かも知れません、なぜなら、私とあなたは、心がけも想いも違う人間だからです。その人の心がけにあった存在が、導いたり守護してくれると思った方が、良いと思います。 だから、私は神の守護を感じると言う人は、世の中にいっぱい見えるんですよね。
幼くして亡くなった子がいます。 その子は地上には親や人に悲しみを残します。親や周りは、一生忘れない愛の想いを持ち続けるかもしれません。 二度と同じ悲劇が起こらない様に社会を変える努力につながるかもしれません。 その子の魂は? その子魂は、ふさわしい世界に移行しますし、その世界で子育てをしたい、愛を学びたい同じ存在、魂、同じ霊体が育ててくれます。だから存在は消えずに、別の世界で、再び成長の道を歩みます。 いつか再び自分も霊体になった時、会えるでしょうし、生きている間でも、心は異次元に通じます、魂は交流しています。だから悲しみも段々と癒えて来ます。
天理教の親神様も、存在していて、この世界で、信者を導いてくださっていると思った方が、正解に近いでしょう。 中山みき様もです。 もちろん、信者から集めた金で贅沢していた過去の方は、それに相応しい世界に移行して、まさにそこ(地獄)から本気で、助けてくれ〜って霊体になってから、祈っているかもしれませんね。
天理教のメリットは、だから、親神様が、絶対神では無く、この世で生きる我々を、陽気暮らしに導いてくれる、大きな神様の1人、あるいは集団だと思った方が、出しやすいと思いませんか?
陽気暮らしの世界にはならないかもしれないけど、そこを目指す様に、努力する様に、導いてくださる存在だと、考えた方が、説明は矛盾が無いと思いませんか ?
前世の因縁は方便であり、背後についてる存在の影響の話を避けて、霊とか背後霊とか無視して、我を一途に求めよ! 我の導きを受けよ! と言う風にも受け取れます。 前世と言うより、ついてる先祖霊や背後霊、その他の影響を、陰に陽に、心次第で、人は受けていますので、それらからの影響を避けて、親神様の守護を受けてもらうために、それらに関心を持つな! 我の守護を頼れ! と言ってる様にも感じました。
まあ、荒唐無稽な話で、すみません。
ただ、教会に人を呼ぶなら、親神様は、絶対神より、そう言う、厳しい地球の試練を、無事に渡り終えて、対岸にたどり着ける様に、導いてくれる存在であり、一心に信仰する事によって、守護も導きもあるよって言う方が、より天理教のメリットが提示しやすいと思いませんか?
もちろん、お供えは、後払い! 助かった!と感じてから、気持ちを込めて、常識的に出せば良いと思いますけどね・・・・(笑)
まだ続きますが、今日は終わります、長文書かせていただき、ありがとうございました。
なんだか、丹波哲郎氏の映画、大霊界と同じですが
丹波哲郎氏と日神会の初代教祖は親交があり、大霊界の商標は、日神会が持っていて
丹波哲郎氏に貸し出されているからです。
だから、私の話は、個人的な模索が入って今すぐ、映画、大霊界とそう変わりません。
天理教にも縁があるので、結局大霊界視点から、天理教を見たら?
宗教とか親交を見たら、こう感じると言う話です。
異教徒の話ですから、あくまで、天理教のメリットについて、考察してみて
そのメリットは、ここにあるのでは無いか? と言う建設的な話を書いてみたいだけですから
お許し下さいませ。
今すぐ →いますが 親交→信仰 と訂正
「建設的な話を書いてみたいだけですから」byただの父親
天理教の人は優しいからアラシも許すんだろうね。
自前の掲示板の存在がヨウキロウさんの書き込みから見つかった時はワサワサしていた父親さん。
気分良くこの掲示板で自説開陳されておいでですが調子よすぎるな、って最近感じています。
メリットを語る場だからと仕切ってみたり、「聖の・・」とか、5chのただの父親さんのネットでのやり取りを読んでいますが、武士の情けで晒したりはしないでいます。
ただの父親さんの有り余る時間とエネルギーを注いでのこの場における書き込みは、お供え掲示板の終末期を思い出させます。
お供え掲示板のようにならないことを祈る一匿名としては、結果、あらし行為ととられる事態を引き起こさないよう、自重しながらの書き込みをお願いしたいと思います。
今後、ますますのご健筆を期待している方々もいるようですので。
こんばんは。
どうもすみませんね、息子が天理高校に行っているのは事実ですし、天理教の教会にお供えもしています。
別席も4回運び、ようぼくも受けてみる予定です、おじばにも、参拝している身ですから、全く無関係ではありませんので、御勘弁して下さい (笑) 私自身の信仰を変えるつもりはありませんけども・・
天理教に対して、毒づく事はありませんので、よろしくお願いいたします。
5chには、関わっていませんが、小さな教団なので、以外にせまいネット世界、私は、自分の教団の掲示板では、多少名が知られていて、ただの父親のアンチもいます。 5chの争いには関わりたくはありません。そのアンチが、こちらに来て荒らす可能性すらありますので、HNを変えて、書く内容も、自分の所とは変えていますので、お願いいたします。
メリットについて、一通りの模索を書いたら、また傍観しますので、御勘弁して下さい。
しかし、本当に、神にお供えする発想は、日本の神社への詣で信仰の延長線上にあるんです。
絶対神信仰は、加護のお礼にお供えと言うのは成立しません・・
これは、私自身の模索から浮かんできた自説です・・・・だからオリジナルの考えです。
あなたの立てた志、心の想いにあった、大霊界の神々が呼応してくれる・・悪の心には魔人が
理性の心には、神が・・その神は、人を守護する事で、自身もまた向上を目指している神霊・・
天理教の親神様もまた、あなたの祈りの呼応して、守護を下さる・・
これも、私自身の模索から、浮かんで来た答えです。
だから著書に書いてある事を比較しているのではありません、私個人の、受けた印象と祈りと模索から出てきた想いですので、珍説に該当しますので、笑って、お許しください。
ただの父親さんの御意見をアラシだとは思いません。
じっくり読んでいます。(これを書き込んだらまた数ヵ月読み書き出来なくなるでしょうけれど)
読んだ本の中にあった言葉ですが、浄霊のために満州布教と書いてありました。著作者は天理中学高校卒だそうですが、どういう立場でいらっしゃる方だったのかわからですが。浄霊という概念が当時あったのかもしれないです。勿論満州への進出は天理主導ではなくて、国家政策に添うように行われたようですが、少なくとも天理教は世界助けのために中国の方々を救うために満州を目指されたようです。父親さんのおっしゃることにリンクする部分があります。
ただの父親さんのおっしゃっていることをスルーするのは勿体ないと思います。
ただ今日は東風Z様の書かれたことを噛みしめて、東日本大震災のひのきしん隊で心をひきさかれてひのきしんをされた方々が、苦い時を過ごされていたと思います。
様々な災害地の方々も砂を噛みしめる重いでおられたと思います。
心がその砂を噛みしめる余裕しかない状態だったのかもしれないです。
>人を助けるなんて大上段に構えながら、行き着く先に待っているのは御恩報じの言葉の裏に隠されたおカネが待っている。それが現実だ。<
本部のお偉い?先生が人の助かりを願って自分の寿命を10年縮めていいからと神に願ったと軽々しく言う講話を聞いた。命のつなぎは金と言う善亮説法を受けてあちこちで力説している偉いさんだ。現実に神が目の前に現れて「では代わりに10年お前の命をもらう」と言われたら「どうぞよろしくお願いします。」と彼は本当に言うのだろうか。いざとなったら誰でも躊躇するような深刻な事を軽々しく言うなと思った。普通の生身の人間はそんな事言えないのが誠実さと言うものだ。出来もしないこと、簡単に言えるものでは無い。
この偉いさん。高慢な人間だと直ぐに思った。良い事を思うのなら誰でも思う。彼は初めから命など取られないとタカをくくっているからに過ぎないと思った。そんな願いはさすがに出来ません、と言ったなら彼は少なくとも誠実な人間だ。本部お偉いさんは出来もしない事を軽々しく言って、これが高慢の裏返しだと気がつかなくなるんだろうか。いつも大上段から説法してると自分に酔ってしまうのか。命がさしだせるのは、聖人君主のみであり、本部員含めて我々凡人が軽々しく言う事ではない。自分が聖人君主と思っているのが高慢だ。恥ずかしい話だ。
人は、基本的に騙される生き物なんです。
いい話や作り話にコロッと騙されて数百万円を差し出す現実を見ると分かります。
今時、年利が0.001%の低金利下にあるにも拘わらず、月利3%なんかあるはずがないのに、1千万円もの虎な子を投資して失ってしまう人が居る。
宗教だって似たようなものです。苦しい時の神頼み、そのものです。曾祖父母が入信した動機すら知らないというか、知らされていない。そもそも、僧祖父母の名前すら聞いたことが無い。⦅私は、祖父母の原戸籍(ハラコセキと読みます)を取り寄せて僧祖父母の名前を知りました⦆
なのに、先祖が入信した元一日を忘れるなという詐欺師まがいの言葉で心の奥底に入り込んでくる強引さ。
冷静に考えれば、心の奥底にこれでもかと、天理教用語を駆使して洗脳してくる怖さに一刻も早く気付くべきですね。
感謝・つつしみ・助け合い=感謝してお供えをしなさい。つつましい生活を心がけ、余ったお金をお供えしなさい。助け合いの実践にお供えをしなさい。と聞こえます。
こんばんは、匿名ですさん、ありがとうございます。
この30年の自分の信仰の模索と、実際、天理教の教会長とかのリアルな関わりの中で、神の存在について、いろいろ書いてみたいだけですし、天理教のメリットは、あくまで親神様の守護であると思うので、お金をお供えするのでは無い、本当に神の守護を得る事とは、本来、こう言う事ではないか? と、私の想いを書いています。 天理教に染まってない、他宗派の人は、この様に捉えているのか? くらいにみて下されば、ありがたいです。
東風Zさん、いつもコメントを、ありがとうございます。仰りたい事は、よくわかります、ごもっともだと思います。
私自身は、幸い、宗教、信仰に救われはしても、搾取された事はないので、未だに、神はいらっしゃると想える人生を歩ませていただいています。 天理教の教会長にいろいろ話を聞かされても、洗脳? される事もなく、対等に神についてお話ししてしまうので、別に、困る事もありません。
苦しい時の神頼み・・そうですね、でも、苦しい時があるから、本当の神に出会える事もあります。 私も、苦しい時に、霊友会だったけど、霊友会では救われずに、本屋で出会った今の大霊界の著書だけを読んで、書いてある様に、自己浄霊をしたら、全身に熱いエネルギーが流れ、何かが、抜けて行って、それから体が楽になり、心も楽になり、何よりも、この世の仕組みを理解できたから、生きる希望を持てる様になりました。 それから入信するまで 6年は著書だけ読んでいて、入信してから、こちらから希望して、一回12万円払って、浄霊法を学ぶ研修を 9回ほど受けています。
苦しい時に救われたからこそ、一心に、神を求めてきたので、30年経って、今や揺るぎない信仰心になっています。
その時、もし、関根豊松さんの様な方に、助けて頂いていたら・・私も熱心な天理教徒になっていたでしょう。
だから、天理教の教会に、信者を集めるには、そこに本当の救いがあってこそだと思うんです。
そこが一番のメリットでしょう?
本当の神の救い、守護を感じられてこその、お供えだと思います。
何も感じられず、救いも無いとしたら、先にお供えってのは、あり得ません。
正当な努力とは、神に愛される心を持つ事であって、物心共に豊かに暮らす事を、神は望まれていておかしく無いんです。 つましい倹約など、個人の自由であって、金をどう使うかも、個人の自由です。
だから、東風Z さんの、社会的に寄付も、神の心に合っていると思ってます。
私は、基本的に、その様に思って、信仰生活を送っています。
人の助かりを願って自分の寿命を10年縮めていいから・・・
教祖様の、我が子の命と引き換えにって言う逸話からですよね・・それで、出直して戻って来ると言う・・
人の助かりに自分の寿命ってね・・それぞれ前世の因縁を解消するために、今世を生きてるとしたら、その因縁ごと、差し上げるんですか? って思えてきます。
その人の命が無いのも、前世の因縁なら、命が無くなる事で、来世幸せになれると言うのが、前世の因縁説だと思うんですよね。
心がけを変えて因縁を解消して陽気暮らししたら、来世幸せになるのか、そのまま救いなく生きてこそ、前世の因縁が解消するのか? さて、どう言う物だろう・・・・
身上も前世の因縁なら、身上を甘んじて受け入れろって話です、耐えて生きてこそ、来世は少し救われるとか、言えると思いますけども・・・
絶対神が、人の寿命を入れ替えるとしたら、自分が作った秩序を乱す事になりますよね?
私は、神は正当な努力を要求こそすれ、人に知恵と命と導きを与えこそすれ、人から何かを奪うことはしないと思います。
もちろん、お金は今世の必需品であって、神の世界で必要な物では無いんですよね。
お金は、神が人に与えた知恵ですからね、なんでその金を神が必要とするのかな?
人の寿命と引き換えに、望みを叶えると言うなら、それは、魔人ですよね?
親神様が、魔人になってしまいます。
もちろん、そのくらい、強く願っていますと言う、説明なら、別に構いませんけどね (笑)
神は与えて下さる存在であり、奪う事も、お金と引き換える事もしない存在だと言わないと・・守護の代わりに、何か奪う神では、信仰するメリットが無いような・・・・
もちろん、正当な努力は要求されると思いますけどね、天理教なら、8つの埃を毎日しっかりと払うこと、陽気暮らしを目指す事とかでしょう?
>神は与えて下さる存在であり、奪う事も、お金と引き換える事もしない存在だと言わないと・・守護の代わりに、何か奪う神では、信仰するメリットが無いような
そう思いますね。我が身縮めてまでも、、、教祖のひな型ですが、愛しい我が子の命と他人の子の命と引き換えられますか?普通の人達が。
そんな夫、妻、子供、家族のある全国の風通の信者を前に、出来もしない、またしてはいけない事を説法してはいけない。線路に落ちた人を見たら直ぐに飛び込み助けろ、ですか?尊い事ですが、命はとはそんなものではないです。推奨する事ではないです。
こんな事、自己満足に過ぎない「空想」です。
真剣さの表現なら良いですが、教祖でもないただの本部員がそんな経験談を大真面目に言うのは高慢だし、キザだなあ。
神は何も奪わない。お金とも命とも引き換える事をしない。ただただ与え続ける存在。愛そのもの。
そういえば、「命は出せないだろう?じゃあ命の次に大事な物はお金。だからお金を出せば神が受け取るんだ。」
昔良く聞いたなあ。
匿名さんのおっしゃる通りですよね・・ちょっと親様物語を確認してみました。
命の代わりにお金を差し出せ! それじゃ強盗ですよね? 魔神ですわ・・親神様を冒涜しているのは、教団本部じゃないの? って思いますよね。
教祖様31歳の時、引き取った子が天然痘にかかり医者も匙を投げた、我が世話中に死なせてはお世話した甲斐なく申し訳無いと、氏神様に百日の裸足参りをされました。教祖様は、その時に、男の子1人を残し、娘2人の命を差し上げます、それでも不足なれば、願満ちたその上は、私の命も差し上げます、と願をかけられた。 それで天保元年と6年におやす様、おつね様が、迎取りとなり、後日、神様より、同時に迎えとっては気の毒だから、別々に受け取ったと仰られたとか・・・
親神様が降りられたのは、天保9年でしたよね? だから、これは、親神様が、降りられる前の出来事であり、願を掛けたのも、地元の氏神様であり、迎取られたのも、それ以前の出来事ですが、後から、教祖様が親神様から聞いたと言う事になってますけども・・
私としては、降臨前と降臨後は、分けて考えたい所ですけどね。
それ以前から親神様は見ておられたと言うことにする事で、みき様を特別な存在、親神様を特別な神様と強調できますが、命を差し出すと言う願掛けも、成就後に、6年開けて別々に亡くなったり、神様に祈るパターンとしては、詣で信仰の願掛けであり、結果も1つの命に2つの罪なき命を召上げると言うのは、差し引きマイナス1人だから、ぜんぜん、有り難くは無い印象です。
私は、この話が、親神様だとしたら、差し引きマイナス1人で、なんだかやだなぁ・・と言う気持ちになりますし、当時の教祖様には、まだ親神様は関与していないと思いたいですね? 親神様は、差し引きで、マイナスのお勘定を、なさる様な神様では無いと思いたいです。
亡くなる年数が開いてますし、江戸時代は子供が亡くなるのは珍しく無いので、たまたまの出来事を後から当てはめたと考えたいかなあ・・自己犠牲の美談は、キリスト教にもありますよね? 天国に行ける条件の1つになっていましたから、人柄を表す美談にはなりますが、冷静に見て、神としては、怖いですよね。
命を差し出します・・美談にはなりますが、本当に差し引きされたら、プラマイゼロで怖いです。 救いの代価をこちらから、神様に提示するのも、なんだか筋違いに思いますし・・
今更言うまでもないことですが、だから、天理教なんて信じられないのです。
何度も書きます。
講社祭りも終わり、祭官さん共々に読み終えた天理教教典に、しおりを挟み次月の読み始めの印とした。
その月の講社祭りが来た。家族5人分の5冊の教典を準備していた。ところが、教会から持ってきていたのは教典ではなくて、稿本教祖伝でした。
何故、急に教典を読まなくなったのか。止めるにしても最後の十章まで読んで辞めるのが常識だろう。家族は、一瞬あっ気に囚われていたが、差し出された稿本教祖伝を読むことになり、それ以来、教典は神棚の下に入れたままだったが、6年前に捨てました。
当時、教会関係者に、読まなくなった理由は尋ねていないが、未だ解せないことです。
教典は、いやしくも二代真柱が裁定されたものである。それなりの理由があるのであれば、信者に説明すべきでありませんか。このような宗教を信じていた先祖は哀れというほかありません。熱心な信者だった両親が生きていればどのような思いだろうか知りたいところです。
信仰を離れて6年余、当初は神のお手入れがあるのではないかとの一抹の不安もあったが、この間に長男に13年ぶりに次女が生まれ1男2女となり、次女は1歳6月でかわいい盛りだ。次男の孫娘は今年大学4回生となり休学をしてアメリカに留学する。決して恵まれた日常ではないが、己を知り、己に負けない、おごらない生活を心がけていることで平安な日々を送ることが出来ています。
未だに、時々見える教会に言わせれば、先祖の信仰の徳のお陰だと言われるが、聞き逃すことにしている。
再び、信仰生活に戻ることは、子供たちを含めた家族全員があり得ないことだと思っています。
かつての教会長は上意下達が徹底していて、教典はダメと言われたら言われる通りに教祖伝に変える。上に理由など質問してはいけない。黒でも白の世界だったんです。
ネットで自由に意見発信出来る時代が来た昨今、密室の膿や悪をさらけ出せる様になりました。足元から暴露されたりする。教団はうかうか思う魂胆が実現出来なくなっている。
話が違うが今、天理時報一教会3部増部を課せられている。出直しやら、高齢で目が見えないから等の理由で購読中止が後を絶たない。時報社も経営ピンチなんだろうが、今更新規に誰に購読を勧めるのかと思う。増部のプレッシャーをかけられてもしぼむ一方の、おまけに教理が最終的にお金に行き着く、そんな魂胆の信仰に誰をも引き入れる事は出来ない。だから無視している。
しかし真面目な会長は上への顔向けに自分で2部、3部買って体面を維持しているのかも。小さな世界で皆んなで悪あがきしている気がする。後10年。中身は縮小していても組織としては限りなく空っぽに近い教会含めて16000箇所も抱えている。どう再編するのか。閉じさせるにしても教会家族の居住権もあるだろうし。追い出すのか?
日頃のうさを晴らせていただきました。
人の一生は、食に始まり、食に終わるのではないかと思っています。
生まれた瞬間から教われるまでもなく乳を吸うことを知っている。6月も過ぎると与えられた固形物を咀嚼し始める。本能のなせる技だ。そして、幼子は足るを知っている。
一方、死に際にも一滴の水を求める。昨年90歳になる義理の姉の死に目に立ち会った。最後の言葉は「みず」だった。
訪問看護師のアドバイスで、あらかじめ用意していた箸に脱脂綿を巻き付けたものに、この言葉が出た時に甥の嫁が水道水を湿らせて口元へ持っていった。義理の姉の顔が一瞬ほころび、ほどなく臨終を迎えた。
口から入った食物が肛門と尿道まで運ばれる1本のチューブの間にどのような作用があるのだろうか。
これを思うと、食べ物をおろそかにしてはいけないことが理解できる。
スーパーに行けば、食べたいものが山ほど並べられている。その中から一日に必要な1300calの食材を選ぶ。欲しいものの10分の1も選べないだろう。でも、それを越えてはいけない。
ここに、選択をする葛藤が生まれる。牛肉は30グラムでいい、豆腐は半丁だ。刺身も食べたい。でも、今日は我慢だ。明日のおかずは、目刺3尾と決まっている。アルコールは殆んどやらないが、食前酒として梅酒を杯一杯25㏄だ。タバコは遣らない。
勤めている時に、よく言われた言葉は、酒もたばこもやらず、異性にも興味が無い。一体何のために生きているのかと。
26歳の時期に肺結核と腎臓結核を患い生死の間を彷徨った自分には、日々食べられること、自由に歩くことが出来ること、自分のことは自分でできることで不足は言えない。今日の新聞の記事にもあるが、歯槽膿漏がアルツハイマーの一因であると書かれている。だから面倒でも毎食後に歯磨きをしていたお陰で健康な歯を保つと同時に、認知症の予防も出来ていたのかと思っている。
芹澤光治良著「死の扉の前で」を読むと、二代さんの行き過ぎた食生活が見えてくる。敗戦時に小学校に入学した自分にとってお米のご飯を食べることが出来るようになったのは、何時のことだったろう。
来る日も来る日も、真っ黒の汁にサツマイモの葉や真っ黒のコンニャクの塊、椰子の粉のダンゴ。脚はゴボウのように細かった。
米軍のMPから貰った一粒の白い砂糖に包まれたチューインガムの味は今も忘れられないほどの宝ものだった。
公園の広場に、時々米軍の軍楽隊が演奏に来た。多くの観客だったが、大人の目的は違った。演奏が休憩に入ると隊員は、当時ラッキーストライクと言っていたタバコを吸う。再び、演奏が始まると吸いかけのタバコを投げ捨てる。すると、まだ煙が立っている捨てられたタバコをめがけて大人たちが殺到するんだ。
今、思えば浅ましい光景だが、当時はタバコはお目に掛かれなかった。
そのような時代に、二代さんは刺身に輸入のワインを召し上がっていた。だから、早くして糖尿病になられたのではないですか。
信仰者としては失格でしょう。26歳の時に患った尿毒症でもだえ苦しんだ上での生還だったからこそ、その後の生き方に大きな教訓となったように思っているんです。
肺病(肺結核)は、ハイハイと這い登る道だなんて説く宗教は宗教だとは思いません。
がんこ者は癌。素直にハイと言わないから肺病とも言われた。教会に足を運ばないから足を患うとかこじつけで何でもお諭しに変えて、信者を悩ませ、その上傷口に塩を塗る様にお供え金を工面させた。素直が神の望みとか言って。
父親の腸の手術に際しては出すもの(お供え金)を出さないからガスが出ないと言われ、大金をかき集めた。昭和30年代、ガスが出たら腸が通った証拠と言われた。
馬鹿げた教理。病気諭しなる書籍が自教会にあったが、叩き捨てた。こんなもので人を悩ませたのかと思うと見たくもなかった。
天の貯金は減らないとか、差し引き勘定は神がするとか言って、素朴な民衆はそれを信じ、思うつぼの本部はおじばに金を集中させた。その金が人助けに使われて来なかった事は周知の通り。巨大建築物は古ぼけ、利用される事もなく、修理代もままならないお荷物と化している。
遠い遠いその昔から教祖の教えは不在のまま人間思案の天理教の守護はお金と引き換えだった。
>閉じさせるにしても教会家族の居住権もあるだろうし。追い出すのか?
高齢独身者だらけで一人暮らしの男女が多い。そのうち居住する人もいなくなるので大丈夫。
私は病諭しを追っていきます。人助けに使われてこなかったわけではないです。ガスが出たら腸が通ったのは一理あります。
こじつけは歴史年表を覚える方法と似ているかもしれないと思っています。
捨てないで下さい。
お願いします。
苦しみは分かりますが、捨てないで下さい。
おはようございます、ただの父親です
天理教 なんでもお諭しに変える大喜利?
肺病(肺結核)は、ハイハイと這い登る道
がんこ者は癌。
素直にハイと言わないから肺病を患う
教会に足を運ばないから足を患う
腸の手術に際しては出すもの(お供え金)を出さないからガスが出無い
ここでは良く見かけますが、これは冗談でしょうか? これで何か得心できるのでしょうか?
昭和30年代、ガスが出たら腸が通った証拠と言われたって、それ別に普通の医療の話しですから、一理も二理もありません。
一般的に、辛い時に、これを言われたら、確かに傷口に塩を塗るようなものですよね、私が、辛かった21歳の時、こんな事言われたら、若いだけに、ふざけるな!って言ってると思います。
素直が神の望み、素直にお供えを差し出しなさい、命は差し出せ無いだろう? だから命の次に大事なお金を、お供えしたら神様は受け取る・・
誰が言ってるんでしょうね? 神様の横で手を出してるのは、誰ですかね?
神様は、お金は受け取らないんですよ、あくまで神社の維持費、清掃費、まあ営繕費を受け取るのは許しても、私欲で受け取ったら、神は離れますよね。
命が惜しかったらお金を差し出せってのは、ただの強盗です・・もはや、何おか言わんや・・ですね。
前にも書いていますけど、子供を指導死で失った母親が、前世の因縁とか、因果応報とか言われて、深く傷つき、そんな宗教は大嫌いって、FBに投稿されてました。
これで、信仰のメリットって、語れないでしょう?
癌で苦しんで教会に行ってみて、癌は頑固とかって言われたら、普通二度と行きませんよね?
まあ、まさか? ですよ、今の時代に、そんな事を真面目な顔して言ってる教会長さんは、いないでしょう・・・・教会は、心身共に救いの場、癒しの場にならないと、誰も集まって来ないでしょう?
ラーメン屋なら、美味しいラーメンを、それだけじゃ無くて、笑顔の接客だって要ります。 出なけりゃ誰も来ないよね?
最近は行政だって、愛想もサービスも良くなりましたからね。
教会の存在意義を考えて、提供できるサービスを考える事は、信仰のメリットを考える事ですよね?
商売でも、お金は後から付いてくるって言います、サービスのお代は、後からもらうものですよね。
>教会は、心身共に救いの場、癒しの場にならないと、誰も集まって来ないでしょう?
仰る通りです。妹の婿は未信者でしたが、結婚の挨拶にといって、嫌がる婿を母が強引に教会へ連れて行きました。
案の定、二度と行きたくないと言い、新婚早々にあのような堅苦しいところへ連れてゆくなんてと、母にさんざ愚痴っていました。
訳も分からないのに4拍手をさせられて、挙句の果てに事務所ではコメツキバッタのように何度も何度も頭を下げさせられていたと妹から聞き、職人だった婿には敷居が高すぎたんだと感じていました。
教会は、本来敷居は低くくて当たり前、ところが、現実は逆になっているんです。
私は教会の住み込み人の子として生まれ、20年近く教会生活をしていたので、長々とした挨拶には慣れていましたが、普通の家庭に育った人には、長い挨拶は苦痛以外の何物でもありません。
天理教の教会が、土地ところのひな形だなんて笑ってしまうね。
病諭しは捨てたのでありません。後世の人の目に触れさせたくないのです。
また二代真柱の著書もゴミと一緒に捨てました。書棚の埃と言える何十冊がすっきり、心もスカッとしました。女たらしは当時から全国に知れ渡っていました。巡教先で少女を所望する様な下劣な人間です。信者の金で世界の物を買い漁り参考館は彼の道楽の結果です。今や、入館者もいなくて維持費に苦労している後世信者への重荷施設ですよ。展示品の価値は否定しませんが、自分の金で集めてない。
今だに目の覚めない人がいますが、教団を離れて自主自立の神を求める道もあります。くれぐれもお供え金は出さない様に。ただの父親さんが仰る通りで、神ではなく側で手を出している人が使ってるんです。
何度も言いますが、今や意味をなさない施設の修繕、トップ上層部の生活費等に使われているんです。我々より随分高い生活水準です。質素といくら力説しても表向きだけですよ。一度のお出ましで100万、200万平気で持って帰るんです。隠し金をかなり持っていると認識して下さい。
現実は、教団本部の発する空疎な言葉の羅列に辟易している人が多いんじゃないですか。
本部が変わらなければ、部内教会が変われるわけがない。
ー大亮様が、各塾をご視察ーなんて書いているが、その後どれほどの若者が教会に繋がっているのか。高齢者ばかりが目立つ教会の実情を見れば答えを待つまでもない。
天理教の一端を要約するとザッとこう言う事ですよね?
親神様が現れたのは、人間に「元のいんねん」を自覚させ、悪しき心遣いを改めさせるためである。
人間は各自、現在の姿から「元のいんねん」や「自己のいんねん」を自覚し、今生(今世)と前生(前世)の過去において、どのような心遣いで生きてきたのかを「さんげ(懺悔)」し、その悪い「いんねん」を納消(なっしょう)して、来生に持ち込む事のない道に進まなければならない・・
実際の人々の暮らしは、人が何度も生まれ変わるうちに悪しき心使いが集積してしまい、親神も守護できなくなってしまった・・・・
このままでは、最初に設計した、陽気暮らしに程遠いから、人が集積した埃を払い、因縁を果たせる様に、本来の自由な心になって暮らす事が出来る様に導けるように、親神様が降臨して、指導したのが、お道である。
内容については、異教徒でもある私には、めんどくさいだけですが、天理教のメリットと言う観点においては、このあたりが重要なのかな? とも思います。
突っ込めば、生まれ変わりのシステムを作った時から、絶対神には、全て予見済みの事であって、輪廻転生を繰り返しても、現状では良くならないって、言っちゃってる訳です。
悪しき心使いが集積して守護不能、つまり神の統治が不能であるから、親神様が直接中山みき様に降臨して、その後も本席様などを通じて、修正して行くつもりとも言えますよね。 つもりだった・・かな?
だから、前世、前前世の心ずかい、それらを懺悔して、そう言う生き方をして、因縁を来世に持ち越さいようにしていく事で、世界は神の望んだ、陽気暮らしの、地上の(楽園)になって行くと言う様な事ですね、そこへ導くためのツールとしての存在が、お道!
実に判りやすいお話ですよね・・私は自身は、地球は修行の場であり、ここでは、地上の楽園、陽気暮らし世界は、目指すことに価値があり、実現しないって思ってるので、私の信仰と天理教とは相入れないのは、承知していますけども、それは他で論じます。
ここでは、天理教のメリットを絞り込むと、
陽気暮らしに導く、神の教えであり、前世、前前世などの、因縁を教えてくれて、懺悔できるように導いて下さり、悪しき心使いを、正してくれる訳ですね?
これは良い宗教ですよ、ただ、神が実在してくださるか? 神的な指導者が導かないと、神とつながらない人間が導いたら結局、悪しき心使いが集積して来ると、想像できますよね。
実際、親神様とお供えの話は、元のいんねんには、一切関係は無いと思えるんですよね。
天理教の一端をさらに抜粋してみると
親神・天理王命は、人間が互いにたすけ合う「陽気ぐらし」の姿を見て共に楽しみたいとの思いから、人間と自然界を創り、これまで絶え間なく守り育んできました。人間に体を貸し、果てしなく広く深い心で恵みを与え、「親」として温かく抱きしめ、教え導いています。
しかし、悪しき心使いが集積してしまい、守護ができなくなった・・
人間創造の目的である「陽気ぐらし」に近づく生き方を、教祖(おやさま)を通して教えられた私たちは、日々の生活の中で「陽気ぐらし」にふさわしい心になるよう、親神様から大きな期待がかけられているのです。それは、自己中心的な心をやめて、他者の幸せを願い、たすけ合う心へと成長していくことです。
他者の幸せを願い、助け合う心へと成長しなくてはならない・・親神様の期待に答える義務ですね・・・・義務ですが、選択自由の心も与えられている訳です。
私たちや周りの人々に、病気やつらいことが起こったときでも、それは私たち人間の心を育てるための“神様からの手引き”にほかなりません。つらく悲しい出来事でさえ、実は神様による導きであるという真実に目覚めたとき、何ごとも前向きに受けとめ、明るく陽気に生きていくことができるでしょう。さらに、その思いは、神様に対する感謝と喜びを生み、私欲を忘れて他者のために行動する「ひのきしん」へとつながっていきます。
前向きに受け止める心に変えよと言う訳ですね? 辛い事も、神様の導きだと言う真実に、目覚めよ! (ものみの塔、エホバの証人か? ) と言う表現ですよね。
天理教の信仰はすべて、教祖・中山みきの口を通して教えられた親神・天理王命からの啓示に基づいています。教祖は、「陽気ぐらし」に近づく生き方を、私たちに分かりやすい言葉で伝え、文字に記し、自らの行動で教えました。なかでも、教祖の直筆による「おふでさき」を含む天理教原典と、それに基づく『天理教教典』は、信仰の揺るぎない拠りどころとなっています。
ここで経典主義になるのは、キリスト教と同じになりますよねえ・・
これだと、もはや、親神様は、戻られ、降臨されていないので、前世の因縁も、身上の因縁も、人間の想いで模索して、なんでも神の守護に変えて感謝して生きなさい! と言う、思想宗教に切り替わってる様に感じていますけども・・・・
神か、神の代行ができる人が存在していないと、この世に起きる事は、全て神の思召しであるから、なんでも神の思召しとして、感謝に置き換える様に考え直して、神的な想いを模索して、明るく生きなさいって言う、思想信仰、哲学宗教になってしまいますよね。
前世の因縁、悪しき心使いの集積は、神的な立場でこそ正確に見えるのであって、人間の知恵だと、ハイハイ言わないから肺を患うなどと言う、噴飯ものの話も出て来ると想像できます。
神そのもの、神の代理人が居てこその、前世の因縁の諭しや、神の守護が、初期の天理教にはあった訳ですが、今では、キリスト教と同じ、概念の神、思想の神になってしまった訳ですよね。
これなら、現在こそ、守護とお供えは、切り離して考える必要がありますよね。
天理教のメリット、としては
思想宗教として、過去の御筆先、お指図を元に、哲学的に、思想的に、人を陽気暮らしに導き
正しき、心使いをする事、目覚める事で、守護を得ると言う、話しなのか?
キリスト教や、イスラム教の様な宗教なのか?
実際の、実在神である親神様に、導いてもらう、埃を払ってもらう、守護を願う
おさずけなど、目覚める事ではなく、先ずは直して欲しい願いを優先する、プライベート神への祈願と言える形が存在していて、混沌としてる様に思えてしまいます。
特に、守護の代わりにお供えをするのは、プライベート神信仰ですからね、パブリック神への信仰は、絶対神はお供えを要求しない、するのは、神の思召しに答える義務だ! と言う事です。
ここらを整理整頓しないと、メリットって、出しにくいと思うんですが・・・
別コメントを参照してみて・・引用させて頂きます、ありがとうございます。
ある、やりとりの例
A 天理教は何かあるとすぐ「いんねん」で済ませようとする
よく聞くフレーズです
「いんねん」で済ませようとしているのではなく、そういう教えなのです
「いんねん」の教理は教えの核です
これを否定すると全てが破綻します
B まことに、ぶしつけな質問で申し訳ありませんが、真柱様のご身上はどういう「いんねん」だと思われますか?
A 病気=いんねん
という事ではないと思いますよ
おさしづでも身上に見せられる神意はさまざまです
真柱様の立場から思案すると個人のいんねんというよりは、全人類へのメッセージだと考えるのが信仰的には自然だと思います。
あくまで個人の見解ですが…
(ここで仰る信仰的には自然とは、どう言う意味なのか? 全人類と来るが、天理教徒は全人類の 0、00005%位じゃ無いですか? 誇大妄想と考えるのが自然では無いかと想像してしまいます・・・・)
B どういう全人類へのメッセージだと思いますか?
A そこら辺は個人の悟りの問題であってあなた自身が悟りとればいい事ではないですか?
僕の悟りをあなたに言う必要性も無いと感じます。
どういう意図で質問をしてこられたのかは分かりませんが、ここでどうこう議論 する問題ではないと感じます。
B お答えいただいて有難うございます。私が思うには、全人類と言っても世界の人々の殆どの人は真柱の身上は知りません。というより、天理教本部、組織のありかたに対してのメッセージのように思えます。これは、個人の悟りという問題ではなくて、人類の陽気遊山の為のメッセージだと思います。
A あなたがそう思うのであればそれが正解ですよ
(Aの方は、それが正解だと断じています、それぞれの模索の結果を、神の声だと断じて構わないと言っているのですよね・・・Aの方は神の代行をしているわけです、しかし、悪しき心使いが集積するから、親神様が降りて来たんですよね? 個人が自分の考えで、断じて良い根拠はなんなのでしょう? )
<とてもモヤモヤが残った> (まともな人なら誰でも残る・・・・)
(Aの方にとっては、天理教が世界の全ての様で、だから、全人類とか仰るわけですね? それで、「そう言うのは個人の悟りの問題であってあなた自身が悟りとればいい事だ」と切り捨てていますけど、私は、天理教は、そう言う教えでは無いと受け取っていますし、全人類とは誇大妄想だと悟りましたが・・・・
身上が実は神様による導きであるという真実に目覚めたとき、何ごとも前向きに受けとめ、明るく陽気に生きていくことができるでしょう、と言うのが天理教です。目覚める内容は、個人の悟りの自由と言う事になれば、もう宗教の体を成してい無いように感じますけども・・・)
真柱様の身上に、天理教的に、意味する物があるとするなら、本来、本席様から、親神様にお伺いを立てて、親神様の声として、お叱りを受けてこそ、因縁の真実の担保が得られると言う物ではありませんかね?
Aの方がもし教会長だとしたら、それで天理教のメリットを信者に提示できますかね? 勝手に悟れ? と言う事では、教会の存在価値は無いように思えますけども・・・・
(モヤモヤしか残らないです〜)
引用してすみません、大変判りやすかったので、ありがとうございます。
宗教やってるなら、幸せな顔してないとね?
一緒に、参加したくなる様な魅力が無いとね?
信仰するなら、救いは、今すぐに欲しいよね?
カイン氏の、因縁についてで、語られている通りですよね
不安につけ込んで、脅したりするのは、布教者自身が救われてないからかな?
私の所属する教会長は、1つ歳上ですが、普段は、おたすけに走り回っており
いろんな信者さんの所を回って、おさずけ、とかしてるらしいですけど
さすがに私には、因縁とか言いませんが
道一筋で、通っている、生きていると言う自負は、感じます。
私は、道一筋で通らせて頂いていますって言う、自負は感じるけど
真似はしたくはないかな・・
それでも、52歳で、分教会長で食べられていて、子供が6人もいるのだから
さすがにおかしな事は言わないですね・・
私の接する、天理教関係者は、割と、そう言う人が多いので
ここに書かれている様な意見に直に接した経験が無いんですけども
私の所属する、教会長は、親神様一筋に、おたすけ中心の印象なんですよね・・
ただ、道一筋で通らせてもらってるだけあって、豊かな雰囲気では無く
満ち足りた幸せと言うのが、貧を、たんのうしてる感があって・・共感はしないけども
だから、良く気にかけてくれるから、お供え出さないと悪いなって言う気持ちにさせるんですよね、
教会長の本位じゃ無いでしょうが・・・・
天理教は、中に入らないと分かりませんよ。私は60歳の定年で、同じ建物に入る他の法人に再就職しました。
従前は、20人ほどのグループの長を務めていました。その際、部下の人を呼ぶ場合、女性には全て「さん」付けで、年下の男性には「君」付けで、年上の男性には「さん」付けでした。退職後も同じ建物でしたので、元の職場の人達と顔を合わせることが多かったのですが、退職を機にすべての皆さんを「さん」付けで呼ぶことにしていました。当然の礼儀だと思っていました。
職場では、専務以下すべての人達が部下に対して呼び捨てにしているのを聞いたことがありませんでした。
ところが、天理教では若造が会長に就任した途端に、年長者の部内教会長を呼び捨てにする場面を多く見てきました。何様だと思って眺めてきました。
人を尊重するのであれば、名前を呼び捨てにするなど言語道断です。宗教家にあるまじき人格を持っている人が多いのに呆れていました。多分、今もそうなんでしょう。
高低の無い世界実現を標榜するのであればなおさらのことだと思うんです。
理の親にはとにかくハイ。ハイ、ハイとついて行け。人を見ずに、神様を見よ。
どんな理の親であれ、黒が白でもついて行け。そこにご守護の源がある。教団幹部は上下組織が嘘である事を白状し、誠を持って是正しようとする姿勢は絶対にしない。
だから部内教会を多数束ねる青二歳のボンボン後継者の勘違いの態度にはへきえきするものがある。大教会住み込み人を怒鳴る、馬鹿にする、、、
道一筋の会長さんが貧をたんのうしている姿は哀しすぎます。教祖はいっ時貧に落ちた。しかし決して生涯を通して貧乏暮しでは無かった。むしろ晩年は世間よりも豊かになっていた事実を知らされていないのだから。教団にとってはこれは絶対に秘匿事項だ。信者にお供え金を上げさせる為には教祖のひながたは絶対的貧困でなくてはいけないのだから。
全国の真面目な教会長が教祖を慕って貧しいひながたの道を歩む使命感は尊いと思うが、本当の教祖の姿を知らされないままの一生は、一体何なんだろう。
こんにちは、ここのご意見欄でも、良く見かける話しですよね。
(理の親にはとにかくハイ。ハイ、ハイとついて行け。人を見ずに、神様を見よ。
どんな理の親であれ、黒が白でもついて行け。)
そんな教えでは、無いはずですよね? これこそ、悪しき心遣いと言う物ですよね? 理を人間に教えるために、親神様は教祖様に降臨した訳ですよ、だから、後の人は全て対等、つまり、理の兄弟に過ぎない訳ですよね? 神の言葉に付いて行け!であって、兄弟に従えってのは、理では無いと思いますよね・・・
(若造が会長に就任した途端に、年長者の部内教会長を呼び捨てにする場面を多く見てきました。何様だと思って眺めてきました。
人を尊重するのであれば、名前を呼び捨てにするなど言語道断です。宗教家にあるまじき人格を持っている人が多いのに呆れていました。)
これも、悪しき心遣いの集積の結果ですね、神が最も嫌うのは、本来、威張る心、傲慢高姿勢で尊大な心だと思います。 神に嫌われる心遣いをしてるのに、気が付かない訳です。
天理教的に言えば、悪しき心遣いを集積させたら、因縁で身上に現れ無いと、神の戒めと言うか、理の間違いを指摘する神的存在が、いない訳です。
真柱様に身上が現れてますが、これも、教団への戒めか、真柱様本人への戒めか、はたまた全人類? への戒めなのか・・判定する神的存在がいないから、みんなの勝手な心遣いで、判断されて、話題になってる訳です。
教団に戒めがあるなら、他の幹部にも出ないとなりませんよね? 実際は一番の張本人が元気だったりするんですよね・・(笑)
教団の偉い人が、神の戒めなど無いと、たかをくくっているのかも知れませんね。
理と言うのが、教えであり、思想になった時点で、神のタガが外れてしまった、大事な理の解釈が、元々の容易に悪しき心遣いの集積を防ぐ事が出来ない訳です。
神のホウキを、行使するのも、人の知恵だと、悪しき心遣いを、掃き切る事が出来ないと言う事実を、露呈してしまっている訳ですかね?
