天理教人の甘えの構造

先週2人の天理教人と話たが、揃って口にするのはコンクラーベが羨ましいということであった。ほぼ世襲制を採用している天理教では、その構成員が世襲制に大きな不満をもっているということであろう。社会学的な見方をすると、世襲制は差別(階層)と密接な関連にある。上から見ると、直線的な伝達ができるものの、下から見るとどれほど頑張っても身分が低位固定される無力感となる。意識的にも、無意識的にも、その延長には上位者による操作や、抑圧が生まれることは歴史が証明している。「おらぁ俺の言うこと聞かんかい」というように。差別までいかなくとも、天理教のヒエラルキーにコミットする権力者は、その階層に甘えている節が多々見られる。特に理の親という権力者の組織に対する甘えは、構成員の不満として燻っている。
私見でも、天理教の権力者の言動は、企業におけるメンタリングとはほど遠い甘えの姿勢が強い。それらは修行の身である青年や信者に対する「伏せ込み」「理立て」「修行」「たんのう」という言葉に置き換えられる。しかし、常識的な思考をするほど、それらの言動は組織に甘えた結果の操作であることに気付く。会長と言われる人間と話せば、彼らが信者たちに対して「俺が言えば言うことを聞く」という傲慢さに気付くだろう。

今回、そのような事例の一端を偶然私が感じることができたので提示したい。

ある日、携帯を見ると知らない番号から数件の着信が入っていた。私は私用電話では知らない番号からの電話は出ない。着信履歴があっても留守番電話には録音されていないから、ほっておいた。しばらくすると1通のメールが入った。内容は顔も知らない(覚えていない)天理教人F氏から突然の仕事の依頼であった。〇〇大教会の〇〇ですがという簡単な自己紹介があったが、私は顔も知らない(覚えていない)。〇〇大教会の名前は聞いたことがある程度。青年会で企画していることがあり、それに対して協力してほしいという依頼であった。馴れ馴れしい文面と協力して当然でしょうという文脈にも唖然としたが、それよりも人間関係が形成していない段階で、勝手にメールで仕事の依頼を寄越されたことにーF氏に連絡先を勝手に教えた人物にー怒りが沸いてきた。これまでも、住所を教えていないのに我が家に天理時報や配布物が届くことがあったりしたが、過去に住所を教えていたり、いずれも調べようとしたら調べられる範囲であるので特にクレームは入れなかった。しかし今回は、面識もない天理教人から突然依頼がくるとは思わなかった。私の知り合いで〇〇大教会の人間は2人だけだったので、可能性が高い方のY会長に電話で問い合わせるとビンゴであった。

私  <面識もないF氏という人物から連絡があったのですが>
Y氏 「ああ、カインの連絡先を教えてくれと言われたから教えたよ」
私  <それは当である私の了解がいるのではないでしょうか。
本人の了解なく連絡先を教えるのは社会人としていかがなものでしょうか>
Y氏 「そう言われればそうかな。でもF氏は悪い人ではないし、
ひのきしんのことだからいいでしょう。協力してやってよ。」
私  <それは私が判断することではないでしょうか>
Y氏 「そんな難しいこと言わんと、頼みますわ」
私  <お断りします。社会ルールの筋を通してください。
面識もないので、私は業務としてF氏の依頼を迷惑メールとして判断し返信もしません。    Y氏からF氏に対する説明と謝罪を要求します>
Y氏 「・・・・。分かった。」

