アカウンタアビリティについて

久しぶりです。なんでこんなに忙しいのかすら頭がまわりません。

ここんとこメディアでちょいちょい目にするのが光市の母子殺害事件について。
私は法曹の人間ではないので、詳細は知りませんし内容についてコメントはできない。
しかし、被告弁護団の論調は到底理解できるものではない。一国民として(裁判員制度も始まるしね)なんとか弁護団の意見を理解しようとするんだけど、彼らは丁寧に説明するどころか「どうせ国民(メディア)は聞いてくれない」という論調で説明すらしようとしない姿勢は問題だと思う。

  そういったことがなんとなく頭をグルグルまわっている時に、橋本弁護士のHPに当たった。橋本弁護士は光市母子殺害事件は担当弁護士ではないみたいだけど、メディアで発言するうちにアンチ被告弁護団の代表みたいになっているらしい。
橋本弁護士の主張は弁護内容の是非ではなく、アカウンタアビリティをせよという一点である。もちろん橋本弁護士なので、HP上の言質は放送禁止用語満載である。この点に関しては私は橋本弁護士と意見を共にする。専門家である以上、素人へのアカウンタアビリティは必須である。しかも、裁判員制度を控え、これからより理解してもらおうとする今ではあたりまえであろう。内容の是非は置いといて、一度橋本弁護士のブログを一読して頂きたい。

 なぜ、今回この件を取りあげたのかと言うと、橋本弁護士のブログを読んでいて、私は私が批判する一部?の天理教人と同様の理路であると思うからだ。前述しているところもあるが、私が批判するカイチョウさんやセンセイたちはアカウンタアビリティをしていない。
「彼らは専門家ではない」「裁判と宗教は次元が違う」などと言われそうだが、私は天理教人の方がこういった責任を強く負っていると断言してもいい。専門家でないとしてしまうことは、つまり天理教の特異性、存在意義が見えなくなってしまう。次元が異なるのは宗教の方がより次元が深いところにあるはずだ。だから、その責任は大きい。信条や生き方などの曖昧なものだからこそ説明できるとこは明確に説明する必要があるのではないか。曖昧なものを曖昧なままにしておくのは非常に危険である。なぜなら、それは誰も理解できないからである。この世界は理解できない曖昧模糊とした複雑な問題が多々ある。アポリアというのは答えが複数あるか答えがない問題なのである。しかし、重要なのは答えがなくても答えが複数あっても答えを出そうとする真摯な姿勢ではないのかと思う。「誰も聞いてくれないよ」とか「こんなことも分かってねーのか」と言ってしまうと他者が理解しようとしてしまっても両者の距離は離れるばかりである。
 私は天理教に関して分からないことが多い。その代表が宗教的言語概念である。私に対して「いんねんとはね・・・」と私の批判も込みで明確に説明してくれた人はいない。私が批判すると「君は素直じゃない」と言われるのがオチである。しかし、そういったものが経験を積み、たんのんできたとしても使ってはいけない場面で使われることに私は同意しない。t例えば夫婦関係で離婚しようか悩んでいる人に対して「それは、あなたのいんねん」と言うカイチョウさん(実際にいる)は尊敬に値しない。文脈やシチュエーションが異なろうが、それは「言ってはいけない」言葉になってしまうのである。いくら、状況説明であっても当事者に対して言うのは対人援助ではない。誰か彼らの暴走を止める人はいないものか。

アカウンタアビリティについて」への2件のフィードバック

  1. 匿名

     その人その人の因縁など、人間がわかるものでは無いと思う。わかるのは、それこそ神様か仏様くらいのものであろう。信者に「あんたはこういう因縁を持ってる」などと説いてる会長は、、思い上がってるか、よっぽどの阿保か、どちらかである。それか、金が欲しいかだ。

  2. 一読者

    2016年4月21日 12:34 PMの匿名さんに同意いたします。

    確かに他人の因縁など人間が簡単に解るものでも語れるものでもありませんよね。不可能に近い。
    しかし、明確に証明ができないものだけに利用しやすいのでしょう。

    信じるものは救われるといいますが、救われるなら信じてもいいですが、
    「○○の因縁がある」とレッテルを貼られ、潜在意識に「○○の因縁がある」と
    悪いイメージを植え込まれ、あげくにお金を出さなければ救われないと精神的に
    脅されてお金まで盗られるのであれば、救われるどころか結局損害を被るのですよね。
    なんとか助かりたいという気持ちをほんの少し横に置いて、冷静になってみれば
    見えてくることがあるのではないでしょうか。

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