道の80年を読んでみても、昔は、親神様にお伺いを立てて、叱られたりしてる訳です、松村氏も、心得違いから、身上に出て、親神様に戒めを受けたりして、悟ったりした事を書いていますよね。
私の抱いた印象は、親神様は、ナライト様以降も、教団専属の天啓者を通じて、お指図を続ける意図をお持ちで無かったか? 息の授けとか、水の授け、扇の授けみたいな物も、渡すつもりでは無かったなあ・・・と思っています。
実際には、教団本部が、こちらから願い出て、天啓者を神にお願いするより、意図的に天啓者を無くして、神の言葉で、もう言う事は全て伝えたとして、親神様を引退させて、運営を人間が集中に収めたようにも、見えてしまいますよね。
まあ、実際、親神様は、存在中は、お叱り、身上の戒めもあり、怖い存在でもあったので、人間から、好んで引退させたとは、思えませんけども、天啓者のバトンタッチが上手く運ばないのをこれ幸い?にした様な印象も受けます。
今でも、悪しき心遣いの集積に、明確な神の戒めとか、お叱りがあったなら、理の行使において、偉い人が、威張る、傲慢になると言うのは、防げたと思います。
神の戒めを最も恐れるのは、本来、教団を導く存在でないと・・その人自身が、私が、全信徒の理の親である! などとは、言えないはずだと思いますけども・・
外から見ていると、そんな印象も、持ってしまいますわ・・・・
関根豊松氏の存在は、私から見ても、天理教的には異端の霊能者だと思います。
天啓者では無く、親神様からの霊流を行使する神霊能力者に近いですよね、だから、遠方に行っても、私を想えって言うのは、想うこと、豊松氏に向かって祈る事で、親神様のエネルギーが受け渡される仕組みが、神霊能力的には、あるんですよね。
だから、私から見たら、関根豊松氏のやり方は、元にする御守護神が違うだけで、私の教祖、隈本確先生と同じやり方に見えるのです。
手に握ったキャラメルに力を込めて、これを持って行きなさいと言う、異端の、キャラメルの授けも、私から見たら、親神様のエネルギーをキャラメルに込めたか、親神様の霊流を流す、分神のエネルギーを込めたか判りませんが、そう言うやり方をされたと見ています。 神霊エネルギーを行使すると言う方法を取られている様に見えるので、天理教からしたら異端に近い存在だと思われていた事が判ります。
それでも、さずけが、良く効いて、救われた!と思う人がたくさんいたから、愛町分教会は巨大になった訳ですよね。
それで本部に多大なお供えを上げられたけど、天啓者として、独立をしたり、天啓者として、神の言葉を取りつがなかったから、本部としては都合が良くて、だから天理の至宝とか持ち上げられた訳ですよね? たぶん・・
関根豊松氏は、本部を立てながらも、神的には、本部とか見限っていた様にも、受け取れてしまいますよね。
愛町分教会に通うのは、リアルな神の救いと言うメリットがあった! 関根豊松先生は、親神様のお力を頂きながら、愛町では豊かに、布教されていた訳ですから、今の段階で、教会長として、道一本で生きて行くためには、関根豊松先生を見本にしたら、一番良いのかな? って思います。
良い話、良い思想、人の知恵で行使するだけの理だと、教会のあるエホバの証人やキリスト教などの存在があるし、お守り、御守護なら詣で信仰の神社とか、信仰のライバルが多すぎて天理教のメリットも宗教の競争にさらされて、かすんでしまうと感じます。
>教会のあるエホバの証人やキリスト教など
ただの父親様は宗教には非常にお詳しいのですから、ここは「教会のあるものみの塔聖書冊子協会やキリスト教など」にされるか、「教会のあるエホバの証人やクリスチャンなど」にされた方が適切です。
エホバの証人というのは、ものみの塔聖書冊子協会という宗教団体でバプテスマを受けた自然人をさします。
彼らが持っているのは「教会」ではなく「王国会館」です。
おはようございます、ご指摘ありがとうございます。
叔父叔母が熱心な、エホバの布教者でしたので、従姉妹も染まりつつあり
エホバの証人は、私にとっても身直に存在しますので
省略と言うか、適当な表現になってしまいました、すみません。
真柱の身上は、一にも、二にも贅沢病です。若くして痛風を患い注意すべき点は分かっていたはずです。
ただ、自己責任ばかりでない点があったのも事実でしょう。移動はすべて乗り物に依存。行く先々で、これでもかと思う程のご馳走攻め。これではたまったものではありません。
折角、本部食があるんですから、これを召し上がればいいだけのことでしょう。
大教会の連中は見栄を張って着物を着た女性を侍らせ、目いっぱいの接待に熱中する。バカげた習わしです。
常々、本部は、巡教先(お入り込みと、勿体を付けている)での真柱食を決めておけばいいと思っているのに、そんなことすら実現できない教団本部は、終わっているとしか言いようがありません。
歴代真柱の病状を見れば言うまでもないことです。(二代さんは60歳代で糖尿病だった。三代さんは、何度も手術を受けるほどで、もっと酷かった)
真柱の病状で議論が出ること自体理解に苦しみます。
自己管理ができないか、もしくは、自己管理ができない環境にあるのか。どちらでもいいことですが。
ただ、結核やウイルスによる伝染性の病気とガンは自己管理だけではかたずけることが出来ない問題だと思っています。
教団本部関係者がブタみたいに太っていてどうするんですか。恥を知れ、と言いたいです。
信仰するメリット以前の問題です。
あはは・・東風Z さんのおっしゃる通り、食べ過ぎと不摂生が一番の原因、または因果ですよね・・
それでも、自己反省も何も無く、お入り込みとか言ってる訳ですね、つまり、一番の権力者である、真柱自身が自制が効かない・・大教会長達の様な権力者が、教団を改善しないのは、神の戒めなど、恐れてもいないのでは無いか? と想像できますよね。
全信者の理の親、見本となるべき、(人) が、不摂生や、威張っているのなら・・悪しき心遣いの集積を、はらえてもいないと言う事になり、結局、理による統治は、できないって事の証明になりますよね。
確かに、メリット以前の問題ですね・・
だけど、そんな、神の戒めの無い、教団本部に、そのまま従って生きるのは、神から見たら、同罪かとも、思います。 実に、しんどいですね・・私ならもう、しんどい・・無理です。
私的には、神は、戒めない存在、怒りはしません、神に沿う心遣い、神に心を合わせないと、守護も、エネルギーも頂けないから、それが怖いのです。 自分の中に存在する自分の魂が、力をつけると、心遣いの間違いを嫌い、想念を戒める為、体に身上を起こしたり、悪しき心遣いに共鳴して、魔神、魔霊が、まとわりついて、地獄に引っ張られるから、怖いんです。
悪しき心遣いは、神と波長が合わないんですよね。
神に近づけば近ずくほど、謙虚、礼節、敬いの心の姿勢、愛と慈しみと尊びの心になる必要があると思います。 本来の指導者は、謙虚、礼節、敬い、愛と、慈しみと、尊びを、体現してこそだと思いますけども・・
天理教には、それを目指し、間違った心遣いに対する戒め、怖さを感じさせる物が、どうも無いから、黒を白でも従え!とか、言えちゃうんですよね・・・と思いました。
まあ、上は置いといて、末端教会長とようぼくは、どうしたら良いのか? ほんとどうしたらいいか・・・
仰る通りなんです。
抜けるにも抜けられない理由の一つに、多くの教会関係者は血縁で結ばれていて、どうにもこうにもならないジレンマを抱えておられるように見えます。。
私も一時責任役員を務めていました。もう一人の責任役員は会長さんと従弟の関係者でした。見ていても大変そうでしたよ。私は何時でも抜けてやろうという気持ちがありましたが、親戚ではそうもいきませんからその方との意見の対立が常習的にありました。ただ、ただ、なってくる理を喜べと言われても、結論は出すものを出せということでしたから噛みあいませんでした。
宗教とは、もっともっと謙虚な気持ちで神や仏を求めるんじゃないでしょうか。行き着くところがおカネでは、それは違うんじゃないのと言いたくなります。
私が信奉していた方は、日野原重明先生でした。亡くなられましたが、お気持ちは今も自分の心に生きています。腹七分目は、未だ達成できていませんが、腹八分目で通りながら少しでも近づく努力を継続していこうと思っているんです。これこそが信仰に通じるものがあると思っているんです。
本部中枢部の方々は、末端教会長さんや信者さん方のためにも心身ともに、太ったブタみたいにならないように、信仰のメリットを生かしてくださいね。そうでなければ、教えが全て嘘になります。
東風Z さん、こんばんわ。 いつもコメントを読ませて頂いていますが・・
日野原重明 氏ですか・・有名な方ですね、私はよく存じませんが、著書もたくさんある様ですね・・
私の個人的な意見ですが、思想宗教を信仰するのは、こう言う方の著書やお話を聞いたり読んだりしながら、自分でより良き生き方を模索するのと同じ事だと思うんですよね。
東風Z さんは、天理教を離れらても、自分の生き方を模索して来られた、そして精神的に向上される努力をして来られたと感じます。 それはコメントを読んでいたら、私でも判ります。
天理教をキッカケにして、反面教師にして、いろいろ模索して来られたんだな? とも感じました。
自分で自分の悪しき心遣いにも、気がついて反省模索もしておられると感じます。
天理教を否定されておられる様ですけど、なんだか、信仰を持つ人と言う印象を受けます・・もちろん、良い意味で、ですよ・・・・
間もなく81歳という棺桶近くに居るにも拘わらず、物欲はなかなか断ち切れない自分が居ます。信仰を通じて、又、重い病気を通じて分かっているつもりですが、人間は弱いものだと感じているんです。
14インチのブラウン管テレビを見ていた頃から今のテレビを見れば、格段の違いは歴然です。なのに、4K・8Kテレビが気になる心理。人間とは困った存在です。
こんにちは、14インチじゃ寂しいけど、今、4k、8kで見たいコンテンツってありますか? テレビだって、ユーチューブやネットの方が面白いですし、ネットやバラエティなら、今の2kでも十分ですよね。
私は、必要の無いクオリティに、余分なお金を使いたくは無いから、今の2kが壊れたら、4k買います。
物欲は大事ですよ、神が与えた心の欲です、それがあるから、必死に働く意欲も湧きますし、8kテレビも開発されますからね? 欲は大事です、生きながら、制御する事を学べと言う事だと思いますので、私は、物欲を無くす必要は無いと思っていますよ。
弱いからこそ、いろいろ学んで身に付けて行くのが、人生ですよね? 生きる事は修行だと思いますよね。
天理教の私の所属の教会長と喋っていて、時々、息苦しさを感じる事があります。
天理教者にとって、天理教は残された書物で親神様の思召しを、学んで実践して精神的な向上を目指す、哲学宗教、思想信仰なんだろうか? 実践する事で、親神様の守護が頂だけると言う事だろうか? それなら、天理教徒でなくても、陽気暮らしを目指したら親神様も守護して下さるし、もちろんお供えも出さなくて済みますよね?
スピリチュアルや、私の様な霊的な信仰を否定されて、天理教はキリスト教、仏教と同じ、神の言葉を伝える素晴らしい信仰であると言う意見も聞きましたが、親神様が何者なのか? 実際のところは判らないでしょう? 自分で元の神と言ったのか、天の将軍と言ったのかも、録音テープなどの証拠が残ってないですし、日月の神事でも、審神者、神の審神者いないと、降りているのが、一体誰なのか?本当の所はよく判らないと書いてある訳です。 審神者だって、持てる能力以上の事は判らない。 巷に出ている、背後霊に聞くと言う、ある教団の著書シリーズだって、読んでみたら、変な事言ってますからね? 自分もアクセスしてみると言うのは大事です、アクセスしてみたら、これは魔神だ、これは高い神だとか、少しは判って来ますよ。
あるイスラム教の方が、日本人は祖霊信仰だろう? イスラム教は、アッラーだ、絶対神だから、イスラム教の方が正しい! と言ったとか・・じゃあ、あなたは、アッラーの声を聞いたのか? 想定だけなら、何でも言えるぞ? ってな話しですよね。祖霊だって、大霊界で神の道を歩んでいたら、人を守護し導く事位は出来るんだよ、祖霊なら、想念での神霊術で交流だって出来るよ!って言い返せる訳です(笑)
天理教は、教祖様の神懸かりで始まった宗教です、だから、天理教者は、私の様な霊的な信仰者を、否定する立場には無いんですよね、哲学宗教、思想信仰だとしても、誰が喋った話を元にしてるのか? 教祖様であり、降臨した神的存在と言うだけです。
それが本当に正しいお道なの? 全て真実を語ってるの? 実際はあやふやな物でしか無いかもしれない・・
まあ、私からしたら、そう言う風に思えるんですよ。
哲学宗教、思想信仰なら、もっともっと良い話は、世間にたくさんあるし、そこからも学んで精神的な向上を目指した方が、悪しき心遣いに対しても、気が付けると思ったりします。
天理教の考え、しかも先人が人の知恵で解釈して作った部分もある話を、そのまま沿ってる見たいだから、お供えに対しても、それ変だろ?って、気が付けない、言えないのかな?って思います。
どうして、長男に継がせる必要がある? そうやってヒエラルキーを固定したら、地位が脅かされないと言う風にも見えるし、教会を下へ枝分かれさせて上納金を集めるのは、マルチ商法みたいですよね・・
悪しき心遣いを正してこそ、親神様の守護の働きがあるなら、親神様は、人々の陽気暮らしが目的なのだから、それで良いので、わざわざお供えを巻き上げる道理、理はありませんよね? もちろん、教団運営の必要経費位は、良いでしょうけど・・・・
教団運営に、悪しき心遣いの集積が、見えてしまうと言う実態、神が箒を行使するのも、人ですからね、理だけでは統治ができないと言う話ですよね。
お供えの要求が、悪しき心遣いを増やしているなら、それは大きな間違いですよね。
なんだかスッキリしないのです、息苦しさを感じるんですよね。
http://www5e.biglobe.ne.jp/~spbook/life-after-death/index.htm
こんなサイトを教えてもらったけど、内容は簡潔で分かりやすい
霊界の、ある程度高い位置にある霊体は、人類を良い方向に導こうと願ってもいる
そう言う存在が、地上の天啓者、霊媒者を通じて、いろいろ指導を始める事もあると
霊界通信で、英国のスピリチュアルでも、発表されてる様です、記述があります。
私は、親神様は、そう言う、高度な祖霊の一人又は集団だと、思っていますし、
友人の実家の天理教徒だけど、神様所をやってお告げを取り次ぐ事をやっている母親で、龍神を介して、天理王の命だと言う存在から、お告げをもらうらしいですが・・やはり、高級神であり、今のお告げは、時期真柱になった時点で、おじばから手を引くとおっしゃているとか、言ってました・・
まあ、信憑性も、手を引く意味も判りませんけどね・・すみません。
ただ、大霊界は、先入観を持たず、特定の宗教の教義に縛られずに、自由な心で、素直な気持ちで無いと、神との交流は叶わないとも感じますので、否定せずに、模索をされた方が、より精神的な向上は、得られるとも思います。
余計な、お世話かもしれませんけども、すみません。
ただの親父の言ってることは全く持って良く腑に落ちる。よくわかるよ。
「霊界・スピリチュアル・審神・波動等」大本教系、シルバーバーチ系、神智学系的、ニューエイジ的な言動を除けばな。
それと、俺も教団残滅消えてなくなれ派だけど、親父。。。おじばじゃないよ「おぢば」だよ。
坊やが天高行ってるんだったら、せめて「おぢば」って書いてやっておくれよ。頼むね(笑い)。
おじば じゃだめなの?
匿名
2019年3月21日 8:48 PM
おじば じゃだめなの?
おぢば=お地場
漢字に直せばわかるよ。
おぢば・・でした、すみませんです。
ただの父親の、勝手な個人的見解をちょっと書きます。
外からみたら、こんな風に感じると言うだけです、悪意はありませんから。
「 元初、もとはじまりに、人間を宿し込まれた地点を「ぢば」といいます。すなわち、全人類の故郷であることから、ぢばを中心とする一帯を「親里 おやさと 」と呼びならわしています。 ぢばに親神様 おやがみさまがお鎮しずまりくだされ、天理王命 てんりおうのみことの神名 かみなが授けられています。」
いわゆる神話レベルのお話だと思ってます。 大和朝廷時代の祖霊なら、ここ、奈良が国の始まりだ、と言う意識を持っておられると想像できるので、当時の人々にその様な説明をした気がします。 キリスト教とか、大きな宗教では、生命発生の神話が作られていますし、実際の地球生命発生の場所は、一点に絞られる訳ではありませんしね。 泥海古記も、神話だと思えば、別に普通に聞いていられます・・
「このぢばを囲んで、陽気ぐらしへの世の立て替えを祈念する「かぐらづとめ」が勤められます。
人間宿し込みの元なるぢばに、その証拠として「かんろだい」が据えられ、礼拝の目標 めどうとなっています。」
かぐらつとめ の解釈は、私はそこまで学んで無いんで判りませんが、加藤ハルアキ氏がコメントで解説していた通りなのかな?とか思ってます。
おめどうって、目標の意味なんでしょうかね? 信仰の心の向きと言う様な・・
「 人々の心が澄みきって、親神様の思召 おぼしめし 通りの「ようきづとめ」を勤めるとき、この台に、天から甘露 かんろ(天の与え)が授けられます。これを頂くと、人は皆、病まず死なず弱らずに、115歳の定命じょうみょうを保ち、この世は陽気ぐしの世界となる、と教えられています。」
これは、原初キリスト教、ものみの塔聖書冊子協会の復活後の世界に近いですよね? 実際には、地上に、そう言う普遍的な世界は現れないと、私は思っております。
なので、あくまで、信仰上の、めどうの世界であると受け取っています。
「 また、かんろだいは、人間の創造と成人の理を表して形造 かたちづくられています。」
雨ざらしの甘露台、倒した損害に1億円とか聞いてますけど、高過ぎ君ですよね・・それならいっそのこと、水晶ででも作って、ガッチリ固めて、簡単に倒せない様にしておくとか? もっとデッカく、金ピカの塔にした方が、恐れ多くて倒そうなんて思わないと思います。
失礼な事書きましたけど、教会長と話していると、教会長は、思考を教義に縛られているのか、 神、信仰、死後、霊界の存在、それらについて、自由に話ができない様で、一定の流れで説明はしてくれますけど、天理教は奥が深いので、学ぶのには時間がかかりますと言い切りられ、難しいんだから!って、まるで仏教の様です。
私自身は、信仰とは、頭で学ぶ事では無いですよね? 頭の良し悪しに関係無く、心にストンと落ちる様な、単純な物だと思っていますので、そんな難しい事を言わなくても良いんじゃ無い? って思っています。
親神様の存在をもっと自由に模索探求したら良いのにって思います、そうしたらお供えだって、無いときは、無いです、ごめんなさいって気楽になります、お供えが集まらないのも、親神様の思召しで、前世の因縁かも知れませんから?
ただの父親さんが書いているのは結局のところ自分の信仰の方が上だという事のようだ。(否定するでしょうが。)
しつこく自説を展開するにも限度をわきまえてほしい。
ところが「参考になります」なんて書いている方もおられる。ふーっ・・・って感じるよ。
霊に位をつけてみたり、これではもう、まともに相手にする方の資質が疑われてしまうのでは?
天理教の人はいい人過ぎるよ。
メリット関連のこの場はもう、開かないことにする。
(こうして「社会学」から離れていくのを喜ぶ本部系の思うつぼだ。)
あはは、私は、自分の信仰を押し付けてはいないのです、神の事は、自由に模索した方が、楽しいよって、書いてるだけですけどね。 誰か同じ土俵に上がって、反論してきたら、私はもっと楽しめるんですよ。 具体的に反論があるなら、書いて来て欲しいです。 私も、自分の勉強になりますからね。
天理教の本部への否定は、まだしも、教祖様への誹謗中傷のコメントがお好きですか? 私は、教祖様、親神様へ、直に信仰心を向けた方が良いのではないか? と考えています。
もともと、天理教に熱心な人は、社会学を、みてはいない様ですからね、友人の教会長に、社会学の事を聞いたら、即座に否定、くだらないから、ここを見ないように言われてます。
もともと、そんな存在です、ここに書いても、本部は変わらないでしょう・・
天理教を否定はしてない、ただ、教義に縛られ過ぎだと思うので、今しばらく続けさせていただきます。
英国スピリチュアルもですが、リアルに死後世界を探求する場合
死後世界には、段階があり、徐々に進化向上して行くと言う認識は、一般的です。
霊には、段階があり、進化向上して行き、大霊になる、神に近づくと言う考えは・・・・
スピリチュアルでは、一般的です。
私も、その方が普遍的だと思います。
実際、神霊との交流は、自分の霊格も左右するのが、やってみると分かります
当然ですが、生まれ変わりは、基本的にはしません、もう一度赤子の体中入る事は無意味です。
天理教の後年、学者も入れて編纂された話を、唯一絶対の物として、鵜呑みにするよりは
それは、一旦置いといて、スピリチュアル世界の話、私の様な神霊信仰者、他宗派をよく見て
客観的に天理教を分析する事は、親神様、教祖様に、より近づく事にもなると思いませんか?
教団本部の、矛盾、間違いにも、はっきりと気がつくと思います。
ただの父親のコメントは、否定しても、信じなくても構いませんが、どうせなら
天理教を、外から見てる人は、こういう風に見ている人もいると
自分の信仰を補強する様に、されたら、私としても、本位です。
自分の信仰に揺るぎない自信があったら、私の、この程度のコメントで、怒る必要も無いでしょう。
どうもありがとうございます、もう少々、書きたい事があるので、今しばらく、お願いいたします。
おたすけに、思うこと、HPより抜粋
「 おたすけは、たすけ一条の道といわれる「つとめ」と「さづけ」を、ようぼくが誠まことの心で実行することによって、親神様おやがみさまのご守護、教祖おやさま
のお働きを頂いて成就じょうじゅされます。つまり、おたすけをされるのは、あくまで親神様であり、ようぼくは存命ぞんめいの教祖の手足となって、身上みじょう・事情を抱える人に教えを伝え、心を入れ替えていただくために、ひたすら真実を尽つくし、たすかりを願い、身上者にはおさづけを取り次ぐことが、その務めと言えるでしょう。」
教えを伝え、心を入れ替えていただく・・これにより親神様が助けてくださると言うのは判りますけど、しかし、悪しき心遣いが集積したから、身上、事情に因果として現れた訳ですので、それが、親神様の戒めじゃあ無いのかな? そうなら、心を入れ替えたら、戒めを解くと言う風に考える事になりますので、 特に親神様が、絶対神なら余計にそうなりますし、悟って心を入れ替えてもらったら良いので、おさずけの願いも、要らなくなるし、 第一、心を入れ替える必要がある案件かどうかも、一個人では全部判らないし、本来は親神様にお伺いを立てるべきであって、そこまで、人が人の事を見通せたら、それこそ神的です・・
まじめに、一生懸命生きていても、心がけを良くしていても、現実には、身上や事情と言う事が起きますよね、それを人の知恵で見立てて、前世の因縁だ、ハイハイと従わないからいけないとか、言われたら傷つきます・・そう言う宗教は嫌われますよね、それこそ因果応報と言うものでしょう。
実際には、多くのようぼくは、事情の理由は分からないけど、単純に、親神様に助けて下さいって、祈願してるでしょうし、もしできたら、身上、事情に間違いがありましたら、親神様、気付かせて下さいって、祈っても良いですよね? その方がより自然な信仰の流れだと言う感じがします。
うちの天理高校に行ってる長男が、怪我をした時、4年生の先輩が、何人も、おさずけ、をしてくれたそうです、でも、ほとんど変わらなかった? ところが寮長がおさずけをしてくれた時だけ、不思議に痛みが和らいだそうです、別に怪我をした因縁などの話は無く、単純に良くなるように、願った物だと思いますが、願う力、本気で思う心の力が、年配の寮長と、4年生では大きく違うと想像されますよね。
苦しくなった時、親神様の思召しを想い、教えに沿って自分の心得違いを正す事で、苦しみから解放されるなら、おじばの巨大神殿には用は無いし、ましてや、守護の代わりにお供えをすると言う風にはならないとは思いますし、教会の存在も無くても良いかも知れません。
理屈はともかく、まずはこの状況から少しでも救って欲しいと言う願いに応えてこそ、神の力と言う物にメリットが出て来ると思いますよね? お供えは、あくまで、そのお礼であって、守護の代価に払い続ける様な物では無いかなあ・・と感じますし、助けてもらってから、心得違い、思い違いも、日々のお勤めの中で、親神様が、心に教えてくれる、それを正す神の力をさずけてくれるなら、毎日のお勤めも嬉しくなるし、教会長も、その先導者であり、神のお力を受け渡してくれる、そこへ導いてくれる存在なら、ありがたいって言うメリットが生まれるとも、思えますが、
そう言う話は、聞いた事が無いんですよね・・
パブリックな絶対神に祈る場合と、プライベートな祖霊神に祈る場合では、守護も願いの筋も変わって来ると、ここまで書いてきたのですが? まあ、個人的な意見ですけどね・・
親神様が、楽しく暮らせる、世界を作ったのに、人間には、心づかいは銘々に“我がの理” と言う自由が与えられていますので、その自由により、悪しき心使いが集積したから、親神様は、教祖様を天啓者として、神の理を説かれ、おたすけの事実を見せて、神の存在を皆に知らしめて、自らがぢばに鎮まって、再び陽気暮らし社会に向かう様に指導された訳ですね・・・
心使いは人間に自由が与えられていると言う訳ですから、だから、人は悪しき方にも、神の方にも、自由に進む事ができる訳ですね、それを憂いた 神が地上に降りて、再び理を説かれ、その理に従う事で、陽気暮らし社会に向かう事ができる・・神の理を学び、実行し、広めよ・・
おさすげは、道の路銀、神の理が存在する事の証明として、与えられた神業と言う事の様ですね。 神の理を学び、実行して広める、ようぼく、に与えられた、親神様からの守護の理の証明書と言った感じでしょうか?
今まで書きましたが、個々人の、背負ってる前世の因縁、因果と言うのは、人では、想像しか、でき無いんですよね、これを正確に知る事ができるのは、親神様しかいないと言えます。
教祖様は、天啓者ですから、その因縁も、悪しき心使いも、見通せるからできるんです、ですから存命の教祖様の手足となって、行えと言う訳です、言い換えれば、教祖様の代理を勤めよ、とも読めます。 一心に助かりを願っても、ようぼくの知恵で行使しろとは言ってませんよね? 存命の教祖様の手足となれと言ってる訳です。
いろいろな現象から、ここでも言われているし、私も思うのが、「理は人間には解釈できない。神のみぞ知る」と言う事ですかね。
HPのおさすげの解説から、持って来ると、親神様、この方の、心得違い、思い違い、因果を教えて下さい、どうしたら、この方の持つ因縁を成就して、心得違いに気がつく事ができて、陽気暮らしに導けるか、私に教えて下さいって言うのも、本来的には、おさすげと言えるのかな? そうしないと、いちようぼくが、人の知恵と学んだ理だけで導くのは、とてもじゃないけど、教祖様には、及ばないですし、ハイハイ言わないから肺に来ると言った、クオリティの低さが、現れてしまいますよね。
だから、おさずけの理を頂いても、ただひたすら真心で、親神様、この方の身上を助けて下さいって、おさずけをするしかない、祈るしか無いと言えます。
昔の布教師は、これ一つで、布教していた訳ですし、何より神の守護を得て、不思議なお助けの力が発揮できたから、皆、天理王の命の存在を信じて、帰依し、なむ天理王の命と、唱えた訳ですね。 難しい理の話は、後回しして、まずは、おさずけ理を発揮して、神の理の存在を知らしめていった訳ですね。
信者が、神の理を学んで、8つの誇りを払う努力をして、そう言う種を蒔いて行ったら、国中に、良い芽が出て来るわけですよね。 毎日のお勤めにより、その理を行使していかねばなりませんし、悪しき心使いを正して行けば、自ずと陽気暮らし世界が実現して行くと言えるのでしょうか? そうしたら、不思議と親神様の守護が得られて、みんな幸せに生きられる訳ですから、まさに天理教バンザイ! な訳です。
あれ? 何か現実とズレてるな・・・・・・・・・
「ぢばに一つの理があればこそ世界は治まる。ぢばがありて世界治まる」
「ぢば一つに心を寄せよ。 ぢば一つに心を寄せれば、四方へ根が張る。四方に根が張れば、一方流れても、三方残る。 二方流れても二方残る。ー残った所に太い芽が出る。」
「 「ぢば」は、人間創造を目的とする人間宿し込みの地であり、天理王命が鎮まり給っており、天理王命の十全の守護が根源的に宿されている霊地である。これを「ぢばの理」と云う。その理を汲む者は、その理の効能によって、病、むほんの根が切れる。これを社会に向ければ真の世界平和が将来に実現される。その証として、その地点に「かんろだい」が据えられる。 」
ぢばは親神様が、人間を作った原点である、親神様は陽気暮らし世界を作り、共に楽しみたかったのだ、その原点をぢばと定め、自ら静まり、みんなの祈りのメドウとなる、と言う事でしょうか? (個人的な意訳ですけど)
「 人のため、世のために一生懸命つくし、人や物、金銭を目標(めどう)とせず、親神様を目標(めどう)とし、一条に真実をつくしきることを「ふせこみ」と言います。」
親神様をメドウとする、神の理をメドウとして、生きることを、ふせこみって言う訳です。 金銭を得る事が目的では無い、人を支配する、支配される事を目的にしない、物に欲を持って生きない、あくまで、神の理を行使する、広げる、悪しき心使いを正して、皆が幸せに暮らせる陽気暮らし世界の実現に、身を捧げる事を、ふせこむと言う訳ですね。 (個人的な意訳ですけど)
「なにかめづらしつちもちや これがきしんとなるならバ(十一下り目七ッ)」と、本教では身をもってする神恩報謝の行いをも寄進としてお受け取りくださるところに、ひのきしんの面目があります。したがって、貧富や老若男女ろうにゃくなんにょの別なく、真実の心一つで、だれにでもできるものです。」
お供えする金が無いなら、教団に対する勤労奉仕の寄進もお供えとして認める、とも読めますけども・・
「やしきハかみのでんぢやで まいたるたねハみなはへる(七下り目八ッ)」とあるように、ひのきしんは本来、おぢばへの伏せ込みを第一義としますが、その理を受ける教会への伏せ込みや、より広義には、親神様のお喜びくださる行いすべてをも指すということができます。」
蒔いたる種は皆生える・・屋敷(ぢば?)は神の田地やで・・親神様の願いに、叶う行動は、やがて陽気暮らしの芽が生えると読める様な気がしますが・・個人的には、おぢば第一とは、読めないんですよね?
私には、どこかで、なにか? 捻じ曲げられている様な、疑念が浮かびます。
所属先の友人の教会長が、お供えは、親神様が守ってくださると言う、保険代の様な物ですから、健康保険を納めるのと同じ様な気持ちですって、私に言ったのです。
無い袖は振れないから、無いときは無いと言えますが、親神様、教祖様の手足となって、道一筋に生きていると、不思議に通ります。 生きて行けるお金と、おぢばにお供えするお金は、なんとかなるから、親神様の守護があるんです。 とも言います。
判りますよ、私は、この道一筋に生きる教会長をリスペクトしていますから、決して、否定などしませんが・・真似は、しない、できない・・
神の理を広げて、陽気暮らし世界の実現に尽力する事は、決して間違っていないと思いますので、否定はしない
ですが、教会はまだ中学生の長男に継がせると決めてますし、本人の選択の自由、心の自由、は認めないのか? 健康保険に例えて、まるで、おぢばにお供えを集めるために、親神様が守護の理を発揮して下さってるのか? の様な事、言って何か疑問に感じないのかな?
伏せ込みは、人のため、世のために一生懸命つくし、人や物、金銭を目標(めどう)とせず・・と言うのと、なんかズレて無いか? と言う疑念が湧きます。
種を蒔いたら、芽が出るんですよね?
お供えを、ぢばにしろと、親神様は言ったのでしょうか? そう言う教義は無かったと思いましたけども、なんでそうなってるのでしょうか?
お供えをする心を親神様は受け取って下さる・・それは判りますけど、お金は教団が受け取り、社会に還元すると言う訳ですよね? でも実際は、教団運営に使われ、教団施設に使われる訳ですよね。
うちの息子は、ひのきしんの代わりに、学費も生活費も要りませんけど、日当計算すると、5000円くらいで時給800円位になり、最低賃金を割ってる印象ですし、月2万のお与えで生活してる青ヘルの勤務者さんとかも、大勢見えるらしいので、お金の多くは、教団運営に使われてるのかと想像します。
だから2部生は、後から、一列会に寄付をする義務は免除されるとか・・
多額のお金こそ、悪しき心使いの元ですよね? なのに、多額のお金を、苦労して教団に納めるのは、なんか違わないのか? お金を集める本部に、悪い種を蒔く事になり、その悪い、悪しき心使いの木が生えて太い根を張ったら、どうなるのか?
お金が動くから、お供えするから、陽気暮らしになれないかもしれないのに、現代社会は、お金が無いと生きられないのだから、貧に落ち切って、生活保護を受けたら、陽気になれるのか? お金を稼いで、税金で納めたら、社会は回るのだから、税金払ったら良いんですよね?
今の、お供え体制、ひのきしん体制こそ、悪しき種を蒔いた結果、天理教の衰退を招いているのかもしれませんね。
理の親って、なんなのだろう?
私は聞いた事がないのですが・・教祖様を除けば、ようぼくは、皆、対等ですよね?
教会長や本部員の関係性は、あくまで、人間的な社会的な関係性であって、神とは関係ない
偉い人が来る巡教に、多額の謝礼を要求するのは、悪しき心使いじゃ無いですか?
教祖様、本席様を除けば、ようぼくは、皆一緒だと思いますけど、どうなんだろう?
そう言う経費のために普段からお供えしてるんだから、逆に、末端の教会に
日頃の布教活動、ご苦労様って、労いを込めて、持って来ても良いですよね?
世界は一つ、人類は皆、理の兄弟! と言う事で、無用な上下関係を無くすだけでも
生えて来た、悪しき芽を刈り取れると思うんですけどね?
もう、教団本部がどうなろうとどうでもよいことなんです。
中枢部の人達が奈良県での高額納税者に名を連ねていることを知った時に幻滅を感じました。亡き母は、国民年金の半分以上の額をお供えし続けました。これも、母の生活を支え続けた我々兄弟がいたからできたことなんです。それぞれの連れ合いにしてみれば面白くなかったと言われ続け、今更ながら後悔の日々です。
これが、天理教という宗教の実態です。苦しい時は無理をなさらないでくださいというような言葉を聞くどころか、教祖年祭だ、所属教会の年祭だ、上級の年祭だ、大教会の年祭だ、大教会の神殿建築だ、春秋の大祭だ、4月の教祖誕生祭だと、数え上げればきりが無いほどのお供え要請の連続でした。
特に、大教会建築費用の残債がなかなか減らないために全信徒一律〇万円のお供え要請があり、ご丁寧にも領収書を出すという前代未聞の愚挙に出たのです。住宅ローンと教育ローンを払う日々でしたが、母が達っての願いだと言うもんだから、現役時代でもあってしぶしぶながらお供えをしましたが、今、思えば天理教という宗教の恐ろしささえ感じているのです。
大教会の立派な神殿と教祖殿をわざわざ取り壊して、本部に向いて拝ができるように建て替えた神殿に何の意味があるのでしょう。今も、大教会報が時々来ますが、参拝者が減ったのか大教会の月祭に参拝しようなんてスローンを掲げているが、ざまーみろと言いたい気分です。夫婦で大教会に参拝しようと思えば、1万円がすっ飛ぶことが分かっているのかと言いたくなります。
息子が、たまに聞かれるらしいですが? お父さんは、ようぼく になったか?
ほんと、このままでは、信者が減るだけだもんな・・と、おぢばの勤務者さん達も心配しているらしいです。 それは誰でも、自分の所属する組織、会社が傾いて行くのには不安があると思います。
私は、息子が天理高校に進んだから、それから、いろいろ天理教について学び出した。
学んだ結果、見えて来た筋が、結局このブログに書かれている意見に一致してしまってる。
私個人の考察した事は、既に、ここにも書かれている事をなぞっているだけだと気が付いてます。
つまり、一般的に、特に困っていない社会人から見たら、改めて天理教に入信するには、至らないだろうな・・と思う。
私も、息子が、天理教信者でも構わないけど、卒業後は、一般企業に就職してもらうつもりであるし、息子も、天理教以外の、専門学校か、就職を希望しています。
天理教を信仰するなら、社会人として、常識的な範囲で、天理教と付きあって、自分自身の生き方を模索して欲しいと思っていますし、教団から無理な強制をされたら、直ぐに離れられる生き方をして欲しい。
できる事なら、息子にも、私と同じ神の道を歩んで欲しいけど、それは、強制しないつもりです、縁があるなら、息子の魂が、神のエネルギーを求めると信じています、生まれた時から、息子、息子の魂に、神のエネルギーで、湯浴みさせて来たし、今でも毎日、遠方から行っていますからね。
社会人として、自立していたら、別に困らないですよね? 天理教の教え自体は、悪いとは思わない
親神様を思って、自分の悪しき心使いを反省して、心の埃を払って、おぢばに参拝する事や
常識的な範囲で、お供え、ひのきしんをするなら、別に困らない。
教団に、憎しみを向ける必要も無く、過度な寄付は断って、派手なパレードも、お二人さん、恥ずかしく無いのか?アホやな? と思って楽しめば良いと思っています。
宗教団体に参加するなら、社会人として自立している事・・教団に個人の生活を干渉されない事、教団で働くなら、社会保障も一般レベルを要求する事が、大事ですね・・・・
もっともそれがしっかりしてたら、やたら宗教にはハマりませんが・・
メリットを論じるつもりが、結局、天理教を理解するのに役に立ちました。 自分で模索した上で、改めてこのブログを読み直すと、さらに良く判る・・まあ、まだ判ってない事いっぱいありますけども。
今、30代くらいで、教会長やっていて、子供が小さかったら、大変だろうなあ・・・と想像します。
社宅と安くても給料をもらえる、勤務者、作業労働者の方がマシかもしれません
住み込みや、布教者とか、もう時代に合わないよね?
教会を運営するなら、最低年間、500万円くらいのお供えは、欲しいですよね?
年間1万円のお供えなら、500人・・2万円でも250人の信者さんが要りますよね
250人なら、毎日2人回っても、年間2回以上は信者さんのところを回れますね・・
それで、450万円手元に残して、50万円上納しておく・・それなら、教会長でも
生きて行けそうな気もしますよね?
お供え(お金)は、浅く、薄く、広く、集めた方が集まります・・商売の法則ですよね
一般庶民を相手にするなら、高額な物品を売る不動産屋より、コンビニの方が良いかもしれません
教会を運営するなら、気軽に立ち寄れるコンビニの様な存在を目指した方が、現代にはマッチしていて
メリットが、生まれるかもしれませんね?
大真面目に、コンビニの様な教会と言うのを考えてみたいです・・(笑)
東風Zさん、こんにちは。
「教祖年祭だ、所属教会の年祭だ、上級の年祭だ、大教会の年祭だ、大教会の神殿建築だ、春秋の大祭だ、4月の教祖誕生祭だと、数え上げればきりが無いほどのお供え要請の連続でした。
特に、大教会建築費用の残債がなかなか減らないために全信徒一律〇万円のお供え要請があり、ご丁寧にも領収書を出すという前代未聞の愚挙に出たのです。」
自立した社会人なら、そんだけ寄進要請が来たら、適当にあしらって、距離をおきますよね?
お母さんの願いでは、親孝行だと思うしか無いですかね・・・・
お金をお供えする事に、喜びがあるのか? 強迫観念なのか判りませんが・・
これからの時代に、そう言うのはもう、流行りませんよね?
私なら、親でも、やめさせますが、東風Zさんは、親思いですね・・・・
ただの父親さんの書き込み ↓
https://rara.jp/hijirikenkyukai/
ただの父親 様
ですから、皆さんに言いたいのです。現行天理教には近づかないでと。
通い常詰めで幼いころから母に連れられて教会で過ごした日々が洗脳に繋がっていったのかもしれません。
余生は長くありませんが、神か仏か分かりませんが、信仰を止めて目に見えない魔物のようなものから解放された今、日々心軽やかな気持ちで過ごせることが大きな救いです。
匿名様
ただの父親さんのブログを匿名で引きずり出すことは、人として正しいことですか?
信仰のあるなしに関係なく、やっていいことですか?
ブログの紹介をする権利はただの父親さんにのみあると思います。
こんばんは? あれは私のブログではありません、私の会の私設掲示板です。
日神会は、会員同士の横のつながりが一切ありませんので、会員は、単独で信仰しています、だから、掲示板を作って、HNで、会員同士、自分の模索、神との交流の状態などについて意見交換をしてるんですよ。
管理人は私も良く知ってる会員ですから、荒れたら削除するだけです。
実は、古い掲示板で、会員同士割れて、仲が悪くなり、私のアンチがいたので、その方がこちらに来て、荒らすのを避けたかったのです。 アンチがこちらに迷惑をかけるのを避けるために、HNを変えているんです。
最近、やっと和解したので、その心配は無くなりました。
こちらでは、天理教の勉強を兼ねて、それについて模索をしてますし
あちらでは、会員同士の交流をしてるので、こちらとは内容は重なる部分がありませんので、天理教の方は見てもつまらないですよ。 大霊界信仰を前提に交流してるだけですから。
それと、会員では、私の実名を知ってる方も多いですし、天理教でも、息子の事があるので、実名がバレたくはありませんけど、バレても困らない様に、罵詈雑言、誹謗中傷は、一切しません。
HNと言えども、人としての信用第一で、書かせて頂いています。
天理教について、深堀していて、理の親っておかしいと思ったら、カインさんの過去投稿にあったり、改めて私が言う事でも無いけど、天理教の良いところ、変えられた所が、少しずつ見えて来て、良い勉強になっています。
ありがとうございます。
私がもし天理教の教会長なら、今何をするだろうか? どうやって教会に信者を作ったら良いのか? そんなことを模索しています。
「匿名です」さん、勘違いしてませんか。
ただの父親さんも書いていますが「掲示板」という場のようですよ。
私も拝見してみましたが、社会学でおなじみになっている人が別の場で書き込みをしていたのを見つけて書いただけなのでは?
ネット社会という場を理解できていないと、勘違いしがちなのかもしれません。
部外者排除という掲示板ではパスワードを設けて非公開にしている掲示板もありますよ。
今回の例はブログではなかったのですが、仮にブログであったとしても、これだけ天理教社会学の場で書き込んでいる有名人を紹介したとしても、別に悪いことでもないと思いますよ。
そもそも誹謗中傷しているわけでもなくアドレスを記入されているだけ。
ブログを書いている人は誰かに読んでもらいたいから書いているわけでしょう。
そもそも秘密にしたい人がブログを書くんだろうか。
勘違いの原因はネットリテラシーの問題・・・・ですかね。
ちょっと、世間話しですが、昨日の事です。
昨日は、義兄夫婦と久し振りに話す機会があったので、理の親について聞いてみました。 義兄夫婦は両方とも修養科を出ている、ようぼくで、月に一度おぢばに家族で参拝していますから、熱心な天理教徒なのか? と思ってたら、違った・・
先ず、結婚した理由は、天理教関係者の紹介で知り合ったのですが、当然ながら、所属教会が違う訳です、つまり、理の親 (教会長みたいですね) が違うので、結婚後は、夫婦はどちらかに (なるべくなら旦那の方に) 統一しなさい、それで、縁を切る方に、お供えを (手切れ金) を納めて下さいって、詰所で言われたんですと・・・
義兄は、それを聞いて、天理教から見たら、自分たちは顧客、お得意さん、なんだなって感じたらしいです。 なので、その件は放置して、夫婦でどちらの教会にも近寄らずに、おぢばに直接参拝する方を選んでいると言う事でした。 もちろん定期的なお供えはせずに、おぢばに、お賽銭だけ、お供えしてくるそうです。
教会に行くと、理の親とかいろいろ言われるし、お供えの話も出るから、なるべく近寄らないとハッキリ言います、どうせ行くなら、本場のおぢばに行く方が良いだろうと思って、おぢばに行くようにしていると言う事らしいです。
まあ、教会とおぢばの距離でいうと、おぢばの方が近いと言うのもあります。
義姉の母親が熱心で、義兄夫婦の子育てにちょっと事情があったけど、今落ち着いたから、親神様にお礼をしなさいって、言われて毎月一回行くようにしてる見たいです。
義兄に、実際、親神様ってなんなの? と逆に聞かれたので、別席4回の私が、修養科を出ている義兄に、天理教についてレクチャーをすると言う・・・
実は義兄夫婦は、無神論者だった・・・お付き合いで、若い時、転職の合間に修養科に行っただけ、親に言われて、嫁入り修行に修養科に行っただけで、本人には、まったくその気が無いと言うのが事実だった・・
(ただの父親) 君は、宗教とか、政治とか詳しいよね? 僕は全然興味が無いんだ、あはは・・ただ天理教ってのは、商売人だよね? 僕達は顧客かもね? 顧客の取り合い・・だから、教会とか、近寄らないよ・・あはは・・
興味が無くて良かったね? ・・普通の感覚では、理の親とか、手切れ金にお供えを下さいって言われたら、天理教は商売だねって? 思いますわね・・
理の親って、普通に出るらしいですけど、自立した社会人の場合、もしそれで命令伝達される様なら、たいがい違和感を感じますよね。 あたり前の様にお供えとか、言われたら、顧客かよ?って思いますわね・・・・それで教会から足が遠のくと言う・・・
修養科まで出てるのに、そんな風に思ってる人もいるんですよね? つまり、生き方とか心掛け、精神的な面で、導けていないって事でしょうか? それとも、導くより先に、お供え要員として見てしまってるのでしょうか?
教会長にそんなことを聞いたら、叱られますね? 本意では無いと言うでしょうが、側から見ると、理の親とか、御恩報じにお供えを・・なんて言われたら、一般的に、自立した社会人なら、え? 何それ? 商売?って思いますわね・・・・
ちょっと、感覚が、ズレてる感を感じてしまいますし、その感覚では、信者を増やすのは、難易度が高いと思います。
女房の実家は、義弟夫婦も別席一回だけお付き合いしてるけど、一切興味なし
祖母の弟が教会長だったけど、代替わりして現在関係無し、家族で、いわゆる理の親は、バラバラなんだけど、それは、天理教の事情であって、こちらの家族の事情では無いです。 生前、大叔父の教会長さんは、一族で教会を統一しようって、言ってたの聞いたの思い出しました・・みんな放置してましたけど。
義姉の母親は、熱心らしいけど、義姉の実家は、義兄の一族、つまりこっち側とは、関わりを絶っており、そのせいか義姉も、私らと普段は、一切行き来は無いんです。
義父母は基本的に無神論者なので、女房も義兄弟も、ようぼく! なのに、心では一切、神とか信じていないし、政治にすら興味が無いんだよなあ〜
一族、みんな一皮剥いたら、冷たい、自己中心の心を持つ人達ばかりかも・・
徳の無い人達・・・私の本音は、皆さん揃って徳の無い人達だよねっていつも思う・・
それでも、形だけでも、仲良くなっているのは、もしかしたら親神様の御守護かもね? いや、理の親がみんな違うから、実は家族バラバラなのかも・・
いや、義父母が小金持ちですからね、下心かもなあ・・私も、自分にそう言う気持ちが無いとは言いません、だから、義父母には、もう望まないって決めています。
そうで無いと、あとで義兄弟と骨肉の争いになってしまう・・
でもまあ、みんな生活に困って無いから、幸せだねって思います。 深く考えもせず、刹那的でも、お金に困って無いから、幸だろうね。
身内だからなあ・・向こうからは、神とか信仰とか、政治の話を好んでする、私の方が変わり者だと思われてますね・・
私から見ると、みんな、互いに不平不満をぶつぶつと、心の埃を払うことも無く生きている、心の向上、人間性を磨くと言う指向性も無く生きてる、それが普通で、向上を目指してる、私の方が変わり者扱いされてる・・もちろん、私は嫌われてはいないですよ 、財産とか、もう女房任せで、私は関わる気無いですしね・・・
血の繋がらない、甥っ子姪っ子を見てると、義兄弟によく似てる・・義兄弟も義父母によく似てる・・無神論ってのも遺伝しますね・・
だからと言って、明確に、身上、事情に現れる訳では無いんですよね。 徳の無い生き方、自分中心の生き方をしていても、この世は生きられるんです、商売で受けに入って高収入を得られたりしますね・・田舎で農業やってる私が、一番所得が低いみたいです・・でも、別に困らない、構わない・・・
ただ、私から見ていると、それぞれの心の持つ不平不満の声は、よく聞こえますけどね・・・
義兄夫婦の子供は、天理高校に行かないのか? って聞いたら、全寮制高校に行かせる気は無いし、毎月、おぢばに連れて行かれて、甥っ子姪っ子も、天理教には、もう興味が無いんだとか・・昨日、義兄と親神様とは、なんであるか? おさずけとはなんであるのか? 一生懸命喋ってる、滅多に会わない叔父である私を、奇異な目で見ていたと思います・・(笑) まあ、親が興味無いんだから、そりゃ子供もも無いだろう?って思いますよね。
うちの子は、好んで、おぢば帰りに参加し、天理高校すら、自分で志願して進んで行ったのは、たぶん、私の姿勢が、遺伝してるんですよね・・天理教にって言う事では無く、うちの子達は、小さな頃、霊が見えたりしたので、見えない存在とか、神様とか、無意識に潜在的に信じたと思います、だから、息子も、天理教に対して、今のところ、受け入れていますけど、それは理屈で洗脳されてるのとは違うと思います、親神様と言う存在、存命の教祖様を、無意識に受け入れていると言う事だと、思います。
親の私が、そう言う存在を肯定して生きていますしね。
心、精神的な、向上と言う事を、私は、我が子が子供の頃から、判る様に教えて来たし、私自身がそう言う生き方をしています。 それに、理論理屈で子供達を縛っていないし、自由にさせてもいる訳です。
信仰を持って生きる事ととは、教理教則で自分を縛って生きる様な窮屈な物では無い! 自分と向き合って、自分の心を向上させる、精神的に向上して行く方法を模索して生きる事だ、それを神様に導いてもらう事が、信仰を持つ事だよって、私自身は、実行してるし、子供に教えては来ました・・・
教会に近づくと、天理教に近づくと、縛られる・・窮屈になる・・と感じさせたら、子供は形では従っても、心は離れているのでは無いだろうか? などと思っています。
たぶん、大人の信者だって、同じ事だろうなって思いますよね?
私ごときが、あえて言わなくても、天理教信者なら、何をしたら親神様が一番喜んでくださるのか? 判ってると思います。
存命の教祖様の手足となって、人助けをしなさいと言う事でしたよね。
「人様がたすかっていただける道を知っていただくことであり、実行していただくことである。」
基本的に、陽気暮らし世界を目指して行く事、ですよね?
だから、教会にお供えを運ぶ事は、人間的な都合であり、道一筋の教会長の生活を支えてあげようと言う、善意ではあっても、それが目的では無いですよね。
上級にお供えを運ぶのも、信仰のメドウである、おぢばの維持管理費を支えるのが目的であって、それ以上の目的では無いはずですよね。
教団が、信者に成り代わって、社会に還元すると言うのは、判りますけど、だからと言って、お供えを強制される必要は無いし、自分が苦しくなるほどする必要も無いでしょう?
末端の信仰者が、苦労してまで、上に上にと、お供えを行う事を、親神様が望んでいると考える方が、一般的には、あり得ないと思います。
親神様は、我に対するお供えは、できるだけで良いから、天の理の道を広げて欲しいんだけど・・と想ってませんかね? だから、お供えはできるだけ、出せるだけで良いんだと思います。 自分が助からないほど、出す必要は無いですよね?