以上が電話でのやり取りである。私が非常に気難しい人物なのか、神の御用なら何をやっても大丈夫だろうというY氏の甘えなのかの判断は読者に委ねる。ちなみに後にF氏から「忙しいと聞きました。残念です」とメールが来た。どうやらY氏からF氏に説明と謝罪はなく、自分のミスからの保身のため「カインは忙しいから無理だって」という適当な言い訳をしたのであろう。
これまでもいくつか天理教人から仕事の依頼があったが、ほとんどがカインは天理教のことを分かっているから(神の御用なら協力すべきことは理解しているから)という、自民族中心主義的な強引さがあったことは記憶している。天理教人が対外的に優しいのは、「後々無理を言っても恩を売っておいたから俺の言うことは聞くべきだろう」という恩着せがましい状態にもっていく場合もあることは天理教と付き合う上で忘れてはいけないと思う。詐欺の手口と似ているとさえ感じる。理の親制度とは、子の存在は、存在する時点でそれは親の成果であり、子は親の言うことを無条件で甘受して当然であろうという関係を作る。ヤクザ思想といっても過言ではない。
私が常々、天理教というヒエラルキーにコミットすると苦労すると主張していることの一端が示せれたのではないかと思う。これから天理教にコミットする人は、本当に気をつけないといけない。天理教の組織に入ることは社会人としての基本的な尊厳と寛容さを喪失し、権力の強引さと神への勘違いに振り回される危険性に気をつけてほしい。

今回の出来事は一人の天理教人の行動であり、全員が社会性を逸脱しているわけではない。しかし、少なからずとも天理教全体にY氏の振る舞いのような甘えの構造があることは強調したい。

参考文献
土居健郎「甘えの構造」

tenrikyosyakaigakulavo@hotmail.co.jp

天理教人の甘えの構造」への6件のフィードバック

  1. 匿名

    1. 教理に反する組織制度が持続している不思議
    カインさんの社会学的分析と同じテーマを、私は同じ日に教理の面からブログで発信したのですが、時代錯誤の制度が今も続いている世にも不思議な組織が天理教団です。その意味でも、貴重な社会学の研究対象になるかも知れません。

  2. 匿名

    2. しきたり
    当事者などもう一人も生きてはいない。生き残っているのは、『神』を畏れよというしきたりと、その上で保たれてきた天理教組織との共生関係だ。個人の力では変えられないし、変えようとする気すら起こさせない。どんな組織でも起こることだ。が、かと言って維持存続の本能に呑み込まれた歯車を悪と断ずることもできない。

  3. 匿名

    3. 甘えにはつきあえない
    残念ながら天理教のような時代遅れの組織体制(タテ系列の教会制度)では、世界だすけなど無理。自分たちだけで仲良くやってろ、と言いたいところだが、その人たちを養う末端の負担もばかにならない。あきれてドンドン人々が去っていく。天理教人の甘えにはつきあえない。教勢衰退するのも当然です。

  4. 匿名

     甘えの構造、その最たるものが、天理教の会長という人種は、人の財布をあてにするという、世にもずうずうしい人種である、ということだ。一般常識では恥ずかしい事が平気なのだ。「徳を積ませて頂きましょう。」の一言で、金を手に入れようとする。金で徳が買える、と信者に教え込み、金を吐き出させる、でたらめも平気で言う人達である。

  5. 匿名

    全ての批判と問題提起に答えるべき、親なる神の代弁者達がお地場に現れるところからやり直しですね。
    今の中山家ご一統の心中の砂上の楼閣のとりこぼちは、本当のお道が再浮上してくる前触れでしょう。
    神は、徳ある中山家を筆頭に心建て替えの道を促されているんでしょう。血の涙を集めた事への通り返しは、各人の魂の上へ返ってきているのでしょうが、しのぐ道は、本部の緊縮財政と、サンゲとたんのうからしかないでしょうね。
    そもそも中山家を筆頭に、形の普請を急ぎすぎた事で、心の普請は停滞してしまったのでしょう。神の先道を付けすぎた事で、中身が薄いだけではなく、先々に迷惑と世間様に高慢の悪臭も振りまいた100年余りの歴史だったのかもしれません。

  6. 匿名

     本部から大教会、大教会から上級、上級から末端へと下される、お供え要求、これは甘えと言えないだろうか?
    金くれ~と言ってるのだから。上の甘えは下へ下へと命令され、末端が全て受け止める羽目になる。
    末端の子に甘え続ける親、その親、又その親。そろそろ上に言うべきではないだろうか?
    親なら子にたかるなよ。自分で稼いでくれ、と。

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