天理教に人権を語る資格はあるのか

いくつかメールを頂いたが返信できずに申し訳ない。

現在、橋本市長の発言により人権について注目されている。誰のための人権なのか、政治も国民も迷走しつつある。彼が主張する「建前を言っていても仕方がない」という問題提起は、都合の悪いことを抑圧してきた政治家の思惑や、国民感情をあぶりだしている。しかし納めどころがない中での、あぶり出しは関係者の二次被害や、さらなる抑圧を強化してしまう可能性があることを私は危惧している。

私はかねてより、人権を大きなテーマとしている。天理教に当てはめるならば天理教の金科玉条である「陽気ぐらし」は人権を十分に包含していると考える。臨床社会学の一つの見方として、人権で傷ついた人間は人権で救済しなくてはいけないという考え方がある。人権の軽視によって、心の病を発症させられている人間は少なくない。人間関係での傷つきや劣悪な環境が当てはまる。どんな精神療法だろうと、カウンセリングだろうと、人権で傷ついた人へのケアは話を聞くよりも、人権の確保が前提となる。一人の人間としての尊厳の回復である。その中で、天理教の「陽気ぐらし」や「おたすけ」という概念は、人権という意味でも同等以上の言葉であるはずである。

一方で、私は天理教人の人権意識は低いと思う。理や徳などといった抽象的な概念は強者に都合よく信者を支配しコントロールするために利用される。また構成員の社会保障を設けず、宗教法人という聖域であぐらをかいて信者や若者の無年金を見て見ぬふりをしている。「一生懸命伏せ込めば、神様がなんとかしてくれる」という暴力的な言葉とともに。

これらのことは天理教本部と天理教教会は利用しており共犯関係にある。修行という建前で、卒業したての若者を「青年」という無保険・無年金の労働力として搾取する。賃金は「お与え」という建前で月に2万から3万という驚くべき低い金額しか渡さない。その「青年」は未成年の学生時代に権力者である理の親の許諾の印鑑によって奨学生として契約させられる。奨学金を扱う財団法人天理教一れつ会は、数年前に卒業後の天理教での労働を強制性システムから奨学金の返済可能へとシステムを変更した。しかし理の親という権力者の許諾は変わらないために卒業後に天理教での労働に従事せねばならない。そこには若者の主体性をカモフラージュして契約や信仰的脅迫で、逃げ道を奪っているといっても過言ではない。そこから脱走することは信仰的未熟者(家族に迷惑をかける)になるため、一定の強制力が生じている。

日本は以前からアメリカ国務省から人身売買(取引)の指摘を受けている。そのため2005年に刑法で人身売買罪が設けられることになった。主に性産業における女性が理不尽な借金を背負わされて、風俗店で働かせられるが、一向に借金は減らないという昼ドラマのようなことが現在の日本で実際にあるということである。同じような構造が天理教の内部でも展開されている。

先日もある教会の会長夫人と話をした。ある教会の若者二人が、結婚の結納を済ませた。新郎と新婦は別々の系統の教会であった。結納まで済ませたときに、なんと結婚が急に破断になった。それは彼らの理の親である大教会の会長が、ストップをかけたのだそうだ。その理由は「新婦は新郎が所属する河○町には不適当」という理不尽な理由だったそうである。この河○町は天理教内では原理主義的で「厳しい」と評価のある系統であり、ここの大教会長は信者が容易に話しかけることができないほどの「神のような存在」と評されている。新郎側の大教会長か新婦側の大教会長のどちらが「不適当」と判断したのかはわからないが、理の親と偉ぶるのであれば、子の主体性と幸せを尊重すべきであろう。少なくとも結納を済ませた若者の未来を閉ざすなど人権を軽視しているのも甚だしい。何様のつもりだろうか。そんなに大教会長という方は偉いのか。きっと大教会長たちは「この若者の将来を思って」というだろうが、そんなことは現代社会では通用しない。

以前、私は障害者の結婚について、ある家庭の救済を求めたことがある。新郎側の父親が新婦が障害者であることを理由に結婚を破談にしようとしたからである。父親以外の親族は結婚に賛成であった。父親の言い分は「障害者だから、ゆくゆくは本人たちが苦労するだけ」という訳の分からない理由で反対した。私は原理主義ではないので、父親としての責任感と子供を思う気持ちを一定程度理解はする。しかし、よくよく話を聞くと、そこにあるのは障害者を受け入れる責任回避と見栄しかなかった。到底、愛し合う若者二人のことを真剣に考えているとは到底思えなかった。