団体が、次から次と、寄進を要請するのは、教勢拡大と言う、ただの悪しき心使いかもしれません。 教えを広めるのと、教勢拡大とは、ちょっと違う面があると思います。
分教会が、大教会を支える道理って・・神の理ってあるのでしょうかね?
息子の事でも、私の知らない大教会長の判子が要る様になってるから、無関係でいられないけど、それっていたって人間的な都合に過ぎませんよね?
私の様な、大人になって、関わった人間は、基本的に、この様に感じます。
私が、もし天理教で救われていたら、布教活動とか、おさずけを取り次いで歩くでしょうし、助けて下さった教会長、布教師に、常識的な範囲で、お供えをするかもしれませんが、もし寄進要請が常態化したら、やはり、離れると思います。
私の友人が、親が亡くなって、天理教だったんだけど、神具の処分について相談を受けました・・教会に持って行っても良いけど、天理教はお金が必要だと聞いているから、怖くて寄れないって言うんです。
一般的に、天理教は、金が要る、寄進を要請されると言う印象を持たれているんですよね? これで教会に人が寄って来ますかね?
私は、別に処分しても大丈夫だし、気になるなら、教会に、ありがとうございましたって置いてくれば良いよ・・なんなら処分費として、五千円も包んで置いて来たら良いんじゃない?って、アドバイスしました。
前にも書いたけど、天理教はその流れ上、倫理的にお守りと言うのは発行できないんですよね。 もちろん、赤着を刻んで分けるお守りがあるみたいですけど、一般的には無いんですよね。
末端教会で、信者さんに、年一回、親神様の守護の証と言う証文、お守りと引き換えに、例えば 1万円〜2万円の寄付を頂き、何もなくても、教会長のおたすけも受けられる・・とか、希望者には、守護の証を、1万円で渡して、おたすけも受けられるとか、あったら、教会経営も少しは楽になりませんか?
人は、ちゃんと目に見える証には、お金を出し易いんですよね?
出し易い金額設定もありますからね!
無用な寄進要請は無いと判れば、教会にも立ち寄り易いですよね?
実際は、そうですしね・・私は、幸い、金金言う教会長には、まだあった事は無いですから、そう言う印象は持ってませんでしたけどね。
田を売り払って助けたまえの天理教って、誤解されてますけど、本当はそうじゃ無いはず・・と思いたいけど・・・・・
同級生の家は布教所ですが、商売屋ですから、実際は金も十分持っています、信者5人しかいないけど、生活には困って無いですしね、だから、愛町分教会みたいに、自らが大教会化せずに、布教所を増やしたのは、関根豊松さんが、きっと先を見通していたんでしょうね・・そんな印象を受けます。
おカネが要る宗教は天理教だけではありません。
もう、40年も前のことですが、縁が切れているはずのお寺から父母宛に次のような文書が届きました。
今回本堂を修理することになった。ついては、あなたの所は6人の子どさんが居るから1人当たり5万円、合計30万円の喜捨をお願いしたい、という内容のものでした。両親はビックリして父の兄弟(伯父・叔母達)に問い合わせたところ、お寺は男女を問わず全ての子供の数を知っていて、それぞれの伯父叔母に請求が来ました。
一番上の伯父だけがお寺に繋がっていたので、父母始め叔父叔母たちは、そこから情報が漏れたのだろうと言っていました。
父母はどのように処理をしたのかは聞いていません。少なくとも自分は一切寄付をしていません。
宗教におカネが要らない宗教なんてあるんでしょうか。金額の多寡を問わず必要のようです。
死後は葬儀も要らないし、直送で火葬場へ直行して、遺灰は若い頃に住んでいた市の公共の墓地に入れてくれと遺書を作ってあります。子供たちは勤め先の関係から、そのようなことはちょっと出来ないよ、と言っていますが、死後なんて全身麻酔を掛けられている時と同じだと経験から分かり、後のことは残った家族がいいようにすればいいだけのことです。
そのようなことに心馳せるのであれば、生きている内のことを考えることの方が大切でしょう。
認知症を恐れていても何も解決しません。妻に、あれを取ってくれとか、これを洗っといてくれとか言わずに自分で動いて、日々のこまごまとしたことを、まめまめしく体を動かすことが何より大切だと思って生きています。風呂・トイレの掃除は勿論、食器はすべて自分で洗う、パンツ・靴下も洗う。大きなものだけ洗濯機。妻は不経済だと言うが風呂の残り湯を使えばいい。生きる知恵は周囲に転がっています。
お寺の維持運営は、住職とは関係なく、檀家で構成する、護寺会が行います。 住職の収入は、法事、葬式、盆正月の檀家周り等のお布施であって、護寺会からは、出ません。
私は、曹洞宗のお寺の檀家総代を務めさせて頂いていますので、良く知っております。
おそらく、護寺会から、寄付の要請を親族まで行うと言う決定が出たのだと思います。 住職は、希望を言うだけで、決定権は檀家にあります、こう言う点で、お寺は本来は、檀家のものなのです。
仏教も、金がかかります、現住職の晋山式の時、我が家は80万円拠出しています、旧家なので、名誉を込めて親父が出しました、バブル期で余裕もありましたしね。 ところが、最近、お寺の耐震補強の為の拠出が、一軒平均70万円と言う話が出ましたが、総会で否決されました、田舎は跡取りも都会に出て次がいないから、もう過度な拠出は断りたいと言う意見が多数でした。 地震で建物が倒れたら、その時考えようと言う様な話になりました・・住職は残念だと思ったでしょうけど、そう言う物です。
お寺は、意外と、民主的に運営されていますよ。 何しろ、豊臣秀吉の時代から、檀家になると言う、そう言う強制的な文化システムからの現代ですから、やむを得ない部分もあります。
自由信仰の新興宗教とは、ちょっと違いますよね。
天理教の教会は、信者に運営権はありませんしね? あくまで自由信仰の存在ですから、嫌なら拒否、離脱、放置しても、地域のつながりを失う事も無い訳です。
経済的に自立した、社会人なら、出すも出さないも、自由です。 いくらまでなら出しても良いかってのも、個人的な物ですしね。 だから、天理教に参加していても、無理強いとか、拒否したら良いんですよね。
お寺も、承諾できなければ、事案に反対は、可能ですからね。
承認してない喜捨の要望は拒否できます。
お寺は、地域の付き合いもあるけど、一応議決権が、あるので、天理教とは違いますけど、天理教だって、自立した社会人なら、拒否できるから、実際、困らないでしょう?
だから、お寺の建物を建て直すと言う事も、決めるのは護寺会であり、住職ではありません。
もちろん、議論した後で決定したら、負担の義務はあるし、個人の事情も、斟酌されます。
住職が、勝手に、建物をいじる事は出来ませんが、逆に、住職が個人所得で、住居部分を直すことは、自由でした。
教会をあらた普請したから、お供えちょうだいって言われたら、道理が無ければ、嫌ですよね?
自立した社会人になら、嫌なら離れると思いますけど・・・
苦しい、嫌だと思いながら、拠出すると言う事が、あるんでしょうか?
それなんで? と、思っています・・・
新興宗教は信者に運営権はありませんが、天照皇大神宮教のように、信者の献金に依存せず、収益事業からの収入ですべてを賄っているところもあります。
こんにちは、そうですよね、3月頭に、ここにも、伊勢神宮について書いておりますけども
宗教法人の収益事業には、パターンがありますからね・・
天理教は、教義でそれらを否定してしまっているので、鉄板の収益モデルが作れ無いですよね?
だから、やたらと寄進要請しかでき無い状態に陥っていますし、子である教会に対しても
収益装置を提供でき無いから、苦しくなると、指摘した訳ですよ・・
ただの父親の考える、天理教のメリット、本部では無く、末端教会の信者を集める方法についての、一つの模索を書いて行こうと思います。
もうしばらく、くだらないお話を、書かせてください。
ただの父親が、教会を持ったら、こうして見ると言う、模索を書いてみます。
>鉄板の収益モデルが・・・寄進要請しかでき無い状態に陥っています
本部は建前の道一条を通したいでしょうから何も期待できません。掲示板には立地に合った商売として具体的な提案も多少はあるようです。ただ、いいアイディアを実行したくても本部が人間思案と却下すると、大教会関係者が嘆いているという投稿もありました。
どちらにしたって、変な宗教に近寄ったらだめです。だったら、変でない宗教があるのかと問われれば、分からないというしか答えられません。私に限っては、どのような宗教にも二度と関わりたくありませんから。時間とお金の無駄です。天理教を離れて6年余、ごく平凡に過ごしてきました。天理教がどうなろうと知ったことではありませんから気が楽になりました。
どこどこを修理するのに、お運びだ、お許しだと、何を騒いでいるのかと思ってしまいます。
行政ですら改革が進んで、車庫証明一つをとっても非常に簡単になりました。天理教は何をやっているんだか。何かをやろうと思えばおカネが動くだけのことでしょう。そのようなことは社会学の欄でさんざん言われてきているにも関わらず何一つ変わらない体質、本当に〇〇としか言いようがありません。
ただ、天理教から学んだいい部分がありますから、大したことは出来ませんが、例えば、目の不自由な人を見かけたら積極的に声掛けをしようと思っていますし、散歩中に落ちているゴミを見つければ、持っているビニール袋に入る範囲で拾うことくらいです。一斉ひのきしんデーに参加するなんて、これ見よがしで嫌ですね。
宗教が金儲けを考えるよりも、おカネの要らない宗教にするにはどのようにすればいいのかを考えるべきです。
学校法人法の適用の学校なんか作るよりも、純粋な教学を追及する研修所を作ればいいだけのことじゃないですか。
どちらにしたって、今更どうにもなりませんよね。
こんにちは。 私は勝手に、自分の模索を書いてるだけなので、他の方の発言を妨げるつもりはありません。
だから、天理教のメリットというスレッドだけに、絡めて書いていますので、お願いいたします。
私の言う事が、うざいと感じるなら、スルーして下さいませ
お寺だって、田舎は檀家が減って、葬式法事盆正月の催事の量も少なく、住職の収入は安定しませんから、昔は公務員兼業もありましたけど、今はできなくなって、住職も大変かと思います。 特別な観音堂を建てて大勢の参拝者で賑わう寺院の場合も、収益は護寺会に入り、そこから住職になんとか代とかで入るはずです。 精進料理のプロの住職なら、護寺会の承諾を取って、建物を改造して、精進料理カフェとかもできるらしいです・・お寺でマルシェを開催して、自らパンを焼いて売ってる僧侶の知り合いもいますよ・・僧侶の所得とお寺の経営は、別になってるので、住職は檀家と話し合って、自分が生きてく方法、お寺の維持を、みんなで考える事もできます。
おぢばで、肉フェスとかやってるんなら、教会でマルシェとか、やっちゃダメなの?って思いますよね? 天理教とは程遠い、ヘイト作家を招いて講演までしてますやん・・これだって、私には、時期真柱様の迷走だと受け取れますけども・・
教会長が個人的なセミナーとかやるのもありそうですけど、そんなスキルを得る事が出来ますかね? 教会に生まれ、教会に育ち、天理で学校を出て、教区で布教師を行い、若くして教会に入った、あるいは本部で勤めてる方は、ある意味、道一筋の天理教エリートなのかもしれませんけど、それで世間的に需要のあるスキルを持てるのでしょうか?
私がスピリチュアルな話をしただけで全否定か、意味が無いと避ける様な人に、セミナーとか、生き方のコンサルタントってできるのかな? って感じました・・
宗教者なら、生き方、人生のコンサルタントが出来た方が良いですよね? 確かに、天理教関係の良い書籍もありますからね・・でもそう言う本を書く人は、自ら悩み、天理教の教えを学んで、自分で模索して切り開いてませんかね? 一方的に学んで、頭に納めて、出てくる物では無いと思いますよね?
私も、いろいろ書いてますけど、これは、私が生きながら、一心に自分の御守護神に祈りながら、導かれながら、他にいろんな人、斎藤一人氏とか美輪明宏氏の著書とかも読んで、模索してきた事であり、どこかの本を引用して書いてる訳では無いんです。 だから、どんなパターンの話が来ても、そこから自分で模索して、答える事が出来るわけです。
信仰者って、神に祈り、神に導かれながら、自分で学んで模索して、生き続ける・・ずっと模索を続けて、自分を向上させ続けて行く物だと、私は思います。
だから、人の上下関係は、求道者として先か後かはあっても、最初から固定された上下関係など、心では一切関係無く、誰に対しても、本来は謙虚礼節になりますよね?
私が、教会長や布教師なら、天理教を主体とする、信仰者であり、求道者・・
その上で、人を救う、道を広める為に、一体何をしたらいいの? と自ら問い詰め、いろいろ学び、模索して生きる事になるだろうな?って思います。
なるべく、上納金やお供え、お金に悩まされない生活がしたいですよね・・
もちろん、東風Zさんのお話にあった、退職金が出たろ? なんて真っ先に信者に言う様な教会長は、視界にも入らないです・・
教会の境内でフリーマーケット程度ならやっているところはありますよ。ただ安宿等の商売を恒常的にするのは嫌がられるようですね。(道一条の建前を押し通すのはすでに限界ですが)
戦後に隆盛した新興宗教ですら、今の時代に合わず信仰の継承がないのですから、江戸時代の感覚の天理教では感覚ずれまくりで、これからはお供えでやっていくのは不可能なのに。
天理教が徹底的に嫌になった理由は、お運びとお許しという一連の行事を体験したからです。
大の大人が大教会長以下、当該教会長、当該教会の役員及び部内教会長の一同が金魚の糞のように教祖殿に集まり待たされること2時間余。
服装も羽織袴か、それともおつとめ着に白鼻緒の下駄ばきでないとだめ。一日で2度のお運びがあり、一回目が早くにあり、2回目は、また、行列の最後尾、寒さをこらえて待つこと約1時間。最初の待ち時間と合計すると2時間近くの時間の寒かったこと。1分にも満たないお許しのために大勢の人体が寒さをこらえて待つ姿を見て、これは一体何だと思った。
一連の行事が終わると、大教会長以下が会計へ行き分厚い御礼を渡していた。真柱の奥方にまでお礼が入っていたようだ。
だから、教団幹部は奈良県の高額納税者に名を連ねることが出来るのか。
この馬鹿馬鹿しい行事に参加して熱が冷めてしまった。何のことはない、金集めにしかすぎないのだ。
真柱の一言「許す」って、何を許すのか。雨漏りがする屋根を治すのに、許さなかったらどうするのと問いたい。信仰のメリットって何?
続投失礼します。
以前、遠くの行政書士さんからお宅の近くの県道の幅員証明を取って送ってくださいとの依頼がありました。
宅の近くの方が、マイクロバスの観光事業の免許を取るのに必要だったそうです。ところが、この行政書士さん曰く、国道だったら幅員証明は要らないんですよと言っていました。冗談じゃない、国道だってマイクロバスが通れない酷道があるだろうにと思たのです。暗峠なんか、その最たるものです。
これって、行政が権威を保つためにやることなのでしょうか。件の県道には大型の路線バスが運行されているのに今更、幅員証明が必要なのと思ったのです。
天理教のお運びだって、権威を保つためとおカネ集めのための行事なのでしょうね。教祖が教えられたことではないと思っているんですが、どうなんでしょう。
近くのお宮では、袋に入れた砂を厄除けとして売っています。ちゃんと祝詞を挙げていると書かれています。転居の際に屋敷の四隅に巻いて厄除けをしてくださいと言うようなことなのでしょうか。天理教も似たようなものです。ウッカリ、家の壁を塗り替えるとでも言ようものなら、お願いつとめをしようとか子供の入学には安全祈願祭をしようとか、結局おカネですよね。
結論は、権威とおカネの結びつきですね。
余談ですが、7年前に大病を患いましたが、優秀な医師に巡り合えて以前より良くなったのです。公立病院の先生なのでお礼をすることができません。かえて、それ以来、国境なき医師団に毎月寄付を続けています。天理教にお供えをするよりもよほど喜ばれると思っているんです。
お運びなんて本当に下らない。上級会長就任時、お運びの金魚に要請されたが、あれこれ理由をつけてお断りした。馬鹿馬鹿しくてやってられない気持ちが頑として変わらないから。
自分の時、真柱の苦り切った顔を頭を畳にすりつけて下から見上げて見た時、自分は何やってんのかな?とげんなりした。みんなで学芸会のバカ殿劇をやってる様な錯覚を覚えた。
ましてや迷走している人生経験も何もない次期若造君に何を許してもらうの。許してもらわんでも良い。修理はこちらの資金でやるんです。1円出してくれる訳じゃない。「地域の人助けの教会」としての修繕をきっちり責任を持ってするのだから自分の都合で勝手にやったら良い。本部上納の様な不必要な捨てるようなお金が余分にあるはずがない。神が怒る訳もない。
お運びは、「会長変更」だけではなく神殿や教職者などを新築、もしくは改築するなど、いわゆる「普請」などをする時も必要になります。
いずれにしても、教会に関わる大きなことで変更がある場合は、まず本部に願いでなければなりません。(原則的に。。)
願い出るそれらの儀式全般を「お運び」というわけですが、このお運びをすると漏れなくついてくるのが「奉告祭」というやつです。
お金かかります。
お祝い事なので、めちゃくちゃ振る舞います。
コムヨシさんのブログより引用しました・・いろいろ大変ですね・・
東風Z さんの話は、判ります。 国境なき医師団に毎月寄付を続けています。天理教にお供えをするよりもよほど喜ばれると思っているんです。
そうですね、多分、親神様もその方が喜ばれると、私個人は思います。
ただ、うちの地方は、土地をかまう場合、伊勢神宮の猿田彦神社のお砂を頂いてきて、お清めに撒きます。 これはたいがい、年初に地域の氏子が注文を取るので、予定があれば注文しますが、千円ですからね・・これで、土地の厄祓いとして気が済むなら、安いものです。 私も、付き合いで注文しますからストックしてます・・(笑)
神社のお賽銭、御守りって、千円程度です。 お祓いやっても、五千円、安心感の為のお賽銭、安いものです。 この程度の収益事業を宗教が行うのは、問題無いでしょ?
お運びは教団内の行事、教会には、本来は道の路銀、鉄板の収益モデルとして、おさずけがありますけど、それをさらに巻き上げる本部の鉄板事業の様ですね。
教祖様、親神様の想い、教えは一切関係ない、本部の収益事業でしょう。
キリスト教で、良く言われるのは、キリストは、荘厳な教会の一番高い所から、豪華な衣装を着て、信者に教えを説いたのか? と言う話があります。
まさに、天理教も、教祖様は、二時間も待たせて、許すの一言で、お供えを受け取ったのか? そういう儀式を真柱様の路銀として残したのか? って思います。
違うでしょ?
自分が天理教徒として、親神様の思召しに沿って生きるなら・・布教者、布教所くらいが、良いですね・・その方が、煩わしく無くてスッキリ生きられそうです。
その方が自分の判断で、道を歩けますよね? なまじ教会長になんてなると、要らぬ人間思案、悪しき心遣いの集積に巻き込まれかねない・・
コムヨシさんも、就業経験も、社会経験も無い、貯金も無いのに、信者もいない、金もない教会の後継者に、なんでなったのかな? なにか権威が欲しい? 地位が欲しいの? 信仰者なら、仕事しながら、布教する布教師、または布教所をやっていたら、生活も安定するし、なまじお供えを期待する必要が無いだけに、伸び伸びと、布教と信仰出来るんとちゃうか?
専業の道一筋にこだわるのは、正しい選択なんだろうか?
私個人は、その様に考えてしまいました。
匿名さんの、感想や、東風Zさんのコメントについて、私個人は、それが普通の感覚だろうって思いますよ、それが、一般的な、感覚だと思いますけども・・・・どうなんだろう
寺や宮とて専業でやっているところは決して多数派ではなく、キリスト教も学校や病院等を運営しているのに。専業=献金でやるという考えは古い。
こんにちは、匿名さんのおっしゃる事、良くわかります、組織を運営する為には、事業が必要ですし、それは、宗教団体として、望まれる物、好まれる物であった方が良いと、私個人も思います。
私個人の話を続けさせてもらいますね・・・・
愛町が分教会のままであり、下部を布教所にしているのは、無用にお運びなどの、本部の干渉を避ける為なのでしょうね?
それ自体は、関根豊松氏は、天理教団を良く知っていて、考えていたとも言えますよね、愛町自体が独立できる程の小さな団体として、組織されている訳ですし、本部、上級からの干渉を避けられる様に先を見通して作ってあるんでしょうかね?
私個人の意見は、それ自体は、先を見越した手だててあって、関根教と言う批判がある様ですが、無用な干渉を避けて親神様、教祖様の信仰に専念できる体制だとも思えます・・もっとも、関根豊松氏自体が、擬似的に教祖様の様な存在として崇拝されてる様で、天理教から見たら、異端になるでしょうけど、愛町傘下の信者にお供えが苦しいと言う教会長がいないなら、それはそれで良いんじゃない? とも思えます・・
良くは知りませんけど、関根豊松氏は、かなり卓越した存在であって、愛町の2代、3代が、その (能力 ) 初代同様の、おさずけ、霊能力を発揮できず、お話だけなら、愛町も形骸化してしまうだろうと思っています。
私の話は、ふ〜んって参考程度に、読んで下さい、怒らないで下さいね。
私個人のお話をすれば、日神会は、全国規模で、愛町分教会より小さな団体です。
普通の宗教の様に、会員組織は存在しないし、良いお話も教えも無い・・ひたすら御守護神を信仰して、直接、御守護神に上に導いてもらう方法は、神のエネルギーを感じられない、信じられない人には、インチキ!としか思え無いでしょう・・
英国スピリチュアル、シルバーバーチ、日月の神事とか大本教とかと同じ、霊界信仰は、なんだかんだ言っても、この世の人間の上下関係、この世の諸問題と、神への信仰を切り離して考える事が出来ます。
荘厳な神殿も、大層な儀式も、決まり事も、人間の都合であり、神々が望むものではない! とハッキリと言えます。
ただの父親の信仰心は、大霊界の神々のみに向けられているんです。
もし、私個人が、天理教を信仰するなら、親神様のみに向き合い、存命の教祖様のみに師事して、その手足となって教えを広げる事に専念したいなあ・・
私も、無用に人間的つながりが欲しくて、神様とか言ってる訳では無いんですよね・・だから、多分、教会長とかだったら、団体行動の時は、自分を殺して合わせるだろうか? どうするんだろう? 正直、めんどくさい・・と言う印象です。
おぢばの、朝、夕のお勤めにも参加してみて、確かに、大勢の人と一体感の様な物は感じましたけど・・自分の目指す信仰・・と言うのとはちょっと違うかなあ・・などと思いました。
コメント欄ジャック! と言う感じになり申し訳ありません。
ほかの方の意見を妨げるつもりはありません。
私個人は、天理教を否定もしていないですし、息子が天理高校に在学中です。
大霊界視点で、親神様の存在を信じていますし、実のところ、親神様のエネルギーを直接引く方法
親神様の想いを直に聞く方法を模索中です・・教祖殿で、存命の教祖様と霊的に交流することも
おぢばに行く度に、試みています・・そう言う事を心で模索しています。
中山教とか現行本部に興味はありません、確かに、今は中山教だと思います。
教祖をペテン氏などとは思っていません、教祖殿には、教祖様の存在を感じます。
まあるく光る光体、お前の声は聞いているぞよ、と言う想いまでは、なんとか判ります。
他の方のコメントを妨げるつもりも否定するつもりも、まったくありません。
ありがとうございます、感謝しています。
真柱氏のお顔を見て、ほのぼのとか豊かな顔になれますか。私は、お世辞にもなれませんよ。
酒井雄哉さんの話を聞いたときは、悲喜こもごもであっても、何ともいえない、ほのぼのとした気分になりましたよ。苦労と言いますか、波乱の人生を経験した方と、そうでない方の違いでしょうね。
以前、大霊界シリーズを読んで、仏壇の前で、隈本氏の顔を思い浮かべながら、浄霊などをお願いしたことがありましたが、何の変化も感じませんでした。本の裏表紙に載っていた写真の、隈本氏の風貌は、失礼ながら、神々しさや福々しさというものを全く感じられなくて、中小企業のおっさん、というイメージでしたので、もう一つ必死さが足りなかったのかもしれません。
ただの父親さんの仰ってることに嘘は無いと思いますが、私は、どうも隈本氏に胡散臭さを感じます。
魂の親様の力をお借りして、銀河系宇宙を無数に見ただの、宇宙の果てまで飛んで行っただの、誇大妄想狂と言われかねない。そう言ってる人は隈本氏本人だけで、誰もそれを証明できる人は居ない。隈本氏を芯から信じ切れなかったからでしょうね。いくら隈本氏が凄い能力を持っていたとしたって、「自分の顔を思い浮かべて、先生、お願いします、と願いなさい。」と言ってることに、何やら、従いきれない心があったのでしょう。
しかし、ただの父親さんの悟りや信仰にケチをつけるつもりはありません。ただの父親さんにとっては真実だろうと思います。
こんにちは。 匿名さんのおっしゃる通りです。
だから、私個人は、人に布教する気は無いんですよね。
人に見せることはできませんが、浄霊をやってあげる事は出来ます。 身内ですが、娘は、私が気合と共に送った時、パッと真っ白な光が体中に飛び込んで来ると言います。 ただ、慣れてしまうと、体感は無くなります。 娘には、痛みの軽減、回復などに結果は出ています。 他人でも、体が、あったかくなる等の体感が起きる事がありますけど、第三者が、プラシーボだと批判しても、証明できません。
普段からの、心の管理、想念の向上からの、私の人柄でも、判断してもらう必要はありますから、想念管理、悪しき心使いの排除も重要だと思っています。
個人的に祈りで得られるエネルギーと神からのメッセージと言うのは、本当にエネルギーであり、導きも、明確な声では無く、行動と努力、模索の中に、必要に応じて浮かんで来る様な感じですし、振り返ると、明確に守護を感じる・・と言う感じです。
低い世界ほど、見えたり聞こえたりしますけど、高くなればなるほど、人間には、見えないし聞こえないんですよ。
私が言いたいのは、信仰ってのは、そう言う個人的なものであり、神に導いてもらいながら、自分を制して、模索して向上を目指すものでは、ありませんか? と言うことです。
確先生は、世俗的で、明るく、下ネタも話す、陽気な方の様でした。 全然偉ぶらない、気さくな教祖でした。 職員の方も、みんな、優しく気さくな人がほとんどです。 残念ながら、私は、確先生には、ビデオ講演でしか見た事がないのですが、知ってる会員は、みんな確先生が好きです。職員は知っていますけど、偉ぶる人は一人もいません。 人を信仰する宗教ではありませんし、当然でしょう。
だから、私が、天理教徒だとしたら、この人間関係には、いやになると思います。 特に、人の上下関係、威張られたら、一番嫌です。 理の親の言う事を聞け! と言われたら、すぐに逃げます・・・・
追記、補正 布教活動をしないと言うのは
実際に、私の浄霊とか、自己浄霊で、エネルギーを感じたり、身上が治ったりして救われた! と思わなければ、とても信じられない話だからです。
救われた! 神の存在を感じられる、信じられる! と言う人しか続きませんし、不信感があれば、なおさら、感じる事は出来ません。
わかる人は、自然と入ってきますから、無理に勧めても、意味がないんですよね。
長くやってると、霊感やそう言う世界も見えてきますし、明確なメッセージもありますけど、根拠を示せないですしね・・
そう言う意味で、匿名さんのおっしゃる事は、もっともであって、私も、そう言う物ですね?としか言えません。
もし 私の話を聞いて、興味が湧いたら、挑戦して見てください・・くらいですね。
お近くなら、他者浄霊をして差し上げますけども・・(笑)
社会学は、大切な場です。
個人的な商いのようなコメントはいかがなものでしょうか?
天理教に関わって大変な思いをしてきた人達、もう少し自分の力を信じてください。
>もう少し自分の力を信じてください。
本当にそのとうりですね。もっともっと信じてもいいんじゃなですか。人助け、と言いますが、与えられた職責や立場において真摯に取り組んで、余力があれば寄付をするなり、ボランティアにはせ参じるなり、方法はその方の立場によって変わってきても結果は同じだと思うんです。
ただ、天理教の一斉ひのきしんデーは、ちょっと共感を覚えません。何か、これ見よがしに感じてしまうんです。どこそこの地区や所属教会には何名の参加があったなんて統計を取る必要があるんでしょうか。
天理時報は、多くの方が勇んで参加していました、だけでいいんでしょうに。
それよりも、日々の生活の中に人助けの方法はあるんじゃないですか。自信をもって信じる道に進みましょう。
今こそ、天理教の信者さん方は信仰の在り方を一考するときだと思っています。
見えない世界を、あまりにも過大評価してしまう危険性、詐欺師に騙される危険性。
もう充分、天理教で味わってきたではないですか。
物事の本質を見分ける力は自分にある!と思ってもいいのでは。
東風Z 様
2019年4月6日 10:57 AM
>人助け、と言いますが、与えられた職責や立場において真摯に取り組んで、余力があれば寄付をするなり、ボランティアにはせ参じるなり、方法はその方の立場によって変わってきても結果は同じだと思うんです。<
全く同感です。私は、生活の糧を得るために一生懸命働くことも、最終的に人助けに通じると考えています。世の中は、色々な職業をしてくださる人達によって成り立っています。医師や看護師の仕事は人々の命と健康を守るための人助けです。老人介護施設や障害者福祉施設で働く人達の仕事も立派な人助けです。警察官や消防士、自衛官の仕事も世の治安や災害救助現場で人命を守るための人助けです。自動車や歩行者が安全に便利に通行できるように道路を維持補修しておられる作業員の仕事も立派な人助けです。電気工事や水道工事、ガス工事等、人々のライフラインを維持補修する仕事も立派な人助けです。自分に与えられた職責を一生懸命果たすことは、とりもなおさず、人助けに通じます。本来の天理教の教えでは、「働く」ということは「はたはたを楽にすること」だと教えられていたはずです。「はたはたを楽にすること」とは、人を助けることです。使途不明の法外な「お供え」を上級教会や教会本部に納めることが人助けではありません。
>天理教の一斉ひのきしんデーは、ちょっと共感を覚えません。何か、これ見よがしに感じてしまうんです。どこそこの地区や所属教会には何名の参加があったなんて統計を取る必要があるんでしょうか。<
毎年、年1回開催される「全教一斉ひのきしんデー」は、天理教のPR、街宣活動だと私は考えています。本来の天理教の教えでは、「ひのきしん」とは神様に生かされている人間の心身を神様に感謝を込めて世のため、人のために使わせていただくということであったはずです。毎年1回だけ「全教一斉ひのきしんデー」という「鳴り物入り」で行うものではないと思います。1年365日を通して、道ばたに落ちている紙屑やタバコの吸い殻、空き缶等に気づいたら「人知れず」拾い集めて清掃することも立派なひのきしんです。天理教上層部の方々は、普段からそうした心がけを持ち、道ばたのゴミ拾いや、公共施設のトイレ清掃等をされていますか?
某大教会の敷地は夏になれば、雑草が生い茂っていますが、敷地の外側(一般道路)を通行する歩行者や自動車から見れば、大変見苦しいものです。毎日、例え、少しずつでも大教会長家族や、役員家族、住み込青年等が除草すれば、あんなにも草が繁茂しないはずです。大教会にその旨を連絡すれば、草刈機械の使い方が分からないとか、時間がないので出来ないという理由で一蹴され、結局、秋になってから専門業者に依頼して除草してもらっているようです。はじめから、除草作業をする気持ちすら無いということです。
「全教一斉ひのきしんデー」の実施場所として、よく公共の公園が利用されていますが、ある公共の公園で働いておられるシルバー人材センターの方に伺ったお話を紹介させていただきます。「ひのきしんデー」の参加者は、除草後の草やゴミを入れるゴミ袋を自ら持参することもなく、事前に地方公共団体が購入しているゴミ袋を使用し、そのゴミ袋が一杯に詰まりきらないうちに封をし、所定の場所に山積みにして帰るそうです。公園の職員やシルバー人材センターの方は、翌日の午前中に山積みのゴミをトラックに乗せて、ゴミ処理場まで搬送しなければならないので、人手も少なく大変な作業になるということです。公園職員やシルバー人材センターの方が言われるには「全教一斉ひのきしんデー」なるイベントは「ありがた迷惑」以外の何ものでもないとのことでした。また、イベントの後は除草作業の仕事がしばらく無くなるので、少ない年金で生活しておられるシルバー人材センターの方にとっては、仕事が無くなり自宅待機となるので、経済的にも困るというお話でした。イベントの主催者である教会本部は、そうした事情を把握するべきです。もしくは、そうしたイベントは廃止するべきです。
崩壊 様
天理教は「恩」を売る宗教に成り下がってしまったんだと思っています。人は誰しも大なり小なり生きていることに感謝の気持ちを持ち合わせていると思うんです。と同時に、人は恩を売るなと戒めてきたはずです。
なのに、恩に付け込んで、一時たりとも息が切れることなく暮らせることは、日々親神のご守護があってこそのものだと叩き込まれてきました。その御恩に報いるためにお供えを気張らせていただくんだと。何か心の隙を突いてくるようで素直になれませんでした。
4月7日付けの天理時報でも一面に報恩感謝を強調しています。講社祭りで5千円~1万円を出す方のことを教団本部は少しでも感謝しているのかと問いたくなります。まさか、出すのが当たり前だと思っているとは思いませんが、記事を見るとそうかなとも思ってしまいます。
言われるまでもなく、夫婦で月額15万円にも満たない年金ながら、こうして年金がもらえることに感謝して生きています。
時報の記事中にこんなのがあります。「ひのきしん」と「ボランティア」の違いが分かるかな?。なんて書いているが、ひのきしんが一段格上だと言わんばかりで、寝言を聞いているような気分です。
こんにちは、ただの父親です、ここに書かせて頂けて感謝いたします。
現行天理教の問題点は、十分に議論に出ている訳です。 教団本部が、悪しき心使いの集積を正す事が出来ず、人間思案で、心の埃を払えてもおらず、おぢばに悪しき種が蒔かれてしまい、それが現在、四方に太い根を張っている訳ですね・・・
今まで尽くして来たけど、その上下関係、支配関係にわずらわされるのは、もう限界なので、包括関係の廃止をして、対等になりたいと行動に移すと、破門しますって、名前入りで全国に発表されてしまう・・今までありがとう、と言う労いも感謝も無いから、もう疲れたと言えば、破門・・・これは、ヤクザの破門みたいですね。
(見えない世界を、あまりにも過大評価してしまう危険性、詐欺師に騙される危険性。
もう充分、天理教で味わってきたではないですか。)
見えない事を良い事に、本部が親神様を利用して来た様な形になってしまって、教祖様が詐欺師だとか言われてしまう訳ですよね?
おぢばは、親神様が鎮まって下さる神聖な場所であるなら、その親神様を自家薬籠中の存在にして、君臨している(人達)に問題があると言う事ですよね。
決して、見えない親神様に問題がある訳では無いと思いますよ、それを利用している人達に問題があると言えますよね。
甘露台に1億円とか、ただの権威付けだとしか、個人的には思えません。
何度も書いて来ましたけど、親神様は、おぢばにお供えを集めたい訳では無いのは、明白ですよね。親神様が大きな存在であればこそ、おぢばは、誰にでも開かれた存在だと思います。
もし、現在も、連綿と親神様の代理を務める天啓者が存在したら、今の様な状態を、お叱りになっただろうに・・と、個人的に思っています。
親神様は、おぢばに悪しき種が芽を出し、四方に根を張るのを何故、黙って見ているのか? いや、天の理として、根から枯らす! と言う事で、道の路銀である、おさづけから手を引く? 鎮まるおぢばから、天に離れて、一旦おぢばを荒廃させるとか、見ておられるかもしれない・・
本部以外で、新たな天啓者が現れて、教祖様の様におさずけを、受け渡し、神の言葉を取り次ぎ始めたら? 離脱した教会に、天の理を配る事が出来たら、オセロの様に、次々と、ひっくり返るだろうか?
今の親神様の想いはいかに? 教祖様の想いはいかに?
ただの父親としては、今の親神様、教祖様の想いに気持ちを馳せて、現状を、どう思っておられるのか? ずっと模索しています。
親神様、教祖様の想いに、自分の想いを合わせて模索すると言う事は・・これも、1つの信仰心だと思いますよね。
親神様は、教祖様は、信者1人1人の想いを聴きながら、それぞれにメッセージを下さっているかもしれませんね? そうして、信者の力で教団を変えて欲しいと願っているかもしれません・・教団を変えていこうと言う思いが、おぢばに集積するのを待っている様な気もします。
まあ、勝手な事言ってすみません、離脱も天の理? かなあって思います。
こんにちは。
時期真柱予定者(様)のお子様誕生に、教団のくくりでお祝い金を集めたとしたら、人が信仰の中心になっていると言う事ですよね。
もちろん個人的にお祝いをするのは自由ですけども、もし、あなたが年収300万円なのに、お隣の年収3000万円の家にお子様が誕生した時、お祝い金を持って行きますか? あまりに差がある場合、普通は持って行かないで、おめでとうございますって、声をかけるくらいですよね。 逆に、お祝いのお菓子とか、配ってもらっても良いと思います。相手と上下関係があれば、なおさら、持っては行かないし、対等でも、声をかけるくらいでしょうし、持って行ったら、お返しは当然ですよね。
もし、教団が、信徒に対して、ご子息誕生を発表するとしても、それこそ、(予定者個人)から、記念品を配るなら、ありですが、教団が関与するなら、もうね、信仰と言うのを軽視しすぎでしょう?
人を信奉する、人に上下関係、支配関係のある組織と言うのと、宗教団体とか、信仰心と言うのとは、もっとも合わないものでは無いでしょうか?
天理教のメリットとは、その当時の宗教とは違って、実在する天の神様が、降りてこられて、世界一列、皆理の兄弟って、始めたから、すごい存在であり、一時期、当時の人口で、800万人もの信徒が居たわけなのに・・天の理と言う物の正当性を証明するために、先に助けていただける、おさずけの理と言うのが、一番のメリットだと思えるのですが、現在は、ハッキリしませんよね。
うちの義兄夫婦は、2人とも修養科を出ている、ようぼくですし、毎月おぢばに行くのに、親神様って、何だろうね? って平気で言います。 大多数の天理教徒は、大概ところ天なのか? 人付き合いで、おぢばに参拝して、お賽銭を置いてくるくらいなのかな? 私もそうですが、もともと毎月お供えをしなくても良い立ち位置を守って、教会系統と距離をとっていたら、まあ実際困らないけど、義兄夫婦みたいに、おさずけって何それ美味しいの? と言うレベルなのを見ていると、まあ、どうでも良いんだろうな? って思います。
私は、とあるブレない政党の末端党員もやっていますけど、もちろん、党は民主的な運営をしているので、もし、上からとして命令されたら、ちょっと待てや・・話し合いの経過を説明してくれ、納得しなければ、俺は動かないぞ! と言っても大丈夫です。
信仰と言うのは、本来、自分と向き合っての、自問自答が欠かせませんよね。 神のお心は? 思召しは? 自分の心使いは、神の思召しにかなっているだろうか? 自分は心の埃がちゃんと払えているだろうか? と言う心の模索が、毎日欠かせませんよね。
自分の行動を点検して、もし自分が教祖様と向き合ったら、なんと言われるだろうか? 叱られるか? よう来たよう来た、待っていたぞよって、言って頂けるのか? 教祖殿を参拝した時、普通、教祖様がいると思って、皆様、心で問いかけますよね? 聞いて下さっていると信じて、教祖様に心で話しかけていませんか?
この、私だって、教祖殿に参拝する時は、教祖様がいると思って、心で、祈りで、問いかけていますよ。
一方的に、言う事を聞け! 指示を仰げ! こうしろ! と命令するのは、信仰とは程遠いものです。
親神様の思召しはいかにあるのか? 一緒に模索しましょう・・と言う寄り添いの姿勢が基本では無いでしょうか?
ハイハイ言わないから、肺に来る? だからハイと従え? そんなのは、信仰とはまったく違います。
親神様は、おぢばに居て、そんな状況を見ていらっしゃる訳です・・何故だ? その様な状況を許されるのか? 中には、だからペテンだと思う人もいるでしょうし、そう言う面もありますけど、それを許しているのも、信者側にある様にも思えますよね・・信者側から、変えるうねりを作り出すこと、本心から、親神様を求める動きが信者から起きるのを待っておられ、その時また、誰かに降りられる?
まあ、妄想レベルですね・・・そんな事を夢想しています。
>ハイハイ言わないから、肺に来る? だからハイと従え?
> そんなのは、信仰とはまったく違います。
確かにそうです。が、昔(青少年の頃)は違ったんです。多くの若者が肺・腎臓・骨などの結核で亡くなったんです。
あの有名な瀧廉太郎さんも結核が原因で23歳の若さで他界されました。多くの若者が有効な薬もなくやせ細って亡くなっていったんです。
だから、因縁論やハイハイ論がまかり通ることになってしまったんです。また、罹患した人たちも、なすすべもなく信仰にのめり込んでしまったんです。ハイハイ論は今だから否定できることだと思っています。
結核は空気感染の最たるものです。家族が発病すると、たちまち周囲の家族に感染し、十分な食料が無いために体力が弱いものは発病へとつながったのです。
父は小学校を出ると、呉服商へ奉公に出されました。来る日も来る日も、おかずに魚や肉類は一切なしの食事。毎月、一日と十五日にイワシの丸干しが3尾出ただけだったと述懐していました。
御多分に漏れず、結核を発病したために、先代からの天理教信仰に熱がはいってしまったのです。更には、私を始め6人の子供達すべてが肺結核を発病してしまいました。母も、もちろん結核でした。一家が結核になって、ますます信仰に熱が入ってしまったんです。
幸いにもパスカルシウム・ヒドラジッド・ストレプトマイシンという抗結核薬が登場して、兄弟6人は奇跡的に回復し、今も健在で居ることが出来ているんです。母も97歳まで健在でした。
天理教の信仰にすがるしかなかった時代だったと思っています。風邪を引ても、おいそれと医師の診察すら受診できず、井戸水で冷やした手ぬぐいを頭に当てているしなかった貧しい時代を経て今日があります。
貧しいとはどういうことか書いておきます。戦後の子供たちの多くは、ゴットバナと呼ばれる青色のドロッとした鼻汁を垂らしていました。その鼻汁を拭き取るテッシュペーパーなど無く、着ている服の袖口で拭っていたのです。ですから、袖口がぬぐった鼻汁が乾いてテカテカに光っていました。これが解消に向かった要因の一つにユニセフから支援を受けた脱脂粉乳が給食に出さるようになったからです。タンパク質の決定的な不足がゴットバナや頭部のオデキの発症につながっていたのです。
それが証拠に、今時ゴットバナを垂らしたり、頭部に大きなオデキを作っている子供を見かけるでしょうか。見ませんよね。
栄養の不足による様々な症状がある状態が信仰を醸成する雰囲気になっていたのでしょうか。
うがった見方ですが、お米を見ることが無い時代が長く続き、貧しさに付け込んできたのが天理教であり、
更に、ご守護の恩を忘れるなと言い続けて信仰を維持しようとした教団の目論見は、今、消え去ろうとしているんじゃないですか。
こんにちは。
東風Z さんのおっしゃることは、もっともであり、江戸から明治にかけて、天理教が広がったのは、ご指摘の部分は十分に考えられる事です。 想像ですが、そう言う構図も十分当てはまると思われます。
戦後の宗教拡大期でも、どこの新興宗教も、対してご利益も無いのに、集団心理か帰属意識か、共同体意識か、増えていますよね。 祖母の霊友会でも、一家庭の主婦に過ぎない祖母が、昭和30年代から40年代に、500人の信者を勧誘して支部長になっていますけど、正直、霊友会って先祖供養ってだけで、特にお助けはありませんが、会費が月五百円と言う手軽さもあって、集まってはワイワイ喋るのが楽しいと言う魅力はあったと思います。 某学会でも、同じ仏教系団体の共同体ですよね? ちょっと支配的で私は好きではありませんが、帰属意識を持てる、コミュニティサークルとして信徒を増やしたと思います。
医療も衛生も悪い時代を経て、コミュニティサークルの時代で、天理教も伸びた訳で、確かに、真実神を信じて信仰していない、団体に従属してる、従ってるだけの信徒も多かったとは思いますけども、ただそれだけで、800万信徒は、作れないとも思います。
某幸福の○○でも、実際、お助けもご利益も特に無いですよね、ただ、総裁と付き合いのある、作家タレントの、故、影山民生氏の著書で、総裁の霊能力に触れていますが、一定の能力はお持ちの様です、私は、総裁は、生まれ変わりを脱したブッダの生まれ変わり? ありえない位の存在だと言う宣伝と、著書の内容から、魔神、魔霊が導いてる印象しかありませんが・・それでも公称信徒1000万人と豪語していましたけど、選挙の結果を見たら、全国で、数万人も居ないだろうと言う結果ですよね、実際魔神だと感じますから
いくら時代でも、教祖様が、全くのペテン師では、ここまで大きくはなれなかったとも、思います。 もっとも大きくしたのは、松村吉太郎氏ら教団黎明期の幹部の人間的な思惑も大きいとは思いますけども。
私の会など、さらに小さな物です、話になりませんよ、全国区でも、愛町分教会と同じ位の規模です。
愛町分教会だって、関根豊松氏の卓越した、神に通じる力あっての、愛町の勢いだと思います。
大きいから本当だ、小さいから嘘だとは言えませんが、天理教が大きくなったのは、時代に乗ったと言う面と、少なくとも、コアに真実の神的存在があったからだと、私個人は思っています。
ただの父親は、天理教の味方か、敵か? よくわからない存在になっていますけども
私自身は、スピリチュアルな信仰心が主であって、教団と言う帰属意識は無いんです。
天理教、日神会、霊友会と言う共同体帰属意識は、持っていないのです。
どこかの教義に入れ込んで、他を否定する、エホバ以外は邪神と決めつける様な
そう言う考えではありません。
大霊界の真実、見えない世界を探求したい・・自分の存在の意味が知りたい・・
その延長で今の状態、信仰に行き着いているだけで、これが最終、最高だと
決め付けている訳でも無いんです。
だから、天理教と何かを比較して、どっちが優れているかを論じている訳ではありません。
私の探究心が、親神様とは、なんであろうか? 誰であろうか?
教祖様の魂の存在は、今、どこに存在して、何を想ってらっしゃるのか?
そう言う興味から、いろいろ模索した結果を、ここに書かせて頂いてるだけです。
ありがとうございます、感謝いたします。
ただの父親様
天理教の中にいると、何が常識で、何が常識でないかが分からなくなる。
前真柱の葬儀での玉串料や、大亮氏の長女の出産祝いを一教会〇〇〇〇円と大教会が決め、集めて大教会名で本部へ持っていくのを不思議ともオカシイとも思わいませんでしたが、常識ではないのですね。
決められた(自分で決めた?)お金(お供え)を毎月上級へ持って行かなければならない、というのは常識ではないのですね。
年祭とか記念祭だからと言って法外なお供えを強要することは常識ではないのですね。
改めて気づきました。本当に天理教の中にいると常識が分からなくなってしまう。
〇▲大教会から教会長各位宛に、「〇▲大教会神殿屋根の修理」の手紙あり
台風〇号の暴風雨によって、屋根の軒天といわれる部分の多くが落下破損するという被害を受けました。・・・、このたび下記の要領で軒天の修理と補強をさせて頂くことを決断いたしました。
就いては、大教会の神殿は〇▲に繋がる者皆の「ひのきしん場所」「伏せこむ場所」であると心得ます上から、このたびの修理は、〇▲の部内教会、布教所、ようぼく、信者の真実の寄進によって進めさせて頂きたいと存じますので、何卒、ふしん金の丹精の上に、皆様のお力添えを賜りますよう宜しくお願い申し上げます。
工事費用 〇〇〇万程度
〇▲大教会は一昨年ぐらいまで、詰所改装費用として、各部内教会に、一教会、月3000円を、2年位に渡って払わせていた。今度は屋根の修理らしい。「伏せこんで下さい」、で金が集まるのだから、結構なことだ。 こちらは自教会の修理費用を捻出するのに頭が痛いというのに。 、
こんにちは。
私のコメントは、天理教のメリットに関連して、個人的な模索を書いているだけで、他の方のコメントを遮るつもりはありませんので、よろしくお願いします。
古い教会長さんは、ご存知の常識ですよね? あえて私に言わせなくてもいいですが・・(笑)
宗教を求めるとか、信仰を求めるのは、自分自身の救いを求めるとか? 迷いを導いてもらいたいとか?
