皆にやさしい天理教の思考力低下


来月には衆院選が控えている。ただでさえ師走はせわしないが、日本国中がバタバタした年末になる。私は政治的な発言はあまり好きではないし専門家でもない。そのためできるだけブログで政治的な発言をすることを控えている。ただ、どうしても今の時期にブログを更新しようとすると天理教と政治に関して考えることからは逃げられない。天理教はどのように政治を考えているのかということである。

天理教にも政治は存在する。私の知る限り、組織の内部にある権力闘争や理の親に対する承認欲求競争などは実際に見てきた。しかし、政治的動きではなくリアルな政治との付き合い方や投票行動を天理教としてどのように考えるかは天理教の今後を考えるうえで検討に値すると考える。

例えば某学界では、宗教団体と政治の距離に関してたびたびネガティブな意味で注目をあびている。私は某学界については詳しくない。しかし選挙のたびに職場のスタッフに某学界と関連の強い特定の政党に投票するように依頼されたことがある人は少なくないのではないかと思う。そう考えたときに、天理教から政治活動を強制されたり、依頼されたことはない。これに関しては、天理教の社会的信用に対する一定の評価ができると思う。

しかし非常に狭い経験からの発言で申し訳ないが、天理教は政治に関して無関心すぎるのではないかと私は思う。無関心というのは、各々の天理教人が政治に対して無関心と言っているのではない。天理教という組織が、政治に対して距離を置きすぎていたり、一定の方向性をまとめようとしない傾向が強い。つまり組織として政治に無関心すぎるのではないかと思う。
私は、これまでに天理教が政治に介入しない姿勢を支持してきた。しかし政治や今後の日本に関して天理教人と話をしても、天理教人から聞けるのは“天理教らしさ”ではなく、テレビからの情報を鵜呑みにした実態のない言葉遊びでしかない。

宗教団体が政治的オピニオンを持つという距離感やバランス感覚は、非常に難しいことは承知している。しかし、少なくとも「陽気ぐらし」を掲げて活動している天理教が、弱者を貶めるような政策に声をあげないのは、「陽気ぐらしなんて口先だけで、やる気がない」と思われても仕方ないのではないだろうか。例えば、民主党政権になって生活保護の国家予算に占める割合は増加の一途をたどっている。そして自民党や維新の会は、次期衆院選のマニフェストで生活保護の削減を検討している(現在マニフェスト作成中のため未確定)との情報もある。生活保護は憲法に保障されている「健康的で文化的な最低限度の生活」(憲法25条)のためのものである。これが削減されることは弱者の生活が厳しくなるということである。

押し付けるつもりはないが、天理教人には「生活保護の削減をしない場合、増大する社会保障財源はどこから持ってくるのか」という包括的議論まで求めない。それは政治家の仕事である。しかし「生活保護を削減したら、生活できない人が増え、高齢者の自殺が増えるかもしれないから反対だ」くらい組織として声を上げてもいいのではないだろうか。これでさえも共産的でNGだろうか。原発に関しても、過去にブログで紹介したように天理教以外の各宗教団体は伝統宗教、新興宗教問わずに、脱(反)原発の意見を組織として表明しているところが多い。私は宗教組織として一つの事柄に意見表明するリスクを危惧したが、逆に言えば組織として意見表明できるほどの組織力や統率力があるとも言える。中には組織は脱原発の表明をしたが、個人では原発を賛成している人もいると思う。しかし、意見表明をすることで議論が生まれ、問題意識を共有して発展していけると私は思う。

天理教のシンクタンクである「天理やまと文化会議」がある。ここでは専門家たちが時事トピックに関して議論しているとある。出席したことのある天理教人の何人かに話を聞くと、そこでは議論というよりも、専門家を招いて「はい、大変勉強になりました」という議論とは名ばかりの学部生の講義程度しかないようだ。天理時報10/28号の「視点」ではiPS細胞の生命倫理に関して「天理やまと文化会議では、このiPS細胞と生命倫理問題に関して、すでに2007年12月から計12回の討議を重ねてきている」http://doyusha.jp/doyu/top/?page_id=14223とあるが、「5年間で12回だけ?それだけで超難問を議論したと言い切れるの?じゃあ結論はどうなの?議事録を公開してよ」という疑問を持った人は少なくないだろう。結論はやはり「この革新的な技術進歩によって生命が資源化、道具化、商業化される可能性がより現実味を帯びてくるだけに、iPS細胞が内包する倫理的問題を教理面からも掘り下げていく必要性が増している」と「12回も議論して、まだ掘り下げてないんかい」とツッコミたくなる結論である。

