自殺対策における宗教の役割

先週末に自殺に関しての小さなのシンポジウムに参加してきた。そこには社会学の学者や学生の集まりでクローズドであった。中にはこれまで国の自殺予防対策に関わっていた心理学者や、行政官、NPO役員もいた。そのシンポでは、例年3万人を超える自殺者を予防するために何が必要かということを話し合う。どちらかと言うと「寄り添うことが大事」というような一般論的教説ではなく、国の施策の統計的効果測定や新しい試みを話し合ったりする刺激的なシンポであった。参加する前は、自殺という重いテーマで、効果測定なんて難題であり、沈鬱な気分であった。しかし先月、驚きのニュースが飛び込んできた。警察庁が、今年の自殺数が3万人を(大きく)下回ると予測したのだ。

これまで、自殺対策の大きな目標は3万人を下回ることであったが、それがいつの間にか達成されたのである。シンポでは、なぜ3万人を下回ったのかという検証が話し合われた。行政官は行政の取り組みの成果を強調したが、社会学では国の自殺対策に懐疑的な論調は多い。つまり、社会学的に自殺という事象は、複合的課題であり一側面的取り組みから効果を挙げることが不可能と見る研究者が多い。たとえば、経済状況(失業率)との相関や自殺直前はうつ病の状態だから精神医療に繋げなければいけないと論じられることが多いが、それらは全て一側面にすぎない。国や地域、年代によって、相関関係の要因の重みはバラバラである。では、側面ではなく正面にあるポイントは何かということである。正面は、自殺する人は援助を避け、死から逃れられない者であるということである。断定はできないが、どれだけ寄り添って監視しようが、経済状況が悪化しようが、自殺しようと思った人を止めるのは難しい。厳しい見方をすれば国の施策があり、熱意があったとしても、自殺直前の人間を追いかけたところで、自殺を思い立った人間は支援から逃げる傾向がある。病院に通院していようとも、友人の抑制で一時的に思い留まったとしても、自殺する人は止められない。それが自殺防止に莫大な金銭的、人的投資してきても自殺が減少しなかった日本の現実であったことから目を背けてはいけない。数分単位で警察官が見回りをしていたのに、留置場で重大事件の容疑者が自殺したことも記憶に新しい。ここまで言うと、私は自殺容認主義者のように思われるかもしれないが、決してそんなことはない。側面的支援は絶対ではないが、必要だと思っている。シンポの結語として、自殺対策が一段落したために自殺者が減少したというパラドックスを確認する必要があり、今年度の結果で決して楽観はできないということであった。

そんなことより私が今回強調したいことは、そのシンポにおいて紹介された宗教の機能である。特に仏教関係では自殺予防や自殺防止活動がミクロとマクロの両方で取り組まれている。一番驚いたのが、宗教や宗派を超えて活動しており、またその内容も自殺予防から、自殺者の追悼、遺族のケアなど包括的であった。いくつかの冊子やポスターなどをスライドで見せてもらったが、まさしく行政の手の届かないところ(時間と手間がかかる)に手が届くような取り組みばかりであった。

宗教の社会学的機能として、人と人を繋げたり、コミュニティを形成するバインド機能というものがある。それらは仏教だけでなく、天理教にも存在すると思う。天理教でも自殺予防の取り組みをしていると思うが、こういった宗教の試みはなかなか表には出てこないが、とても大切なことだと感じられた。前段の例でいえば、自殺を思い立った人間を止められないのであれば、自殺を思わせないようにという試みになる。東北の震災でも、多くの宗教団体が現地にはいって活動をした。中には、ここぞとばかりに被災者を布教するような団体もあったようだが、宗教団体しかできない役割も十分にあると感じられた(鎮魂や崩壊した地域コミュニティを代替した宗派コミュニティ)。地域コミュニティのバインド機能が低下する中で、宗教が作ってきたコミュニティがバインドとして機能することは正面的支援になりうる可能性があると感じた一日であった。大きな不安が取り巻く世の中で「あそこに行けばなんとかなる」という安心感が宗教にあることは、人間にとって宗教とは根源的に必要性であると思う。

tenrikyosyakaigakulavo@hotmail.co.jp

自殺対策における宗教の役割」への5件のフィードバック

  1. 匿名

    1. 社会の動きについていけない天理教
    2月24日付の天理時報に、布教部長中田善亮氏の「ひのきしんデー」に向けての談話が載っている。その中で「周囲の人が難儀しているのに気づかない」云々と述べたすぐ後で、「おたすけの内容にしても、大きな身上を抱えた人のおたすけから、日常のこまやかな声かけまで」と述べている。この人の頭の中には、現代の日本社会に生きる人々が今何に悩んでいるのかということに対して、理解しようとする姿勢がないように思われる。旧態依然の身上助けが「おたすけ」だと思っている。
    教祖のおたすけの中に病助けがあったとしてもそれは、本質的な助けへのとっかかりにすぎなかったという。本質的な助けとは、この世界を作った神の教え、この世の真理を個々の人間に伝えることであった。
    今の社会を神の教えを道具として分析し、真理の世界への方向性を示すことが真のおたすけである。そのためには、今の社会の現状を学び、その病の根源を解き明かす努力が必要であろう。
    そのような姿勢は、布教部長の発言の中には微塵も感じられない。
    少なくともキリスト教や仏教がどのような動きをしているか程度は、勉強すべきであろう。

  2. 匿名

    2. Re:社会の動きについていけない天理教
    >山田太郎さん
    もう天理教では世界の救済は無理です。そんな意識を持った本部の先生は見当りません。まず本部が変わらなければなりませんが、リーダーとなるべき人も見当りません。残念です。

  3. 匿名

     警察でも自殺が多い。しかし、その事について、原因も改善案も、何も世間に公表されることは無いだろう。
    天理教組織でも、教会関係者の自殺は、あってはならないこと、ありうべざること、目を背けるしかない。
    なぜそのようなことが起こったのか、本部の意識はそこに向かず、只、隠蔽することのみにしか向かない。
     天理教も、組織の悪しき弊害を背負ったまま、改善するだけの柔軟性も無い、人間の尊厳というものを忘れた、日本の多くの組織の一つに過ぎない。

  4. 親神に守られたコミューン

    >宗教が作ってきたコミュニティがバインドとして機能することは正面的支援になりうる可能性があると感じた一日であった。大きな不安が取り巻く世の中で「あそこに行けばなんとかなる」という安心感が宗教にあることは、人間にとって宗教とは根源的に必要性であると思う。

    神への感謝を深めながら、たすけ合って生活してゆくのが教祖が勧めた講というものではないのか?

    お上より横暴な上層部が講のたすけ合い機能を経済的に圧迫しているならば、憂慮すべきことだし。本部のリストラや階層構造改革もされるべき事ではあるのだろが、

    現場で純粋に講とその機能をまっとうしようとした人達の子孫が、自身を追い詰める程苦悩されて、講としてのたすけ合い機能を害しているのなら。本部そのものがたすけ一条として機能していない事の反映なのだから、本部人事の抜本的改革、これまでと違うチャンネルからの本部員登用が必要なのではないか?

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