なんというか? 神、何か偉大な力、という見えない力にすがりたいという気持ちが基本ですよね
信仰とは、自問自答でもあるし、神様に真実の道に導いてもらいたいという希望でもありますよね。
信仰のモチベーションとは、人それぞれですが、個人的な、生き方であり、模索であり、本来、内面的な欲求であり非常にプライベートな物だと思います。
宗教団体、教祖様は、その道を示すのが、仕事ですし、それがメリットですよね。
その代価として、教団運営のために寄進をするのであって、寄進が目的なのは、そもそも、変だな? と思うのが、普通ですよね?
寄進は、教団運営のための代価であって、寄進が信仰と宗教の目的では、無いと言うのが、一般的です。
だから、教団が、建物の維持とか、運営費として、信者に寄進を求めるのは、良いと思いますけど、それを信仰や教義に引っ掛けるのは、変だ! と言うのが、一般論でしょう。
ましてや、教祖様の生誕祭とか言って、教団が祝うのは良いですが、それに掛けて寄進を求めるのは、変だと感じませんか?
教団運営に資金が足りません、助けてくれませんか? と要請されたら、信仰で助かったと思えば、いくばくか寄進をするのは、普通ですが、それが当たり前だの功徳だのと言われたら、変だな? と思うのが普通でしょう。
私自身は、天理教は、嫌いではありません、教え自体は良いものだと思います。
でも、天理教の信者になっても、教会組織系統には近寄らず、心で信仰して、親神様の思召しに沿う、陽気暮らしを目指して、成人を目指す様な模索をする生き方にとどめるかもしれません。
ひそかに、親神様の声をお勤めに頂く方法を探すかもしれませんね。
組織に近寄れば近寄るほど、人間的な都合、組織の都合と欲望が、個人の信仰心に介入して来る! と感じています。
息子が天理高校にいる以上、私個人は、今まで通りの距離感で、天理教とは関わっていきます。
天理教の教えを掘り下げ、親神様、教祖様の思召しには、もっと神霊的にも、智慧としても、模索を進めたいと思います。
そう考えております。
生きる目的や、生き方や、道を示すのが、宗教の仕事であり、メリットでしょう?
宗教団体の職員や建物の維持が、寄進の目的でしょう?
もちろん、教団の目的に、何か社会貢献があるなら、その為の寄進もありですが
目的は明確しなくてはいけませんし、信頼を得るなら、使途も公開すべきでしょう。
もし寄進そのものを、宗教の目的化して、信者に競わせるとかしたら、もう、おかし過ぎます
ましてや、教組生誕祭とかで、お祝い金を募集するのは、信仰の目的からは、離れてますよね?
拒否すると、何か組織的な圧力がかかるかもしれないって、感じるなら、それはもう信仰ではないでしょう、営利組織か利権団体なのか、別の倫理ですよね?
と・・・私個人は、考えております。
本当の信仰とは何でしょうね?
ググって見ると、各宗派のいろんな方が書いており、ヒットします。
なので、ただの父親の言う、本当の信仰とは、一言、魂の向上に尽きます。
自分の想念を管理して、神にかなう想念にして行くこと、内在する魂に、神を目指して向上してもらう事です。 その為には真実存在する神霊から、直接導いてもらう事しか無いと、考えています。
神の持つ、愛と慈しみと尊びの心こそ、神のエネルギーそのものなんです。
それは、上の段階の存在から、教えてもらわないと判らないものなんです、頂かないと、判らないものなのです、自分の模索だけでは、最高の神の愛とは、判らないものだと思います。 生きながら、最高の神の愛を身につけるのは、実に大変だと、実際、想いませんか?
天理教的表現なら、天の理を学んで、努力で、想念、心から悪しき心使い、心の埃を払って、成人すること? でしょうか・・しかし、天の理は、言葉では端的に書かれていても、本当の親神様の心、思召しと言うのは、親神様と一体化した教祖様しか、判らないものだと言えます。
私の想う、教祖のひながた、とは? ある意味、親神様と教祖様と一体化するが如く、学べ・・と言う意味を持つとも感じます。
他所より引用
貧に落ちきれ、この家へやって来る者に、喜ばさずには一人もかえされん。親のたあには、世界中の人間は皆子供である。
ひながたは、人に満足を与え心に喜び生み出す道・・・
心貧しく、神の愛に触れぬ人の、難儀は、実に大変なものであり、それを知れ・・
私の所に来たものには、神の愛、親神の親心を与え、喜びを生み出す道を教えよう・・だったら、私には、しっくり来るんですけど・・(笑)
これなら、天理教が、金、金の天理教にならずに済んだと思いますけどね・・
だいたい、神霊と言うのは、霊界では、金は無いし、組織とか無いし、あるのは、心のつながりだけですから、だから、親神様は、教団を組織せよとか、独立請願とか、守護の代わりにお供えを出せとは、望んだと考える方が、変ですよねえ?
教祖様 (おやさまと読ませていただきます) の教えを知るとは、どう言う事か?
知っている人が、今の天理教、特に教団本部にいらっしゃるのか?
天理教者と23年付き合い、私の息子が天理高校に進んだことは、やっと我が家に天理教の教えが浸透、匂いがけの結果だと教会長は思ってるらしいけど、私は、教えと言うのを、しっかりと習った事は無いから、こうやって自分で、学んで見始めると、基本の所で、違和感ばっかり感じる・・何だよ? 守護の代わりにお供えって・・いきなりつまずくよ・・
現天理教に参加する事で、親神様の心に触れる事ができるのか?
末端布教師である、教会長さん達は、教祖様と同じ事を、伝えられるのか?
御筆先、お指図を読んで、教えを学ぶとは?
結局、読んで、そのお心を、自分の頭、知恵で模索するしかない訳ですよね?
だれか頭のいい人が、解釈解析して作った教義を教えとして、なぞるしか無いなら、それが、教祖様の真の教えと言えるのか?
教会長が貧に落ち切って、難儀を学んで、教会にやって来る物を、喜ばさすに、帰さない? と言うのが、真の教祖様の教えだと言うのだろうか?
それは大教会でもおぢばでも、同じ事でしょう。
今、貧している大教会が有るとしたら、末端の難儀を知って見ろと言う、教えを実行させられているのでしょうねって、思えてしまいます。
おぢばが、再び貧に向かうとしたら、それも親神様の思召しって事ですよね? それを末端に、文句を言って怒るなら、再び貧に落ち切って学び直せ? たんのうせよ・・と言う親神様の思召しですよね、きっと・・
現・天理教をやっていてメリットはあるのでしょうか?
メリットがあるのは、本部はじめ上層部だけではないか。
某・大教会(〇〇周年)記念祭予算書
これは、最低ライン(50ヵ所)の額です。
御礼
真柱様 100万
奥様 50万
大亮様 50万
若奥様 30万
随行長 30万
随行員 20万
随行員 20万
本部在籍者(複数人) 100万
となると、
部内教会50か所で500万円のお礼。
100か所で1000万円のお礼。
200か所で2000万円のお礼となる。
その為に部内教会、信者さんに大量のお供えの袋が渡される。
小耳にはさんだのですが、本部員の給料は70万円。
近年財政が厳しくなったので60万円になったと聞きました。
これは本当の事なのでしょうか?ご存知の方居られましたら教えて下さい。
本部員の方、嘘なら嘘とお知らせ下さい。
とツイッターに書き込んでいるが、未だ返事はない。
ちょっと話がずれますが、大学の社会学科と言う訳じゃあ、あるまいし
個人のブログにて、天理教を社会的に見て、評価してみると言うに過ぎない場所じゃ無いですか?
ただの父親なんて、訳のわからない人が、勝手な事をコメントするのを
許しているくらいの、そう言う場所に過ぎませんよね?
本文は、しっかりと理論的に書かれていますよね、コメントはただの感想ですよね?
みんなで、コメントを書いて、それは玉石混合ですが、みんな自分で、天理教を客観的に考えて見るため、自分と天理教を客観視する為の参考意見に過ぎないし、民間の個人研究者の、社会学としての、公表としては、これでも良いんじゃないか? と思いますよね。
井沢元彦さんの逆説の日本史とか、歴史書とは言えないけど、そう言う見方もあるのか?
と言った、参考にはなるし、エンタメとしては面白いです。それと変わらないと感じます。
ちゃんと事実の一面を切り取っていますから、充分、いろいろ天理教を学ぶ上で、参考になり得ます。
この社会学が、学術的に間違っているとか言っても、多分、誰も気にしないよ? もっとリアルに取り上げてくれて、広く認知されて、天理教徒の中で話題になって、教団に疑問の声が、信者からリアルに増えたら、本望じゃ無いですか? (笑)
真の教祖様の教えとは、なんであるのか? もっと炎上したら良いんです。
もっと、考えて模索して、みんなで意見を出し合ったら良いんです。
カイン氏が、せっかく参考資料題材を提供してくれているんですから・・
ただの父親だって、ここでは、無視スルーされてるんだから、真剣に反応する事も無いかと思いますけれども?
なになにしなさい、お供えしなさい、でないと身上に現れるぞって・・
そこだけ教祖様にならなくて良いでしょ? 教祖様が、そんな脅しを口にしましたか?
親神様の意に添わぬ勝手をしようとした時、命を無くすぞ! と親神様が叱るのは
判りますけども、今や、真柱様、教団幹部のお供え話に、親神様も呆れ果て・・
叱りもしない訳ですよね? 我はもう知らぬ・・って事ですかね?
本当に身上が現れるなら、なになにしなさいって、言ったあなたに現れるのが、天の理・・
それが現れないなら、天の理など無いことになりますよね?
教会が衰退するのが、天の理かもしれないんですよね・・
みんな真剣に、親神様の思召しを模索した方が良いですよね? もう後がない気がします。
こんにちは。
やっぱり天理教の信者さんでも、身上、事情について言えるのは、親神様か教祖様だけであると、判ってらっしゃいますよね? そう言うコメントを書かれているのを見て、そうです!そうです!って私も思います。
宗教のメリットって、安全安心を得る事でもあるので、信仰する事で不安感が生まれる様では、困るんです。 お供えしないと、身上、事情ってのは、明確な脅しですからね・・
それで、お供えが、強迫観念の習慣になったら、ただのカルトですから・・
もし、指導者側が、それを言ったら、おしまいです・・それに気がつく人がいないと怖いです。
しかし、末端教会長になったとして、なんだか身動き取れませんよね?
ヒエラルキーを固定されて、命令されるのはストレスですよね?
布教所から、教会になりたくないって人がいるのは、教会にはそれだけ縛りがあって、ストレスって事ですよね? 布教所には、道一筋、本部の御用とか、縛りが無いと言う事ですね
私なら、一信仰者として、組織にわずらわされる事なく、親神様の教えを探求模索して、成人を目指している方がいいです・・先ずは、自分が救われ助かり、心身共に豊かに暮らせる事、その上で、関わる人を助けられたら、導けたら良いと思いますけど・・
宗教のメリットは、先ず、自分が助かり、家族が助かり、身内が助かって、心豊かに、お金にも、不安の無い生活を送れる様にならないとね、守護があると言う安心感も欲しいですしね・・そう言うものが、第一じゃ無いのかな?
私の知り合いで、このサイトに出入りしてた家族が全員とんでもな不幸になっている事をご報告いたします。皆様の運命が地獄行であることを憂いながら失礼いたいます。
ある家族が不幸になったとして、その原因が、このブログを見ていた? と言う事であると断定して、皆さまの運命は地獄行きだと宣言してる訳です。
ブログから、いろいろ学んでいたら、悪しき心使いが溜まって地獄行き?
学ぶのは自由やで? 天理教徒は、正式な教理以外を知ることも、見る事も出来ないのか? それに、天理教には、地獄の話は無いよね? 聞いたことない・・・・
この脅し方が、現天理教的なのかもしれませんね?
このブログから影響を受けて、親神様に背く、悪しき心使いを増やしたら、身上、事情に現れるよ? とか、出直し後の来世に影響するからやめておこうって言うなら、天理教徒的だろうか?
ただの父親的な、地獄の話は、また後で書くとして、例え、私の話、他宗派だと断定しても、別に、自分の天理教の信仰について客観視する題材だと思えば、なんとも無いよね? 私自身、天理教の話や、他宗派の話を聞いたり、斎藤一人氏や、美輪明宏氏や江原啓之、英国スピリチュアルなどを読んで、自分の信仰を客観的に判断する参考にもしていますし、模索向上のための題材にしています。
ここに、天理教のメリットについて、私個人が、模索した考えを披露してるのは、投稿のコメント欄だから、私はこう考えると書かせて頂いてる訳です、ありがとうございます。
このブログも、天理教の一面を切り取っており、天理教全体を把握する為には、大変良い参考になっています。
何をどう捉えるかは、自分次第でしょう? 自分がしっかりと軸足を持っていたら、我以外、良きも悪きも、全て先生だと言えると思いますよね?
このブログは、天理教に関わりがあるけど、自分が天理教徒では無い私でも、本当に、参考になる・・時間があれば、芹沢氏の死の扉の前で?や八島教学? まで広げてみたいかな?
こんにちは、ただの父親の独り言になって来ましたが・・続けます。
輪廻転生と地獄は相性が悪いんですよね・・前世の因縁が今世に影響を与えているので、地獄は必要ないんです・・悪しき心使いの因果は、来世で背負う事になる、だから天理教的にも、地獄の話は出ませんよね?
釈迦仏教には、もともと死後世界は無くて、現世に輪廻しながら(人間とは限らない) 解脱を目指すから、やはり地獄も無いんですけど、じゃあ日本の仏教は、地獄極楽があるけど、それどうゆうこと! って話です。
霊友会は、日蓮宗ですが、死後世界があって、生まれ変わらないで、あの世で暮らすので、あの世の先祖を、今世から、供養したり、逆に先祖から守護してもらうという考えなのですよね。釈迦仏教では無くて、日本の? 仏教と言う事です・・誰があの世を発見したんでしょうね? 釈迦を超える発見ですよね?
般若心経を和訳すると、往きて往きて彼岸に往ける者こそ悟りである、とか言ってるらしいですが? まあ、解脱世界があの世? とでも想像したんでしょうね?
とりあえず、悪い事をすると、地獄に落ちるぞよ〜って脅されて、人の行動にブレーキをかけるのが、罰としての地獄の設定ですね。
罰として、身上、事情に現れる、来世でそれを背負うと言う事で、行動にブレーキをかけるのが、輪廻転生なので、地獄がない・・あるいは、あまりに心使いが酷い場合、転生せずに、そのまま無明の世界、地獄に落ちると言う説もあります。
前にも書いたけど、輪廻転生だと、ちょっと切りが付かない、そんな身上事情に全て現れないし、身上でも前向きに生きたら、それで本当は解脱できると思いますけど、解脱の条件が判らないとならないし、因縁は、外から見える神的存在しか判らないので、知らずに生きていたら、いったい、いつ解消できるのか? 行動のブレーキにすらならない気もします。 実際、天理教では、ブレーキが無いに等しい・・
罰としてブレーキをかけるのが地獄の存在意義だけど、大霊界的には、死後に罰と言うのは無いんですよね。 輪廻転生も、宇宙規模で考えると、地球以外の星に転生したり、地球でも時代が変われば、身上、事情なんて変わり過ぎて、普遍性に欠けます。
神は人間に自由意志を与えているからこそ、地獄が必要なのですよね。 悪しき心使いを集積して、霊界入りした場合、その集積物、想いが魂の重しとなって、上に上がれず、沈む事になります、先ずはその悪しき物を絞り出し、霊体を綺麗にする為に用意された世界が、地獄だと言う風に考えた方が、普遍的だと、私個人は思っています。
神は人間に自由意志を与えているからこそ、大霊界には、悪しき心使いの集積を浄化する世界も作られた、と考えられます。 また、大霊界自体で、魔神、魔霊が自由に他の世界の神霊、心霊に、悪い干渉をさせない為に、キッチリ分けられていても、物質宇宙の方へは、その地獄から多少なりとも、想念のあり方により、人間に干渉して来る様でもある・・逃げ出したいけど上の世界には上がれないので、近い物質宇宙へ助けを求めて、地獄から手を出して来ると言う訳です。
どの様な心霊が、地獄に収容されてしまうのか?
それは、神の御心の反対の存在の訳ですよね? 神の存在、御心とは、どう言う物か? 諸説ありましょうけど、ただの父親の信仰する神、その神のエネルギーとは、人間的には、愛と慈しみと尊びの3つの想いとしか、感じられません。 神の深い深い御心は、人の知恵では把握しきれないけど、ただただ、感じるのは、愛と慈しみと尊びの、3つの愛であると・・私個人は、ハッキリと感じます。
人間の知恵で、自分の想念の器を、できる限り、謙虚、礼節、敬いの心で整えて、神に降りて頂き、神のエネルギー、愛と慈しみと尊びの心をしっかりと頂き、一歩でも、自分が神に近づいて行くと言うのが、私の行う、神への祈りです。
その真逆とは? 傲慢であり、高姿勢であり、自己否定とかの消滅の心であると言えますよね? 人を見下す、威張る、脅すのは、神と真反対だと言えますよね?
また、自分を肯定出来ず、消極的なのも、神のエネルギーが届かないと思えます。
相手を肯定せず、慈しまず、見下し、威張る、その心の姿勢は、おめでとうございます、地獄に真っ逆さまだと言えますよね?
ここに出てくる、どこかの大教会長のお話を聞いていて、ああ、そりゃ地獄行きだねって、私は、いつも思っています。
宗教をやるなら、地獄に行かない様に導くことが、大前提でしょう?
又は、輪廻転生からの解脱の道を示さないといけませんよね?
指導的立場におられる方々が、生きてるうちから、地獄に行かない姿勢、神に近づく努力を示すか? 天理教的なら、輪廻転生から離脱して、陽気暮らしの姿を想起させる、そう言う姿勢を見せなくて欲しいですよね?
陽気暮らし世界における、自由意志を持った人間の心使いのあり方とは、どう言うものなのだろう?・・・そこを、もっと突き詰めようと、私個人は模索しています。
訂正
指導的立場におられる方々が、生きてるうちから、神に近づく努力を示して、地獄に落ちない道、神の道を歩いて見せるか・・・・ 天理教的なら、因縁解消の輪廻転生から離脱して、親神様の示す陽気暮らしの姿を想起させる、そう言う姿勢を見せて欲しいですよね? 人の上下関係を信仰に持ち込まず、一列平等な心使いを見せてこそ、本部勤めと言う物では無いでしょうかね? ひのきしんとは、おぢばに伏せこむ人全員が対象でしょうね? などと言う想いが浮かんで来ます。
地獄ねぇ。。。。。
まぁ、信じている人にとっては存在するのだとしか言えないよね。
自分教にならないように。
匿名様、こんにちは。
親神様が、出直した命の行先について、御筆先に克明に語った記録ってあるんでしょうか?
漠然と、この世に繰り返すと言ったのでしょうか?
もし知っていたら、紹介して下さい・・私は勉強不足なので、お願いいたします。
スピリチュアル世界を否定するには、天理教も発祥がスピリチュアル世界の一端なんですよね?
天の将軍と名乗る、神霊が、全ての世界を支配する存在だと、担保する証拠は無いんです。
今なお、本席様が続いていて、直接訪ねられる状況であるなら、世界の構図を示されるかもしれませんね
もし、本席様が存在出来たら、世間的には、天理教も立派な、元祖スピリチュアル的宗教でしょう。
天理教徒が、スピリチュアルを否定するなら、親神様もまた、否定される事になると思います。
それはさておき
天理教のメリットは、やはり、おさずけ、道の路銀、親神様の存在の証拠にあると思います
今、そこを、模索しています。
おさづけを渡す資格がない人(真柱)が渡しているおさづけは何の意味も持っていません。
だから、このような宗教になってしまったのです。教祖が人足社と呼ばれた方をご研究されては如何ですか。
おカネに目がくらんだ中山家の人が天理教を継いだのがそもそもの間違いです。
読むだけにしようと思っていたのですが、書き込む方がいらっしゃらないようなので・・・。
>スピリチュアル世界を否定するには、天理教も発祥がスピリチュアル世界の一端なんですよね?
違います。
教典には「天の副将軍が天下った」という表現がありますが、原典である「みかぐらうた」「おふでさき」にはそのような表現はありません。教典は2代真柱が「10年で改定する」という予定で裁定されたもので、GHQ対策で作られた世界の雑多な宗教ごちゃまぜの「オカルト本」です。
「出直した命の行き先」も「地獄」も原典に記述はありません。
ただの父親さんは霊界だの輪廻転生だのといった「宗教観」がお好きのようですが、天理教ではそういうオカルト・スピリチュアル系を信じる人も居れば、完全に否定する人達もいます。
そして、どちらも「間違い」とは言い切れません。
実際に、一部の人たちから「教組や教えを唯物史観で解釈している」と揶揄されている八島英雄氏も、過去の裁判で「異端だと認定された事はない」という記録があります。
「天理教を信仰するメリット」を考えると、この自由で銘々の思索を大らかに受け入れて内包している宗教だと言えるでしょう。
まぁ、何が言いたいかというと、ただの父親さんが信じてる他所の宗教観で天理教の教義や教祖の教えを決めつけないで欲しい、という事です。
もっとも、現状の教団は、教義の解釈はどうでもいいけど、親(理の親、上級や本部)に逆らう事だけは許されない、といった偏った宗教団体だですが。
こんばんは。 これは、これは、加藤ハルアキ氏が、書いてくださるとは、ありがとうございます。
議論するつもりはありませんが
天理教は自由で銘々の思索をおおらかにうけいれてないほうしている宗教ですか?
タコの様で、サッパリ骨格が見えない話ですね?
じゃあ、誰が、教祖様に下がって、体を貰い受けたのでしょうか?
誰が、天の理を説いたのでしょうか?
加藤氏も、天理教を、唯一特別な宗教だと言う、プライドをお持ちの様ですね?
原典に、命の行先が無いなら、前世の因縁を出すのは、天理教的にも、間違いと言う事ですね。
天の将軍も、無いなら、なにが下がって来たんでしょうね?
天の理の根拠は無いと、考えてよろしいですか?
加藤ハルアキ 様
2019年4月18日 10:08 PM
>もっとも、現状の教団は、教義の解釈はどうでもいいけど、親(理の親、上級や本部)に逆らう事だけは許されない、といった偏った宗教団体だですが。<
その通りだと思います。私は天理教の「親」という表現自体が大嫌いで一個人として受けつけないのですが、天理教的「親」は、天理教的ピラミッド構造である「子」(末端)に絶対服従を強いています。一方的に絶対服従を強いるだけで、末端で何か事が起これば、お得意の「天理教用語」を駆使し、訳の分からない「屁理屈」をこね回し、「何も知らないふり」を決め込みます。無責任極まりありません。信者数が激減するのも当然のことでしょう。こんな馬鹿馬鹿しい宗教など信仰しておれません。21世紀になってから早くも約20年になりますが、未だに江戸時代の封建制度を彷彿とさせるような現状です。江戸時代の封建社会にあっても、米沢藩の上杉鷹山のように、困窮している一般領民のことを真から考え、思いやり、どん底まで窮迫した藩政を見事に立て直し、アメリカ合衆国の故ケネディ大統領から「世界で最も優れた政治家であり尊敬する人物」として絶賛を受けた名君がいます。政治と宗教は別者とお考えの方も多いと思いますが、私は政治と宗教は密接に関係していると思います。今回の天皇退位に伴う橿原神宮参拝や伊勢神宮参拝等の一連の行事や儀式を見るにつけ、そのように思います。(話は脱線しましたが)。それにひきかえ、現教団は「我が身かわいい」のホコリにまみれ、責任を末端に押しつけ、末端の窮状には我関せずです。一体、何をもって「人だすけ」や「陽気暮らし」という「看板文句」が出てくるのでしょう?とても宗教と名乗る資格などありません。「宗教団体」としての認可を文化庁から取り下げてもらうべきだと私は常日頃考えています。
ただの父親 様
>加藤氏も、天理教を、唯一特別な宗教だと言う、プライドをお持ちの様ですね?
違います。
中山みきの言葉や教えが「宗教」だの「教会」だのではなく、道徳や人生訓、人類の価値観や哲学のような形で残されていれば良かったのに、宗教などという概念に封じ込めてしまったがために「台無しになってしまった」と感じています。
それに「天理教」=「天理教団で説かれている教え」とするなら、中山みきの教えとは全く違いますし、世間の宗教よりも劣ります。
私はオカルト否定派なので、↓のような「オカルトを前提とした質問」には答えようが無いのですけど、できる範囲で回答させて頂きます。
>じゃあ、誰が、教祖様に下がって、体を貰い受けたのでしょうか?
>誰が、天の理を説いたのでしょうか?
>原典に、命の行先が無いなら、前世の因縁を出すのは、天理教的にも、間違いと言う事ですね。
>天の将軍も、無いなら、なにが下がって来たんでしょうね?
>天の理の根拠は無いと、考えてよろしいですか?
教祖の身体に「誰が」入り込んだかは不明です。
現代の我々でも誰か・何かの権威を借りる時には「俺の言葉は〇〇の言葉だと思え!これは〇〇が言った事だ」などという事はあるのですから、「誰も入っていない」と解釈します。
「死後の世界」や「地獄」や顔も知らない大昔の人からの「因縁」の話をしないのは、それらの存在が「有るかどうか分からない」からです。そんな事より大事なのは、今現在の人間の生き方、生き様です。
「おふでさき」に出て来る「ぜんしょう」や「らいせ」は、その人の親や祖父母、子や孫など、顔も分かり性格や人柄などを知ることの出来る範囲の話です。人間の癖性分や価値観などは親から子、孫へと伝わり、肥大化するのが常ですから。
全体的にちょっと意味不明な質問です。
「天」って何を指しているのでしょうか?
何かが雲の上にでも住んでいて、普段は地上を観察して、何かの切っ掛けで地上に降りて来たり命令を出したりするとでも仰りたいのでしょうか?
アマテラスが雲に乗って地上に降りて来たというのも荒唐無稽なお話ですが、それと同等の設定ですね。
機会がありましたら、とみ新蔵先生の「劇画 中山みき物語」をお読みください。
オカルト・嘘・偽り・虚像を排した中山みきの姿が描かれています。
手に入らないようでしたら、私の管理しているHPにメッセージを頂ければ、データで送らせて頂く事も可能かもしれません。
こんにちは。
加藤ハルアキ さん、ご丁寧に返事をありがとうございます。
劇画は、ヤフオクでも、手に入らないようなので、一度読んでみたいとは、思いますので
近いうちに、連絡をさせて頂くかもしれません。
農作業が忙しくなって来たので、秋まで、私のコメントは、ぼちぼちと書かせてもらおうと思っています。
加藤ハルアキさんは、まったく、思想家、啓蒙家、としてしか、教祖様を見ていない訳ですよね?
それは、天理教的にも、異端の1つとも言えますよね?
もう天理教を離脱されておられるなら、教祖様を思想家、啓蒙家として、教えだけを学ぶ、新天理教と言う事ですね。 そういうのも有りかと思います。
加藤さんから見たら、私は、精神病院送りのオカルト基地外、私の教団ごと数万人の信者全員、基地外と言う事になりますね? (笑)
私はね、心霊現象を追ってる、オカルト基地外ではありません。 心霊現象では無く、大霊界世界観に沿って生きており、その世界に身を任せており、その視点から、天理教の親神様を見定めようとしているだけですし、私にとっての神の信仰は、実在する神との交流であり、直接導いてもらい、守護も頂くので、教理教則も無いし、思想信条でもありません。
スピリチュアルと言われてる霊界は、実際に存在して、密接に宇宙と表裏一体である。 私にとってはそれが真実であり、それが基地外だと思われるなら、その面に関しては、交流不能ですね。
まあ、そうやって生きている人もいて、ちゃんと物心身共に豊かに暮らしておりますので、御心配なく・・
加藤さんの様に、哲学的、思想的に、学んで実践して生きるのも、良い事だと思っていますので、お互い自由で良いと思いますけど、人はみんな必ず亡くなりますよ・・もし、あの世で目が覚めて、慌てる事になったら・・・(笑)
ありがとうございます。 劇画の件は、また、お願いいたします。
父親さんはかねてから(本人が意識されていたかどうかは別問題だが)加藤さんをこのメリット場に引きずり出したがっていた。
念願叶いましたね。繰り返すが父親さんが意識していたか否かは知らないが、無意識にせよ読み手にはしっかり感じられていた。
自分の考察を皆で議論を始めてほしい?認めてほしい?・・・・承認欲求とも思える傾向がベースにある方なのだろう。自覚の有無はわからないが。
さすが、加藤さんは知性派。しっかり論点を整理してくださっての回答、ありがたく読ませて頂いた。モヤモヤ感が晴れた。
父親さんはあの世で目覚めた時のことを心配してくださっているのはジョークと受け止めておく。もしもジョークではなく本音としたら、それこそ噴飯ものだ。
ちょっとだけですが、私の潜在意識を、推理されておられた様で、ありがとうございます。
しかし、真意を理解はして頂け無いようです。
霊界も、死後世界も、親神も、人間が作り出した概念である、としか思えない人には
スピリチュアルそのものが噴飯ものなのは、判りますよ。
それだと、天理教としては、思想と教えだけなので、教団も、おぢばも無用でしょうね?
それと、私は、私の話に興味を持つ人を、掘り起こしたいと言う欲求は、ありますね。
その、興味がある、又は、無くても、自分の信仰の参考程度に、見ている人に向けて書いています。 加藤ハルアキさんは、最初から、オカルト否定なので、ここに出ても、交流不能だと思っていますよ。無視されて、相手にされないと思っていたので、出てこられるとは、予想外でした。
接点は、特に無いですから、へえ〜って思うだけですよね。
天理教徒で、実は関根豊松氏みたいに、神霊能力があるけど、話すと異端として除名になるので、黙ってると言う人がいたら、話をしてみたい希望はありますね。
私自身、ある程度、霊の存在も、想いも判るし、御守護神との、心の模索の中で、祈りの中で、必要な世界が見せてもらえたり、教えてもらえる人間にとっては、霊界は、事実です。
まあ、噴飯ものの基地外だと思われるなら、無視されて下さいませ。
加藤ハルアキさんの、ブログは、全部目を通させていただきました。
なかなか、離脱と言う行動の、リアルなリポートは、興味深く読ませていただきました。
そんな、話は、なかなかお目にかかれないですもんね? リアルで面白かったですよ。
それに劇画、見たこと無いんで、見てみたいなっと、思いました。
私自身は、所属の教会長とか、女房の実家に出入りしていた教会長とか布教師とか
天理教の知り合いも多いし、息子が天理高校に行ってるし、そのおかげで別席運び中ですしね
だから、こう言った、お話をするのも、聞くのも好きですね・・
ここでは、天理教を絡めて、判る様に書いてるし、自分の宗教の掲示板と信者のブログには、もっと基地外な話をしてるしね、農家ですから、普段あまり人に合わないので、SNSとか、よくやっていますね。
それだけですね、まあ、こいつアホや、基地外だと思うのは自由ですから、構いません。
削除されないうちは、チョロチョロ参加させてもらいますね。
ありがとうございます、感謝いたします。
>天理教徒で、実は関根豊松氏みたいに、神霊能力があるけど、話すと異端として除名になるので、黙ってると言う人がいたら、話をしてみたい希望はありますね。
数人あります。でも、あまり大きな声では言えないので、知る人ぞ知る存在です。
本部から圧力がかかった人もあります。
真柱に直接、物を申した人もあったようです。
到底、受け入れる事は出来ないので無視されたようです。
勘違いされては困りますので、再度詳しく書きます。
現天理教団の中では、上の者に逆らわなければ教義をどのように解釈しようがどのような解釈をしようが自由ですから、ただの父親さんが息子を天理教高に入学させ、繋がりのある教会だか布教所に信者なりようぼくなりに登録されているなら、私がその主張や話をどう感じるかは自由としても、それを否定することも支持することもしません。
問題は「中山みき」に関する解釈や理解として、現天理教団以外にも中山みきを慕い、その教えを研究して実践しようとする人達は大勢います。
現教団が伝えている中山みき像は、歪んでいたり嘘が混じって真実とは程遠く、その教えも既存宗教以下の内容に貶められてしまっているので、ただの父親さんが自分のHP等ならともかく、それに輪を掛けて公共の場で「オカルト的中山みき像」を断定的に主張するのはやめて貰いたい、という事です。
(以前にも同様の主張を書き込んだか方がいらっしゃいましたが、無視されましたよね?)
>私自身、ある程度、霊の存在も、想いも判るし、御守護神との、心の模索の中で、祈りの中で、必要な世界が見せてもらえたり、教えてもらえる人間にとっては、霊界は、事実です。
貴方の脳が貴方にそう感じさせ、そのように思わせているのでしょうから、貴方の主張の真偽を確認できるのは、現在の所「お医者様」でしょう。私がどうこうは言えません。
勿論、私も私の脳が感じ思考する内容で話をさせて貰ってますが、私以外の世間一般の人の脳が感じ思考する内容と「調整やバランスを摂りながら」私の思考を修正したり意見交換をしておりますので、自説を絶対視し意見交換も議論も出来ない「意識他界系」の人達や、洗脳されて自分で思考することの出来ない人達との交流が必要かどうか、ただの父親さんの解釈を借りるなら「神のみぞ知る」といった所でしょう。
公共の場? 個人のブログですから、ブログ主が、削除しない限り
加藤さんのコメントも、私のコメントも、個人的意見を書いていけない理由は無いと思いますね。
一応、天理教について、個人的考えを書いていますが、このブログ自体、気に入らない人は存在する
個人的なものでは、ありませんか?
きちんと、実証可能な、学術など根拠が無ければならないのは、学会の研究論文か、裁判か?
なぜ、個人のブログの、コメント欄に、その様な裁判官か学会の様な感覚を持ち込むのか?
極端な、中山みきぺてん師説や、陰謀説を繰り返すより、マシだと思いますけどね。
気に入らないのも自由ですが、加藤ハルアキさんが、カイン氏であるなら
聞き入れますが、そうでないなら、私は、書きたい意見を書かせていただきますよ。
連投すみません。
このブログ自体、天理教団にとっては、不都合な話を書いておられるし
まったく正当だと思いますが、天理教団を強く批判されている訳です。
カイン氏が、天理教関係者か、どうかもわからないのですからね。
公共の場、と言う表現は、ちょっと違和感を感じます。
これだけの批判をするブログ自体、目障りだと思う方も見えるでしょうし
コメント欄は、失礼ですが、玉石混交ですよね?
加藤ハルアキさんの様に、霊界=オカルト、即否定の方も見えれば、そうで無い方も見える
それが、現行天理教なんでしょ?
その辺りが、おおらかなのが、メリット?
加藤ハルアキさんは、我こそは正しき、中山みき様の伝道者を自認されているのかもしれない人には、天理教に好意的でも、訳のわからないオカルト説は汚されるとお思いでしょうが、そのオカルトの観点から、見た場合を読んで、納得される方も見えると、思っています。
私は、天理教を否定もしていないし、親神様は存在すると、確信してる基地外かもしれませんが
その私を、ブログ主に成り代わって、成敗でもしたいんですか?
私が、個人的に気に入らなければ、カイン氏に、ブロックする様に、進言された良いと思います。
私自身は、他の参加者の考えを頭ごなしに、全否定したり、とっとと止めろなどとは、もうしませんので
あとは、カインさんが、取り計らって下されば、結構です。
ありがとうございます、感謝いたします。
加藤ハルアキ 2019年4月19日 10:27 PM 様
教祖は思想家、哲学者であり、教組には何も降りてない、とのことですが。
加藤様のブログにあった「中山みき様物語」にて、ご自分が「転輪王のような心になって人々を救いたい」と、善兵衛に申し入れ、善兵衛は、みき様の強い決意に折れて、それを受け入れた、と書かれておりましたね。
で、ちょっと教えて頂きたいのですが、「稿本教祖伝」では、みき様は、「神様」が降りられて、その苦しさに、池に身を投げようとしたところを、身体の中から聞こえてきた声に、自殺を思いとどまった、とあったと思います。
加藤様のブログに書かれているような、ご自分の意志で民を救おうと決意された程の、強い意志の持ち主の教祖が、自殺を図るとは、ちょっと考えられません。やはり、教組に懸り、教組の身体に入り込んだ「存在」があって、初期の頃の教組を苦しめたのではないか、と思えるのですが、そもそも、教祖が自殺されようとした逸話は嘘、ということなのでしょうか。
加藤様の見解や解釈に異議を申してるのではなく、単に、教祖の自殺騒動は捏造か否かということが知りたいだけです。
ただの父親 様
ポイントをすり替えられては意見交換にもなりませんので、再度私の考えと主張を詳しく書かせていただきます。
「天理教」という言葉には、
狭い意味で「宗教法人天理教と被包括関係を結んだ教会とそれに関係する人達、その中で伝えられている話や教え」という意味(私は「天理教団」「教団教理」と言っています)。
広い意味で「宗教法人天理教とは関係なく中山みきの教えを守り伝えようとする教会や人達」(私は「中山みきの教え」「中山みきの教えを守る教会や人達」と言っています)という意味が有ります。
勿論、天理教団の信者さんやそれぞれの教会関係者といえども、100%教団教理を信じている人は少ないでしょうし、中山みきのの教えを守ろうとする人達でも、その解釈や意見には差異があり統一されたものではありません。
ただの父親さんは、狭い意味での「天理教」の一員ですから、『その中で』どのような教義の解釈をしようとどのような意見を言おうと自由だと何度も申し上げています。
そして、教団内で多くの末端の信者さんや教会が虐げられ、苦しみ、経済的に苦しい思いをしているのは、「嘘と偽りの歪んだ中山みき像」が語られ教えられているのが大きな原因の一つであり、それを解決するには、教団教理を否定する為には「真実の中山みき像」を伝える必要があります。
私は、ただの父親さんの教義の解釈や主張をやめてくれと言っているのではなく、その「教祖像」が教団教理以上にオカルトで歪んだ「教祖像」なので、どちらの立場の者も出入りする掲示板上では「やめてくれ」と言っているだけですが、それを「ブログ主に成り代わって成敗・・」とか「他の参加者の考えを頭ごなしに全否定したり・・・」と取り違えるのでは、意見交換も当方の主張も出来なくなりますね。
逆に、ただの父親さんが言う「天」だの「地獄」だの「死後の命の行き先」だの「魂の生れ変り」だのについては大いに意見を伺いたいと考えています。どれほど統一されて筋道の通った設定で仰られているのか興味があるのです。議論はしませんが、私の感じる疑問や矛盾などにお答えいただけるのなら幸いです。
また、オカルトの否定を『学会の研究発表か裁判か」等と仰っていますが、例えるなら「オカルトは落とし穴のようなもの」で、そこに足を突っ込んでしまうと真実探求の思考と思案の道を歩めなくなってしまいます。歩くのが嫌だからオカルトの穴で一休み、という考え方もあるとは思いますけど。
問題は、宗教の多くがそのオカルトを使って「人集めと金集め」をしているって事なんですよね。
匿名 様 2019年4月20日 6:55 PM
>そもそも、教祖が自殺されようとした逸話は嘘、ということなのでしょうか。
八島英雄著の「中山みき研究ノート」に、
・善兵衛が刀を抜いて「憑き物ならばのいてくれ」と言って迫った。
・みきが池や井戸に飛び込もうとして神の声を聴いて思いどまった。
・女中のおかのに毒を盛られても許した。
・怠け者の下働きに声を掛け改心させた
これらの事は芝居の脚本が文字なって残ったものだと二代真柱が言った、と書かれています。
真実は確認しようがありませんが、確かに「お芝居」にしたら感動的なお話しでしょうね。
全ては史料集成部にあると思っています。専修科生や本科生すら入室出来ないような所なんか必要ないですよね。だったら現行天理教も必要ありません。存在価値はゼロです。
志ある方々が入室出来、その上で議論百出の状態になるべきです。今のように本部のいうことを聞けではねぇ。
もう、終わっているとしか言いようが無いのではありませんか。空しいですね。
「教祖像」が教団教理以上にオカルトで歪んだ「教祖像」なので、どちらの立場の者も出入りする掲示板上では「やめてくれ」と言っているだけですが、それを「ブログ主に成り代わって成敗・・」とか「他の参加者の考えを頭ごなしに全否定したり・・・」と取り違えるのでは、意見交換も当方の主張も出来なくなりますね。
頭の良い方は、理論理屈を駆使されるから、ついて行けませんが、根本的に世界が違うし、私を全否定されておられるので、接点は持ち様が無いと思っています、意見交換する意味は無いでしょう。
歪んだ教祖像とは、あなたの、常識であって、私の知りたい教祖像とは、実際の霊体の教祖に、聞こうとしてるので、あなたから見たら、ただの基地外ですから、私を相手にされない方がいいです。
私は、ここまで、神と言う存在を奉じするなら、お供えは、おかしいし、前世の因縁で、人は縛られない。理の親ってのは、神的にありえないと、天理教の既存の価値観を、疑がわれてはいかがか? と書いて来たので、もし、天理教に苦しむ人がいたら、それらを否定しても、神に背いていないからねって、気持ちが楽になる様に、書いています。
あなたの正義は、あなたが書けばいい。
私は、罵詈雑言や、無茶なことは言っていない。 私は、加藤さんの意見は聞いていますけど、従うつもりは、ありませんよ。
加藤ハルアキ 様
2019年4月20日 7:25 PM
>問題は、宗教の多くがそのオカルトを使って「人集めと金集め」をしているって事なんですよね。<
確かにそうですね。日本のどこの神社仏閣に行っても、「お守り」や「おみくじ」「厄除け祈祷」「自動車のお祓い」等、金集めのために非科学的商売をしていますね。極めて非科学的であり、例えば「厄除け祈祷」をしてもらったからといって災難がふりかかる場合もあるし、自動車を買って「お祓い」をしてもらっても、交通事故を起こしたり、まきこまれたりします。こうした宗教がらみの商売は、とにかく「何かにすがりたい。安心したい」という誰もが持っている人間の心理、即ち「人間の心の弱み」につけこんだものだと思います。今もなお存在しているのかどうか存じませんが、天理教の「おびやゆるし」、「赤衣のおまもり」、「ごくさん」等といった類いも同じものだと思います。
>私は、罵詈雑言や、無茶なことは言っていない。
これは奇遇ですね。
私も、罵詈雑言や、無茶なことは言っていません。
一連の書き込みで、ただの父親さんと初めて主張が一致したように思えます。
私は、中山みきの教えを解釈する一つの方法なり考え方なりを提示しているだけで正義だの不義だのという意識は持っていませんが、ただの父親さんが「オカルトは正義だ」と仰るなら、否定も肯定もしません。
崩壊 2019年4月21日 8:29 AM 様
>こうした宗教がらみの商売は、とにかく「何かにすがりたい。安心したい」という誰もが持っている人間の心理、即ち「人間の心の弱み」につけこんだものだと思います。
とかく、人間は弱い者ですから、何かに縋りたい、という部分は誰しも持っているかと思います。
ところで、神社仏閣のお守りなら、せいぜい千円~二千円ぐらいの金額で、たいしたご利益はないとしても、それで一年間、信じてる人にとっては、心の安定は保たれますから、値段からすれば充分に元は取れてると思います。
それに比べて、天理教のお供えは金額が大きすぎ、「命の繋ぎ」などと、勝手な教理を作り上げて、強迫観念で洗脳する訳ですから、はるかに罪は大きいと言えます。
匿名 様
2019年4月22日 4:56 PM
>ところで、神社仏閣のお守りなら、せいぜい千円~二千円ぐらいの金額で、たいしたご利益はないとしても、それで一年間、信じてる人にとっては、心の安定は保たれますから、値段からすれば充分に元は取れてると思います。
それに比べて、天理教のお供えは金額が大きすぎ、「命の繋ぎ」などと、勝手な教理を作り上げて、強迫観念で洗脳する訳ですから、はるかに罪は大きいと言えます。<
まさにその通りです。天理教の「お供え」は桁違いです。法外な「お供え」を要求され、苦しんでこられた信者さん達が、どれだけ多数おられることでしょう。先祖代々のなけなしの財産を根こそぎ天理教に奪われた信者さん達がどれほど多数おられることでしょう。法外な「お供え」に耐え切れず、自らの命を絶たれた末端分教会長さえおられます。教会本部は知らぬふりを決め込んでいますが、隠しとおせるものではありません。天理教的に言えば「神は見抜き見通し」です。かのオウム真理教ですら天理教の集金システムを真似たということです。社会悪をはるかに超越した「犯罪集団」「犯罪組織」と言っても過言ではありません。しかし、悲しいかな、現行の日本の法制度では取り締まりのしようがないのです。だからといって、このまま放置する訳にはいきません。この事実は後世に延々と語り継いでいかねばばならないのです。「天理教の実態を一人でも多くの方々に知っていただきたい」「天理教の被害者を一人でも減らしたい」との切なる思いを込めて、命ある限り、私はこのサイトに今後も投稿を続けさせていただきます。
知り合いの教会はにおいがけを汗水垂らしてやっている。お金の事は言わない。そして幸運にもにおいがかかり、信者になったならば、最終的な目標は「お供えの出来る信者に成人してもらう事」だと言う。そこまで丹精するのが理想だと。道一条の彼等にとってお供え金を貰う事はどうしても切り離せない項目であるらしい。
しかし信仰にお金がいる事をチラつかせたら信者になって貰えないので最初から言わなくて、安心して信者になったら計らずもお供え金の事を持ち出すのは騙しじゃないのか?
彼らは人助けはするがお供え金を貰わないと食べていけない。上納金も作れない。
自分の生活は自分で働いて自立すれば良いし、においがけおたすけは他の時間ですれば良い。信者のお供え金を生活の当てにする発想はどうしても納得出来ない。
また生活費に使わせて頂くなら、信者が納得した上でお供え金を受け取らないと、出した方はまさか教会家族の生活費になっているとは夢にも思わないだろう。
「神様にお供えします」と言っておいて自分が生活費に使う。騙しではないのか?
お金は要りません。ただただ助かって頂ければ良いのですと言えるなら、本物だろうが、人助けと言いつつ、下から手を出しているような教会の在り方に大いに疑問を持つ。
教会よ、人助けをするなら働け!と言いたい。人のお金をあてにしながらの人助けは精神の二重構造です。人を利用し使い分けているに等しい。
おはようございます。
この20年で所得は上がらないのに、年金や市県民税の負担割合、健保の負担割合、特に国保が飛躍的に上がっており、国民の可処分所得は、G20の中でも、日本だけが下がってる訳です。
空前の長期好景気も、大企業利益のみの限定な訳ですよね。
そこに、消費増税ですよね・・つまり、普通の国民は、ますます生活に余裕がなくなっていきます。
物が売れないのは、もう当たり前です、余計な物は買わない、だから、農業でも花卉はガタガタです、花は食べられないから、無くても困らないので、愛でるのを諦める訳です。
宗教も、お寺に払う葬式代も、住職の言い値じゃ嫌だって、なってきます、だから、レンタル住職が、これから流行るでしょう? と知り合いの住職に言ったら、不謹慎だって叱られたけど、現実は、仏教の葬式代は高すぎるんですよね? 自覚が無いんですよ。
新興宗教に払える余裕も、限られます。 私自身、お寺の護寺会費もあるし、地元の神社の氏子費用もあります。 それ以外に天理教には、息子が天理高校生だから、それでも年間約 3万円くらい、自分の教団の会費を、夫婦で年間 3万円、ほかに参拝の交通費も要りますからね、それ以上は要求されても無理です。
今後、どんなに頑張っても、お助けの奇跡を頂いて、心から、親神様を信じる事になっても、それだって、年間10万も拠出できる人は、少数派ですね?