社会的問題に関して、今の天理教は「何も主張しなければ批判されることはない」という姿勢に私は感じられる。それは、社会構成員として無責任ではなかろうか。それでは社会にとって天理教の存在意義はない。各地で頑張っている天理教人や教会は天理教の名を冠する必要はなくNPOやボランティアサークルで十分となってしまう。組織として社会に対して問題提起やAdvocateしないということは、社会的組織として責任を放棄していると思われても反論できない。また問題提起をしないことは、天理教構成員の思考する機会を奪っていることに繋がる。「事なかれ主義」と聞いて天理教が一番最初に脳裏に浮かんできた私の意見である。

tenrikyosyakaigakulavo@hotmail.co.jp

皆にやさしい天理教の思考力低下」への7件のフィードバック

  1. 匿名

    1. 教内も同じ
    天理教人の政治オンチは教内でも同じです。
    大教会長のいうとおり右へならえの風見鶏。ハイハイの理でおとなしくしたがう。
    こんな状態だから現実の政治問題でも教理の言葉で説明できないのです。
    改革は内からできていないとこの先まったく期待できません。
    大教会長一家の世襲制を廃止して、大教会長は分教会長の中から選挙で選ぶぐらいにしないと、天理教は世の中からどんどんおくれてしまいます。
    私は天理教の封建制度は大嫌いです。

  2. 匿名

    2. 2つの現実
    しょせん的外れしかいえないのだから、言わないほうがまし、とついつい思う。でも、的外れをいっても何の批判も受けない、社会から相手にされていないのは、もっと厳しい現実。結局何も言っても自己満足の無責任。

  3. 匿名

    3. 勘違い
    柏木庫治先生は素晴らしい大好きな先生ですが、先生の話が今の天理教を駄目にしている面もあるように思います。
    先生の話は先生の悟りであって、教理ではありません。
    それが真実の教理かのように、無条件で理の親に従うのが素直で素晴らしい信仰者であるように説く「親」と呼ばれる人が沢山、出現してしまいました。
    今は、勘違いした親の教理のように思います。

  4. 匿名

    4. Re:勘違い
    >1sinjyaさん
    御存知の通り、柏木先生は、選挙に勝って国会議員になりました。天理教の集会議員を経て、教庁の内局に入り、集会の教会本部の本部員にもなりました。親に対する信仰は、決して没社会的ではなかった、ちょっと斜めに見れば、説いていることと、やっていることは必ずしも一致していませんが、バランスはあったように思います。でも、しかし、心の問題が重んじられるにつれ(教典がそうですから)、バランスは大きく崩れました。心のこと、内向きのことしか見ない、見れないように仕向けられているからにほかなりません。

  5. 匿名

    5. 無題
    天理教信者の家庭に生まれ育ちましたが、最近は信仰に対し、うんざりしてます。親に無理やり押しつけられ、何をするにも教理を押し通されて育ってきた私は本当に不幸だと思っております。無宗派の家庭に生まれていればこんな苦痛はないのにと思っております。私は共産主義的な思想ではありませんが、『宗教は麻薬』だと思います。天理教信者だけでなく、あらゆる宗教の家庭で育ってきた方々の中には、私のような被害者がかなり存在すると思います。宗教は撲滅してほしいと思いますし、願わくば全ての宗教法人に企業と同様に課税してほしいです。

  6. 匿名

    6. 宗教法人にも課税を
    >shioさん
     末端の天理教で生まれましたが、現在は信仰しておりません。信仰しない自由と権利があることの認識を、信仰者は学ぶべきです。
     無知、無教養な方が多くて、話す気にもなれず、相手にしていません。
     天理教にも課税があり、お供えに領収書があれば、訴えることもできるであろうが、泣き寝入りです。かろうじて天理教を離れたことだけが、幸いです。今も苦しんでいる方がいらっしゃるでしょう。脅しや脅迫で、私のように精神を病んだ方もいるでしょう。
     天理教被害者の会が消されました。カインさんのブログを読んで心の慰めにしております。

  7. 匿名

    先ず、本部上層部が、やさしい心になる事 人をたすける事 癖性分をとる事 以上。

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