体罰と組織の開放性について

大阪市立桜宮高校の体罰について思うこと。テレビ以外での出版物を読む限り(テレビはあまり見ないので)、この体罰を多くの識者が論じている。体罰容認派、橋本市長の対応の是非、教育現場での公権力の介入批判、桑田論などさまざまである。私は基本的に、教育行政に関しては外部がとやかく言うべきではないというスタンスなので個別事象については論じない。
しかし、せっかくなので今回は体罰を巡っての構造論的な視点や、天理教的視点で考察したいと思う。お正月に天理教の教会にいった感想は次回にする。

体罰の構造について多く論じられているのが「ブラック企業」との類似点である。ブラック企業とは、近年社会問題の一つであり、低賃金で過剰な労働力を強制的に搾取する企業のことである。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%AF%E4%BC%81%E6%A5%AD
現代では非正規雇用が増加し、正規雇用として就業できれば幸せな時代である。企業としては多少劣悪な就業環境だろうが、求人を出すと応募が殺到する現状がある。つまり企業は、最も高いコストである人件費や福利厚生を叩けるだけ叩けるのである。「これができないなら、仕事やめちまえ!お前の替わりなんていくらでもいるんだ!」ということである。従業員としては、せっかく掴んだ正規雇用を失うくらいなら多少の我慢は致し方ないとなってしまう。

体罰との類似点について山本直人は「思考停止と慣例服従」と言っている。http://www.naotoyamamoto.jp/blog/archives/2013/01/post-128.html

体罰もブラック企業も、大きな共通点は「その環境が当たり前」と思う/思わされるということであると私は感じている。山本の言うように「密室で」、「絶対に仕返しをされない」という条件が整うことで、それは容易におこなわれる。ブラック企業であれば、それは「顧客のため」「売上のため」と言われ、体罰では「勝利のために」「成長のため」とすり替えられて脅迫される。

ちょっと遅くなってしまったが、私は体罰については嫌悪する立場である。吐き気がする。私も一応学生時代は体育会に所属しており、今思うと非科学的精神論も体罰も経験した。その感想は桑田論に概ね賛同する。http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130112-00000005-jct-soci

私は涙ながらの教育論だろうが、勝利に導くためのAll for oneだろうが、上記に挙げた条件が揃う延長線上には、そのまま児童虐待やDV、そこまでいかなくとも女性に対する威圧などに結びつくことを実感しているからである。これは人文学系の人間として最も譲れないところでもある。理論ではなく実感である。

「お前のことを心配するがあまり、手をあげたんだ」という涙のつきのセリフはDV男の常套文句である。児童虐待の裁判にも同席したことがあるが、体罰か躾かという線引きは大変難しいものである。ちなみに児童虐待防止法以前までは体罰を規定するものがなく、暴行罪しか罪に問えない。虐待防止法があっても「躾のためにやった」という親の言葉に反証するのは非常に難しいのである。

個人的には「いい先生」であっても体罰を容認することは決していけない。それは指導者としての敗北である。確かに体罰が容認されていた時代もあったが、現代ではそれは通用しない。時代遅れで淘汰されるべきものであろうし、実際に淘汰が進んでいる。

ここまで読まれて、天理教人の読者は私がどこに繋げたいのか察していると思う。私は常々天理教の組織を思考制止と時代遅れの布教実践を批判している。山本がいう「思考停止と慣例服従」と同じである。私が聞いた天理教人からの伝聞情報や、読者から送っていただいた視聴覚情報の中で、天理教組織内では体罰のような身体的外傷は存在しない。しかし教義に補強された上下関係の中で脅迫ともとれる圧迫説教が「理」や「親の思い」に変換され、資金集めや後継者育成がおこなわれていることを示すメールを送ってもらったり、私の体験でも存在する。これらは法律的に違法ではない。しかし、天理教が「陽気暮らし」という公共の利益を目指して信者を獲得しようとしていることを考えれば、天理教の中身をより多くの人に開示するべきだと思う。

例えば、各教会や大教会からの資金の流れや天理教本部の職員の給与体系、天理教人の子供の奨学金の大教会長(直属教会長)の許可に関する不透明性と進路の強制性、天理教関連高校で毎年新入生に行われるヤマギシの特講やヨットスクールのスパルタを想起させるような規律訓練といわれるものである。これらは実際に私が見て違和感を持ったことであり、これを天理教人に話すと多くの天理教人が同様の体験をしている。ただ天理教人は何故かは分からないが、自分たちの組織に関しては「まぁそういうこともあるなー」と牧歌的で私は非常に嫌悪感を持ったことを覚えている。陽気暮らしを目指す天理教人が、自分の所属する組織においては上記の不透明性や権力の偏在に関しては問題意識を持たないこことは、桜宮高校で皆がみている体育館で公然と体罰がおこなわれていたのに声をあげずに黙認した他の教員と同じである。天理教人に大阪の体罰を糾弾する資格はあるのだろうか。

組織の中身に関しての情報は出す必要性がないから出さないというのは、天理教の開放性に疑問を持たざるを得ない。天理教が今後、本当に陽気ぐらしをしたいのであれば、やってることを皆に見てもらえればいいだけである。例えば毎年春に天理教関連の高校にいくと、新入生たちの異常な従順性を垣間みることができる。

tenrikyosyakaigakulavo@hotmail.co.jp

 

体罰と組織の開放性について」への3件のフィードバック

  1. 匿名

    1. 自我の抑圧
    興味深く拝見しました。
    青年会はまじめに、夏の子供おじばがえりの時には楽しそうに「連続歩調」と掛け声懸けて歩いています。もともと軍隊の行進方法だと知らないのでしょう。「一手ひとつ」なのか、軍隊式の規律なのか。なぜ、それが天理教内で当たり前のように行われるのか。知らずにやっている=みなにやさしい天理教の思考力の低下(「牧歌的」)、の産物の一つです。発想はいまだに戦争中ですよ。

  2. 匿名

    2. 無題
    私は、父の手術代の工面のため、父名義の教会の屋敷、土地を売った者です。
    天理教は、恐ろしいところですね。
    脅し、脅迫、「売るな!売るな!」
    「お金の心配はするな!神様が与えてくださる」
    大教会の馬鹿会長は、話にならぬほどアホでした。
    カインさんのブログが、理論的に説明しているので、心の整理ができます。どうかこのまま続けてください。

  3. 道の迷い子

    「わしが出してやる」、とは言わなかったのですか?その馬鹿会長様は。

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