ましてや、奇跡、神秘無しの、教えのみの、信仰なら、月額1000円位なら付き合ってくれますが、それ以上は無理でしょう。 霊友会とか、この30年来、月額500円の会費のみですからね、気軽に付き合えます。
お守り、お札とか、引き換えに、千円〜1万円位なら、まだ可能でしょうね。
だから、教会も、親神様の守護の証と言うお守りと引き換えに、年会費1万円〜2万円以下で、もらって、その代わりに、教会長が、渾身のおさずけをしてくれるとかなら、まだ、集まるかもしれない。 おさずけなんておまじない、神なんて概念と言うなら、お守りも作れないから、ほんと収益方法が見つからないでしょう? 生き方セミナーをやって、会費をとるにせよ、そう言うのは、ライバルが多いですよ? (笑)
時代的に、天理教のビジネスモデルは通用しなくなっていますからね、従来の方法は、もう無理だと思います。
私の本音は、もらう阿呆に出す阿呆です。
私の所属する教会長でも、道一筋で生きているから、おそらく、有力な信者を抱えていらっしゃるようですが、私自身は、年間3万円位までしか、出せませんからって、断ってあります。
あなたの、行動に、感謝して、経費だと思って、出しますと、根拠を言ってあるし、私自身は、守護のお礼に、お供えは、いたしません!と、明確に宣言してあるので、教会長も、無用に関わって来ないので、気が楽です。
息子が天理高校を卒業したら、私自身、お付き合いで、ようぼくになっていても、年間2万円までは、お供えをしても良いと予算を考えていますが、それ以上はしません。
要はね? そう決めたら良いんですよ・・給料も退職金も、自分の金です、お供えは自由だから、出すも出さないも、自分の意志ですよね?
一般の信者に、年会費1万〜2万円で、済まそうって言う暗黙の了解の空気ができたら良いんです、そうなれば、教団も、収益とコストを考える事になるでしょう。
教会姉弟も限界がありますよね、苦しかったら、今は人で不足ですから、就職して、はっきり逃げたら良いんですよね? 誰も止められません。 勤務者さんも、業界は人手不足です、一般企業なら、多少はきついが、天理教の3倍の給料がもらえるでしょう、だから転職したら良いんです。
そう言う、運動をしたら良いんです。 本部の批判など要らない、一般に、年会費1万〜2万円のお供えにしましょう、それ以上は、要らないって言う空気を、みんなで広げたら良いんですよね?
その方が、効果的だと思うんですよね。
キリスト教だって高負担のプロテスタント→低負担のカトリック宗旨替えが増えています。カトリックなら年間三万程度でやっている人はいくらでもいますから。
天理教も従来のビジネスモデルが通用しない時代になっているのに、今も信者の献金でやっていこうという気持ちを捨てることができません。教義を信じる人と教団の経済を支える人は別、と分けて考えなくてはなりません。そのためにも立地条件に応じた商売で教会と生活をやっていく方向に転換しないと。
ただの父親 様
私の過去(今から7年以前)の天理教とのお付き合いの額を書いておきます。
月次祭お供え5千円。交通費2千円弱。講社祭り御礼5千円とお茶菓子数百円前後。
大祭月のお供えは5千円アップ。元朝祭お供え3千円。夏冬の五季納各1万円。以上が所属教会の分でした。
それ以外に、所属教会、上級教会、大教会及び教祖年祭時には、それぞれが3年千日という屁理屈を付けて茶封筒が配られるので、茶封筒が途絶えることが無かったのです。茶封筒に500円玉1個を入れて会長さんから睨まれた信者さんが居たので、最早、開いた口が塞がらないと言わざるを得ません。
上級教会への参拝は出来ませんでした。理由は遠距離と知らない人が多かったため。大教会も同様でしたが、大祭月は教会からのたっての願いで参拝に行くことがありましたが、お供えはせずに、賽銭を少々でした。何しろ交通費がバカになりません。次に、本部参拝費用交通費4千円と賽銭少々。
更に、教会及び信者方との交際費も相当な額になりましたよ。誰誰の葬儀だの。あの方のお祝い事だの無視できない物でした。
教団本部は、一体何を考えているのでしょうね。参拝しろ、参拝しろと言いますが、交通費をどう考えているのか。バカとしか言いようがありません。何しろ、旅行だって1泊2日のバス旅行を年に1回できるか、できないかの状態なのに庶民の生活実態がまるで分っていないのです。自分たちは奈良県内でも屈指の所得がある人たちだから思考力が無いに等しいのです。
だって、本部の代表役員が奈良県でも有数のゴルフ場の理事をやっているじゃないですか。全く、何を考えているのやら。このような所に長年付き合っていた自分がバカだったことだけは確かです。
各代の真柱氏の生きざまを見たって分かるでしょ。貧に落ちきって結核にでもなられたのであれば、お気の毒にと同情の念も湧こうものが、贅沢三昧に暮らして成人病を患うなんて宗教家にあるまじき生活態度だと言わざるを得ません。とにかく、天理教は宗教と言えるようなものでは無いと思っているんですが、如何でしょうか。
>「神様にお供えします」と言っておいて自分が生活費に使う。騙しではないのか?
お金は要りません。ただただ助かって頂ければ良いのですと言えるなら、本物だろうが、人助けと言いつつ、下から手を出しているような教会の在り方に大いに疑問を持つ。
教会よ、人助けをするなら働け!と言いたい。人のお金をあてにしながらの人助けは精神の二重構造です。人を利用し使い分けているに等しい。
まったくその通りです。詐欺としかいいようがありません。
神様を信じるのにお金がかかることじたいおかしいと思います。
神様はどこにでもいるのですから、本部にいかなくてはならない
教会にいかなくてはならない
神殿におまいりしなくてはならない
すべて妄想、すりこみであると思います。
どこでも、「神様」とお祈りすればいいだけのことだと思っております。
東風Z 様
2019年4月23日 9:54 AM
>各代の真柱氏の生きざまを見たって分かるでしょ。貧に落ちきって結核にでもなられたのであれば、お気の毒にと同情の念も湧こうものが、贅沢三昧に暮らして成人病を患うなんて宗教家にあるまじき生活態度だと言わざるを得ません。とにかく、天理教は宗教と言えるようなものでは無いと思っているんですが、如何でしょうか。
<
まったくその通りです。それ以外に表現する言葉は見つかりません。私なりに言葉を変えて敢えて言えば、「宗教という隠れ蓑を被った詐欺師集団、犯罪者集団」です。読者の皆さん、くれぐれも騙されないように注意してください。
東風Z 様、貴重なデータをありがとうございます。
思ったより高額では無いな・・と言う印象ですかね。 交通費を抜いて、純額の私自身の宗教関係の基礎費用が年額 8万円程度としても、大きな差は無いですね? バブル時なら、全然平気でしょうね
この先の日本では、G20で唯一の落日国家だけに、月額5000円でも厳しいかもしれませんが・・
もっと、年間数十万円と高額を予想しておりました・・
もっとも、東風Zさんが、年金者だとして、やっぱり収入に占める割合は高いかな? 交通費も加算すれば、少なくは無いですね・・国民年金者なら、せいぜい年間 2〜3万でもしんどいですよね・・
まあ、これは相対的な物なので、あくまで私の感想です、ありがとうございます。
宗教は嗜好品でもあるので、本人が望んで出す分には、いくら高額でも全然構わないとは思います。
天理教には、高額のお供えをする企業経営者も見えますからね・・それは個人の自由ですよね。
だから、個人で貧しても、それがしたい人は、家族に迷惑をかけて、徳が無くても、パチンコにハマるのと一緒で、まったくの自己責任ですから、致し方無いですね、ただ、それを宗教団体が行う事に、宗教としての信頼性は問われると思いますけれども。
逃げられない状態に押し込まれて、望まないのに、強制的にお供えをさせるのは、それは朝鮮人従軍慰安婦と同じで、搾取だと言えますが、今の時代、そう言う人は、ごく稀でしょうね?
逃げられるけど、貧しても払ってる人は、オカルトにハマってるただの父親と一緒で、どうかしているかもしれませんね。 貧して、家族も巻き込んで、我が子の進路も決めてしまって、それが道一筋の矜持であり、親神様の思召しだと信じて疑わないなら・・問題ありかも、 だから子供が逃げ出しても、それは仕方ないですね・・
ちなみに、私自身は、基礎費用以外に、30代の時、自分の教団の、他者浄霊能力者養成講座、初級中級上級と年一回づつ、述べ10回程受けていますけど、女房も途中まで参加して、述べ費用は10年で、交通費も入れたら、総額 200万円程度は使っていますけども、稼いでいましたからね・・全然惜しくないし、今でも、余裕ができたら、再受講したいと思ってるくらいです。 もちろん個人の所得差によって、受けられる人と受けられない人ができてしまうと言う事はありますが、もちろん神様は同じです・・教団の持つ秘儀を習うための人件費ですし、習った分だけ、得た能力で、今度は、人様に無料で浄霊を施すだけですから、まあ人間界は、多少の差が出るけど、基本的に救われる事に差は無いですね、神様が金を取るわけでは無いですから。
当時は、それをやっても、日常に影響がないくらいの収入があったから、できましたが、今は、農業が軌道に乗らずに、3000万程有り金つぎ込んで、やっとなので、余裕がなくなり、最近やっと、少し取り返せる状況まで、回復できました・・もちろん、神の加護はいろいろありましたよ。
ただの父親も、一度は貧に落ち切りました・・・・事業に、つまずいてです、そう言う意味では、事業に守護は無かったかもしれない・・でも、今盛り返したから、これで良いのかもしれない・・見えない導きは常に感じましたから・・(脳内神様では無いと言えますが、証明はできない)
自分で、納得して、お供えするのは、いくら高額でも構わないし、それは個人の自由ですからね。
要は、それだけのメリットを感じさせる、コンテンツ、ご利益、功徳を信者に与えられるか? ギャンブルみたいに、家庭を破壊してまで、強制させない様になってるか? と言う事は、大事ですね・・
教会が、月額五千円を出しても、惜しくないと感じるくらいの、存在になってるのか?
本部は、どうなのだ? と言う観点で、引き続き、いろいろ考察して見たいと思います。
ありがとうございます、感謝いたします。
おはようございます。
私自身は、ちょっと、ズレた考えなので、皆さまとは一致しないかもしれませんが、まあ、こう言う人もいると言う事で、見てください。
天理教の場合、まず先に、お金ありきに感じちゃって、冷めた気持ちで見ています。
あまりにも、それがバレバレだから、そりゃ成り立たないだろうって思います。
本部は、末端の教会が、稼げる仕組みを提供しなくてはいけないと思いますけど、今は、商品が無いのに営業してこいって、言われているように思えるし、末端の布教者が、陽気暮らしのモデルになれないのに、陽気暮らしを目指そうって、商品カタログだけで、試供品も無いように感じるから、これでは無理だろうな?って思います。
神様は、ちゃんといらして、天理教団に従わず、お供えをしなくても、守護はして下さると、私は感じます、親神様はいると信じている人は、教団に関係無く、親神様からの守護を受け取れると思います。
いないと思ってる人は、自分から、神様を否定してるから、その守護を自分から弾いているだけですよ。
それは自由です、思想信条だけで生きるのも自由で、そう言う場合、神様は、手を引いて見守ってるだけですね。
やっぱり宗教のメリットって、救い、とか安心感、人生の道先案内、とかですからね・・
そう言うのをちゃんと提供して、それに、見合う、代価をお供えするのが、基本ですよね。
何度も書いて来たけど、守護と引き換えにお供えってのは、神社と変わりないよね?
神様は、お金じゃ無くて、別物を要求する、正当な努力を要求しますよね?
そう言う部分が、天理教では、お供えになってしまって、キチンとした説明が無いように感じています。
それについて、また、考察して行きたいと思います。
ありがとうございます、感謝いたします。
加藤ハルアキ 様
教祖に何も降りてなかったのなら、よろづよ八首の
「このたびは かみがおもていあらわれて なにかいさいをといてきかする
かみがでて なにかいさいをとくならば せかい一れつ心いさむる」
とある、この「神」とは、いったい何でしょうか?
また、教組がいくら開明的で知性優れた方だったとは言え、元の理「泥海古記」を、ご自分で創作されたというのでしょうか? 泥海古記は、人類が生成される、生物化学的な過程を、寓話的に表現したもの、という批評もありますが、江戸時代末期の庄屋の奥方が単独で思いついたのでしょうか?
また、教組の教えが天啓でなかったとしたら、「おぢばが人類の種を流し込まれた聖地」であることも、教組が歩かれて足の止まった地点を、甘露台の場所と定めた事なども、教組がご自分で勝手に説いた事なのでしょうか?それでしたら、教組は麻原彰晃並みの、頭のおかしい教祖、ということになります。
是非とも、加藤様の見解をお教えください。
ただの父親 様
>思ったより高額では無いな・・と言う印象ですかね。<
ただの父親様にとってはそうかもしれませんが、勤務中に一度も地方税が課税されないほどの低収入だった私にとっては教会関係の費用は大きな負担でした。教会を離れれば、母が悲しむだろうとの思いで付き合っていたようなものです。妻は未信者だったので、お供えについて不満を持っていたようですが、私が酒もタバコも遣らなかったことに免じて黙っていたのでしょう。
天理教はおカネと時間に追われます。春秋の20日の大祭には休みを取って参拝しろと言われました。しかし、20日は勤め人にとっては休むどころか、残業をしてでも締め切らなければならない事務がありました。
仕事を終えて教会に寄ればいいのですが、午後9時を過ぎてまで行けず、翌日に5時に会社を出て6時過ぎに教会に着き昨日に参拝できなかったことを詫びても、不機嫌な顔の会長。有給休暇があるだろうと嫌味も云われて腐った日々が何年続いたでしょう。一度も社会経験のない教会の方は、20日という日の重要さが理解できなかったのでしょう。本当に酷な宗教だと思わずにはいられません。
愚痴っぽくなりましたが、これが現実でした。
母が亡くなり、しばらくの時を経て教会から離れる決心をしました。
収入が低かった分、年金も低いのは止むを得ません。
前にも投稿しましたが、結核を病んだ私を採用してくれた団体、定年後も他の団体を紹介してくれて73歳まで勤められたことに感謝をして生きています。
今は、恩知らずと言われようとも、教会を離れて大きな重荷が取れた思いです。
東風Z さん、こんにちは。
ご承知の通り、金額に関しては、あくまで相対的な物ですからね
好んで宗教に金を使ってる私の予想とは違ったと言うだけですし、強制に近い状態であり
しかも、その努力も理解しない人が受け取ってると思うと・・・
東風Z さんのやめて清々したと言う気持ちは、よく判ります。
その教会長も、ちょっとできが悪すぎますよね?
生活を犠牲にして、供えてくれる人に感謝、また、自分では無く、親神様に供えて下さる金なのだから、親神様にも感謝・・・
そういう事も理解しない人が、教会長でございって存在できる事こそ、不思議ですよね
天理教は、親神様の守護と言う上に、乗っかって、お供えを要求しても、心使いを正すとか
親神様から求められる努力と言う、足かせが無いから、そうなってしまうと感じます。
残念ですが、その教会長の心使いでは、死後、地獄に滑り落ちますよねえ・・きっと・・
まだしも、死後世界を信じなくとも、その教会長さんより、東風Zさんの心使いの方が、親神様の思召しにかなっていると、私は感じます。 だから、地獄に滑り落ちる事は無いでしょうね?きっと・・
神が求める物とは、一般的、神霊的には、正しき祈り、真心、であり、正しき祈りとは、要望欲求では無く、神に近ずく、思召しを理解すると言う祈りですからね、正当なる努力とは、悪しき心使いを反省模索して、神の想い、思召しにかなう心使いにして行く事ですからね・・それが第一であって、お供えは、あくまで、この世の必要最低限の経費であって、神が求めている訳ではないですしね
貧者の一灯と言う仏教のお話じゃ無いですが、出てきたお供えを見て、ありがとうでは無く、もっと出せるはずだ! と言う気持ちで、咎めたりするのは、ほんと、最低以下・・・評価にも値しないですよね。
教会がお供えから経費を取っても許されるだけの、何か、徳とか、そう言う物を、信者に提供できなければ、神へのお供えに手をつける、ただの不届きものって見方もできますからね・・・
お返事、ありがとうございました、お気持ちが少しは、理解できました。
匿名 様 2019年4月24日 8:19 AM
私個人の見解と解釈だということを申し上げた上で、お答えさせて頂きます。
> 教祖に何も降りてなかったのなら、よろづよ八首の
>「このたびは かみがおもていあらわれて なにかいさいをといてきかする
> かみがでて なにかいさいをとくならば せかい一れつ心いさむる」
>とある、この「神」とは、いったい何でしょうか?
お書き下げにも「理が神である」という言葉があります。
「月日親神」はギリシャ神話や日本創世記に出て来るような「人格を持った神様」の事ではなく、「全ての人を助けたい、苦しむ者のいない社会を実現したい」という「理(想)」だけの存在です。
そういう「誰も考えなかったことを思いついた、突然閃いた」時、私たちも「神様から受け取った・神が降りてきた」という表現を使う事はあります。
> また、教組がいくら開明的で知性優れた方だったとは言え、元の理「泥海古記」を、ご自分で創作されたというのでしょうか? 泥海古記は、人類が生成される、生物化学的な過程を、寓話的に表現したもの、という批評もありますが、江戸時代末期の庄屋の奥方が単独で思いついたのでしょうか?
五重相伝を受けた教祖ですから、多少の神話的・寓話的な知識はあったでしょうし、逆に、その当時の農家の嫁ですから、作物を育て家畜を養い、生物に関する知識と経験は十分持っていたでしょう。
それらの知識経験をもとに、上記の「理(想)」を多くの人に納得して貰うための神話や寓話として「泥海古記」を組み立てる事は、蔵の中で数年間の思案を続ければ不可能ではないと考えます。
また、教祖は泥海古記自体は書いていません。
> また、教組の教えが天啓でなかったとしたら、「おぢばが人類の種を流し込まれた聖地」であることも、教組が歩かれて足の止まった地点を、甘露台の場所と定めた事なども、教組がご自分で勝手に説いた事なのでしょうか?
おふでさきに書かれた「にんげん」という言葉の定義が必要です。
これを「人間という生き物」と捉えると科学的にも生物学上にもありえない話になってしまいます。
「にんげん」は、上記の「理(想)を心に修めて人生を歩む人」と解釈すると、「ぢば」や「かんろだい」「かぐらつとめ」等が全て一本の線に繋がった教理として理解できます。
勿論、人間だって多少の個人差はあれど「人を助けること、誰かを愛する事、皆と助け合い仲良くする事」を心に持って生きている人は大勢いるでしょう。でも、同時に「自分だけ良ければいい、他人より自分の利益、他人を支配して偉くなりたい」という価値観や考えの『両方を持って生活している』のが普通というか人間という生き物ではないでしょうか?そうじゃないと、騙されたり利用されたりの人生になってしまいますから。
でもそれを、「100%で、人を助けたい、互い立て合い助け合いで生きる、誰も苦しむ者のいない素晴らしい社会を創る、そのためにはたらくことがにんげんの本質である」と決意して行動するのが「にんげん」であり、そのひながたが教祖であり、それを教え始めた最初の場所が「ぢば」であり「かんろだいを建てた場所」であり「かんろだいつとめ」であるから、「にんげんはじめたもとのぢば」となります。
そういう意味では「聖地」と言えます。
「かんろだいを建てる場所を定めた」経緯や方法については「劇画 中山みき物語」をお読みください。
>それでしたら、教組は麻原彰晃並みの、頭のおかしい教祖、ということになります。
私はあまり詳しくありませんが、麻原彰晃も「何かの偉人の生まれ変わり」で「何かの啓示を受けた」と言っていた(言われていた)はずです。
「頭のおかしい教祖」にしているのは、教祖が神の啓示を受けたと主張している人達です。
現実問題として「本当に神の啓示を受けた」のか「本人が考えて言っている」のか、第三者には判断できません。第三者には「神の啓示」は聞こえませんし、話しているのは「ただの人間」なのですから。
加藤ハルアキ様
大変分かりやすい理路整然とした解説で、よく分かりました。ありがとうございました。
「かみがおもていあらわれて」とは、インスレーションが閃いたことである、という解釈は、成程、と全く抵抗なく納得させられました。私みたいな平凡な人間でも、たまに良いことを思いついたりした時は、神様のお知らせかな、などと調子のよい事を思ったりしますので、ましてや幼い頃から宗教的素養があり、五十相伝の授受まで仏道を研鑽された教祖が、胸に湧き上がっであろう、世の正しいあり方、人間の理想の生き方への閃きを「神が現われる」と表現したのも、肯けます。
ただ、そうしますと、本席がおさしづを伺っていたお相手はいったい、どなただろう、という疑問も湧きますが・・・。
↑ 訂正 インスレーション ⇒ インスピレーション です。 すみません。
加藤ハルアキ 様
2019年4月24日 4:57 PM
>「100%で、人を助けたい、互い立て合い助け合いで生きる、誰も苦しむ者のいない素晴らしい社会を創る、そのためにはたらくことがにんげんの本質である」と決意して行動するのが「にんげん」であり、そのひながたが教祖であり、それを教え始めた最初の場所が「ぢば」であり「かんろだいを建てた場所」であり「かんろだいつとめ」であるから、「にんげんはじめたもとのぢば」となります。
そういう意味では「聖地」と言えます。<
さすれば、人間の生き方やあるべき姿、即ち、「人間の理想像」について教え説いた宗教、例えば、天理教の教祖が幼少期から熱心に信仰し、思想的影響も多大に受け、五重相伝まで受けたとされる浄土宗(仏教)の開祖である仏陀(釈迦)が最初に悟りをひらき、民衆に教えを説いた地が、「にんげんはじめたもとのぢば」であり、「かんろだいを立てるべき場所」であり「聖地」という解釈もできると思うのですが、いかがでしょうか?
> ただ、そうしますと、本席がおさしづを伺っていたお相手はいったい、どなただろう、という疑問も湧きますが・・・。
『本席も』、教祖から教えてもらった「理(想)」を心に修め、神の価値観や基準で物事を考え「さしず」していた、と解釈します。
心の中の「神の理」を呼び出すために、扇を持ったり呼吸を整えたり声の調子を変えたりしたことが、オカルト好きな人からは「神が降りてきた」と見えるのかもしれません。(イタコじゃないんですけどねぇ)
誰でも心に「神の理」を修め、その価値観や基準で話し行動すると決意し実行すれば、神が降りてきた状態(=ひながた通り)になるという教えです。
>仏陀(釈迦)が最初に悟りをひらき、民衆に教えを説いた地が、「にんげんはじめたもとのぢば」であり、「かんろだいを立てるべき場所」であり「聖地」という解釈もできる
そのような解釈も可能だと思います。
ただ、仏陀は最初に悟りを啓きましたが、その教えは「言葉だけ」であったと思われます。
教祖は、その「神の理(想)」を伝える(身に付けさせる)のに、「かんろだい」と「かんろだいとつめ」と「みかぐらうた」という教材や手法をあみ出し、後に続く人たちが容易に悟り易いように指導をしています。文字や言葉だけでなく、全身を使って「神の理(想)」を修得できるように工夫をしたわけです。
仏陀が教えを説き始めてから教祖の時代まで2000年以上経っても世の中は「苦の世界」だった(今現在もですが)訳ですが、教祖は「この方法なら多くの人が神の理を理解し心に修めて、苦の世界を陽気づくめの世の中に変える力になるはずだ」というような確信をしていたと考えられます。
だから、「おつとめ(かんろだいつとめ)が大事」であり「つとめをせよ」と言い続けたのだと思います。
ところがどっこい、現実の本部や世界は・・・、という愚痴は止めておきます。
加藤ハルアキ 様
2019年4月25日 6:21 PM
仏陀が最初に悟りをひらき民衆に説き始めた地は、ご存知の通り、現在のインドです。世界の中でも最貧国の一つに挙げられます。自らの意思とは関係なく「極貧に落ち切らざる終えなかった人々」が大勢おられる地です。病気になっても医師に診てもらえず、病院に入院することもできず、路上で行き倒れ、ただ死を待つだけの人々が大勢おられます。そうした困窮の極みにある人達に「人間らしい救済と最後」を与えるべく活動を始めたマザーテレサというカトリックのシスターがおられました。ノーベル平和賞を受賞され世界的に非常に有名な方です。彼女は、路上で行き倒れた人達を「死を待つ人々の家」という施設に収容し、食べ物や薬品を無償で与え、人間としての看護や介護を最後まで十分に施し、人間らしい最後を看取るという「究極の人だすけ」を実践した人です。彼女の遺志は、彼女と共に活動したシスターや他宗教の賛同者にまで引き継がれ、今もなお、「究極の人だすけ」は、「死を待つ人々の家」の家で実践されています。天理教教祖は、神の理(想)を全身で修得するために、「かんろだい」と「かんろだいとつめ」と「みかぐらうた」という教材や手法をあみ出し、後に続く人たちが容易に悟り易いように指導をされたということは理解できるのですが、「理想」は「実践」されてこそ初めて意味をなすものであり、「実践」されなければ「仏陀の悟り」と同様、「言葉だけ」だと思うのですが、いかがでしょうか?
崩壊 様 2019年4月26日 2:12 PM
>「理想」は「実践」されてこそ初めて意味をなすものであり、「実践」されなければ「仏陀の悟り」と同様、「言葉だけ」だと思うのです
仰る通り、「実践」があってこそ意味があります。
だからこそ「教祖の歩んだ50年のひながた」が大事であり、歪んだ解釈や嘘の逸話や口伝などは許されるものではありません。
また教祖の教えた人助けの「神の理(想)」は、貧困、病人、被差別民などの弱い立場の人たちだけを対象としたものではなく、富裕層、社会的権力者など、一見、悩みも苦しみもないように思える人をも対象として含んだ「人助け」です。まぁ、そういう人たちを「高山」と呼んでいましたが。
ちなみに、江戸期から明治にかけての日本は身分制度や多少の経済格差はあったものの、インドのような極貧者や路上で行き倒れになるような人が続出するような社会ではなく、多くの庶民は一律にみな貧しかったというのは、当時の外国人旅行者の日記や記録などからでも明らかです。
日本ではマザーテレサのような「人助け」をする場も必要性も薄かったかもしれません。
この点で優劣はつけられないと思われます。
勿論、後に続く人の数や世界的評価でいうなら、マザーテレサの方が上だと思いますし言えるでしょう。
それだけに、教祖の教えや思想を歪めたり、違う意味で広めた『本部の罪は大きい』と考えます。
加藤ハルアキ 様
2019年4月26日 3:28 PM
>ちなみに、江戸期から明治にかけての日本は身分制度や多少の経済格差はあったものの、インドのような極貧者や路上で行き倒れになるような人が続出するような社会ではなく、多くの庶民は一律にみな貧しかったというのは、当時の外国人旅行者の日記や記録などからでも明らかです。
日本ではマザーテレサのような「人助け」をする場も必要性も薄かったかもしれません。
この点で優劣はつけられないと思われます。
勿論、後に続く人の数や世界的評価でいうなら、マザーテレサの方が上だと思いますし言えるでしょう。
それだけに、教祖の教えや思想を歪めたり、違う意味で広めた『本部の罪は大きい』と考えます。 >
私は宗教の創始者や指導者の「優劣」などどうでもよいことだと思っています。終戦直後の日本にあっても、親族を失い路頭に迷っていた戦災孤児が大勢いました。また、広島や長崎で原子爆弾に被爆し、今もなお生存し、後遺症に苦しんでおられる被爆者の方々もおられます。東京や大阪等の大都市のみならず、日本の各地も空襲に遭い、数えきれないほどの被害者をだしました。戦後70年以上絶ったとはいえ、日本の国も現在のインド以上の状況にあったことは確かです。現在にあっても、就きたい仕事につけず、不安定な日雇いの仕事で一日一日を暮らしておられる大阪市西成区の日雇い労働者の方々、様々な事情で路上生活を余儀なくされているホームレスと呼ばれる人々等、インドとは程度の差こそあれ、助けなければならない人々、救済されなければならない人々が大勢おられます。地震等の自然災害の被災者の方々も然りです。こうした「難渋の中にある人々」に対して天理教という宗教は一体、何をして何の役に立ってきたのでしょう? 私は首をかしげざる終えません。特定の宗教を信仰しなくても、世界中の困っている方々に自分のできる範囲で手を差し伸べておられる善意ある人達も大勢おられます。人間には生まれながらにして持ち合わせている善意や良心というものがあります。最近、私は宗教とは人間にとって本当に必要なのか疑問に思えて仕方がありません。
マザーテレサが上で中山みきが下じゃ無いか?とかそんな低次元な考察やめなはれ。世界的に有名だとかなんだとか・・・
有名がいいんですか?
そんなものじゃ無いでしょう。
そうして、それを言うなら中山みきの教えを聞いているならばその教えの一端でも現成させて見ればいいだけの事。
そんな空論振り回してもなんの益もないでしょ。
それに釈迦がインドって言ってるけど今のインドとは完全に合致してなくてどちらかと言うとネパールとかの方でしょうが・・・
それから最貧国のインドってそれ近年の話。二千年以上昔は最貧国かどうかはわからないでしょ。時間軸メチャクチャで・・・
だいたい甘露台はお釈迦さんが悟りを得た場所にするべき・・・とか
そんな事を言ってんならとっとと仏教徒になればいいだけの事。
加藤ハルアキ 様
>「100%で、人を助けたい、互い立て合い助け合いで生きる、誰も苦しむ者のいない素晴らしい社会を創る、そのためにはたらくことがにんげんの本質である」と決意して行動するのが「にんげん」であり、そのひながたが教祖であり、それを教え始めた最初の場所が「ぢば」であり「かんろだいを建てた場所」であり「かんろだいつとめ」であるから、「にんげんはじめたもとのぢば」となります。<
上記のような「にんげん」になるのは、普通の人間には到底無理でしょう。100%人をたすけたい、なんていうのは、それこそ、おやさまか、マザーテレサかイエスキリストかお釈迦様レベルだと思います。
埃や欲があるから人間だとも思いますから、100%ではなく、数%でも・・、勿論、%数が増えれば、それに越したことはないが、助けたい心があって、行動できるのが「にんげん」だと、許容範囲を広げて頂きたいものです。
しかし加藤様の解釈は、卓見だと思います。少なくとも、今の「おぢばは人類発祥の聖地」よりは、教理的にも優れた解釈だと思います。
加藤様はじめ有識者の方に質問させていただきます。
教団からは異端とされる天理教を信仰する団体や教会の中には
各自の神殿に甘露台を建てて(あるいは屋外に石の甘露台を建てて)
その周りを囲んで本部と同じように神楽面をつけておつとめをしているところがあります。
本来はこうしたおつとめのやり方こそが、教祖が教えられた各教会のおつとめの正しい行い方なのでしょうか?
そうだとしたらその原典根拠はどこかにあるのでしょうか?
≪ そうだとしたらその原典根拠はどこかにあるのでしょうか?
原典が教祖の教えに完璧にそっているものであれば上記の問いかけは成立します、さて、いかがなものでしょうか。天理教は立教たかだか180年超しかたっていません。これまでも別れた教団もあり、今後もあるかもしれない。本部見解だけが唯一正しいと言い切る人々は思考停止状態といえます。教学研究のすそ野がもっと広がり、研究者が自由に研究できるような環境整備こそが、現代天理教界に課せられた課題であることは明らかな事です。仏教は各宗派ごとの研究・教学が長年積み重ねられています。しかし原始仏教となると、お釈迦様死後何年も経過してから、「そう言えばお釈迦様はこんな事を言っていた」という弟子たちの記憶を集めて編まれてきました。
「原典根拠」を問うておられる匿名様に横から失礼ながら関連投稿をさせて頂きました。
真に勝手ながら、崩壊様・とっく名様への返信は主題からズレると思いますので省かせて頂きます。
匿名 様 2019年4月27日 11:17 AM
>埃や欲があるから人間だとも思いますから、100%ではなく、数%でも・・、勿論、%数が増えれば、それに越したことはないが、助けたい心があって、行動できるのが「にんげん」だと、許容範囲を広げて頂きたいものです。本来はこうしたおつとめのやり方こそが、教祖が教えられた各教会のおつとめの正しい行い方なのでしょうか?<
諸説ありますが、現在、教団の各教会で行われている朝夕の「座りつとめ」は明治21年東京の神道本局天理教会で行われ始めたもので教祖が教えてくれたものではない、という説を私は支持します。
そもそも、「拝み祈祷ではない」「山の中でもあちこちとてんりんおうのつとめする」と残された教祖が、三殿並べて、それに向かって何度も礼拝しお願い・お祈りするような形の「おつとめ」を教えるでしょうか?
ましてや、敬意を払う程度ならまだしも、「親神様=天皇家の祖先」「教祖様=自分」「祖霊殿=教会関係者の祖先」に服従を近い、ご利益を願うように膝まづくような「座りつとめ」をさせながら、一列兄弟・助け合い、などと言うのでは矛盾どころか滅茶苦茶です。
匿名様(2019年4月27日 5:26 PM)の仰るように、中山みきさんの教え全体に流れる思想や内容を捉え、本当の「神の理(想)」を思案する必要を感じます。
匿名 様 2019年4月27日 11:17 AM
投稿したつもりが、貼り付けを間違ったのか答え部分が消えてしまいました。
改めて答えさせて頂きます。
>埃や欲があるから人間だとも思いますから、100%ではなく、数%でも・・、勿論、%数が増えれば、それに越したことはないが、助けたい心があって、行動できるのが「にんげん」だと、許容範囲を広げて頂きたいものです。<
仰る通り、人間は「両方持ち合わせて」います。
八島英雄氏の言葉を借りれば「助け合い(の心を持った)人間」と「倒し合い(の心を持った)人間」です。
この場で100%と使ったのは話を分かり易くする為で、現実問題として100%はあり得ないでしょう。
もっとも、これを数値や量で表現するのも無理がありますが、分かり易いので使わせて頂きます。
勿論、「私は助け合い人間になる」と心定めすれば人間は変われるものですが、その人の考え方や言葉や行動が伴わなければ意味はありません。
日々の生活や仕事の中で「数%でも神の理(想)に近づくためには・・・」と考えながら、自分の考えや言葉や行動を見直し、変えて行く事が「おみち」なのだと実感しています。
特に私などはどうしようもない人間なので、元から「助け合い人間」の部分は10%程度(異論は受け付けません、笑)ではないかと思ってますが、だからこそ、中山みきの教えを求め、その中身を理解して、人生に活かそうと思って来ました。
思案の末「『倒し合い人間ばかりの組織(大教会など天理教関係者や頭の固い信仰者たち)に圧迫されている家族や信者さんをまとめて離脱させないと自分も救われない」と決断し、教会の被包括関係廃止手続きに踏み出しました。そして、その経験を「自分が助かったことを人様にさせて貰う」という人助けの基本に従って公開しているだけです。
あとは、教会を「来た人に喜んでもらえる場所」にする為の運営改革(御供え・御礼の全廃、ひのきしんの要求禁止、強制をせず来られる時にだけ来てもらう)と今後の手配をしているだけです。
まぁ「これで自分も数%はマシになったかな?」程度ですが。
それぞれの場所で教会を設置して拝をする。まあ、悪い事では無いと思う。
一般でも神棚を設けてお水を供えたりする。素晴らしい事では無いかと思う。
実家は末端教会で当然三殿祀られているがそこに親神、教祖が座しているとは思えない。月次祭に神実さんを開閉扉するけど開扉しないと親神さん出てこんか?と素直に思う。人間が開けようが閉めようが親神たる働きはなされているだろう。ましてや人が作った木の作り物に神が宿っているとは到底思えない。なので正直あまり拝をする気がしない。
するなら天理の地場に向かって拝をしていればいいのでは?と思う。
まあ、神たる働きは遍在遍満しているだろうからどっち向いて拝をしてもいいんじゃ無いかとも思うが。向きよりも気持ちかなと念ずる気持ちか?
イスラムは過激だとか原理主義など有るが聖地の方に向かって拝をするのは理にかなっている気がする。
だいたい一万七千箇所有ると言われている教会(大半は死んでいるが)にいちいち神が鎮まっているとは思えない。神を設けて拝をするという行為自体は悪いものでは無いだろうが。
一万七千箇所の教会を設置した、された目的はやはり信者獲得。教勢の拡大。
元の目的の『人類の救済』から変質し『教団の教勢拡大』に途中ですり替わってしまった。と思う。
信者獲得と言えば集金に繋がるのも事実。
この教会設置の手法が破綻しているのは現実だろう。
無理がたたったといえよう。
あまり神神いうとそれに縛られて息苦しく感じるし生活にも制限が入る(旅行などもままならない)旅行と神とどっちが大事なのか?と言われるだろうが平凡な人間ならたまには神さんの事を忘れて旅行もしたいのが人情でしょ。
それに思考も偏りがちになるような気がするし、依存の対象になっている事も有ると思われる・・・
大教会の御霊舎が2つあって、拝礼回数が一回分多いので、よく見ると、2つある。あのもう一個の御霊舎は何か?と聞いたら大教会家族の先祖を祀っているのだと聞かされた。教祖の御教えの信仰なのになぜ大教会先祖に拝礼する必要があるのか?
この一回多い拝は私には全く必要のない拝礼に思え、大教会先祖をあえて敬まなければならない心も伴わないし、さっぱり理解出来ない。大教会先祖は大教会家族が拝めば良い事だろうに、、、我々信者に拝まさなくても。
結局教祖の教えを勝手に曲げて上下制度を創設したから、大教会たるものは上。下の者は上の組織の人間を敬えよ、と言うことにしてしまったのか。教祖の教えの信仰に大教会先祖がなぜからんでくるのか??
一列兄弟の教えを捻じ曲げた結果、筋の通らない余計なものが拝礼対象として入り込み、理解できない拝礼様式になってしまっている。本当に支離滅裂、滅茶苦茶。我々信者の信仰の焦点は何なのだろう?
>>大教会先祖は大教会家族が拝めば良い事だろうに、、、我々信者に拝まさなくても。
結局教祖の教えを勝手に曲げて上下制度を創設したから、大教会たるものは上。下の者は上の組織の人間を敬えよ、と言うことにしてしまったのか。教祖の教えの信仰に大教会先祖がなぜからんでくるのか??
一列兄弟の教えを捻じ曲げた結果、筋の通らない余計なものが拝礼対象として入り込み、理解できない拝礼様式になってしまっている。本当に支離滅裂、滅茶苦茶。我々信者の信仰の焦点は何なのだろう?
本当にそう思います。
それなら本部の祖霊殿もおかしいですよね。
今はどうか知りませんが、教校の生徒(専修科生 本科生 今はなき第二専等)は
全くの赤の他人にもかかわらず、本部員の葬式に強制参加させられていたらしいです。
>それなら本部の祖霊殿もおかしいですよね<
聞いた話だが、海外の人を本部に初めてお連れして三殿を拝礼して回った時、「一列等しい兄弟と言う教えに感銘を受けるが、何故、教祖殿に於いて本部の特別な人間だけ特別に祀って信者に拝礼させるのか?」と問われて明快に答えられなかった、と言う話をきいた。
考えれば考えるほど、思考回路が支離滅裂。信仰のポイントが中山家を敬えと言う意識ベースとなっているのは間違いなく、ピントのずれた現在の様な拝礼様式になったのでしょう。
現在の「命の繋ぎは金」と言う思想も、神の名を利用した中山家中心思想で詐欺まがいの宗教活動だ。令和の次期天皇が若かりし頃、その重い立場であるにもかかわらず「自分で考え、判断し、行動したい」と言われたそうだが、早くからぶれない人としてのあるべき姿を見据えておられたのかと天理教信者として感慨深く拝見しました。
我々信者も「素直」と言う言葉に惑わされる事なく、物事の真偽を見極め自分で考え、自分で判断し、行動する事が肝要であると強く思います。
巷でオレオレと騙されるのは疑う事を知らない善良な市民であり、だからこそ疑う事を知らない素直な信者、ハイハイとついてくる信者を増産する事が中山家にとって外せない思想なんだと思う。
真の賢者は疑う事から始まり、世界を救う偉業を成し遂げる。天理教では賢者は必要ない。本当の阿保が必要。素直にお金が集まればいい。世界助けなんてそんな事をゴルフしながら考えてるのかなぁ。
加藤ハルアキ 様 ・とっく名 様
2019年4月27日 6:44 PM
>勿論、後に続く人の数や世界的評価でいうなら、マザーテレサの方が上だと思いますし言えるでしょう。<
>真に勝手ながら、崩壊様・とっく名様への返信は主題からズレると思いますので省かせて頂きます。<
誤解のないよう、何度も同じことを投稿させていただきます。前回の投稿でも述べたように「私は宗教の創始者や指導者の「優劣」などどうでもよいこと」だと思っています。マザーテレサは「人だすけの実践者の一例」として取り上げさせていただきました。彼女以外にも世界には陰ながら「人だすけ」を実践されている方々が数多くおられます。決して、マザーテレサの方が中山みきより世界的に有名であり優れているという比較対照している訳ではありませんので、誤解なさらないようお願いします。
匿名 様
2019年4月28日 9:57 AM
>巷でオレオレと騙されるのは疑う事を知らない善良な市民であり、だからこそ疑う事を知らない素直な信者、ハイハイとついてくる信者を増産する事が中山家にとって外せない思想なんだと思う。
真の賢者は疑う事から始まり、世界を救う偉業を成し遂げる。天理教では賢者は必要ない。本当の阿保が必要。素直にお金が集まればいい。世界助けなんてそんな事をゴルフしながら考えてるのかなぁ。<
中山一族やその取り巻き連中にとって最も重要なことは、ピラミッド組織を盤石にし、おのれの利益を未来永劫確保したいだけのことです。ゴルフをしながらでも「世界だすけ」を考えているならば、まだ救いようがありますが(?)、そんな気持ちは皆無でしょう。将来も信者の「お供え」で何不自由なく生活し、ゴルフに興じたいのかもしれませんが、信者も馬鹿ではありませんので、いつまでも現状が続くと思えば大間違いです。
トップは自ら汗水流した経験をしておらず、揉み手して持ち上げられる事が日常で歳を重ねておられますからあまりにも世間知らずで甘、甘です。世間的には一人前に届かないのです。精神世界も甘い酸いの体験がないから理屈ばかりで本質的には未熟なのです。もうつける薬が無いし全国つつ浦々からの改革に対する強いリーダーシップの期待にも応えられる資質がないのだから絶望するしかないんです。
現状を変えられないのだから静かに静観して成ってくる姿を見るしか有りません。
我々は仕事なり、アルバイトなり自主自立の道を探る時が来ていると思います。地域社会を支える必要はあっても我々が本部を支える理由は有りません。
天理教の年間予算が、まだ100億あるって、さすが大教団ですよね? いっときの500億は驚異的ですが、今でも100億って、そりゃすごい・・
教会家族の生活費も想定すると・・まだ上乗せできますもんね・・
私の教団なんて、会費に会員数かけたら、想像できるけど、数億円程度ですから、天理教は抜きん出て、お金持ち教団だと思いますよね?
どの宗教団体も縮小傾向にはありますけど、天理教は、ずば抜けて、集金力があると思います。
かつての東風Z さんみたいに、月次祭に、毎回、五千円程度お供えする人が、全国で、約25万人〜30万人は、いるって事でしょうか?
こりゃ、ここでいろいろ言ったって、天理教団は、変わらないでしょうね? まだしばらく行くでしょうね・・100億ってすごいですよね・・おぢばの維持くらい、訳はないと想像できます・・
ちなみに、月次祭って神道の行事ですよ・・月次祭に、お供えを持って参列するって、自治会か氏子だよね? もはや、お決まりの行事ですよね?
天理教で、お供えをしている多くの方は、惰性でやってるんのかなあ?
大して、信仰のメリットも、教えの実践も何も、考えずに、決まり事として、毎月、教会で月次祭を行い・・お供えを五千円くらい、持って行ってるんだろうか?
漠然と、守護を信じて、なんとなくやってるのかな? などと、想像させてくれます。
私自身も、年間、教会長に3万円と、おぢばの賽銭箱に、2千円程度は、置いて来てますからね・・付き合いだけでね・・
そりゃ、真柱って、やめられないよね? きっと・・・・・
天理教の「おさづけ」について
私の義父(妻の父)が肺癌を患い、「いこいの家」に入院していたころの話です。(約35年程前)
義父は二人部屋に入院していましたが、同室にも肺癌の患者さんが入院しておられました。その方は肺癌が脳に転移し、意識もおぼつかない状態でした。ある日、黒い教服を纏った「いこいの家身上部」の人が来られ、その患者さんに、「おさづけ」を取り次がせてほしいと付き添いの家族の方に執拗に言われました。家族の方は、患者本人が大変苦しみ意識も混濁しているので止めて欲しいと身上部の方に頼まれたのですが、身上部の方があまりにも執拗に「おさづけ」の取り次ぎを要求されるので、家族の方が早く退散してもらいたいとの一心で、封筒に紙幣を入れて渡したところ、その身上部の人は早々に退散されました。
その封筒に一体、いくらの金額が入っていたのか、私は知る由もありませんが、天理教の「おさづけ」とは「人だすけ」のためではなく、所詮「金儲けの手段」なのかという印象を強く受けました。儲けた金の一部は教会本部の金庫にでも入ったのでしょうか?
>天理教の「おさづけ」とは「人だすけ」のためではなく、所詮「金儲けの手段」なのかという印象を強く受けました。<
父が入院中、上級会長がほぼ毎日、或いは一日おきに来ておさずけを取り次いでくれたのだが、父は毎回千円ことづけていた。毎回遠慮せずに受け取って帰った。自分が欲しくて受け取るんのではない、神への貴方のお礼だから出すべきだと思っていたのか。それにしてもほぼ毎日来て、、、受け取って帰る。金儲けか?恥ずかしい気持ちにならないのか?自分なら、無償で取り次ぐ事こそ真実だと思うが。
家族としてはもう来ないでほしいと思った。天理教とお金。御守護も金次第なのか。
私の意見は、基本的に、神様ありきで成り立っています。
だから、オカルトは存在しないと決定している人は、聞くに値しないお話でしょうね。 それを決定してる人を覆すほどの、そんな気持ちはありませんので、私のお話は、天理教には、オカルト (神秘、超自然) を信じていらっしゃる方も見えますので、そう言う人と、親神様を模索してみたいと思います。
これは、両者、互いに全く興味を持てない話であり、話しても平行線になるので、私としては、真偽の議論はする気はありませんので、お願いいたします。
もし、教祖が、稀有の珍しい思想家であり、神がかりを演出しながら、これほどの人を動かしたとしたら、驚異的ですよね、すごい文化人として、別の意味でもっと歴史上で取り上げられても良いでしょう。
天の理では無くて、まともな人間の理と言う、教祖様が考案された、理、思想を受け継ぐと、人として何でも答えられる様になれるし、理想郷を生きられる、素晴らしい思想信条が、教え根の根幹な訳か・・本席様も教祖から教えてもらった「理(想)」を心に修め、神の価値観や基準で物事を考え「さしず」していた訳ね。
茨木基敬、飯田岩次郎、大西愛次郎は理を習得したけど、許可なく、「さしず」をしたから、破門? 増井りん、中川よし、関根豊松氏の発揮された霊能力は全て、異端の技であり、精神異常者、 教団公認の、飯降伊蔵、上田ナライト、中山こかん氏は、素晴らしい思想を受け継いで、神がかりの演出をしながら、教団と共謀して、その理を、神の言葉として伝えたと言う事でしょうか? 巷に伝わってる、死んだ人が息を吹き返したりの奇跡のお話は、全て演出で嘘の訳ですね。ナライト氏の未来を見た予言も、全部精神病レベル・・・キリスト教の神話レベルですね?