当然だが、本当に若者の将来を心配するのであれば、愛し合う二人を邪魔することなんてすべきではない。それは出自や血にこだわるほど滑稽であり、時代錯誤も甚だしい。

上記の天理教の若者の結婚破断に関しても、若者たちが私の知り合いであれば、私は自治体の人権救済委員会に連絡し、文科省宗教法人審議会、公安調査庁に通報するだろう。こんな宗教法人が「陽気ぐらし」や「おたすけ」として布教活動をおこなう資格はない。むしろ行政指導をあたえられるべきである。

日本全体が人権に関して低い意識であることは、今回の橋本市長でも浮き彫りになっている。「陽気ぐらし」という素晴らしい教義を持つ天理教こそ、人権に敏感であり、人権保障を牽引してもらいたいと思う。それは凄まじい勢いで天理教が衰退していることと無関係ではないということを天理教の方たちは本当に考えてほしい。人助けを主張したいのであれば人権教育や権利擁護こそ天理教の幹部たちは習うべきだ。

万が一、自分たちのおこないが、天理教として正しいというのであれば、胸を張って天理時報に掲載すればよい。愛し合う若者の結婚を破談にしましたよと。コソコソと自分の思い通りにやっているのは、それが人として恥ずべきことという認識があるからなのだろう。

本記事は、いくつかのデータと記録の一部に基づいて書いている。天理教の制度や、類似例などここ数年で変更点や動きがあれば、教えていただきたい。

tenrikyosyakaigakulavo@hotmail.co.jp

 

天理教に人権を語る資格はあるのか」への4件のフィードバック

  1. 匿名

    1. 天理を離れて感じたこと
    天理を離れて数十年たちます。幼い頃より詰め所で育ち、幼稚園から高校まで天理 学園の中
    で学び、久しぶりに天理の友人達と話し色々感じさせられる事がありました。基本的に私は友人達を暖かく見守りたい立場をとる人間です。私のなかで天理教で残る教えは、朝起、正直、働き この言葉ですが、朝起きと働きはもう身の一部となりました。しかし 、"正直" これが一番難しい。仕事柄患者さんにがん告知をすることがありますが、すべてをストレートに伝えることは難しい。人柄を見なくてはなりません。嘘をつかなくてもいいように,
    立場を取りながら伝える事は、やはり正直の実践とはかけ離れています。人間思案と言いますが,おおよそ全て宗教は人間の為だけにあり、もし核戦争で人間が絶滅すれば神仏は失業してしまうでしょう。私の考えでは神仏も人に寄り添う必要がある場合もあると思うと言うことです。人権は人間がその理性により作り上げあげた、皆が享受すべき理解可能な権利です。ヨーロッパでは、武力闘争をともなう宗教改革によって、神と人間の関係を数百年かけて模索して来ました。天理教は立教200年を経ていません。まだまだ長い議論と改革が必要です。天理教関係者と天理王命を失業させてはなりません。

  2. 匿名

    2. 天理教は、
    天理教は、そんな宗教じゃありません、
    天理教のみかたは、人それどれだっとおもいます、信仰は、自由です、災害救援燃していますし、地域のわも、大事しています。
    強制は、していません

  3. とくめい

    11月号の「陽気」に、「世界人権宣言」という文章が載っていた。
    天理大学おやさと研究所教授(宗教学)という肩書きの方が書いている。
    この方は天理教教団内の人権についてどうお考えなのだろうか?
    天理教教団内の人権について何らかの問題意識があるから書いたのかな・・・?
    このブログにあるように、私も教団内の人権意識は本当に低いと思っている。
    人権なんて考えたことの無い人ばかりではないかと思う。
    末端に行けば行くほど、個人の意思なんて無いかのように、奴隷のように扱われる。

    文章は、人権について基本的なことを述べたあとで、最後には(つづく)で終わっている。
    読んでいて、いったい誰に対して言っているのかと疑問がわく。
    信者?既得権益にまみれた幹部?
    発行所である養徳社は何の目的で人権というテーマの文章を載せたのか?

    末端教会の関係者の立場で読むと、 は? 人権なんて無いじゃん!と言う反応になると思うし、
    教団幹部が読むと・・・何にも感じないでしょうね。
    次回の12月号はどんな内容なのか。
    天理教教団内の人権について、問題提起する文章?(そんなわけないですよね 笑)
    楽しみに待ってよう。。。

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