多くの布教師が、野宿をしながら、教えを広めた時代、そうして、教会という拠点、橋頭堡を確保しながら、全国に天理教を広げて行けたのは、基本的には、親神様のお助けが効いたからだと言われていますけど、医療、環境の悪い時代、オプシーボ効果だけ、雰囲気だけで、奇跡だと言われた訳か? それはそれである意味すごいかもしれない。 あるいは、教祖の教える、理を心に納めたならば、そう言う奇跡も起こせると言う事かな?
某ブログでも、教会長さん自ら、おさずけは効かない・・どうやって教会に人を集めたら良いのか、わからないって言ってますから、天理教徒のやるべき答えはひとつ、教祖様の教える理を心に収めて、飯降伊蔵氏の様になれば良いんです。
教えを一度、心に納めたら、あなたも飯降伊蔵氏、教祖様の様になれるんですから、もう目指す所は、それしかありませんよね?
松村吉太郎氏の「道の80年」では、教祖様存命時は、小さな事でも、よくお伺いを立ててるし、飯降伊蔵氏にも、お伺いを立ててるが、ぜーんぶ人の知恵から来る物だったのか? 吉太郎本人が、身上を受けて、気持ちを切り替えた事、神の働きを重視して、神前奉仕をしたのも、演出の作り話しだった訳か・・吉太郎氏は、理を心に納めていないけど、教義編纂に意欲を燃やしていた訳だし・・なんで、細かいことまで、本席様に、お伺いを立てたんだろうね? 教えを理解してなかった訳か?
天理教のメリットを得るためには、教祖の教える、理を習得しよう! 自分の心に納めよう! と言う目標で、勉強したら良いんですね。 教祖様が、「かんろだい」と「かんろだいとつめ」と「みかぐらうた」という教材や手法をあみ出し、後に続く人たちが容易に悟り易いように指導をして、文字や言葉だけでなく、全身を使って「神の理(想)」を修得できるように工夫をした訳ですからね。
もう、みんな、本席、飯降伊蔵氏の様になれる訳です! 頑張ってくださいね!
離脱教会で、真、天理教グループを起こして、新たな、お指図もできるし、立派な方ばかりになれば、きっと、真、天理教グループの方が有名になれるでしょう。
ぜひ、それは素晴らしい事ですから、頑張ってくださいね!
過度なお供えも要らないし、親神様はいないのだから、神の守護も無い、人生は、心掛け次第でしょうから、気は楽ですね? 理の親も拒否できますから、それが一番でしょうね・・・・
前にも書きましたが
息子が、部活で、捻挫していた時、多くの4年生が、おさずけを、してくれたそうです。
人助けが基本ですし、もちろん、生徒間で、お布施のやり取りなどありません。
その時は、何も効かなかったそうですが
陽心寮の寮長が、おさずけをしてくれた時だけ、痛みが和らぎ、足が曲がる様に少し回復したそうで、息子は、内心、ビックリしたそうです。
私の浄霊の経験もあるから、息子は、不思議には、免疫があるんですけど、その時はまあ、親神様って、いるのかな? くらいは、思ったそうです。 まだ10代だけに、神とか、あまり考えてはいない様ですしね。
私も、そう言うのは、縁があれば、判る物なので、息子に、神とか説いたりは、あまりしてない。
お金を取るなら、効果を感じてからでしょうね? ただ来てやっても、効果が感じられないなら、金をもらっちゃダメですよね? おさずけの、効果を感じる事で、親神様の存在を信じ始める事ができるのが、教えを学ぶ、入り口だと思いますので、効かないなら、修行不足です、また来ますって、やれば良いんですよね。
基本、ただなら、拒否する程の事もありませんしね。
ちなみに、私とかが、浄霊を行なって、お金を頂いたら、即退会処分です・・会員は無償で行う事になっています。 布教活動って、私らには、伝える教えってのが、無いので、浄霊で何も変化を感じないなら、すいません、修行不足ですって言って終わりです。 変化があれば、神のエネルギーを感じられたら、あなたも、ご自分で引いてみて下さいって、方法を教えるのが、布教活動でしょうか?
だから、おさずけが、効かないと言うなら、ほんと、教えを伝えるだけですよね? 布教活動は、教えを伝えるだけ・・親神様は存在しない? それだと、月次祭に教会に来てもらって、毎回五千円とか、お供えする根拠も無いですもんね。
ただの父親 様
天理教はそうじゃないんです。私の先祖の信仰の始まりは僧祖父母の代だと聞いています。きっと教祖も在命中のことだと想像します。何がキッカケで入信したのかも知りませんし、何故この教会の所属になったのかのいきさつも知りません。曽祖父母の名前さえ知りませんでした。たまたま、父の遺族弔慰金を受け取るために原戸籍(はらこせき)を取り寄せて僧祖父母の名前を知っただけです。
ところが、天理教は僧祖父母が入信した日、すなわち元一日を忘れるなというのです。
冗談じゃない。知らないものを忘れるなと言われても、そうですかと素直にうなずけません。
すると、天理教は次のように言うんです。その僧祖父母が居なければ、あなたの現在は無いんですよと。
冗談じゃない、僧祖父母が居なければ当然私も居ないんだから、天理教のくだらない話を聞くこともなかっただけのことです。
そもそも、私の8代前の先祖って辿ってゆけば途方もない数の人間ですよね。祖父母でさえも4人いた。その祖父母にも4人の祖父母が居たはずです。
僧祖父母の墓は知っていますが、僧祖父母の両親の墓がどこにあるのかも知りません。お寺が火災に遭って過去帳が消失してしまっています。今は亡き住職さんもご存じなかったそうです。
何の認識も持てない過去に縛られるよりも、長くもない残された人生で人助けを標榜するよりも、いかにして他人様に迷惑をかけることなく過ごせるように努め、今生きている自分の在り方を自分なりに真剣に考えることが一番大切なことではないでしょうか。
小さな子供たちにさえ、手を変え、品を変えて天理教用語を連発し、人生にトラウマを与え続ける宗教に関心はありません。
天理教により心的外傷を負ってしまった老人の繰り言と思ってください。
東風Z さん、こんにちは。 わざわざありがとうございます。
天理教は僧祖父母が入信した日、すなわち元一日を忘れるな! それは当人に言え!って話ですね。
末代まで、天理教を信仰しろってかあ・・
世界にはキリスト教の原理主義者がいて、19世紀末と同じ暮らしをしてる集団がいる様ですけど、どうせなら、2000年前の暮らしをしろって思いますし、子供を巻き込むなよ? って思います。
天理教もね、教会長男、姉弟の進路選択の自由を、奪うなよ? って、思います。
大人になってから、自分の意思で選ぶのが、一番ですよね。
私も、親にも、子供にも、自分の信仰は、押し付けてはいません。
大人になって、しっかりと価値観とか常識を身に付けていたら、やたら人に支配される様な、事は無いと思いたいです。 もっとも、オウムみたいな、大卒の大人が、アホみたいに存在に従っていたから、大人の定義は、精神的にも、経済的にも、自立出来ている事、だと思いますけどもね。
それなら、天理教の、理屈に合わない話にも、いやちょっと、そこは拒否しますって言えると思いますよね。
これを当然の価値観として、持って欲しいですよね?
元一日は、本人が忘れなければ良いんですからね・・
それぞれの個人に、元一日があると、私的には思いますよ。
私的には、おさずけが、効かないと思うなら、親神様の存在も信じる必要は無いと思っています。
親神様がいなくて、教えだけなら、いろいろ教団の理屈に縛られる理由も、無い・・
自分で学んで、全身を使って、理を心に納める努力をしていたら、良いんですよね。
匿名
2019年4月29日 10:00 PM
>父が入院中、上級会長がほぼ毎日、或いは一日おきに来ておさずけを取り次いでくれたのだが、父は毎回千円ことづけていた。毎回遠慮せずに受け取って帰った。自分が欲しくて受け取るんのではない、神への貴方のお礼だから出すべきだと思っていたのか。それにしてもほぼ毎日来て、、、受け取って帰る。金儲けか?恥ずかしい気持ちにならないのか?自分なら、無償で取り次ぐ事こそ真実だと思うが。
家族としてはもう来ないでほしいと思った。天理教とお金。御守護も金次第なのか。<
天理教の「屁理屈」からすれば、まさに「御守護は金次第」なのです。過去、私は仕事柄、天理教の未信者の方と交際する機会が数多くあり、退職した今も、天理教の未信者の方とお話する機会が時々あるのですが、
私が天理教未信者の方に天理教のイメージについてお聞きすると、必ず帰ってくる答えは、「天理教の信者になれば家屋敷全て奪われ丸裸になる」とか「屋敷をはろうて田売りたまへ・・・」という、かの有名な替え歌です。私は「さもありなん」という心境で聞いているのですが決して否定はしません。私自身がその通りだと思うからです。「天理教イコール金」という固定観念は世間一般に広く定着し、既にぬぐいきれないものとなっています。今更、世間の人達が天理教に対して持っているイメージを変えることは不可能だと思います。後は天理教が「崩壊」に向かってまっしぐらにつき進んでいくのを見届けるだけです。
>世界にはキリスト教の原理主義者がいて、19世紀末と同じ暮らしをしてる集団がいる様ですけど、どうせなら、2000年前の暮らしをしろって思いますし、子供を巻き込むなよ? って思います。
これはアーミッシュを指していると思いますが、アーミッシュは建物も職業的聖職者も宗教法人もなく、献金でもめることはありません。またラムシュブリンガという期間があり、そのあとでアーミッシュにとどまるか出るかを選択できます。
>父が入院中、上級会長がほぼ毎日、或いは一日おきに来ておさずけを取り次いでくれたのだが、父は毎回千円ことづけていた。毎回遠慮せずに受け取って帰った。自分が欲しくて受け取るんのではない、神への貴方のお礼だから出すべきだと思っていたのか。それにしてもほぼ毎日来て、、、受け取って帰る。
カトリックでは病者の秘跡があり神父が病院に来ます。もちろん金を受け取るためではありません。(昔は終油の秘跡といい人生でただ一度の天国行きの切符を授ける儀式でしたが、今は病気平癒を祈ってですので一度だけという限定はありません)
本部や大教会に扇動され、今後道一条では到底食べて行ける筈もないのに、若い教会長夫婦が地を這うように幼子を抱え、いじらしい程に本部の声を信じて布教活動に邁進しているのを見ると心が痛い。
天理教のこの行き詰まり状態に於いて彼らに未来が見えるだろうか?早く妻と幼子達が安心して生活出来る様、自立して欲しい。現教団のゆがめられた教理とその無責任な方針でいかに多くの若者が未来を奪われている事か。
いよいよ人々が離れ始め、本部も大教会も詰所に於いても人が消えている。修養に来ている修養科生をも、人手の一部に使い回さざるを得ないとは、天理教はどうなっちゃったんだろう。本部月次祭の人の少なさに嘆く人もいる。潮が引くように人心が離れ始めたと言う事か。
本部神殿前のライブカメラもいつ見ても人がほとんど写り込まない。天理教本部には誰も来ませんと言う映像を敢えて流すのは逆効果でしょうに、、、
こんにちは。
テレビで見たのは、アーミッシュの方じゃ無くて、ブラジルのメノナイトだったかな? こちらは、アーミッシュより厳しくて、選択肢が無いので、こりゃどうなんだ? って思いました。
ただの父親は、教義や教則で行動を縛られるのが、大嫌いなのです。
友人の教会長は、子供が六人もいますけど、全て、天理教校学園からの専修科へ行って、お礼奉公して実家の教会長暮らし・・現在、中学生の末っ子の長男も、その予定であって、長男はそのまま、教区とかで、布教師とか、大教会住み込みからの・・教会長にさせる・・つまり自分と同じ道を歩ませるらしいです。
私的には、せめて、美人の娘達は、このまま、天理教関係に嫁に行って、ガチガチに親族関係を結ぶ事なく、一般のサラリーマンや事業家と結婚した方が、良いんじゃないか? 金持ちの婿さんに嫁に行って、親の教会を支えてもらったら? 冗談のつもりが、まじムッとされました・・・それは娘の自由だそうです・・
しかし、長男は、道一筋になるように教育してきたそうです・・だから、自由は無いらしい。
教会長の奥様は、私と同じ歳で、大変な美人で、いつも、ニコニコされており、本音は判りませんけども、本気で、そう思ってるの? 教会の跡取りなんて、娘婿でも、良いじゃない? と投げかけても、ニコニコと逃げられます。
私自身は、息子が天理高校に進む時、それで良いのですか? と聞かれたけど、それは息子の自由だし、息子が天理高校にいて、父親が別席も運んでないのは、困ります!と言われたら、運ぶんです。 そんなの朝飯前だよ・・ようぼくだって、ちゃんとやってみせるよ・・ただし、私の内心には踏み込まないで欲しい。
教会長も、子供の選択肢を自由にさせたら良いけど、結局、本部に頼らないと、高校も生かせられない現実もあり、天理教から、天理教・・選択肢が封じられているので、大人になったら、脱走、逃亡しか、手が無いのかな? って思います。
教会長の家族を見ていると、メノナイトを、想起させるんです。
せめて、アーミッシュの様に、どこかで、非天理を選択できる道があった方が良いと思います。
純粋に、天理教一本だから、今の衰退を招いているし、20代で教会を継いで、教会長になっても、そう言う人の、いろいろブログを読んで、考察していますけど、思考に幅が無い・・一生懸命なんだけど、何して良いのかわからない・・と言う迷いすら感じています。
クソ親父が、偉そうに! って思われるかもしれませんが、私自身だって、普通の社会人をしながら、自分の神霊信仰一本で、30年間生きています。 斎藤一人氏や、美輪明宏、江原啓之、英国スピリチュアルとか、デールカーネギーの、人を動かすシリーズとか、天理教関係の本とか、自由に学んで、自分に活かしています。
友人の教会長と話していても、その引き出しが少ない・・天理教一本は、それはそれですごいと思いますけども、とにかく自分で壁を作って、それを超えようとしない・・自由さが無い・・
私自身は、オカルト(神秘)一本ですが、非オカルトの人が、どう言う思考をしてるのか? それはいつも考えています。 もし、髪が無ければハゲ・・じゃない、神が無ければ、どの様に、世界は動くのか? 死んだら終わりと言うなら、どうなるのか? いつも興味深く、その意見を見ています。
心の模索と、頭の思考は、自由にしとき〜って思います。
まあ加齢と共に、私も頭が硬くなっていますけども、そうならないようにするには、どうしたら良いのか?
そこにも、信仰、宗教のメリットって、あると思うんです。
それについては、また書かせて下さい、ありがとうございます、感謝いたします。
いろいろな考えがあるので、私自身も、考察してみるんだけども・・
「本席も」、教祖から教えてもらった「理(想)」を心に修め、神の価値観や基準で物事を考え「さしず」していた、と解釈します。
心の中の「神の理」を呼び出すために、扇を持ったり呼吸を整えたり声の調子を変えたりしたことが、オカルト好きな人からは「神が降りてきた」と見えるのかもしれません。
誰でも心に「神の理」を修め、その価値観や基準で話し行動すると決意し実行すれば、神が降りてきた状態(=ひながた通り)になるという教えです。
飯降伊蔵氏は、櫟本から教祖の所へ毎日通い、その間には教祖から、願い人からの相談事などがあった時に扇を持って願いを聞き、指図を出す「扇のさづけ・言上のゆるし」を頂き、「おつとめ」を行う建物の建設に苦心を重ね、世間の迫害が強まる中教祖を支え働いた。
ここで、教祖から教えてもらった「理(想)」を心に修め、神の価値観や基準で物事を考え「さしず」が出来るようになったと言う事か?
ここで言う、心とは何だろう? オカルトなら、心と頭は別だと言えるけど、非オカルトは、全て、心も脳味噌に集約されてる訳です。 つまり、理とは、頭で学ぶ学問であり、それを頭で理解したと言う事であり、まさか特別の秘伝、超能力で伝える秘儀では無い訳ですよね、それではオカルトの範疇に入りますからね。
茨木基敬、飯田岩次郎、大西愛次郎も、同様であって、全て教えを頭で理解して、習得したと言うことになりますよね? みんな特別の頭脳、IQ180以上とかでは無い訳です、普通の人だとお見受けいたします。つまり誰でも、理を理解して、それを行使する事が可能な訳ですよね?
誰でも心に「神の理」を修め、その価値観や基準で話し行動すると決意し実行すれば、神が降りてきた状態(=ひながた通り)になるという教え・・・
今、教祖様の教えを研究してる人達って、きっと優秀な方たちだと思います。
そんな方達が、今現在、ひながたや、本席の様になって見せなくては、凡人には、理を頭で学んでも、到底無理? だと思えてきますよね?教祖の教えを理解して理を理解するのに、一旦何年かかるのだろうか??
答えの無い道を、模索して歩くのなら、判りますけど、答えの出ている教えを習得するなら、そんな事は無いだろう? と、私的には思ったりしています。
心と言う存在について、ただの父親としては、どう捉えているのか?
天理教から、離れたお話ですけど、こう言う見方もあると言う1つのお話です。
非オカルトなら、心は脳の作り出す存在であり、思考の一端に過ぎないと言う事です、つまり脳機能が衰えたり、老化したり、欠損していると、この心も、その様に影響を受けると言えますよね。
確かに、心と言う存在は、人によって本当に差があり、加齢と共に心も衰える、つまりボケる人は、脳が心だとも言えるし、加齢によって、脳機能が衰えているのに、気持ちはしっかりと全くボケない人は、心は脳とは別だとも言えますよね。
私自身は、三身一体説を支持します。 それは、1(肉体と統括する脳) 2(クオークより小さい未知の素子で構成される霊体、エネルギー体) 3(その霊体を包括する魂と言う、霊的肉体) 哲学的に言う、想う私と言う中心意思は、霊体にあり、子供の頃は肉体がサポートしていますけど、だんだんと霊体が育ち、50歳位を境に霊体思考が中心になり、肉体が機能停止したら、霊体は魂と一体化して、大霊界生命体として、次の次元で生活を始めると言うストーリーです。
天理教的な説明だと、借り物は(肉体と統括する脳) であり、本人の意思は霊体にあると言う訳です。
つまり、借りているのは肉体であって、霊体、心は自分の物と言う訳です。
だから、加齢しても霊体(心)がしっかりしていたら、ボケる事は無いし、脳以上に、その霊体の持つ、心は、全てを見通す力を持ち得ます。 もちろん、神とか霊と交流するのも、この霊体、エネルギー体、心が中心と言う訳です。
ここにおいて、私的には、教えを心に納める、と言うのは・・神の持つ、膨大な知恵を、この心の、エネルギー体に、エネルギーと言う知恵で頂くと言う意味になります。
だから、ただの父親は、毎日の祈りの中で、御守護神より、この神のお心、愛、慈しみ、尊びと言う、それをエネルギーとして頂き、自分の身につけて、自分の心を神に近づけて行くのが、生きると言う事、修行な訳です。
身体障害者であっても、脳と肉体に損傷があっても、霊体が無事なら、死後は、大霊界生命体としては、問題が無いし、若くして亡くなっても、その段階の、霊体、魂の殻を得て、大霊界生命体になりますけど、若い人の場合と、進化した大人では、霊体のエネルギーと密度に差があるので、大霊界で生きる次元は、当然変わりますけど、存在としての価値は、みな一列平等です。
命の価値は一列みな平等です。
研ぎ澄まされ、より小さな素子で高エネルギー体となった生命体を、人間的には、神と言います。 高エネルギー体ほど、力を持ち、神と言うレベルになるんです。
それらの、エネルギーの源が、絶対神、我らを作った造物主が、放っている生命体エネルギーであり、私達は、時間をかけて、この造物主の元に登って行く・・と言う訳です。
簡単に説明すると、こう言う話なんですね・・
別に、へえ〜ユニークな考えですね? で良いと思いますけど、友人の教会長は、困惑して、なぜか不機嫌になりました・・行き着く所は、天理教の私でも、ただの父親さんでも、きっと一緒ですから、もうその話はやめましょうって、言われました。
ただの父親 様
2019年5月1日 3:45 PM
>命の価値は一列みな平等です。
研ぎ澄まされ、より小さな素子で高エネルギー体となった生命体を、人間的には、神と言います。 高エネルギー体ほど、力を持ち、神と言うレベルになるんです。
それらの、エネルギーの源が、絶対神、我らを作った造物主が、放っている生命体エネルギーであり、私達は、時間をかけて、この造物主の元に登って行く・・と言う訳です。
簡単に説明すると、こう言う話なんですね・・
別に、へえ〜ユニークな考えですね? で良いと思いますけど、友人の教会長は、困惑して、なぜか不機嫌になりました・・行き着く所は、天理教の私でも、ただの父親さんでも、きっと一緒ですから、もうその話はやめましょうって、言われました。<
かの湯川秀樹博士や朝永振一郎博士もビックリ仰天されるような「学説」ですね。根拠だてて論文を作成され、世界的に事実であると立証されれば、ノーベル賞を受賞できるかもしれませんね。
こんばんは。
別に、へえ〜 ユニークな考えですねえ・・で良いんじゃ無いかと思いますね。
私は、オカルトと否定されても、脳内神様と揶揄されようと、別に、皮肉も嫌味も返す気は起きないのです。
ただ、神様がいないと想定するなら、この様になると言う事は、この先もまだまだ書いて行きますが、直接、誰かと口論も、否定もする気も無いんです。
私的には、この投稿欄を読んで下さっている、サイレントリーダーが、それぞれいろいろ判断してくれれば良いと思っています。 だからコメントで、やり合うつもりは無いが、止める事もしませんよ。
1つの参考として、自分の生き方、想いを開示しているのです。
件の教会長も、それはユニークな考えですねえ、参考にさせていただきますって、笑って言ったら、私も、教会長は自分の信仰に自信があると感じますけど、不機嫌な顔を見せた段階で、自分の信じる事に、影響を受けたと、言った様な物だなって感じました。
そう言う物でしょうね?
ただの父親 様
2019年5月1日 8:58 PM
どうぞ、ご自分の思うところを存分に投稿されてよいと思います。興味深く読ませていただきます。
教祖の教えを心に納める、と言うのは、どう言う事か? と私的に考えてみました。
心得る
1 こういうものであると理解する。のみこむ。
2. 事情を知って、引き受ける。承知する。 「万事―・えた」
得心する
1 心から納得する事
心
体に対し(しかも体の中に宿るものとしての)知識・感情・意志などの精神的な働きのもとになると見られているもの。また、その働きを指す。
先日、NHKの朝ドラで、なつが、「どうして私には家族がいないの〜わーん!」と泣き出すシーンで、この親父、不覚にも一緒に泣いてしまいました・・
何故、泣いたのか? その主人公の悲しさに同情したからです、どうして同情できたのか?人生経験から、その孤独感が、想像できたからです。
もし、主人公の悲しさも、孤独感にも、同情できなければ、へえ〜で終わりですよね? いちいち泣かないでしょう。そんな事は考えじゃなくて、もう気持ちですよ・・見ていて、即座に反応してしまいますよね・・もちろん人それぞれですけど。
子供の頃に、愛された経験を持たずに大人になると、心理的外傷として、子供を愛す事ができないとか、暖かい家庭を持つ自信が無いと言う心理になったり、多重人格になったりと、なにかと問題が起きる確率が高いと言われていますよね?
食欲、性欲、生存本能みたいに、肉体が自分を維持する為の欲、と言うのは最初から備わっているみたいですが、人を愛する、慈しむ、尊ぶと言うのは、普通に動物が持っていない様に、人間も、教えられるか、学ば無いと、得られない物ではないか?と思います。つまり、愛、慈み、尊びは、もともと肉体に備わった物では無いと考えられませんか?
愛とか、言葉、教え、で伝える事が、得る事ができるのか?
人権を大事にする、民主主義とかは、考え方だから、言葉、教えで伝える事ができるけど、人を愛すると言う気持ち、慈悲、思いやりと言うのは、言葉だけで、理解できるだろうか?
食べ物を奪い合えば、怒りは湧いてくる、でも自分が腹を空かしても、先に子供に食べさせる事は、人間ならできるだろう・・
人を騙したり、虐めるのは、どこに起因するのだろう、動物でもイジメはある様だから、でもそう言うのを嫌うのも、また人ですよね。
教祖の教えの中には、人を愛すると言う気持ちが無ければ、遂行できない部分を持っていると、私は理解しています。 善意であり、この世を良くしよう、自分だけが得をしようと思わない世界を作るためには、神の愛と言う物、無償の愛を理解する必要があるだろうと思います。
それは、言葉と教えだけでは、理解できないと思えますよね。
だから、長い人生経験をこの世で送る事になっていますし、そこで、他者への愛と言う物を学び取らなければ、理解できないだろうと思うんです、しかもそれは知識だろうか? 愛は知識だろうか? まさに心で、理解する物、得る物だと思いませんか?
人から愛された経験が無い人は、人を愛する気持ちも弱い・・私はその様に感じています。 愛と言う物は、人から受け取る必要があると感じます。 第一は、やはり親から受け取る無償の愛が、その始まり、萌芽でしょう?
私的には、心は脳の知識では無い、まさに人生の集大成である、私と言う存在だと思っています。 最近の脳科学では、精神活動は、どうも脳だけでは説明できないと言う説もあるわけですよね、全身の細胞に渡っているのではないか?とかね。
教祖の教えを理解するのは、脳だけでは無く、どこにあるのか脳科学者さえまだハッキリと特定できない、心、と言う物で、理解する必要があり、無償の愛とか、そう言うのは、人生経験の中で、親から萌芽をもらって、自分で育てて行く、得る努力をする必要では無いのか? と私的には思います。
私的には、神への祈りとは、ただ一つ、神の持つ、愛のお心を、直接、私のお心に下さ〜い、と言う事に尽きます。 神への祈りは、神の持つ愛をエネルギーとして、自分の心、エネルギー体に受け取る事に尽きます。 それが神の守護、24時間、神の愛のエネルギーを受け取り続ける事が、神の守護を得ると言う事だと、思っています。
だから、存命の教祖、私的には霊体の教祖、あるいは、親神様から直に、その教え、想いを、私の、心に直接頂ける意味も含めて、お勤めと言う動作、かんろだい勤め、みかぐらうた、祈りは存在すると、考えてみましたが、それは残念ながら、私の勘違いの様で、否定されると思いますけど、絶対無いとは思えない・・・・
私的には、こうやって、模索しているだけで、教祖様が言わんとした陽気暮らし世界と言うものが、なんとなく見えて来て、加藤氏が、オカルトだと否定しながらも、求めようとしている姿は、私的にも、理解はできます。模索をしていく事で、無意識に、教祖様、親神様の霊的、神的な想い、エネルギーを、私もキャッチしつつあると感じます。
荒唐無稽ですが、へえ〜 へんなこと考えていますね?って、読み流して下さい。
>私的には、こうやって、模索しているだけで、教祖様が言わんとした陽気暮らし世界と言うものが、なんとなく見えて来て、加藤氏が、オカルトだと否定しながらも、求めようとしている姿は、私的にも、理解はできます。模索をしていく事で、無意識に、教祖様、親神様の霊的、神的な想い、エネルギーを、私もキャッチしつつあると感じます。<
これは迷惑な発言だなぁ。
私の名前を出さなければ無視しようと思ったのですが。
まぁこの人の立場や考えなら「自分が真実正しくて、オカルトを否定する人間は悪あがきしているだけなんだけど、その努力は認めてあげてもいい」とでも言いたいのでしょうが、全く困った解釈ですね。
私のようなオカルト否定派は、人間の知恵の及ばない事やまだ解明できていないこの世の中の法則や理論まで否定はしていない。
それが「絶対的な神」とか「輪廻転生」とか「因縁」などという、安易で自分勝手な理論や理屈で説明したり、金儲けに使われるようなオカルトを検証し、矛盾がある事を指摘して、おかしな内容を否定しているだけです。
例えば、「ただの父親」氏が主張する「神」と、別の「価値ある父親(仮名)」氏の信じる神が、矛盾する事や相反する事を主張していたとしたら、どっちが正しいと誰が判断するが出来るのでしょう?
互いに「あの神は邪教で信じる者は殺さねばならない」と言ったら、どうするのでしょうか?
第三者である私には、どちらが「本物の神」かなんて判断できませんし、それで実際に殺し合いが行われたとして、勝った方は「自分の神が正しかったから勝った(生き残った)のだ」としか言わないでしょう。(「自分の神は人を殺せなんて言わない」なんて主張は無意味です。歴史上、神の名の元に多くの戦争や虐殺や収奪が行われてきて、現在も行われています。)
そんなご都合主義の自分勝手に使える「オカルト」を排して、誰にでも理解が出来る、共通の、本当に人類や世界のためになる「理(想)」や「価値観」を追求し、皆で考え(思案)、納得(心定め)して、世の中をより良いものにしよう、という考えを基礎に持つのが「オカルトの否定」です。
とはいえ、この人は「議論はしない」し「質問にも答えない」と宣言してるので、私の書き込みは読んでもなんら答えも反論もしないとは思いますが、他人の想いや主張を捻じ曲げた解釈はやめて貰いたいですね。
まぁ、ここで色々書いても他の読者の方に迷惑でしょうから、今後は今までのやり取りを含めて、私のHPやブログの方に書かせて頂く事にします。そのための「ネタ」をこちらにどんどん書き込んで頂ければ幸いです。
また最後に、ただの父親氏も言っていた本スレッドの趣旨に沿う事を書くならば、オカルト否定による天理教(中山みきの教え)を信じるメリットをほんの一部言いますと「責任感を身に付ける事ができること」でしょうか。どんな話も行動も、不可思議な力を持った神様のせいには出来なくなりますから。
ご自分でも言っていたのですから今後は「メリットと感じられる内容」を書いて頂くように期待します。
どうも、次のネタをありがとうございます。 うふふ・・
今、仕事が詰まってるので、しばらく休むかもしれませんが、続きは、書きますから、よろしくです〜
他のアカウントと、ここで議論はしません、私の信仰の掲示板でも、一切話題にはしていません。
天理教のメリット、宗教のメリットについて、オカルト(神秘)から踏み込みます。
そろそろ、このスレッドでの参加は、終わりが見えていましたけど
K氏とは、まったく、相互理解も、許容もできそうにありませんが、それは別に良いです。
何を思うか、感じるかは、第三者、サイレントリーダーの個別の判断に任せます。
あくまで、私の持論の開示ですから、お願いいたします。
一応、話しの筋道は、全てチェックしておりますが
追加ネタ、相互に矛盾する神?と言う存在の判断について、と言うお話を書くことにします。
しばらく、途切れ途切れになりますけど、よろしくお願いいたします。
おはようございます、連休終盤、楽しく過ごされておりますか?
天理高校生の息子も、連休が長いお陰で様で、一時帰省しております、普段食べられないらしいので、たくさん肉を食べさせてやりたいと思います。
ここで、書かせてもらって、ありがとうございます。
端的には、主旨が異なるけども、全体の話の流れの中で、相対的に、メリットの話と、いろいろ説明していきますので、全体の流れを読んで、意味を模索して受け取って下さることを、希望いたします。
( まぁこの人の立場や考えなら「自分が真実正しくて、オカルトを否定する人間は悪あがきしているだけなんだけど、その努力は認めてあげてもいい」とでも言いたいのでしょうが、全く困った解釈ですね? ) と言っているが
これは私の内心に踏み込んでいる、勝手に内心を想定してこき下ろしていますよね。
私は、内心に踏み込むのも、踏み込まれるのも、好きではありません。
( 私のようなオカルト否定派は、人間の知恵の及ばない事やまだ解明できていないこの世の中の法則や理論まで否定はしていない。)
心の存在は、解明できていないから、なんとも説明できない存在だと言ってる様にも思えるけども、私は、心の独立性と言う物を、脳、肉体とは別のエネルギー体であると言う仮説を立てて、説明している訳です。
( オカルト否定派は、人間の知恵の及ばない事やまだ解明できていないこと、それが「絶対的な神」とか「輪廻転生」とか「因縁」などという、安易で自分勝手な理論や理屈で説明したり、金儲けに使われるようなオカルトを検証し、矛盾がある事を指摘して、おかしな内容を否定しているだけです。 ) それは、判るけどね・・
全て矛盾だと指摘はできない、矛盾していないけど、証拠がない、その仕組みが、証明できない、仮説に過ぎない事も、多くあるからね。だから、否定も完全にはできない・・証明ができないが、結果はこうなる、その仕組みは想定、仮定でしか言えない、そう言う事もあります。
( 例えば、「ただの父親」氏が主張する「神」と、別の「価値ある父親(仮名)」氏の信じる神が、矛盾する事や相反する事を主張していたとしたら、どっちが正しいと誰が判断するが出来るのでしょう。)
( そんなご都合主義の自分勝手に使える「オカルト」を排して、誰にでも理解が出来る、共通の、本当に人類や世界のためになる「理(想)」や「価値観」を追求し、皆で考え(思案)、納得(心定め)して、世の中をより良いものにしよう、という考えを基礎に持つのが「オカルトの否定」です。)
言いたい事は、よく理解できる、オカルトを使って人を支配しようとするのは、本当に、良くない事だと思う。 世界は偽オカルトに溢れています。 だからこそ、偽オカルトを排して、死後世界は無いと言うのも自由だけど、真実、事実の死後世界、霊界世界を解明したいと言う想いを持つ人の行動もまた、自由だと思います。
誰かが作った、一定の教義、人が指図する神の御意思と言うのを排して、自分自ら、死後世界を見ること、感じる事、そして、その方法があるなら、人に伝える事、そして、それぞれの心の模索から、見えてきた、死後世界の真実の一端をみんなで理解できたら、私は良いと思っています。
K氏の言ってる事は判るし、オカルトの危険性も承知しています。
だからこそ、人が誤魔化し様の無い、真実の世界を、知りたいし、そう言う生き方を、それを提供できる信仰に求めている訳です。 K氏こそ、私を誤解されていると、感じています。
だから、私の本心は、天理教の親神様と教祖様の存在に直接アクセスする事しか、興味がないんです。 なので現行天理教のお供えの倫理など、私には何の影響も与えない。
現行天理教徒から見たら、ただの基地外でしょうね。
ただ、教団の理屈に縛られ無くても、親神様は、信じる信徒に手を差し伸べていらっしゃると、言いたい。 根拠は科学的には証明できないけども・・・
ありがとうございます、感謝いたします。
ただの父親様
一言ご意見をば言わせていただきます。
当方語彙力に乏しく、これと言った持論も有りませんが、冷静に見させていただいていて、どうも持論を一方的に披露しすぎのように感じます。
意見を述べ持論を展開されるのは決して悪い事では無いでしょうが少し偏りが有ると言うか誰もが活発に参加し意見交換ができる雰囲気、空気になってないように見受けられるように感じます。
オカルトがどうした、こうしたなど何か場違い感が有るような気がします。
その証拠にそれらの投稿に対してほとんど絡みが無いじゃないですか!
またそれに異を唱えるとまたあなたの持論が一方的に展開されると言う・・・
俗な言い方になってしまいますが、自慰行為のような気がしてしまうのですが・・・
投稿を見ていても一人で持論を述べられているように見受けられます。
あなたの持論に異を唱えるとそこで遣り取りが発生しているようですが建設的、若しくはなるほど!と頷ける投稿はほとんど見られません。
あなたの持論が一方的に展開されているだけだと感じます。
そうそう、あなたが投稿を増やせば増やすほど今まで投稿されていた方などもめっきり姿をあらわさなくなりました。人が絡みにくい投稿の証拠でしょう。新規の方の投稿もほとんど有りません。やはり場違いの証拠でしょうね。とは言え投稿されるのは自由ですが今一度客観的に見られてはいかがかなと思います。
やはり自由に意見を言い合え前向きな意見交換ができる場所で有るべきでしょう。今はとてもそうはなってませんね。
持論を展開されるのであればご自分のサイトで披露されるのが良いかと思います。あなたが投稿すればするほど他の方が投稿しにくくなり意見交換が不活発というより無くなっています。
天理教では自由な意見交換をする場が皆無でこの場がその貴重な場所になっていると思いますしその場が一人の人の持論の披露の場になっているのは不健全だと思われます。
おはようございます。
特命さん、こんにちは、 おっしゃる通りであって、私はもはや、ここに書いてるのは場違いです。
ただ、数年前から、結論が出ていますよね・・ここのコメントを読み返していますけど
だいたい、結論が出ていて、人が変わって、同じ様な意見が繰り返されていますよね。
なかなか現状が変わらないなか、時間をかけて多くの人が、同じ様な意見を出している事は無意味では無いでしょう。 じわじわと現行天理教は、変わらざるを得ない所に、追い込まれているとは思います。
ただ、私は、天理教のシステムに取り込まれていないし、天理教に心酔もしていない、最後の教えだとも思っていない、皆さんと同じ土俵に立ってもいないと、自覚しています。
友人の教会長は、私の話に対して、耳を塞ぎます。 そう言う人は置いておいて、天理教以外の価値観を持つ立場から、天理教を考察した場合、こう見えると言う意見を書く事で、人から与えられる教義だけでは無く、自分で、親神様を模索してみると言う考え方の人はいないか? 天理教内で、今、関根豊松氏の様に、神霊能力を持ってる人などに、接触したいと言う希望はあります。
古い教会長さんから、話が出ていましたよね。
なので、今の流れの意見には、関わる設定は無いので別のコメント欄に書いています。
例えば、通りすがりさんの、教えを判ってる人、と言うにはあまりに、お粗末な態度について誰も言及しない、理を心に納めると、理論的に判ってる人でも、その心の姿勢には、違和感を感じるのに、天理教を離れて、神仏否定をされている、ある方は、そこがキチンとされているけど、誰も言及しない・・
つまり、天理教には、心の管理について、制約が薄いと感じています。 だから、大教会長が○○だとか、言われても、自戒する、自浄能力が無いのでは? と思っています。
最後、それについて、もうちょっと問うてから、沈黙しようと思っていましたので、特命さんのおっしゃる通りに、あとちょっとだけ、私が、感じている事を問うて、個人的な意見の表明は、止めます。
ありがとうございます、感謝いたします。
ここに意見を書かれている人は多様ですね、それでも、天理教に向き合って、いろいろ経験して、批判も出ている訳ですね。 もう何年も繰り返し繰り返し、いろんな人が出てきて、書いてる訳ですね。
ずーっと同じ様な意見が、人を変えながら、出続けてる訳です。
現況天理教の問題点は、だいたい明らかになっているとも、言えますよね、でもなかなか変わらない・・巨大な組織ですよ、そりゃ簡単には変わらないでしょうね。
私の様な、我が子が天理高校に行ってるだけの、仮の信徒は、深入りしてないから、全然困らないですが、実生活を含めて、がんじがらめになってる人は、不満を貯めていても、はい、さようなら〜って言えないですからね・・
とにかく、末端からの声を大きく育てていくしかないでしょうね。
ただの父親は、上から目線で、人を小馬鹿になどしません、それこそ信仰者であるなら、そう言う姿勢は慎まなくてはならないと思っています。
小馬鹿にする、否定する、勉強し直せとか浴びせる言葉が汚い、こう言う人は、性格が悪い! の一言に尽きますよね。 基本的に、性格が悪いのに、私は教えを正確に理解していると言うなら、それはどう言う事なのかな? って思います。
大教会長の2代目、3代目が威張っている・・人の上下を平気で押し付ける・・
人を尊重しない、人の心を大事にしない・・
これは、あくまで教団内の話なのかもしれませんが、身内にこう言う態度を取っているのは、外面良いけど、DBの旦那さんみたいな物なので、基本的に(駄目な教え)ってやつですね・・・
前から書いていますけど、悪しき心使いに対しての、ブレーキがしっかり無い? 機能してないから、こうなるんでしょうね?
悪しき心使いに、すぐさま、身上、事情が現れるなら、もっと真剣になるでしょうが、実際は、そんな現れたりしないから、舐めてしまうのでしょうか?
まあ、だからこそ、身上、事情も、前世の因縁などでは無いと、私は思っていますけどね・・そんな単純じゃ無いと思っています。
私個人は、悪しき心使いの結果は、悪しきエネルギーを自分が出すことになり、大霊界の悪しきエネルギーを自身に引き込み、神は手を引かれる・・それは、いろんな形で人生に反映されて、改心しなければ、最後は、悪しきエネルギーの重みで、生きながらに堕ちて行くと言う、当たり前の法則があると言う方が、理にかなってると思いますけども。
もちろん、心、精神と魂のお話ですけどね。
宗教と信仰とは、なんのためにあるのか?
結論から言うと、信仰とは個人的な物であり、個人の精神的な物を導く物だと思っています。
ただの父親は、実際、日本○○党員です、私は、ここでは信仰の話は一切しない、政治は、思想信条です、社会の仕組みは理論的、科学的に考えて作らねばなりません。
だから、共通認識として、綱領を基本に持っており、これに沿って、社会を良い方向に変えて行こうと、普段から政治活動もしています。
そこには一切、オカルトは入らない、ただの父親も、一切、神とか言わないんです。
ここでは、政策議論はおおいに行います、理論理屈の世界です。
信仰は、私の人間性を形作ります。 無償の愛、これは思想信条ではありません、私の生き方ですね、ここでは理論理屈は排しています。
私の場合は、空想上の神、誰かが説く神を排して、自分で触れられる神、スピリチュアル世界に傾倒しており、ここで人の知恵とか、人の支配は一切受けたく無いと思っています。 神は、私と言う人間の精神を導き、向上させてくれる存在なんです。
だから、私には、謙虚、礼節、敬いの心の器を作る事、愛と慈しみと尊びの心を神から頂いて、自分を神に近づける事、と言う制約があるので、威張る、傲慢、高姿勢と言うのは、許されない、神が手を引かれてしまうから、マイナスのエネルギーにつながる事を心に持つ事は、許されないと言う、自制心が強く働きます。
天理教の人と話しをしていて、この自制心の元になる、ブレーキが、見当たらない・・教えの何が心の自制心になるのか、未だに良くわからないので、誰か教えて下さい。
陽気暮らし社会は、社会思想でもあり、陽気暮らしを目指す、成人は個人の信仰の様でもある・・私的には、そこは分かれています。
なので、ただの父親が何言ってるのか、わからない・・となるかもしれませんね。
どうも、すみません。
ただの父親 様 2019年5月6日 6:33 AM
>私には、・・威張る、傲慢、高姿勢と言うのは、許されない、神が手を引かれてしまうから、マイナスのエネルギーにつながる事を心に持つ事は、許されないと言う、自制心が強く働きます。
天理教の人と話しをしていて、この自制心の元になる、ブレーキが、見当たらない・・教えの何が心の自制心になるのか、未だに良くわからないので、誰か教えて下さい。<
天理教にも、八つの埃、その中には「うらみ、はらだち、よく、こうまん」とありますから、人に対して威張ったり、傲慢、高姿勢などは親神・教祖から戒められています。教祖は「やさしい心になりなされや。人を救けなされや。癖、性分を取りなされや。」とお教えくださっております。
ですから、天理教の信者さんや会長さん方は、心低く親切な方々が多いと思います。(真面目に教えを学んでおられる方ならば)。
傲慢な会長というのは、教えをちゃんと身につけてない、その努力もしていないのだろうと思います。それは、もうその方の性格、癖性分なのでしょうから、仕方ないでしょう。
ただ、上の会長が部下教会長に、傲岸不遜な態度でもの言ったりするならば、はなはだ不愉快ですね。
その会長が、ましてや信者らに、「心を低く、人には親切にせよ」、なんて説教してたりすれば、噴飯物です。まず、自分から、そのように身を治めることが、信仰者としての姿でしょうから。
教祖は本席に、ちゃんとお説きくだされております。「もし人々から立てられる身となっても、高い心を使わぬようにすることが肝心。十人の上に立てられたならば、十人の上に立って、十人の上の仕事はしても、その心は十人の一番下に置くように」とお仕込みになり、本席様はこのお言葉を、生涯、身の守りとされたそうです。(https://joyous-life.net/archives/682 参照)
このように、教組の教えをきちんと身に修めておられる真面目な会長ならば、人に酷い態度をしたり、上から見下したりなど、到底できない筈なんですが、、。エラソーな会長が多いとしたら、困ったことですね。
こんにちは、匿名さん、わざわざありがとうございます。
(教祖は「やさしい心になりなされや。人を救けなされや。癖、性分を取りなされや。」とお教えくださっております。)
(教祖は本席に、ちゃんとお説きくだされております。「もし人々から立てられる身となっても、高い心を使わぬようにすることが肝心。十人の上に立てられたならば、十人の上に立って、十人の上の仕事はしても、その心は十人の一番下に置くように」とお仕込みになり、本席様はこのお言葉を、生涯、身の守りとされたそうです。)
教えの中には、ちゃんとしっかり存在するわけですね!
八つのホコリ、神がホウキ、神の条規、天理教にもありますよね、それを常日ごろから行使して、自分の心使いを、しっかりと管理しなさいって、教えにはある訳ですね、御説明ありがとうございます、感謝いたします。
もう一つ、突っ込むと、これに対する罰則というか、強制力は、何にあるんだろう? と考えるんですよ。
私の場合は、神と波長が合わなくなる、つまり神が手を引く。 自分の波長が悪くなる、悪いエネルギー、エネルギー体が関与してくる、それで自分が苦労する、だから、まず第一に、心使いの管理が来るんです。 祈る事は、神に波長を合わせる事です、つまり、心使い、心の管理こそが、信仰の全てと言っても良いくらい重要なんです。
だから、ただの父親のオカルトから、粗を探そうとしても、そうは出てこない、それらは自分の中の問題であり、普段は外に出ないからです。
天理教の場合、親神様の守護が無くなる!とか、親神様の怒りを買う! とか言わないので、心使いについて、努力目標であって、未達成でも、困らないのか? と感じてしまいます。
ましてや、神は存在しない、思想哲学であるなら、善意、又は無償の愛は、努力目標であって、未達成でも、全然困らないと言えます。
そういう、強制力、つまりブレーキが弱いから、誰かみたいに、教理をよく知っているのに、上から目線で小馬鹿にする様な態度を取って、平然と勉強しなさいって言ったり、偉い人の中にも、人の上下の押し付けや、尊厳を重視しない、教祖の教えを重視しなくても、平然とお供えを要求して恥じないと言う現象が起きるのではないか? と感じています。
心使いの教えはある、でも何か、優先順位が下がっていて、重視されてない・・個人の人間性に対する、導きが弱い・・と、その様に感じてしまうんですよ。
私個人は、個人的な人間性に対する導きこそ、宗教、信仰の一番のメリットだと思ってるんですよね。
そこのところ、どの様に思ってる方が、いらっしゃるのかな? などと考えています。
だからこそ、本部が、教えに沿っていない? という様な、状況が生まれるのではないか? とか、いろいろ思い至るんですよね・・罰則、ブレーキが、弱い・・のは教団幹部にも十分当てはまるんですよね。
コメントありがとうございます、感謝いたします。
父親さん、又の名「一農家」さん、ご自身が管理人の個人ブログの場はお持ちではないようですね。
是非、おつくり下さい。自身の費用負担のブログで思いっきり意見開陳なさってください。
社会学研究所のこの場を提供してくださっている方のご厚意の許容範囲を超えているような一日に何度もの投稿はネチケットの観点からはいかがなものかと思われます。
ご自身では気が付かないのかもしれませんが承認欲求が強いため、読み手からは敬遠されるのでしょう。
そういうタイプの方はTwitterの方が向いているかもしれませんね。
おはようございます。
カイン氏のご厚意に甘えております。
最近のコメント欄で、まともな議論が行われているとは、思えないですから
私のコメントも、別にそれほど、悪いとは思っていません。
承認欲求が強ければ、これだけスルーされてたら、心が折れますよ、もともとそんな気は無いです。
人を助けて我が身助かる。
私の場合、社会的な部分では、困った人を、例えば、後援会から市会議員に紹介して、一緒に市役所の窓口に連れて行く、とか、労働問題なら、組合とか、そう言うのに長けている人に紹介したりします。
そこには、信仰による無償の愛、奉仕はあるけど、それは行動に表れるだけです。
もちろん、助かったら、政党の支持はお願いしますね・・一緒に応援しましょうって。
こちらは、選挙があるので、助けながら、政党の支持を増やして、政治そのものを理想に変えて行くと言う目的があります。
個人的に、悩んでいるなら、相談に乗る、話しを聞く、病院を勧める・・
霊的な影響を感じたら、話しをして、納得してから浄霊を行うと言うのはありますけどね。
それで、助かったと思うなら、神のエネルギーの引き方を指導して、教団を紹介しますけど、信者同士のつながりを持つ必要は特に無いですね。 一緒に行動する事は何も無い。
信仰は個人的な物、あとは自分で神様と向き合って、向上を目指して下さいと言う感じです。
ただの父親にとっては、思想信条は、理論であり、現実であり、仲間を作って広げていきます。 政治をよくすると言う共通の目的、共通の思想信条を持って、話し合いながら、行動して行く。
信仰は、自分の物であり、神様に導いてもらいながら、精神的な向上を目指していて、プライベートな物であり、必要が無ければ、表に出すことは無いですね。
行動は、ハッキリと分かれており、政党でも、上から理不尽な命令が下りてきたら、それはおかしいだろ!って返します。納得できないのに、行動などしない。
教団だって、教祖が守護神の言葉を伝える訳じゃ無い、会員がそれぞれ、同じ守護神に確認できるのがミソ、それで、同じ様な言葉(エネルギーですが)を聞いてるから、個人の脳内神様ではない訳です。
教祖がおかしな事を言ったら、批判が出ます。 信仰の対象は、守護神であって、教祖ではないんですよ。
私にとって、メリットは、ハッキリしているんですよね。
天理教の組織に問題があるなら、変えるのは、信者しかありませんからね、上に物申すと除名にして、文句を言わせないなら、組織として終わっておりますが・・・
ここのコメント欄も、天理教の組織をもっと良くして行こう! 納得できる運営に変えて行こう! と言う気持ちのあふれるコメントで、一般信者に良い影響を与えられる様になると良いですね。
実際、そうなって来ると思いますしね。
ありがとうございます、感謝いたします。
ただの父親 2019年5月6日 12:46 PM
>もう一つ、突っ込むと、これに対する罰則というか、強制力は、何にあるんだろう? と考えるんですよ。
>私の場合は、神と波長が合わなくなる、つまり神が手を引く。 自分の波長が悪くなる、悪いエネルギー、エネルギー体が関与してくる、それで自分が苦労する、だから、まず第一に、心使いの管理が来るんです。 祈る事は、神に波長を合わせる事です、つまり、心使い、心の管理こそが、信仰の全てと言っても良いくらい重要なんです。
天理教においても、教会長が信者と共に、月次祭々文で、「神の思召しに添い切るよう成人めざして届かぬながらも努めさせて頂きます」と神様の前で誓ってる訳です。ただの父親さまが「心の管理」と仰ってますが、天理教信者も「心の管理」が重要である点は同じだと思います。罰則という言葉が適当かどうかは分かりませんが、「成ってくる理」「撒いたる種は皆生える」と、良きにしろ悪きにしろ、自分が蒔いた種は自分に返って来て自分で刈り取らねばならない。勿論、ただの父親様もご承知のことと思います。キリスト教でも、同じような言葉がありますね。それらが、自分の行いを反省し、心の管理をする、「罰則」というより、人間の成人を促す神様の親心(天の理)だと解釈してます。
>そういう、強制力、つまりブレーキが弱いから、誰かみたいに、教理をよく知っているのに、上から目線で小馬鹿にする様な態度を取って、平然と勉強しなさいって言ったり、偉い人の中にも、人の上下の押し付けや、尊厳を重視しない、教祖の教えを重視しなくても、平然とお供えを要求して恥じないと言う現象が起きるのではないか? と感じています。
それらは、上の指導力の欠如、という部分も多分にあると思います。また、ただの父親さまの教団では横の繋がりはなく、各自が個人的に信仰されてる、ということでしたので、天理教のような組織の弊害というものは無いのでしょうが、大きな組織では、やはり本部の指導力がない、統制する力がない、教祖の正しい教えを説くどころか、「お尽くしは命の繋ぎ」などと頭を傾げるような教義を、表統領という、真柱の次に偉い人が言っちゃったりするんですから、平然とお供え要求して恥じない会長が湧いて出ても仕方がないと思います。「龍頭狂えば皆狂う」です。
ただの父親様
一行目、宛名のところ、「様」が抜け落ちておりました。大変失礼致しました。
天理教に必要なのは宗教改革です。出でよ!天理教のマルチン・ルター。
おはようございます。
匿名さん、一番知りたかったところです、ありがとうございます。
やはり、心使いの管理について、教えにはきちんとある訳ですね。
月次祭で、文章で誓っている訳ですね、なら教会長に、また尋ねて見ようと思います。
型としては、儀式的であり、外的な宣言であり、内的に縛るものでは無いと感じました。
心の問題は、内的な問題であり、内的に要求する、追求すると言う、縛りでは無く、自己責任で、追求せよ・・といった感じですね。
だいたい、霊友会とか、サークル宗教だと、それすら無いですもん。 根性直せ、根性直せと言う掛け声、集いで自分の経験を語らせ、皆んなで聞いて、頑張りましょう!ってなって、その一体感で成り立ってる宗教よりは、天理教は、言い方悪いですが、よほどマシだと思っています。
私自身は、体験語って外からいろいろ言われるのは、もう大嫌い・・人の内心に干渉されるのは、遠慮願いたいんですよね。 教団の指導者から、いろいろ指導されるのも、嬉しくない、生き方、因縁とか、人生に干渉されて、いろいろ言われるのは、拒否したいです。
自分を変えるのは自分であり、常に自己反省、自己模索が良いですし、祈りの中で、御守護神や、自分の魂、背後霊団から、指摘や導きを受けながら、自分で反省模索すると言うのが、私自身は身についているんですよね。
御守護神が、客観的に見て下さっています、私の心の間違いを、指摘して下さる・・
私の教団は、正しく祈る方法や、心、想念の持ち方を、徹底指導してくれますが、個人の話は聞く事はありません、個人の生活には干渉してこない・・
以前、天理教の布教師と話をした時、それは寂しい宗教ですね・・天理教は、人のつながりが太いです、私は、その様な寂しい宗教は、好きでは無いと言われた事があります。
私は、信仰とはプライベートなものであり、内面的な物だと考えています。
もちろん、神様にお供えなどしませんし、基本は年会費だけですしね。
信仰するメリットは、自分をよくする事、自分の性格、品格を良くしていく事だと思います。
死んで消えてしまうなら、その努力も、そこで消えてしまいます。
死んでも、なおその努力が、魂に刻まれ、大霊界で神として向上する段階を高く高く始められると思うから、この30年も、自分の心と向き合って、神に導かれながら、向上の努力をしてきたんですよね。
だから信仰として、死後の行方の設定がキチンと無いと、努力がただの目標であり、やらなければならないものであると言う、強制力が、あまり働かないよねって、私は思います。
私の信仰は、私の人格、品格を保証するものであり、それが、一番のメリットだと思っています。
思想信条は、性格を保証するものでは無く、社会性を保証するものでは無いかと思うんですよね。
人を助けて我が身助かる、と言う行動規範は、社会性の方であると考えています。
匿名さん、ありがとうございました、もしよろしければ、天理教を信仰する上で、内面的な心情は、どの様になるか、その想いを少し思いを教えて頂けると、いろいろ参考になります。
ありがとうございます、感謝いたします。
連投失礼致します。
哲学者が、性格が良いわけでは無いと思います。
偉大なる思想家が、優しい人だと言う保証はないんですよね。
私自身は、マルクスの思想はすごいと思っています。
ところが、私の教団の信者には、マルクスを霊視すると、地獄世界にいると言うんです、マルクスは地獄にいるから、マルクスの思想は悪だろう?と言います。
共産主義は悪魔だからねって言いますが、同じ信仰を持っていても、この様に、この世では思想信条が、反対になる場合もあるんです。
あくまで、個人の社会性の問題であり、知識の違いでもあります。
私自身は、マルクスの思想は正しかったと思います。 ただマルクス個人は性格が悪かったと言うだけですよ、死後世界を認め無いで死んだから、たまたま下に落ちてしまってると、とらえています。
ソ連や、中国は、民主主義を経ないで共産主義を利用したから、独裁になってしまった、それは仕組みを行使する人間の、人間性に問題があり、捻じ曲げて使うから、そうなってしまったので、共産主義は悪魔と言うのでは無く、当時の支配層の人間性が悪魔であったと言う事です。
民主主義を基本に、個人の権利を守りながら、自由競争も入れながら、富の再分配をしっかりと行う仕組みを作る必要がある、富が偏らない様にする、そこには共産主義の考えを取り入れる必要があると思っています。
教祖様の教えは素晴らしいけど、現行天理教の運営は、その教えを、捻じ曲げて行使して、信者を搾取している、と言う構図に、似ているかもしれませんね。
私自身は、信仰とは、個人の性格を保証する物ですし、思想信条とは、社会性を保証するものでは無いかと思っています。
実際、私自身は某政党の党員として、一生懸命に理想の社会を作る様に、みんなと一緒に頑張っていますけど、党員も性格の良い人ばかりではありません、そこは別だと、思っています・・(笑)
これも、天理教にも、当てはまるかもしれませんね。
ありがとうございます、感謝いたします。
ただの父親様 2019年5月8日 6:24 AM
>もしよろしければ、天理教を信仰する上で、内面的な心情は、どの様になるか、その想いを少し思いを教えて頂けると、いろいろ参考になります。
え~~?いやいや、私如きの内面的な心情など、恥ずかしくて出せません(笑)。 ただの父親様のいろいろなご意見で、お供えに関するものは全く賛同しますし、霊界ワールドも、摩訶不思議なものを見るような感覚で読ませて頂いてます。
宗教は違えど、鋭い所を突いて来られると思ってましたので、スルーされるばかりなのは少々お気の毒と、私のつたない投稿をしたまでで、冷汗ものです。もう、私は教会からも離れましたし、天理教の知識と言えば、昔行ったことのある修養科、講習科(教会子弟ではないのに、修養科が済むとすぐに、会長に勧められて行く羽目になりました。)で教わった、その知識だけなのです。
教会から離れたのは、結婚して遠隔地に移ったこともあり、次第に縁が薄くなり、会長の代が変わってからは、お付き合いも無くなってしまいました。ですのでお道を信仰をしながら生きている、とは言えません。ただ、ものを知らない頃は、他人はどうでも自分さえ良ければいいという人間でしたけど、若い頃に一時期天理教に関わって教えられたことは一応心に残っており、時たま、自分の生き方を顧みる「よすが」にはなっていると思います。
ただの父親様に対して投稿させて頂きましたのは、ただの父親様の説いておられることも、中山みき様の教えておられることも、そんなに違いがないのではないか、と思えたからです。ただの父親様の仰ってる「心遣いが悪ければ神と波長が合わなくなる、つまり神が手を引く。」ということと、天理教の、「心通りの守護」「日々に心が勇めば、神も勇む」 など、私には言葉は違うが、同じようなことに思えます。
と言う訳で、たいしたことが書けなくて申し訳ありません。
おはようございます。
匿名さん、真摯な対応、ありがとうございます。
重要なポイント、参考になりました、ありがとうございます。
内心に踏み込むつもりでは無く、天理教を信仰する上で、自分と向き合う心情がどう言う物なのか、教会長と話していても、形だけで、内面的な話が出ないので、聞きたかったのです。
教会を離れている、一般信者だったのですね、だからこそ、私の質問に答えてくださったと理解致します。
教えが、心に生きているけど、組織に関わっていない訳ですね・・
本来、信仰とは内面的であり、組織行動とは違うと思いますので、匿名さんが、いろいろ教えが心にあって、自分の心の姿勢とかを、模索されているなら、信仰なんだなって、感じます。
私の話に、何か思いましたら、いつでも遠慮なく、突っ込んで下さい、ありがとうございます。
個人の社会性について、思想信条だけでなく、その時代地域の、一般的な常識があるかどうか? と言うのがありますよね? 例えば、今なら性別不一致などの人でも、個性として受け入れますが、50年前なら、社会の異端者だったとか、常識は、時代とともに変わりますけど、それはどこで学ぶのか?
家庭、学校、会社など、生活しながら、身につけて行くものですよね? これは宗教で学ぶものでは無いと思うんです、 思想信条でも無い・・実際、社会生活で、なんとなく身に付けるものですよね?
天理教の家庭に生まれて、天理教の学校群に進み、天理教の組織に属していたら、実際、この常識が偏る様に思います。 だから一回外に出て、自分の常識をチェックした方が良いよって話になるんです。
東風Z さんの身内の方の、家族を顧みずに天理教にお供えして、客観的に家族を不幸にしていても、それが功徳だと信じて疑わないのは・・すみませんけど、その方は常識がおかしいんですよね? ある種の精神的依存症であり、精神科医のお世話になるレベルかもしれませんよね。
客観的に見て、天理教の教団は、それを利用するだけで、当人の精神状態、家庭の状況から、教団から、あなたは常識をはずっているので、お道の為にも一度、冷静に家族と話し合いなさいとは、言わなかった訳です。
結果、教団は、家族から嫌われてしまった訳ですね・・
宗教団体は、個人の常識は、担保してくれない存在です、だから自分で常識を持って、関わるべきですよね。 そうで無いと、オウムや統一教会、その他・・人生を破壊される団体も存在するから怖いですよね。
思想信条を学んでも、常識を持つのは別ですし、個人の性格を良くするのも、別だと言えます。
ただの父親は、オカルト主義だと言われ、荒唐無稽なことも書きますが、誰も、本当に基地外だとは、思わないでしょう? それは、私自身が、常識を持って生きているからだと思います。
神霊の話をする場合、常識に照らし合わせて、筋が通ってるか? 荒唐無稽だが、お話として、して良いレベルか? 自分の話す態度は、文章は、どう言う印象を持たれるか?一応・・ 冷静にチェックしていますからね。
ありがとうございます、感謝いたします。
ただの父親 様
>東風Z さんの身内の方の、家族を顧みずに天理教にお供えして、客観的に家族を不幸にしていても、それが功徳だと信じて疑わないのは・・すみませんけど、その方は常識がおかしいんですよね? ある種の精神的依存症であり、精神科医のお世話になるレベルかもしれませんよね。<
全くその通りなんです。叔父が現役の頃なのに時々私に対して、オイ〇〇小遣いを少しばかりくれ、と言ってくるんです。そこそこの仕事をしているのになぜだろうと思っていました。
叔父が亡くなって分かったことは、叔母がお供えオンリーだったことです。
そのような事情も知らずに、叔母はいい人だとばかりに思っていました。
宗教は心を作る場ですよね。信仰のお陰で心が穏やかになってくれば、感謝の気持ちを込めて出来る範囲でお供えもしようと思ってくると思うんです。ところが、人のいいことに付け込んだ天理教は月々の参拝とお供えを強要し、さらには、各種年祭ごとの茶封筒を配り、ご恩報じという名目を付けて大切なお金を召し上げてきたのです。それに乗っかってしまった叔母でした。実は、お供えだけではないのです。教会の年祭に新調した御簾は100万円近いと聞いてビックリ仰天でした。余談ですが、そもそも天理教に御簾は必要ないと思っているんです。神道じゃないんですから。
少しでもお供えの額を減らせば不機嫌な顔になった会長。何もかもがおカネに結び付いた天理教に嫌気がさすのは当然ですよね。
今は実にスッキリとしていますが、多くの人に少しでも天理教に近づかないようにとの思いで書き込んでいます。理由はただ一つ、嫌な想いはしたくないですよね。
東風Z
2019年5月9日 10:01 AM
>宗教は心を作る場ですよね。信仰のお陰で心が穏やかになってくれば、感謝の気持ちを込めて出来る範囲でお供えもしようと思ってくると思うんです。ところが、人のいいことに付け込んだ天理教は月々の参拝とお供えを強要し、さらには、各種年祭ごとの茶封筒を配り、ご恩報じという名目を付けて大切なお金を召し上げてきたのです。それに乗っかってしまった叔母でした。実は、お供えだけではないのです。教会の年祭に新調した御簾は100万円近いと聞いてビックリ仰天でした。余談ですが、そもそも天理教に御簾は必要ないと思っているんです。神道じゃないんですから。<
善良で人の良い真面目な人の良心につけこみ、「お供え」と称して多額の金銭を騙し取ってきたのが天理教という「宗教の仮面」を被った詐欺師集団です。オウム真理教が「天理教システム」を真似たのも当然のことだと思います。これまでにどれだけ多くの人々が騙されて泣かされてきたことでしょう。金銭被害だけにとどまらず、人生そのものまで狂わされた人々も多数おられます。もういい加減にピリオドを打たなければなりません。私も多くの善良な人々が天理教と称する詐欺師集団に騙されないようにとの思いで書き込んでいます。理由はただ一つ、誰しも幸せになりたいからです。
もうネットで全部ばれてしまいましたね。やたらと献金をいってくると。信者は減ることはあっても増えることはありません。教義を信じる人の財布をあてにしていてはやっていけません。だから立地条件に応じた商売をする等して、献金が0でもやっていけるように各教会が変わる必要があるわけです。
おはようございます。
私が投稿すると、コメントが止まると言われますけど、それに私は責任を感じてはいません。 私は、中山一族や本部への恨み言は無いので、それについては、知らないと言うだけですし、ご自由に、中山一族や本部への批判をされたら良いと思っています。
東風Z さん、題材に出して、申し訳ありません、良く出されているので、例として引用しやすかったので、使わせて頂きました。
叔母さんは、ある種の精神的依存症ですよね? 私の友人は、奥さんがパチンコ依存症から、サラ金に600万円借金して家庭崩壊しました・・
離婚して自己破産、ギャンブルの自己破産は免責されないから、親が立て替えて払ったらしいです、子供達を見ていても、悲惨なものです。
叔母さんが、サラ金に借金してまでお供えしなくて、良かったですね・・と言う事も、思いました。 宗教に貢いだ場合、自己破産して免責でチャラに出来たのかな?
だから、常識的に考えたら、お供えし過ぎで、サラ金に借金、自己破産者が出たりしたら、社会問題になりますよね、それで無くても家庭崩壊したら、宗教としても、問題になりますよね。 普通は、これは普通では無いと思ったら、お供えを止めて、家族で話し合う様に勧めるでしょう・・それが常識だと思います。
ところが、教会長さんも、それを信仰心だとして利用していた、それだけで無く、お供えが減ると怒る・・東風Zさんに退職金からお供えを要求するなど、常識外れの対応を聴くと、教会長さんも常識が無く、宗教家としても信仰者としても、不可! であり、天理教の存在を問われかねない、ダメ案件だと思います。
思想信条でも無く、信仰ですら無い、ただのパチンコ屋の商売と同レベルかもしれませんね、そう言う人が、偶に存在すると言うだけで、天理教の存在を危うくしてると思います。
なぜそう言う人が存在してしまうのか? メリット以前の問題ですね? 私、それについて、天理教のその部分について、ここまで信仰の点から考察して書いていますが、それについては御理解頂けますでしょうか?
もちろん、通りすがりさんには、ただ、ここの投稿者を、からかいたいだけの悪意しか感じませんでした、叔母さんは立派な信仰者でしたね?って、その一言が、天理教の存在を地に落としている事も承知の、ただの悪意の投稿者ですね、私が同一人物だと言われる真意は、さっぱり分かりませんでしたが・・
宗教、信仰を持つなら、一般常識、何かに依存しない自立性、経済性を持っていないと、人生のバランスが狂いかねない・・そう思います。
ただの父親 様
2019年5月10日 6:07 AM
>叔母さんは、ある種の精神的依存症ですよね? 私の友人は、奥さんがパチンコ依存症から、サラ金に600万円借金して家庭崩壊しました・・
離婚して自己破産、ギャンブルの自己破産は免責されないから、親が立て替えて払ったらしいです、子供達を見ていても、悲惨なものです。<
依存症と呼ばれる精神疾患には、ギャンブル依存症をはじめ、アルコール依存症、ニコチン中毒、覚醒剤中毒等色々あり、薬物治療やカウンセリング等、医療従事者やカウンセラー等からの治療行為を要する疾患(病気)でありますが、「詐欺被害者」は、詐欺の真相や本質に自らが気づき明らかになれば、自力で騙されないように注意し、被害から免れることができるので依存症(病気)ではないと思います。
昔、ある立場で本部に、よく出入りしていた友人が言っていた言葉です。
「お供えをしてもし、ご守護がなかっても、お供えを止めるのには勇気がいる。」
「大きなお供えで有ればある程、止められなくなる。」
「だから大きなお供えが習慣になった信者が、多くいればいる程、教会にとって有難い。」
もちろん、その前提に
「お供えをすれば、必ず結構になる。」という思い込みの信仰があったからではあるが、その友人自身も沢山のお供えを集めて上級に持って行っていたが、早死にした。
本部には心理学でも習った人間がいたのか、信者からお供えを集めるノウハウを巧みに会長連中に刷り込んで行った時期があった。(今でもそうだが)
中田善亮表統領は、その時代の再来を期待して「ご恩報じ」を説いているように思う。
もう、騙されてはいけない。
神様は、お供えをしないと守ってくれないなんて、みかじめ料を取ってるや〇ざと同じに神様を貶めてることになるのに、何故会長さんともあろう方々が気が付かないのかと思う。
>神様は、お供えをしないと守ってくれないなんて、・・・何故会長さんともあろう方々が気が付かないのかと思う。
そうではなくて、「今はたすからなくても、ご守護がなくても、きっと将来、子々孫々と結構になる種を蒔いているんだ。」という論法です。
そして、「大教会や立派な教会の初代を見てご覧なさい。苦労に苦労をして蒔いてきた種が、今芽生えてこんなに結構になっているんだ。」という論法です。
今では、事情を抱えた大教会が多くなったので、結構になっているとは思えませんが、当時の教会長にとって、大教会がご守護の姿だったのです。
教会に持って行くお供えは上へ上へと上がっていき、本部では世界たすけの為、世界中の人が帰ってきても良いように、大きな建物も必要であるし、大勢の道専従者も必要であると聞かされて来ました。
そして、信者さんは私利私欲を忘れて一生懸命に親神の理想である陽気世界建設の為にお供えを、し続けたのです。
それが、一部の人たちの利権となり、私物化されているのに気づいたのは100年祭が終わって、大分経ってからでした。
こんにちは。
叔母氏が被害者だとは言えないと思います。
旦那さんが金を身内に借りる、つまり家族が窮していても、お構い無しにお供えをし続ける。 明確に見返りも無いと、誰でも判る状況でしょう?
これはお供えをする事で、自分自身を肯定できる、自己重要感が満たされたのだと想像できます、つまり、軽度な依存症の一種でしょう・・
お供えをし続ける事で、心の空白が満たされる、自己重要感が満たされる・・
あると思います・・それを信仰心だと利用するのが、問題だと思います。
壮大な世界助けのためにしているお供えは、正しきおこないであり、今に一族が繁栄するから、家中の金をお供えするのは、尊い行為である・・・
それをしている、それを知っている、みんな反対するけど、私が正しい事が、いずれ正面される・・
と言う正義感を信じてお供えしていたら、自己重要感になるかなあ? 自己肯定感とか、存在感とか・・
エホバの証人の信徒は、私達だけが、復活を知っている・・みんな消えてしまう、だから、復活の為に、エホバの教えを広めて行くのは、人類を救う為であると言う、正義感が、根底にあって、お宅訪問で冷たくあしらわれても、逆に、消えてしまうのに気付かないとは、お可哀想に・・くらいの意識を持っておられます。
壮大な使命感を持つと、自己肯定感を得られます、心の隙間を埋めてくれます。
心の隙間を埋めてくれるのも、宗教、信仰のメリットですが、それが、団体に利用される様な構図だと、外から見ていると、常識が無いように見えてしまいますよね。
>大きなお供えで有ればある程、止められなくなる
これはパチンコに大金つぎ込んで「今更引き返すと無駄になる」と余計のめりこむのと同じ。結婚詐欺と似たようなものです。
>エホバの証人の信徒
エホバの証人に信者はいません。「ものみの塔聖書冊子協会」の信者をエホバの証人と呼びます。
大教会の百年祭に配られた茶封筒のために、65歳を待たずに国民年金を受給開始され、減額された年金をお供えをされていた人を知っています。今90歳目前の方です。今後も減額されたままの年金しか受給できません。障害年金も適用されません。
何という酷なことになられたんでしょう。教会本部はこれでもお供えをしろと言うんでしょうか。
本部直々に、お供えは出来る範囲でしてください。くれぐれもご無理なさらないでくださいと、何故一言云わなかったのか。今も、出来ないところをするのが誠真実とうそぶいている。ったくどうにかしている。
このような宗教が大見えを張って宗教と言えるのでしょうか。思えば、思う程酷な団体と言わざるを得ません。
東風Z 様
2019年5月11日 8:46 AM
>大教会の百年祭に配られた茶封筒のために、65歳を待たずに国民年金を受給開始され、減額された年金をお供えをされていた人を知っています。今90歳目前の方です。今後も減額されたままの年金しか受給できません。障害年金も適用されません。<
戦死された息子さんの軍人恩給を全額お供えされていた布教所長(女性 故人)もおられました。カネカネ教の手口はヤクザ以上かもしれません。
>これはお供えをする事で、自分自身を肯定できる、自己重要感が満たされたのだと想像できます、つまり、軽度な依存症の一種でしょう・・<
カネカネ教なる「自称宗教団体」は、これまで依存症患者からまきあげたお金で繁栄しつづけてきたということになりますね。やはりヤクザ以上に怖ろしいと言わざる終えません。
>>エホバの証人の信徒は、私達だけが、復活を知っている・・みんな消えてしまう、
>>だから、復活の為に、エホバの教えを広めて行くのは、人類を救う為であると言う、正義感が、根底にあって、
>>お宅訪問で冷たくあしらわれても、逆に、消えてしまうのに気付かないとは、お可哀想に・・くらいの意識を持っておられます。
天理教の信者は、私達だけが、この世おさめる真実のみち(おしえ・真理)を知っている・・みんなこのままでは自らのいんねんで身上事情で苦しむことになってしまう、
だから、陽気ぐらし実現の為に、天理教の教えを広めて行くのは、いちれつ兄弟である人類を救う為であるという正義感が根底にあって、
においがけ訪問先で冷たくあしらわれても、逆に、よろずいさいのもとを知らないとは、お可哀想に・・くらいの意識を持っておられます。
匿名 様
2019年5月12日 2:50 AM
>においがけ訪問先で冷たくあしらわれても、逆に、よろずいさいのもとを知らないとは、お可哀想に・・くらいの意識を持っておられます。<
においがけ訪問先で、冷たくあしらわれる理由、原因があるはずですが。
>においがけ訪問先で冷たくあしらわれても、逆に、よろずいさいのもとを知らないとは、お可哀想に・・くらいの意識を持っておられます。<
おまけに、悪口を言われたり罵られたりすると、因縁を切って貰えると教わってるので、何を言われようが、蛙の面に何とか、で応えません。
カルト宗教の常套手段の洗脳とは言え、一般常識とはズレまくってるのに、親神、教祖のお心に添った信仰を通っている、と思い込んでいます。
>おまけに、悪口を言われたり罵られたりすると、因縁を切って貰えると教わってるので、何を言われようが、蛙の面に何とか、で応えません。<
おさずけをさせてと土下座をしたり、帰れと玄関先で断られたら、裏に回って勝手に一人でおさずけをやってる人もいた。
結局は自己満足で、自分の為にしているに過ぎないような部分もある。いんねんを切ってもらえた、今日も教祖に連れられて歩けた、と世間の迷惑の上にあぐらをかいた我が身助かるの為の身勝手な行為なのに、断られても、断られても、、、布教と言うより自分の為の自己心酔。
ああ、今日も断られた。教祖に喜んで貰えた。因縁を切ってもらえた、と。馬鹿にされればされる程喜び勇む。屁ともない。
滑稽で世間様から呆れられているのに、常識外れな行動は嘲笑の的。本部も何とかガイドラインとか示して布教体系の指導は出来ないのか。断られた玄関先で、誰もいない玄関先で土下座している異常な風景。土下座は最低限してはいけません。良識を疑われます、とかのガイドライン。天理教の良識を疑われて益々世間から遠ざけられてしまうと思う。
>>土下座は最低限してはいけません。良識を疑われます、とかのガイドライン。天理教の良識を疑われて益々世間から遠ざけられてしまうと思う。
情けないけどようぼくの、とくにバリ天の世間様に対する道徳的、常識的な言動についてのガイドラインは必要ですよね。 恥
朝のおつとめの「鳴りもの」」の音、特に太鼓の騒音問題も深刻です。 モーニングロケンロー
神殿が鉄筋コンクリート造りで、外部に漏れる音が環境基準を満たしているのならまだしも、
ボロ教会は音が駄々洩れです。 貧
バリ天の両親に、朝の太鼓だけは小さく叩くか、もしくは叩かないように言っても
においがけになるんだとか言って近所迷惑考えずに早朝から「自称 勇んで」叩きます。 徒労
こちらは近所の人たちがどう思っているのかヒヤヒヤしっぱなし。 汗
もしも隣家が早朝からカラオケガンガン歌いまくっていたらバリ天たちはどう思うのだろうか? 疑
これが洗脳の悲惨さというものか。 悲
本部から厳しく指導していただけないものだろうか。 懇願
本部こそお供えで レーザー、花火、をドンパチ上げて大騒ぎしちゃう
究極のバリ天脳内お花畑の巣窟だから期待しても無理か。 諦
この太鼓の音がどれだけ多くの天理教教会子弟の小中学校のいじめのトリガーになってきたことか…..。 悲
バリ天は世間に良いにおいをかけたいのであるのなら、
教祖
「よるひるどんちゃんつとめするそばもやかましうたてかろ
だから周りに気を使ってしずかにおつとめやろうね
人に迷惑をかけないで行動することも、人をたすけるこころのうちのひとつだからね
わかった? 」
っていう教祖の思いを、(これは個人的解釈です 笑)
みかぐらうたの行間から読み取っていただきたいものだ。 切願
宗教のメリットと信仰のメリットは、違うと言う気がします。
宗教は、外的な行動ですが、信仰は内面的な心の模索ですからね、別物です。
宗教に参加する事によって、外的な行動を求められるのと、内面的に追求する世界を持つ訳ですよね?
ただの父親は、外的な行動、思想信条、イデオロギーに、神とか出すのは、実は嫌いです。
K氏への説明の一つになるけども、神をイデオロギーに使うと、思想統一、排他的になるので、私は嫌いです。
実際、大霊界の神は地上における人間のイデオロギー、思想には感知はしないのです、大霊界の神の想いは、この地球においては、異なる民族、文化、思想信条を持つ人達が、互いを受け入れ、その尊厳を認め合い、互いを尊重して生きられる世界を作って欲しいと願っておられる・・
みんな神の子、互いに集団で殺しあう戦争を無くし、人が人を虐げる様な未熟な文化(例えば中東のいろいろとか)を進化させて、人が人を尊重できる社会を作り上げて欲しいと願っており、人間がそういう風に向かっていく事を想って、エネルギー、神の知恵をたえず地上に送っておられます。
それを心で受け取り、自分を向上させて、自分が実際に行動に移して、地球を良くして行く事が、今、生きている人間のやるべき事だと思うのですよね。
だから、神の意思を思想信条に入れて、世界を統一して平和にするとか、一つの枠組みに、納めようとするのは、神の想いとは違う、人間の支配欲の一つであって・・
私は、そう言う場合、都合よく神が使われてしまうので、嫌いなんです。
人間の外的な行動に、大霊界の神は指示も命令も干渉もしない・・
人間の内心に干渉もしない、人間の心は、人間の自由なんですよね。
神を望まない人を、助けてもくれませんが、そこは個人には背後霊団、守護霊団もいて、陰に陽に、人の心がけに沿って、ある程度の守護はあるかと思います。
本来の神様とは、人間の内面、個人の心と魂を、向上させる、導いてくださる、神を望む心にのみ、答えてくださる存在だと思います。
大霊界の神々のお話ですけどね・・私の個人的な意見ですからね。
だから私自身は、自分の向上のために、信仰を持ち、社会的な行動は、自分の信条に一番近い、政党に参加して、行動に表しています。
その政党は、一般的には宗教を政治に介入させない、政教分離がしっかりとしており、個人の内心の自由と尊厳を大事にしていますので、私の (オカルトと言われる) 信仰の想いと、合わない様で、実は良く合うんですよ。
ありがとうございます、感謝いたします。
なので、私自身は、普段は、神が!・・・とか、教えは!とか、霊があ、 なんて一切言いませんからね。 実際に政党の参加者は、私が (オカルト!) と言われるほど、神とか、人を霊視したり、浄霊をしたりする、濃い〜い、タイプの人だとは、知らないと思います。
信仰は、私の内面的な行動なんですよね。
望まれれば、あるいは、この人には必要だと感じられれば、その時は、話しますけどね。
私にとって、信仰とは、そう言うものであり、自分の人間性を磨くためのものであり、それがメリットなんですよね。
>朝のおつとめの「鳴りもの」」の音、特に太鼓の騒音問題も深刻です。
新興宗教の人って「自分さえよければ」なんですよね。他人の迷惑考えない。福音派や聖霊派といったプロテスタントの新興宗教でも同じです。ロックバンドみたいな演奏で、ベース・キーボード・ドラムがあり、ワーシップ形式で徹夜絶叫祈祷会とか朝まだ暗いうちに礼拝堂で大声で異言を一斉に・・・でご近所トラブル多発させています(掲示板にもギター伴奏やドラムセットのある教会にはいくなといわれています)。抗議すると「神に抗議しているから地獄に落ちる」とかさ。神道やプロテスタントの外見はとっていますが、中身はそっくりだと思いました。
騒音問題について。
力いっぱいの太鼓の音で、この音の届く地域に神の御守護を届けたい、、そんなおこがましい事を思い、私も力いっぱいの太鼓を打っていた時代がありました。
今では信者も家族も減ってしまい、太鼓の出番は月次祭の日だけです。都会の大教会では近隣住民から苦情が出て、パトカーが出入りするような所もあるとか、、
住民を敵に回してまでもする事でしょうか。それを神が望むでしょうか?人助けの天理教が、安眠出来ない天理教になって、、病気療養出来ない天理教になって、、
近隣住民にとってはなんか変だよ、天理教って感じですか。独りよがりもいい加減にしておかないと、、
韓国人教祖のセクハラで事件になった聖神中央教会でも夜中や早朝の騒音でご近所トラブルがあった。新興宗教をやると世間の常識がなくなる。
まあ衰退期のカルトということで、今は騒音を出すお参りをしようにも、人が来ないんだからw。事情教会率90%!9割の教会は騒音を出したくても、そもそも教会は看板だけで実態はなし。「天理教教会」と書いたボロ家に「信仰心?何それ?天理教?あー祖父母はやっていたが、親の代からとっくにうちは棄教してますので・・・」な人が住んでいるだけ。
出直しで会長不在の為、信者2、3人の締め切った教会があって、月次祭には上級が腐りかけの野菜を供え、そのお下がりを持って帰った信者が食べられる代物では無かったと嘆いていたと聞く。
取り敢えず形だけの月次祭に腐りかけの野菜を供える上級会長は金銭的にも自教会維持もままならない為、部内の月次祭はおそらく心がこもらないのだろう。
地方の教会は今はそんなところまで追い詰められている現状でしょう。腐った野菜を供える教会の所属する大教会は頭が腐っている為に常時大教会にお金をむしり取られるため、信者も教会も信仰イコール金の集金、と言う嘆かわしい「不足の渦」が渦巻いていると言う。知らない間に各教会からの集金額を勝手にアップしているんだと。これ、経済的虐待では?
故にこの大教会は人を苦しめて我が身苦しむと言う状況になっているので天の理は正直だと思う。悪しき心遣いの見本、悪しき標本と思うが宗教被害が長年に亘り続いているのがやり切れない。
これが9割事情教会と言われる地方の現状の一端です。
こんにちは、話を続けさせてもらいますね。
宗教のメリットと信仰のメリットは、違うと言う気がします。
宗教は、外的な行動に現れますが、信仰は内面的な心の模索ですからね、外的には出てこない。
思想信条は学ぶ事ができます。 本や学校などで勉強する事が可能です
愛とか慈しみ、人を尊ぶ心は、本や学校で習う事では無いでしょう?
もちろん一人でも学べない、学校生活や社会生活の中で、学んで、身につけて行く物だとは思います。
思想信条は、その指針になるのか? 私自身は、これはよく分からない・・
思想信条を学んで、立派な行動をされる方は見えるけど、個人的に優しくも無い、愛情も薄い方は、いらっしゃいますよね。
愛情というのは、思想信条とは違うとも思います。
思想は頭で学ぶものであり、頭が良くないと身につきませんよね
愛情は誰でも持てますが、愛された経験が無いと欠落したりしますよね。
この、愛とか、無償の愛を身に付けるには、頭の良さは必要はありません。
生きながら、時間をかけて、自分で得て行くものだとも言えますよね?信仰はその指針の一つになるかとは、思いますけども。
松村吉太郎氏の(道の80年)に、当時の日本の人口の半分をおさずけ人にする、とか、満州鉄道に沿って、大陸を教化して行く、世界に天理教を広げて行くと言う様な、決心について書かれていましたが、例えば、今の時代
日本の有権者の半分を、ようぼく、にする、天理教の代理政党で国会を占めて、真柱を首相に、憲法を陽気暮らし憲法に改正して、日本を陽気暮らし国家にして、親神様を国神に定める、とかやったら・・まあ、宗教の思想によるクーデターですよね?
まあ、陛下を神にして、日本は神国である、世界を八紘一宇で統一・・オイオイ!って時代もあった訳ですし、今でも、それを目指す団体は存在しますから要注意ですよね。
まあ、それに近い政党も、与党の下駄の雪になっていますけど、実際にはできないし、そんな風に、人は思想統一できないと思いたいですが、ただ、例の団体に内閣が乗っ取られているから、私個人は、今が天下の別れ目だとも感じています。
あくまで思想宗教は、そう言う性質がある、と言う、例題話ですからね、突っ込まれても、ごめんなさいです。
だから、太鼓が近所迷惑でも、気にかけないとか、教団幹部が、支配層として権力を行使して堕落している、カネカネばかり聞こえるなら、これに当てはまるかな? と言う風に思います。
そんな事を、考えました、 ありがとうございます、感謝いたします。
天理教は、内面的な、精神の追求部分が、小さくなり、布教して、信者のお供えが無いと、自分が食べられないから、どんどん、外的な思想部分が肥大してしまい、身動き取れなくなってると言う事か?
まだまだ、模索は続きます・・・・・・・
ちょっとオカルトな話をしますけども
人類の大掃除、とか、終末予言は、いろいろありますが
そう言うの、皆さん、お望みですか?
荒唐無稽なお話になりますけども
うちの教祖と御守護神は、すでに、それらの予言を出した神は超えておられます。
急激な地球の大掃除は、おき無いと、私個人は信じています。
人類の未来は、人類に託されています。
天理教の未来は、信者に託されている、信者が決められる事ですよね。
ただの父親の、オカルト話しに矛盾点がありましたが、気がつきました?
神は、人に強制しない、命令しない、支持しない・・人の内心に入ってこない、干渉しない・・
しかし、天理教とか他の予言を出す神は、その恩恵と引き換えに、本人の意思に反して人格に干渉し、肉体を支配して、天啓者の人生を変えてしまうタイプの神様ですよね。
そこが私の話と違っていますよね?
私個人の推察は、あくまで個人的な推察ですが、それらは、人間を凌駕するエネルギーを持っているが、質は高くない・・力のある神霊であるが、質は大霊界の神とは言えないレベルの存在かもしれない・・これから、質を高めて行くことが望みであり、人に降臨して、人を導き、自らも向上しようとしている存在・・かもしれない。
そう言う存在かもしれないと見ています。
そう言う存在は、自分を信じさせるため、ちょっと乱暴な動きをされる・・
終末予言を行い、人を脅して、行動させる可能性があるんです。
これ書いてるだけで、そう言う存在から、強い戒めの波動を感じますね・・エネルギーとエネルギーのぶつかり合いですね・・
こう言う事を、普段から口にしたら、そりゃあ、病院行けって言われるのがオチですよ・・(笑)
だから、たまにしか言いませんから・・・・
ありがとうございます、感謝いたします。
こんにちは。
天理教者以外には、朝のお勤めなどの音は騒音でしかありません・・
隣人愛があれば、控えるのが普通でしょうね?
外に向かって、教えを宣伝をするのが義務であると言う、外的な行動ですよね。
我が子を、神の元で、人として対等に思うなら!我が子にも、自由に生きる選択肢を与えてあげるのが、親の愛と言う物ではないでしょうか?
末代まで、引き継ぐのが教えである、と言う強制でしかないでしょう。
ここで出てくる、大教会のお話にも、理の親の話にも、人としての、常識も、愛も感じられない、この人間のヒエラルキーは、当然であると言う、高慢な心を戒める存在が教えではないのでしょうか?
私的には、教理とか教えを当てはめて生きるのは、正直、全然自由じゃないと、感じます。
宗教、又は信仰のメリットって、教えを守る、神に祈る事で、いろんなしがらみからの解放、心の自由を得る事では無いでしょうか?
私自身は、宗教に参加する事で、いろいろな行動に教条的な制約を受けるのは、しんどいですね・・デメリットでしかない。
教会長が、人を助けて我が身助かるとして、布教活動をしていても、最終的にお供えが欲しいな、信者を増やしたいなって、心に浮かぶ様な状況では、人助けをしていても、その気持ちは休まるまいと想像いたします。
宗教のメリットって、心が軽くなる、楽しくなる、希望が持てなきゃ嫌だな・・
昔は違ったんでしょうね? 天理教に参加する、神の御守護が頂ける、おさずけの理が頂ける、道の仲間と助けあえる? 真実が見える? 天理教に参加する事で、希望が持てる時代があったんだろうな? よくわからないけど・・・何が違っちゃったんだろうね。
親が必死に働いても、子供に充分いろいろ出してやれない家庭も、今の貧困率の高さから言って珍しくはありませんが、それは、国家に国民生活を守る愛が無いから、仕方ない、そう言う政治を選択したのも国民自身ですが、親が子供に愛を持っていたら、貧乏していても、なんとか道を開く事はできるでしょう。
でも、教会を経営していて、子供に苦労をさせてしまい、選択肢も天理一本なら、それは我が子に対して、愛はあるのだろうか? 自分の生き方を押し付けている様な気もしますので、親の自己満足、自己愛なのかな? 子供に天理以外の選択肢を用意していたら、それが良いと思うんですが、逃げ出すしか、子供に選択肢が無いとしたら、その愛は、正しく無い気がしますよね。
私の経験ですが、教区の行事で、大教会子弟がチヤホヤと特別扱いされているのを、参加していた、うちの子達は見ていて、なんだか嫌だな?と感じたそうです。 特に周りの信者と思われる大人達が、そう言う姿勢を取っているのが、違和感があったそうで、それが子供であっても、普通の感覚でしょうね?
その大教会のお子達は、他人に対して無償の愛を持てるのだろうか?
人を助けて、我が身助かるが、布教者として、最後にお布施を求めたら、その人助けは全て、お布施の為となり、善意では無く、人助け商売と言う事になります。
教会長も、道一筋と言っても、私から見たら、一つの商売
教えを売る、職業、天理教教会長であり、別に特別、尊いとか感じない・・大変な仕事だとは思いますが。
だから、友人の教会長は、私に対して、決して自分からお供えを要求される事は無いけど、しかしお供えが無ければ、生きて行けないし、交通費もかかるから、それを見越して、こちらから、年間3万円程度をお供えします。 その中から息子名義で、1割ほど、一列会に寄付してるのだとか・・まあ、良い人には違いないのですが・・残りも、少し経費を引いて、上にお供えするらしいのですが、守護の代わりに神様に受け取っていただくのです、とか、真面目に言われると・・
もうね100m位は引いてしまいます・・怖いくらいです。
その信仰心は、信仰者からの親神様への愛と言う事になりますけど、親神様からの愛を感じる事はあるのだろうか?
天理教の神は、かえし? と言う怒りがあり、身上を起こす、神の怒りにふれて死んでしまう? と言う話があるが、恐怖でしかない。
体は乗っ取られる、人生も乗っ取られる、人に指示を出す、内心に入る・・
正直、神なのか? って感じています。
愛が少ない・・型にはめる・・最終の魂の行き先にふれていない、
何より、身上、事情で人の心を不安にさせる・・
神とは言えない存在、でも、人を凌駕する力がある・・大霊界は広大です、いろんな神霊体がいます。
でも、高い位置の神ほど、愛と慈しみ尊びのエネルギー体の存在であり、人類に関わってこないし、人間に怒りませんし、戒める事も無い、手を引かれるだけ、そして大霊界の神々もまた、絶対神の足元まで、向上を目指してエネルギーの質の向上を努力しておられる。
宗教のメリットがあるとするなら、神の愛に触れることができる・・と言う項目も欲しいですね。
ふと思ったのですが・・
ただの父親さんは、この様に思っておられるだろう? この様に考えておられるだろう?
ただの父親さんは、気づいていないでしょうが、自己顕示欲がおありですね?
ただの父親さんは、奥様と話し合いが出来ていないのでしょう?
ここで、私に対するコメントの内容で、この様に人の内心に入る様なやり方をされるのは、これが天理教布教者のやり方なのだろうか? この様に、人の内心に関わってきて、身上、事情、因縁とかと引っ付けて、教えを絡めて布教するのかな?
私は、人の内心に入る書き方だな? と言う印象を持ち得ました。
それと、愛を感じない・・私は攻撃をしていない、内心には入らない様に気をつけていますけど、K氏の執拗な絡み方には、人として嫌な印象を持たざるを得ない、コメント姿勢に愛も尊びも感じない・・・
天理教には、愛が少ない・・神の愛が少ないな? と言う印象・・
宗教に参加していて、自身の愛の心が増えないなら、メリットって少ないと感じます。
>天理教の神は、かえし? と言う怒りがあり、身上を起こす、神の怒りにふれて死んでしまう? と言う話があるが、恐怖でしかない。
体は乗っ取られる、人生も乗っ取られる、人に指示を出す、内心に入る・・
正直、神なのか? って感じています。
愛が少ない・・型にはめる・・最終の魂の行き先にふれていない、
何より、身上、事情で人の心を不安にさせる・・
神とは言えない存在、でも、人を凌駕する力がある・・大霊界は広大です、いろんな神霊体がいます。
私も「神」について色々考えた時期がありました。
自身の様々な体験もありましたが、今のところ、
やはりこちらの本に書かれていることが本質に近いのかなと思ってます。
https://www.amazon.co.jp/%E5%96%9C%E3%81%B3%E3%81%8B%E3%82%89%E4%BA%BA%E7%94%9F%E3%82%92%E7%94%9F%E3%81%8D%E3%82%8B-%E2%80%95-%E8%87%A8%E6%AD%BB%E4%BD%93%E9%A8%93%E3%81%8C%E6%95%99%E3%81%88%E3%81%A6%E3%81%8F%E3%82%8C%E3%81%9F%E3%81%93%E3%81%A8-%E3%82%A2%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BB%E3%83%A0%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%8B/dp/4864510822
表現の仕方は違えど、ただの父親様の考え方とも通じると思います。
なので私は、ただの父親様がここで何をしているのか何を言われているのかがよく理解できます。
宗教組織は役割として与えられた肩書きに隠れた身分制度のような個々の扱いの
違いや、上下従属関係の概念が入ってしまった時点で、どうしても「歪む」のだと
思います。なぜなら、それは「支配」の思想であり「神」とは違うものだからです。
しかし教祖亡き後、組織を維持する為には、出来るだけ集金して力を蓄え、
カリスマ性を持たせて多くの人に支えてもらうなどする努力をしていかなくては
ならなかったのでしょう。
ただ、そこには肝心の中山家の方々やその関係者以外の信者さん達の都合は
神頼みに任せるという形だけで考慮されてこなかったということなのでしょう。
なので、条件含め考慮され、大切にされてきた組織中枢の方々だけの為の、まるでそれらの
人々を支える為の組織のようになってしまったのかもしれませんね。
おはようございます。
匿名さん、少しでも御理解いただき、ありがとうございます。 感謝いたします。
指摘の本は読んだ事はありませんけど、臨死体験などは、共通したものがあり、英国スピリチュアルとか、シルバーバーチなどの提示する世界観に一致していると思います。
私個人も、神と言う概念は人間の感覚であり、この世界で唯一神と言えるのは、2000億年の年齢を持ち、宇宙に、何度もビックバンを起こしている絶対的存在だけです。 あとは2000億年の間に、絶対的存在が、産み育てた子供だけであり、
我々人も、その末端の萌芽の一人であると言う思いです。
物質の原子、クオークよりもさらに細かい素子によって作られる世界は、荒い原子核で構成された物質宇宙の我々には、見ることも、観測する事も出来ない広い世界が、広がっていると言う言うだけですかね。
霊体として質を向上させる、存在自体どんどん小さな構成素子になって行く、と言う事ですけど、荒唐無稽ですけどね。
例えば、10億年の年齢を持つ霊体は、神と呼ぶレベルですが、もはや人間には関わってこないと思います、人間に関わり、導くのは、やはり元人間だった、感覚の近い霊体が主であろうと言う事です。
私個人は、親神様は、約1000歳以上の、日本の古代人の印象がありますね・・
だから、全地球の事まで、気にされていない、江戸時代の感覚に合わせて、導いておられるし、非常に限定的な世界観でしか無いのも、なんとなく、判ります。
まあ、荒唐無稽な話は置いておいて・・
教えに、高低無くすって、あっても、平然と信者が高低を認めていたり、教義、思想だけで、人の行動、特に心使いを導くのは、難易度が高いなって思いますよね。
匿名さんの、おっしゃる宗教組織、と言う存在の問題点ですよね・・・
個人の神を求める、神を理想の姿として、自分から神に近づこうと模索する信仰とは違ってしまって来ると感じます。
こんにちは。
教えを学ぶとは、どう言うことなのか?
教祖の教えを、心に納める、理を心に納めるとは、どう言うことなのか?
頭が良くて、御筆先、お指図、教祖伝、他の教えの資料を全て記憶できたら、納められた? と言うことなのか?
それなら、A I が得意だろう? 全てを記憶して、取り出せるA I ができたら、理を納めた? と言えるだろうか・・A I で本席様が復活できるだろうか?
教えを脳だけで理解すると言うと、こう言う事も連想してしまいます。
もちろん、違うでしょうね・・
教えを学びながら、教祖の示した、陽気暮らし世界の世界観、真髄、そのお心のあり方、人としての理想の姿・・それが、どう言うものか?
または、親神様の思召し、神の本当の守護とは何か? 真実とは何か?
判っている事を学ぶ、と言うだけでは無くて、日々、生きながら、どう言うものか? と言う自問自答をしながら、自分の態度、所作動作、心のあり方が、それに近づけただろうか? と、毎日反省模索するのが、信仰と言うものでは無いかと思います。
神はいない、と言うなら、それでも、人間としてあるべき理想の姿を、毎日教えの中に求めながら、自問自答の思考の模索をし続けて、反省と向上を繰り返す事と、生活の中で、人への愛、無償の愛、慈しむ心と言う物も含めて、自分自身を理想の人に育てあげる努力を、し続ける事が必要では無いか? と思います。
お勤め、みかぐらうた、手踊りを行いながら、その真髄、意味を模索し続ける・・
そうするうちに、はたと、悟りが開く様に、心にその理が納まって来るのだと思いますよね。
神がいるなら、神に祈り、その守護に感謝しながら、自分自身が、上記の様に行動して、お勤め、みかぐらうた、を行いながら、自分の行動が、親神様の思召しに沿っているか? 自分の心使いが、親神様の思いにかなっているか? 毎日、反省模索をし続けて、親神様に今日の自分の行動は正しかったでしょうか? と神様に反省を祈り、自分を向上させて行くのが、神への信仰と言う物では無いかと思っています。
その中で、愛、慈しみ、無償の愛と言う、形にできない物も、自分の中にしっかりと納める・・・身につけて行く必要があると思います。
そうするうちに、神の理が、自分の生き方、行動に納まって来るのでは、ないのか?って思います。
そう言うのも、教えを学ぶ宗教であっても、個人の人間性の向上を目指す、信仰と言う物ではないだろうか? と私は考えています。
宗教の教団の先頭に立つ人間なら、神様への御恩にお供えをしなさい、とか、お運び、お許し? などの、上から指示すると言う、私から見たら噴飯物の行動よりも、この教え、神の理を、心に納める! と言う姿勢を信者に、実行して示してみせないとならないと思います。上に立つものほど、謙虚に、神の理を、心に納めた人間の姿勢、姿を見せられないなら、ただの人間の権威主義でしか無い、信仰として、必要の無い存在でしか無い! と言う風に、思えます。
私個人は、信者を、人として、その人間性を向上させる様に、導いてこそ、宗教だと思っています。
因縁だと脅して、神様にすがりなさい、
神様の守護の御恩に、お供えしなさい・・・
お勤めしなさい、貧に落ちなさい、たんのうしなさい・・
なになにしなさい・・と言うのは、干渉であり、ある種、命令でしょう
私は、そう言う宗教には、近づかないです、外から縛られるのは嫌ですね
オカルトとか、さほど重要な問題では、ありませんよね。
その道筋を、神様に直に導いてもらうと言うだけです、毎日、直に神様と交流しながら、守護と導きを神から頂くと言うだけのお話であって、何も特別では無いのです。
宗教、信仰とは、人の人間性を向上に導く事
人の心を軽くして、希望を持たせる事
人を、いろいろ縛られているものから、解放させる事
私個人は、それがあってこそ、メリットだと思っています。
天理教者から見て、ただの父親の意見が、何か間違っていると思うなら、ご指摘下さい。
その意見も、参考にして、私は自分自身の糧にさせていただいて、さらに向上を目指したいと思います。
ありがとうございます、感謝いたします。
私は、宗教に参加する事で、いろいろに縛られるのは、嫌なんです。
信仰するなら、自分の心を軽く、自由にしてくれる方が良いです。
不平不満を口にするくらいなら、さっさと離れて、自分が心穏やかになれる宗教に変えた方が良いですよね? と思います。
お供えをやめて、一心に親神様、教祖様に向かうのも、一つのあり方かと思いますよね。
ただの父親様
>私個人は、親神様は、約1000歳以上の、日本の古代人の印象がありますね・・
上記の投稿文について・・・
笑わせていてだきました。
有り難うございます。感謝いたします。
こんにちは。
「 心の成人という事は、然らば何であるか、これは簡単にして、むつかしい事であるが、一言にして言うならば、陽気に総てのものが自分の心に嬉しく映って来る様な、心の持ち方に御守護を頂く事である。」
「 心の成人させて頂く中で、今まで喜べなかった事が嘘のように喜べてくる、嫌いだった人がそうでも無いようになる、そういった御守護を頂くことが成人というのではないでしょうか。」
「 心の埃の掃除の方法としておつとめを教えて下さった、また我が身の都合を忘れて人を救けることを教えて下さった、その道中に自らの心の埃が取れていき、我が身が救かるのです。これが「人をたすけてわがみたすかる」というのです。これが成人なんだと思います。」
教祖様の教える神の理を、心に納める・・成人なのかな?
現状を喜べ、とか、たんのうせよって言われると、不平不満を封じ込められるけど、不平不満を出さない様に、自分を変えるのは分かるけど、そう言う現実を変える事も、また必要だと思いますよね。
我が身の都合を忘れてって言うけど、自分をおざなりにして、人助けをしなくちゃって、焦る様なら、それはやっぱり違うでしょう?
先ずは自分を助けて、自分が幸せになることは、大事ですし、今ある現状を変える努力は、否定されるものでは無いと思いますよね。
なんか、内心に入り込んでくるなあ・・って思います。
自分自身の模索と言うより、一方向への圧力に使われてる様にも感じる。
信者からの教団改革、幹部批判、教えの解釈を封じ込めたいと言う意図、全て、神側、幹部側からの一方向の下げ渡し・・と言う印象を持ち得ます。
神の理を心に納める、人の高い低いは無い、そう言う心の姿勢は、真柱様以下、信者全員に適用されるものですよね・・全員です。
まだまだ、模索は続きます。
こんにちは〜 ネットから引用した、教団の見解の言葉を読んで思った、個人的な感想です。
「 心の成人させて頂く中で、今まで喜べなかった事が嘘のように喜べてくる、嫌いだった人がそうでも無いようになる、そういった御守護を頂くことが成人というのではないでしょうか。」
教団側から見ての、望ましい成人とは?
理の親と言う存在の言う事をよく聞いて、素直に従い、親神様への御恩と言う事で、貧しても、せっせとお供えをおぢばに運んでくれる人、そしてその状況が守護として喜べる様になる事が、成人である・・と言う風にも聞こえる。
親神様から見ての、望ましい成人とは?
人や金をメドウとせず、神をメドウとして、悪しき心使いを改め、心の誇りを払って、互いに、助け合い、立て合いの世の中を目指す人が成人であろうと思います。
教団側から見てメリットのある信者とは?
個人的に独立した精神性と考えをあまり持たずに、教団に従って、教団の教える通りに行動して、布教して信者を増やし、お供えを集めてくれる人?
親神様から見ての、メリットのある信者とは?
個人的に独立した精神と考えをしっかりと持ち、教えを胸に納める努力を個人的にしながらも、その教えを人に伝えて、親神様の思召し、守護の輪を広げていける人
内面的な成人と、イデオロギー、思想としての成人も、分けて考察した方が判り易いとも思うんですよね。
例えば、神道における修行は神に愛される生き方をする事であると紹介されています。 神に愛される生き方は、謙虚・反省・礼節・尊敬を日常の行動で行う事、敬愛・慈愛をいつも持つこと。
繰り返しますが、信仰とは内面的な向上の努力です。
宗教に参加するのは、共通の思想を学ぶ、広めると言う事ですよね。
イデオロギー、思想を広めるの布教活動と、内面的な向上の努力は、同時に行うべき事柄でしょうね。
特に内面の努力を伴わない、布教活動、宗教参加は、政治活動と同じ様な物ですからね。ただの団体迎合にしかならない様に感じます。
ただの父親の、模索は続きます・・・・
こんなことをツイーしちゃってる痛い擁護派さん(おやさと在住)がまた一人
↓
>>志興 @hfLC5DQnA5XLBWz
>>お供えを否定するならまず自分でやってからじゃないですか?
>>実際にこの世界を貫く天の理ってのは間違い無くあってお供えがつなぎになり得ることはあります。
>>教祖が教えてくれるのは味方を変えたら天の理を味方にする方法ですよね?
>>というか、その言葉(おつくしは命のつなぎ)持ち出し過ぎです
>>ただ批判したいだけでしょ?
だれかこの意味不明なツイートをわかるように翻訳してもらえませんか?
この人 (志興 @hfLC5DQnA5XLBWz) も善亮同様
この世界を貫く天の理の法則には、お供えが命のつなぎになることがありうる
と本気で思っているようだ。
教祖が 「お供えが命のつなぎになる」といつどこで言ったのか、
原典をもって示していただきたいものである。
んなものは探してもないけどね……..。
洗脳は恐ろしい
おはようございます。
>>お供えを否定するならまず自分でやってからじゃないですか?
みんな、してきた人でしょう? だから腹がたつ・・
>>実際にこの世界を貫く天の理ってのは間違い無くあってお供えがつなぎになり得ることはあります。
私的には、大霊界の法則は厳然と存在しますが、お金は、社会生活を動かすための、潤滑剤であって、これは神の知恵として、人類に与えられていますが、富の集中も起きます、悪用もできます。
神の用意するものは、良い様にも悪い様にも使えるものです。
神はお金を必要としていない、神の名に元に、お金を集める理由は、人間にある。
>>教祖が教えてくれるのは味方を変えたら天の理を味方にする方法ですよね?
人類に悪しき心使いが溜まってることを、神様が憂いて、それを正すために、親神様が、降りて来て、教祖を代理にして、天の理を説いてくださってる訳ですよね?
それは、お金を、神にお支払いして、神を味方に付けよ! などとは言っていませんもんね?
>>というか、その言葉(おつくしは命のつなぎ)持ち出し過ぎです
>>ただ批判したいだけでしょ?
それは正当な批判でしょう? 天理教を変えるのは、天理教徒のやるべきことであって、親神様は、見守っているし、真に親神様を求める人に、今でも、働きかけてくださっていると感じます。
本気で、教えを元に変える運動を、起こすことをを期待しています。
何が、正しい神の教えで、何が間違っているのか? 常に反省模索して、真実の道を探し出し、向上せよ・・
悪しき心使いを、排除せよ・・それも、人に課せられた努力だと思います。
私は、天理教に浅くしか関わっていませんので、頭領の批判には触れませんが、実際、天理教へのお布施は、年間3万円とプラス、おぢばのお賽銭って決めているので、まったく困りません。
こんにちは、 ネットからの引用です。
「 心の埃の掃除の方法としておつとめを教えて下さった、また我が身の都合を忘れて人を救けることを教えて下さった、その道中に自らの心の埃が取れていき、我が身が救かるのです。これが「人をたすけてわがみたすかる」というのです。これが成人なんだと思います。」
観念的な説明ですが、言わんとすることは、判らんでも無い・・
しかし、外的な行動の話であり、本来は内面的な、自分の心使いの反省模索が伴わなくては、見えてこない世界だろうとも、思います。
私が、こう言う話を聞かされたら、言ってる人が、本当に判って言っているのか? 言葉遊びのレベルなのか? 言ってる人の顔を見て、判断します。
内面的な努力は、顔や所作動作に現れてきますからね。
友人の教会長は、私のために、教会長が働いたとして、そのお礼でお供えを下さったとしても、私も助かるし、あなたも守護を得られると言う様な理屈を説明しましたが、私と教会長の関係性では、実際、私を助けて教会長も助かると言う事は、無いと思っています。
だいたい、世の中ってのは、助け合い、立て合いでこそ、上手く運ぶ様に出来ていますよね。 生きてるだけで、互いに助け合って、支え合って生きているんで、一人で生きてる人の方が少ないです。
人を動かすには、相手の自己重要感を満たしてあげ無いといけません、これは人間関係の基本です。
そのためには、自分の自己重要感も、満たしておく必要があります。
自分の自己重要感が満たされていない人が、人助けをすると、その行為自体が自分の自己重要感を満たすために消費されてしまって、無償の愛にならない場合があると思います。
そうなると、人助けが心理的な脅迫観念になりかねない・・
心が満たされた人にとって、人助けってのは、自然な行為であり、無償の愛で、普通に行う行動だと思うんです。
ただの父親にとっても、人助けと言うのは、日常において普通であり、社会的な行為でもあり、それに伴って、何も意識はしません、見返りとか、その行為自体が普通なんです。
私の政治活動も、自費で動いてますし、子供達にまともな政治を残したいからです。
私の無償の愛の行動の表れであって、人助けでもあるんです。
最初から、私自身は満たされているんです。
思想宗教は、形としていろいろ言いますが、やっぱり、基本として、自分の自己重要感をちゃんと満たしておく、無償の愛を持てる様になる、人の自己重要感を満たしてあげる、と言う風に、内面を伴う様に、導いてこそ、メリットと言う気がします。
お供えが欲しかったら、圧力と脅しと命令では無く、お供えをしたくなるくらいに、信者の自己重要感を満たせる教えを、先に教えてくれよ・・
神の御恩にお供えをしなさい? その前に神の愛に触れて、心が満たされる方法を教えて欲しい・・
お供えしたら、見えてくる境地があるだって? お金出したら、神の愛が見えるのかな?
ここに書くのは、自分の反省模索のためでもあるんですけども、なんだか、いろいろと浮かんで来ます。
父親様。
仰る通りです。天理教ではあまりにも自己犠牲を強い過ぎます。
自分が満たされてこそ、他人に手を差し伸べる事が出来る。天理教は人間の生まれながらの本質を知らなすぎます。欲を離せ?欲は人間の本質です。それを悪だと言う。だから人として生きて無理が生じる。苦しむ事になる。この悪循環の中で自分が見えなくなる。自己肯定感も無くなる。卑屈になる。
金銭的に豊かになりたい欲、自分が一番大事と思う本質的欲を否定し、徹底して貧に落ちろと言う。自分より人を大切にせよと言う。それで陽気になれと言う。陽気になれないから、なったつもりで自分を欺き、幸せだと思い込む。天理教では他人軸で生きて行く事になる。
まずは自分が幸せになりましょう、とは天理教は言わない。そんな事言ってたら、自分の事にお金を使ってお金は上に上がって来ないから。
人の為にお金を捧げましょう。人を助けて我が身助かる。そう言われて騙されたのだが、蓋を開けてみたら本部は人の為に使っていなかった。本部の贅沢三昧など知る由もなかった。私が捧げたあのお金は何だったのか、、
還暦を過ぎて幸いにも気がついて、間に合ったセーフだったと胸を撫で下ろしているのですが、大切な事は人に流されず自分の軸をしっかり持つことですね。自分の人生の時間は自分の責任で生きる事です。天理教は今持って私の過ぎ去った60年の責任を取ってくれていません。
おはようございます。
匿名さん、おはようございます。
私自身は、息子が天理高校に在学している以上は、お父さんも、別席を運ぶ様に言われて、別席を運んでいますけど、それ以上はコミットメントはしていないのです。
私にとって、宗教とは、思想であり、行動する枠組み、規範になり、外的な物であり
信仰とは、個人的なものであり、内面的な努力であるのです。
オカルトと言われようと、21歳の時に、自己浄霊に成功して、28歳から今の、日本神霊学研究会の会員になり、自分自身を御守護神、 神に近づける生き方をして来たので・・
その段階で、天理教の布教師、教会長のお話を、何度聞いても、もはや何も入って来ない・・現行天理教に参加する意味を感じなかったのですが、息子が天理高校に行ったので、息子と話をするために、改めて天理教とは何であるか? と掘り下げて見てますが、一向によく分からないのが、本音です。
一歳歳上の教会長とお話していても、自分と言うものが見えない、教会長の内面的努力、生き方と言うのが、ほぼ出てこない・・神様はありがたい・・守護のお礼にお供えをする・・息子が継ぐのは当たり前・・
なぜ? 親神様なのか? 教えで自分の心は、どう変わって行くのか? そういう話が出てこないのに、外枠と言うか、規範だけを、行動にはめられる様で、私自身は、窮屈で嫌! と言う気持ちにしかならないんです。
教会長の自分と言う物が、見えて来ない理由が、判りませんでしたし、私が、内面的な努力について、突っ込んでも、ハッキリした説明もしない、理由が、判りませんでしたが・・
やっと、匿名さんから、聞かせていただけた様です、ありがとうございます、感謝いたします。
私は、そう言う話が、聞きたかったのです・・いつ? 誰かが具体的に答えてくれるだろうか? と期待しつつ書いておりました。 天理教者と私は、あまりに、根底の意識、考えがズレてる様なので、何がズレなのか? それすら最初は判らず、試行錯誤、模索をしていたのですが・・ここに来て、ようやっと、見えてきました。
中山家や本部が、脱線しても修正も出来ず、教義に無い人の上下が生まれて、修正も出来ない、本来人は、上に立つほど首を垂れる稲穂になるべきなのに、なれない理由が見えて来ました。
匿名さんの、コメントは、大変参考になります、ありがとうございます。
模索は、まだまだ続きます。
連投すみません
東風Z さんの叔母さんの場合、客観的に見ると・・
多額のお供えをする、寄進をする事により、教会長、教団から、褒めてもらえる・・
親神様もお喜びです! あなたの行いは、実に素晴らしい! 家族もあなたがいるから、幸せに生きられますね!
賛美してもらえる事で、自分の自己重要感が満たされると言う、構図だとも感じました。
もし、ただの父親が、ホストを商売にするなら、ホストに会いに来るお客さんと言うのは、褒められたい、認められたい、と言うのがあるので、最大限、お客様の、自己重要感を満たせる様に、努力しますよ。
良いところ、本人の認められたい、ツボを探って最大限、褒めて、褒めて、気持ちを満たしてあげます。 ホストだって、見た目では無く、そう言う事を学ば無ければ、トップには立てないと思いますよね。
歌舞伎町のスーパーホスト、テレビでも有名な、ローランドが、本を出しましたけど、ローランドの読むべき本と言うのが、有名な、デールカーネギーの人を動かす、なんです。
90年も前に書かれた、世界的ベストセラーですよ・・自己重要感について書いた、元祖です。
お供えをする事で、心が満たされる・・これも依存症ですよね?
本当は、神の愛で、心が満たされるべきなのが、宗教のメリットなのですが、ただのカモ、宗教側のメリットにされてしまってる・・これを、宗教側が、素晴らしい信者と言ったら、終わりです。
模索の一つです、まだまだいろいろ、考えが湧いて来ます・・・
おはようございます、匿名さんのコメントから、模索しています。
「自分が満たされてこそ、他人に手を差し伸べる事が出来る。天理教は人間の生まれながらの本質を知らなすぎます。欲を離せ?欲は人間の本質です。それを悪だと言う。」
その通りですよね、欲は、神が与えたものです、良い欲も、悪い欲もあります。 制御して、生きることが必要であり、宗教は、制御するべき欲を洗い出し、信仰は内面的に制御する努力を行う事ですよね。
「だから人として生きて無理が生じる。苦しむ事になる。この悪循環の中で自分が見えなくなる。自己肯定感も無くなる。卑屈になる。」
宗教は、自己肯定感を学ばせ、他者も肯定する事を教えるべきものですよね? 信仰は、自分を肯定し、自分の心を満たす、内面的な努力だと思います。
「金銭的に豊かになりたい欲、自分が一番大事と思う本質的欲を否定し、徹底して貧に落ちろと言う。自分より人を大切にせよと言う。それで陽気になれと言う。陽気になれないから、なったつもりで自分を欺き、幸せだと思い込む。天理教では他人軸で生きて行く事になる。」
私が感じた、違和感はこれかな? 内面的努力の勧めが無いように思ったんです。
原罪として自己否定から入ると、自我崩壊させて洗脳する手法にも通じます。
教会長の姿に自分の個と言う物が、影が薄い理由が、少し判りました・・
「まずは自分が幸せになりましょう、とは天理教は言わない。そんな事言ってたら、自分の事にお金を使ってお金は上に上がって来ないから。」
もう、教団側の目的が、信徒の精神的、経済的な幸せでは、無いようにも感じますよね?
宗教に参加するなら、心穏やかに、精神的な向上と、経済的に豊かになりたい・・そうなれば、喜んでお供えもできると思いますよね?
今の日本政府みたいですね・・国民から税金を絞りとって、老後も自助努力で生きろ!ってまさに国の土台を破壊する政策・・日本オワタ! です。
天理教も、教徒を、心豊かに、経済的にも豊かになる様に導いて、教団側は教徒を大事にしないといけないと思いますが、実際には人を大事にしてないようですね?
よく知りませんけども・・・
模索は続きます・・・・
2019年5月23日 11:50 PMの匿名 様
天の理は、お見通しなんて言われ続けて、一つ間違えば畜生道に落ちるなんて脅迫まがいの言葉を小学生の頃から聞かされ続けてきました。
これが天理教だったんですよ。よく目を覚まされました。私も遅ればせながら70歳を過ぎて目が覚めました。
もう、宗教は、コリゴリです。
こんにちは。 続けて失礼いたします。
「 天の理は、お見通しなんて言われ続けて、一つ間違えば畜生道に落ちるなんて脅迫まがいの言葉を小学生の頃から聞かされ続けてきました・・」
小学生から、脅迫まがいの、訳の分からない教えを、吹き込まれていた訳ですね?
畜生道と言う定義は、天理教には無いはずです・・
天の理は、神の理、教えであって、偉大なる支配者を指した言葉では無いはず・・
天理教の大人が勝手に、知恵でやってるだけですね? その自己制御がない訳ですよね?
子供にだって、内心の努力を導き、その努力は、天に通じるよって、必ず報われるって、言うなら、そんなトラウマにはならないですよね?
天理教には、内心の努力、精神的、精神性を向上させる努力と言う、信仰と言う部分が、失われていて、外からはめ込む、縛る、宗教の面ばかり、支配的であり、神の愛が無いと言う部分が、強調されたエピソードですね。
天理教は、本当は、そんな宗教では無いはずなのにね?
責任者、出てこーい! しばくぞ! って言うレベル・・
- 畜生の発する言葉は畜生道 - - 詐欺師の発する言葉は詐欺師道 -
若者の皆さん、上記のキーワードを忘れないで心に留めておいてください。「感謝 慎み たすけあい」は決して陽気暮らしのキーワードではありません。天理教上層部の贅沢暮らしのキーワードです。畜生の発する言葉、詐欺師の発する言葉を真に受けて天理教に関われば、自分の一生のみならず、他者の一生も台無しにしかねません。己が正しいと信じる人生を歩んでください。
東風Z様
5/23の匿名の者です。青春を返せ、時間を戻せ、お金を返せと言う悲鳴を多少なりとも生の声として聞いている昨今です。
お供えすれば助かる、今は分からなくても結構になる日が来る、、そう言って何の保証もないのに強制労働(ひのきしん)に駆り出し、使い捨てる。
100年祭の頃だったか、私の母はお供え金は勿論の事、お金の次に大事な物をお供えせよ、と上級に言われてお供え金と共に一番大事にしていた大切な大切な着物を泣く泣くお供えしました。上級が何処かに売ってお金にしたのか、どうしたのか知らないが。
上級の権力に屈しざるを得なかった両親を胸が潰れる思いで見ていました。愛情のかけらも温もりもない。冷酷非道な集団。精神をも破壊させかねない恐ろしい集団。
両親は共に他界しましたが、こんな天理教団の餌食になっていた事を知らず、泣きながらも心を鬼にして欲を離して多くの上納金を捧げた事を、疑う事なき「信仰」だと信じていた上での事でした。心をコントロールされ、精神を封じ込められ、ハイ、ハイ、とうつむき上級に刃向かう事を許されない。
疑う事を知らなかった、この苦しみが信仰だと信じ、本心を欺いていたのか喜んでいる様にも思えた。済んでしまった事だけれど、迂闊にも両親が信じた道。苦しかったろうが自ら信じた道と言うなら、悔いなし、と言うなら、それは娘としての絶望を伴った慰めなんです。天理教していて、苦しみの連鎖は私ら子供達、また孫達にまでに及び、良いことは一つも無かったと30代の孫達に釘を刺されて恨み節を聞かされています。しかしその狂った環境のお陰で彼らは物事を良く考える様になり、天理教がいかに間違っているかを冷静に判断出来る大人になりました。
上から下を押さえつける様な事をしていて、天理教が世の中に受け入れられる道理も種もありません。不幸な人を増やすだけなんです。
こんにちは。
匿名さんのコメントを読んでいて、実体験として、なんだか想像するだけで、恐ろしさ? しか感じません。
事実だとして、そういう関係性に置かれた人が、東風Zさんと言い、結構いらっしゃる、と言う事ですね・・
ここで読んでいて、その多くは、教会関係者であると言う事が判ります。
従属関係が、世代を超えて、継承されてしまっている訳ですね・・
通常なら、お金の次に大事な物をお供えせよ! なんて、それ脅迫ですか? 一緒に警察に行きましょう、と言うお話ですもん・・
そう言う関係性に万が一、自分は耐えられても、我が子に続くと思うなら、親としては、絶対逃走します。 我が子を守る必要がありますからね。 自分が奴隷でも、我が子は解放してやりたいと願うのは、当たり前でしょう。
うちの教会長も、教会を長男に継がせると言っていますし、私がそれは自由が無いね? 親としては、どうなの? と聞くと、大変、嫌な顔をされる・・「あなたは天理教の真髄を知らないだろうに 」と言う心の声が聞こえる・・
まあ、教会長は、社会学に、こんな事が書いてあったけど、どうなの? って聞くと、毎回、嫌な顔されて、ネットは悪意に満ちていますから、見ないで下さいって、言うんですけどね・・うちの教会長も、信仰3代目らしいですけど、きっと恵まれているんですね? 前回会った時、ご飯を奢ってくれました・・もしかして、それも供えからか? と思うと、ありがたくて涙が出ますね・・ 末端分教会長さんですけど。
正直、宗教のメリット以前の問題ですよね? その上下関係・・従属関係、抑圧された存在、十分に、天理教徒からの告発と言うルポルタージュ・・ドキュメンタリーです、本にできます・・回想録の告発本を書いて欲しいです。
天理教には、表と裏の二面性があり、次元が違い過ぎて、外から見ていてもサッパリ分からない・・おぢばに参拝する程度で、宗教として謳歌してる人、教会に通って、毎月5000円程度のお供えなら、痛くも痒くも無い人、天理教の教えを学んでるだけなら、別になんとも、問題無いと言えますよね。
一旦、組織と、そのヒエラルキーにはめ込まれて、そこで抑圧された人は、まったく違う事を言われる・・・それも様々であって、決して共通してる風でも無い・・
内部のことは、分からない、ただの父親にとっては、命綱をつけて、穴に潜って、潜入捜査をして見たくなりますね・・それは信仰心では無く、社会的な興味、政治的な活動の欲求ですけども・・・
K氏の、離脱ブログも、興味を持って読みましたけど、社会的な興味が湧きますね・・従属の心理とかも、興味が湧きます・・
天理教のメリットは・・組織の怖さ、組織の堕落、人の精神性の堕落、を学ぶ事もできる?
大変興味深い話です、聞かせていただき、ありがとうございます。
今も行われている殿様と家来の関係が組織内で継続している様です。病院の待合室で60歳前位の男性2人が、教会の不足をしていました。周囲に聞こえる声で話すので、思わず聞き耳を立ててしまったのですが、どうやら、天理教信者さんで、自分達は教会内で当てにしてもらえていないとか、おじばがどうとか、会長の不足なんかもしていました。住み込みさんかなとも思った。虐げられた立場にいる人の様にも思えました。だったらやめればいいのにと思って聞いていたのですが、逃げられない立場なのでしょうか。何も言えない身分で上に都合よく囲われているんでしょう。
教会が表向きをどう繕おうとも、どんなに威容を誇る大きな建築物で周囲を威圧していようと、公共の場で真実を話す人の口の戸は立てられないのですね。陽気暮らしをめざしている修養場所にいるには、どうしても幸せそうに見えない二人が暗いムードを漂わせていたその会話に、だいたいその所属分教会の目星がついた。そこの上の大教会が相当にひどい所なのです。部内教会の多くは、理不尽を疑う本心と表向きの大教会への忠誠心で、本心を偽ってパーフォマンスで振る舞いをしている様です。探りを入れると、言いよどみます。さらに聞き出すと重い口から出てくるのは、やっぱり不満、不足をしているんです。
上が怖いからと言う事と、神が怖いから(脅しの教理で押さえているから)と言う事とで、ある教会一家は嫁が逃げ出し離婚に及んでも気の毒にも大教会への忠誠を立てています。まあ、系統からは逃げれませんものね。
この系統ではなんか皆んな狂わされています。上は人殺しこそしないが、家庭、教会の経済が奪われ、精神が壊され、家庭が壊され、心の尊厳まで奪われて死に体の様になって不足していた病院で見た初老の男性二人なども一例です。必死にがむしゃらに、本心を抑えて、親に喜んでもらう。なんか変です。
これが罪なんだと言う実感を持たない大教会長や、最終的には本部。しかし本部は大教会のクレームへの指導からは手を引いていると本部員が言っていた。良きに計らえよか。何処もここも無責任団体。金しか興味のないこの大教会。教会本部。
これをいつまでものさばらす訳にはいかない気がします。悪魔ですね。
問題↑は元々は東本系統ですか。
「おまえたちはできていない。」と指摘することばかりを言い募る傾向がありますね。
教会長だけではなく一般信者も毒されているおさとし姿勢がこれでは拝聴している信者たちや部内教会関係者は心の中で反発することばかり。
できていないのは会長さん、君だろうに。
2019年5月23日 11:50 PMの匿名 様
>良いことは一つも無かったと30代の孫達に釘を刺されて恨み節を聞かされています。<
真面目に過ごしてきた人たちに、天理教は何を求めたのでしょう。
結構な今日があるのは、先祖の入信の元一日があるからだとか、あらゆる天理教用語を持ち出して、お供えに、ひのきしんにと心理的に追い打ちを掛けられて、日々苦悩される姿をお子様はじめお孫さんたちはシッカリと見ておられたと想像いたします。
かく言う私も同様でした。敷地が30坪の小さな家を購入してローンを払っていました。講社祭りの際に、教会関係者からこのような家に住めるのも先祖の入信のお陰だ。しっかりと御恩返しをしなければ徳の取り越しでとんでもないことになる、なんてお諭し(一種の脅迫)をされて、未信者の妻はクサッテいました。体が弱かった所為もあって酒やたばこも賭け事も遣らずに、一生を送ってきましたが、一事が万事、このような言い方をされては喜び心は生じませんでした。
子供や孫は勿論のこと、今では、親戚縁者でも天理教を信仰しているのは一人のみになってしまいました。
今のような天理教の在り方では信者さんが減少するのは必然の帰結ですよね。
こんにちは。
昔のコメントを読んでいても、だいたい同じ様な話が繰り返されていますね・・
ある信者さんのコメントに
「 今ままでのやり取りを興味深く拝見させて頂きました。
これは私が個人的に感じている事ですが、他者への批評によって自分自身の運命(いんねん)が切り替わるとは思えません。
親神様と直接一対一で向き合う事が天理教の信仰であり、それが「一れつ」の本当の意味なのだと思います。」
天理教の「 信仰 」 部分について触れているコメントを見つけました。
私個人は、天理教に 「 信仰 」と言うのを、見出せずにいます。
「信仰」とは、自分と向き合い、毎日、自分の心使いは、神の心にあっているか? 神の思召しに沿っているか? と言う反省模索であり、毎日の神への祈りの中で、神に導いてもらい、その愛を自分に頂きながら、自分から神に、一歩、一歩、近づいて行くものである・・と言う考えです。
外から、いろいろ支配的に要求されて、自分自身を封殺している姿は、私には、信仰には見えない、神を怖れる? お諭し? ご恩返し? 私の様な生き方を求める人間には、まったく馴染めず、その様な宗教に誘われても、心を動かされない訳です。
息子が天理高校に進んだのは、神の思召し、因縁だから、親のあなたも、天理教に向かうべきです。 息子が天理教にお世話になっているんです、親のあなたが、それは息子の選択の自由だとか? いけません・・あなたも、ようぼくを、目指して下さい・・その言い分は、わかるので、別席を運んで、お供えもしていますけども、まったく気持ちが馴染めない・・
私が、天理教について調べ出したら、お父さんは、天理教に切り替えてくれそうか? って子供に漏らしたらしいけど、私個人は、自分を型にはめるのは、大嫌いだし、人助け、社会貢献は、宗教とは別にしていますので、接点が見出せない・・天理教のメリットが、正直言って、まったく見つからない・・
ここに来て、メリットを分析するつもりが、デメリットのオンパレード・・・
外から与えられる価値観では無く、心の中から、喜べる気持ち、感謝の気持ち、愛・・そう言うものが、心の中から湧いてくる様な・・・神の愛に触れられて、自分が満たされる事が、実感できる様な、そう言う物を、宗教、信仰に求めていると・・現行天理教には、それが、強制的に押し付けられる印象です。
本当は、天理教は、そんな宗教でも、教えでもないと思うんですけども・・そんな印象を得てしまっています。
ごめんなさい・・
こんにちは。
逃げられない状態で、人格を壊され、手酷い虐待を受けている子供もいます。
常識のある人から見たら、もう、異常な状態な訳です。
親の親権など、剥奪して、子供を救うべきって、普通は思いますよね?
守らなければならない、社会的規範と言うのがあります。
基本的なルール、常識と、法律がある訳ですよ、法律は、みんなで守らなければならない、守らないと罰せられます。 ルールと常識は、罰せられなくても、社会の一員として、認められるためには、やはり、自主的に守るべきものです。
宗教における、教え、と言うのは、宗教人としての、自主的に守るべきルールみたいなものでしょうか? 教義とは、守らなければならない、宗教の法律、戒律でしょうか? 思想宗教は、外から枠をはめて、人を誘導していく事になりますね。
信仰とは、自分で自分を抑制して、自分で目標を目指して進んでいく、生き方でしょうかね? その目標とは、すなわち、神のお心に沿う生き方、神の姿そのものな訳です。
陽気暮らしを、行うための、社会規範、守るべきルールと言うのを、教えてくれるのが、教えであり、教義でしょうか?
陽気暮らしの心、品格を得るのは、個人的な、努力になるとは思います。
天理教の信者とか、教会関係における常識ってのは、どうも一般常識とは、違う様ですね、教えなのか、なんなのかわからない、ルールによって、抑圧され、それに従っているのは、一般人から見たら、異常でしかありませんし・・
人助けをせよ! 御恩報じをせよ! 伏せ込め! と言う強制だけが印象に残り、これが子供相手なら、精神的虐待だとすら、感じます。
それでいて、人格、品格を磨き上げる、個人的な努力、人としての優しさ、愛を磨き上げて行くための、自律的な行動、努力の部分がよく見えないんです。
私が未熟なせいか? 何が最後(だめ)の教えなのか、まだよく理解できません。
基本的な宗教のメリット、心の自由を得ること、未来への希望を得る事、心が満たされる事と言う項目に該当する部分が、よく見えません・・
教団の精神的指導者って、現在、誰なんでしょうね? 見えるんですか?
我が子が天理高校に学んでいる以上、卒業するまであと数年、静観するしかありませんけどね。
無事に卒業してくれますように・・・・
こんにちは、宗教のメリット、天理教のメリットとは何だろう?
素晴らしい教え、最高の教え、この教えってのは何だろう? と模索しています。
スピリチュアルの書籍を読んでいると、同じ流れ、同じ世界観なのが、よく見つかります。 地球における、異なる観測者から見て、同じ世界観を得ているというのは、重要であると思います。
神霊、心霊、大霊界世界の存在を、信じない事と、信じる事には、共通点があります。
自分自身の存在が、自由だと言うことです・・
人間は死んだら、生命活動はそこで一切、おしまい・・何も無くなる。
神は、いるかもしれないが、関係なく、自分の存在は消える・・
そう信じ切れるなら、この世は自由です。
どの様に生きようが、最後は消えて無くなる・・自分がこの世に残せる痕跡は、限られている、せめて後世に恨まれ無いように、生きてる間くらい、善行を積んで、社会を良くして行こう、と思うのも、自由ですし
好き勝手に生きて、破滅したって、それも自由です、洪水よ我の亡き後に来れ! ですね。
神とか、教理とかに縛られる必要も無い、そんな神など、存在しないって信じ切れるなら、誰かに因縁だとか、神の天罰とか、脅される事もない! 黙れ! 嘘つきめ!って一喝できます・・自分をしばる物は、社会的規範、常識以外には、存在しない・・
神の教えだとか、つまらない宗教の洗脳を受ける事も、避けられますよね。
徹底的にリアリストに生きる・・と言うのもありかもしれませんね。
どれだけ、心に愛を得ようと、向上しようと、消えてしまうんです。 愛が無くったって、向上しなくたって、同じことさ、ご苦労さん! って思ってりゃ良いんです。
教えを学び、思想を学び、それに合わせて生きる事も、それらを一切無視しても、最後は消えて無くなるなら、みんな好きに生きたら、良いんじゃ無いでしょうか?
と言う風に考える事ができますよね・・K氏はこう言う事が言いたい訳では無いでしょうが
無神論というのも、それはそれで、ありなのかな? とも思えますよね。
一方で、大霊界の存在を信じて、先を見通しながら生きるのも、心の自由を得る事になります。
この世は、助走期間の様な物である、物理的な制限もありますし、自分の自由にもならないけど、与えられた人生を精一杯、生きる事しか出来ないし、それで良いんです。
作られた神様に、惑わされる必要も無い、神が直接降臨して世界を変える事も、救う事も起きない、この世は、そう言う場所であると、ハッキリと自覚する事もできる。
この地球は、自分の魂と想念を成長させるための、助走期間だと考えて、肉体生命の終わりとともに、成長した一つの個として、エネルギー体と言う世界で、長々と生命活動が続いて行くと言う事を、事実として、信じきる生き方です。
自分の、想念、心と魂のエネルギー体としての生命活動は、永遠に続き、上にも、下にも、広大な世界が存在する事が、意識できるし、この世にありながら、周りには、姿の見えない、霊界の多くのエネルギー体が、自分の発する想い、エネルギーの波長に関与している事が理解できたら、自分が進むべき道も、生き方も見えて来ます。
これに気がつくのは、映画マトリックスに近いです、世界の構造に、一旦気がついて、見えてしまうと、もう後戻りはできません・・(笑)
そうなると、この世の価値観に惑わされる事も無いんですよね、自分の内面を大事にする事が、重要なんです。 自分の内面を磨き、人として、あるべき姿を求めて努力して行くだけです。 その道は神と言う、先達者が、導いてくださいます。
教理とか、教えと言う物に、自分を当てはめる必要も無ければ、誰か人の支配を受ける必要も無い、この世の身分の上下や、不条理に対しても、そんな事は重要では無く、変えられる事は、変える努力をして、変えられない事は、受け入れて行くしか無いのだと、冷静になれます。
人助けってのは、人として、社会の一員として、当たり前の行為に過ぎない・・
神の御恩に、特定の教団にお供えなど、必要ない、神は特定の教団だけに存在する事はない、もちろん、天罰や戒めも起こしはしない、人が人を支配するための神など、拒否できます。
自分の存在と心を、外から縛る物を拒否して、自由にしていられるのも、実際に存在する神への信仰と言う物だと思いますよね。
ここらで、天理教のメリットに参加するのは、おしまいにします。
また、そのうち別のスレッドで、始めるかも知れません、長々と書かさせて頂き、
ありがとうございました。
教祖様の教えは、素晴らしいって考えて、その教えの実践、教祖の歩んだ道を思って、自己研鑽をするのは、自分の内面的な努力です、あるべき信仰の姿だと思います。
天理教のメリットは、自分自身で、見つけるしか無いと思います。
教団や組織に振り回されず、教祖の教えを求め、理解して、自分を磨いて行く事に、きっと、メリットはあると信じます。
人助け、人助け、御恩報じ、伏せ込めと言うのが、心理的圧力に感じ、心に不安を持つ様なら、それは人にやらされている宗教ですよね、信仰とは、外から圧力を受ける物では無く、自発的に求める物です。
教団に参加していて、心から喜べ無いならば、何か間違っていますし、それが自分の責任なのか、思い違いなのか? 教団のあり方に間違いがあるのか? 指導者が間違っているのか?
それを自分で考えて、ハッキリさせる事も、信仰だと思います。
天理教に参加していて、自分は心が満たされるって、心から思えるなら、それで良いでしょうし
ちょっとでも、苦しいと、気持ちが引っかかるなら、そこを解消すべきだとも思います。
教団を変えて行くのも、参加をやめるのも、信者の自由だと思います。
ありがとうございます、感謝いたします。
私が知りたいのは、現行天理教の教義が教祖の教えられたとおりの内容なのかという、ただ、その一点です。
この疑問に答えてくれた教会関係者は誰一人も居ませんでした。
疑問を投げかけても、あなたには、喜び心が無いから、そのような心が芽生えるんだと答えるだけでした。こんなの答えにもならない答えでしかありません。
6年余前に、天高二部同窓生で天理大学を卒業した知人から聞いた言葉は、今の天理教は天理教ではなく、中山教だと。
知らない事実を次々と聞くうちに本部が説く教えに疑問が膨らむばかりでした。
ですから、信仰することにより、心の自由を得る、なんていうのは考えも及ばない事でした。
心ひとつが我がの理なんて御大層なことを説いているが、やっていることは似非教理によって身も心もがんじがらめに縛り付けている事実でしかありません。
教団が教祖の教え通りの教義を披歴することによって、信者さんたちが心の自由を得ることが出来るのかは、本部の在り方次第でしょう。
おはようございます。
東風Z さん、こんにちは、本来、信仰は自発的な気持ちで行う物で、人にやらされる物では無いと、私個人は思っています。
歴史ある天理教には、生まれつき、宗教組織に組み込まれている人も多いので、そこが見えないのでしょうか?
ただの父親、自身、生まれつき霊友会の支部長子息、つまり、教会子弟の様な存在でしたが、霊友会は組織的縛りが無く、霊友会の高校も頭が悪いから合格出来ず (笑) 地元を離れた時点で、さようなら〜 でした。
霊友会はサークル宗教なので、個性の強い変わった人間は、団体に居場所が無くなります。
21歳の時、悩み苦しみから、今の道に入りましたけど、著書を読んで、読者信者になり、28歳の時、自分で申込んで、入会しましたが、以来一切、団体行動は無く、30歳から40歳までの10年間、200万近くを使って、他者浄霊能力の研修、神霊能力の研修を受けていますけど、それ以外、一切関わる事も無く、信者同士の付き合いも無いので、ひたすら毎日、自分と神様だけであり、他者浄霊を行い、興味を持った人には、本部を紹介するだけなので、あとは、個人で信仰の道を歩んでくださいと言う、孤独な信仰、言い換えれば、煩わしい事が何もないんです。
私は、だから、霊友会か分派しようが衰退しようが、一切気にしない。 最近、昔の霊友会の友人が、寄ってくれたので、人付き合いの観点から、たまには集いに出て、昔お世話になった方に、挨拶くらいはしておくか? 何しろ、商売人でもあるから、自分の商圏の人にはいい顔見せておこうと言う、人間的都合だけです。
本来は、天理教だって、嫌だなって思ったら、さっさと離れて、どうでもいい存在にして、一般社会で暮らして行けたら、こんな、恨み事、愚痴、不平不満を、延々とコメントする必要はないのに、延々と、恨み言、恨みのこもった批判が続くのは、ある意味、近親憎悪ですよね。
切れない身内への、近親憎悪の様な印象を持ち得ますし、実際、信仰 2代、3代の方の意見なのだと感じます。
生きる上で、教え、と言う絶対的な存在は、本当は存在しないと思います。本当のみき様教えが伝わっていないなら、そんな天理教を捨てたって、実際、人生困らないし、導いてくれる神様は、他にも見えます。
いいお話なら、斎藤一人さんだって、本当に心が救われると思います。
何を(教え)にして、自分を磨くかは、自分次第だとも思います。
恨み言が湧いて来る様な、そんな存在は、放置して、自分の道は自分で探したら良いですよね?
教えとか教義とか、組織に縛られず、心の自由を得て、陽気暮らしの本当の姿とはなんであるのか、教祖の想い、教えとはなんであるのか、模索しながら自己研鑽を積んで、神の理を、心に納めて行く努力をして、生きた方が、きっと楽しいと思います・・
神様は、楽しくないことは、それは間違っていると言う事を教えてくれているんだと思います。
お供えが、つらいなら、やめましょう・・人助けが、しんどいなら、一旦自分を見つめなおしましょう。
神様は、つらい事を、あなたに求めたりしないと言う風に、考えた方が、正解に近いと思います。
長々と失礼いたしました、ありがとうございます、感謝いたします。