二代真柱と嘉納治五郎に泥を塗った天理大学柔道部の暴力事件の根深さ

少し前にテレビや新聞のスポーツ欄では天理の2文字をよく見ることができた。柔道協会が暴力根絶に改革をすすめている真っただ中、また五輪招致の最終プレゼンの前という最悪のタイミングで天理大学柔道部の事件があった。本来であれば、ニュースになったそのときにこの記事も書こうかと思った。しかし必要以上に天理のイメージを悪くすることを私は望んでいないため落ち着いた今に発表したい。

まずは天理と柔道について概観したい。天理は高校野球が有名なように、スポーツに力を入れている。天理大学の体育学部はスポーツ界の実績はもちろんのこと、体育教員の養成など教育の分野でも非常に評価が高い。また天理市内にある宗教関連の宿泊施設である”詰所”を利用して、高校生や大学生のスポーツの合宿などがおこなわれることが多い。特に柔道、ラグビー、野球、フィールドホッケーなどは全国でも強豪、古豪であり知名度は高い。それらは総称して天理スポーツをして概念化されている。

その天理スポーツの原点は二代真柱である中山正善(現在の真柱の祖父)に始まる。二代真柱までの天理は宗教団体の役割は主に神事と布教であった。しかし東大宗教学科で学んだ正善は、教義、学術、文化の点で天理の社会的役割をグッと押し上げた。教義では天理教の教典を編纂し、学術では国宝級の書籍や世界的な文化財産を天理大学図書館や天理参考館にまとめた。また正善自身もスポーツを愛し、スポーツや健康への理解と投資を惜しまなかった。それらは彼のインテリジェンスとともに人脈の広さを物語るものである。

このように天理スポーツは歴史的にも社会的にも日本スポーツに大きな貢献をしていることに間違いはない。その視点で、今回の暴力事件を、私は「かわいそう」と思うのが率直な感想である。確かに天理大学柔道部の起こした事件は許されるものではない。しかし、ここまでメディアに大騒ぎをされて叩かれるのはスケープゴートや見せしめ的な意味合いが強いと思わざるを得ない。スポーツ界における暴力を言うのであれば、今回の天理大学の柔道に関わらず、日本全国でコンスタントにニュースになっている。昔から。その歴史を見たときに、今回の天理大学柔道部はあまりにタイミングが悪すぎたと言える。

私はスポーツにおける暴力を肯定しているわけではない。しかし、その根深さゆえに左翼主義者の暴力絶対反対という主張に対して「じゃあどうするの?」という疑問が絶えず頭にある。「暴力を使わない、最先端のトレーニング方法を・・・」という言葉が良く返ってくるが、スポーツ界全体として、それを達成することは果たして可能だろうか。

このスポーツと暴力の関係を考えるたびに思い出すことがある。それは家庭内暴力DVである。DVと聞いて多くの男性(女性)が「殴ったり、暴言をしたり、性的強要なんてしたことがない」と言う。私も同様であった。しかし数年前にDVの専門家と話をしたときに、「問題は『行為』ではなく『暴力の構造』である」ということを学んだ。DVの罪悪さについては専門家でなくても、誰もが知っていることである。しかし、その専門家が学生に対しておこなったDVの講義を聞いて、DVの危険性がある学生の多さに驚いた。暴力の構造とは端的に言えば「権力を使って、相手をコントロールする」ということがDVの根底にある。つまり「相手の携帯電話を黙って見る」や「ケンカしたときに相手からの電話に出ない」や「借りたお金を返さない」などはDVの予兆となる。これらは『デートDV』として若者のDV防止のための啓発が高校などで積極的におこなわれている。「暴力なんてしたことがない」という方も、「夫婦喧嘩で腹が立って、電話やメールを無視した」ことくらいはある方が多いのではないだろか。反省の意味を込めて、私は何度かある。
http://www.1818-dv.org/

スポーツと暴力を考える際に、必要条件である指導者と選手という不可分な身分差は、その開始時点で「暴力の構造」が始まっていることになる。その危険性を無視して、理想論を語るだけでは無責任ではないだろうか。例えば天理大学の柔道部の事件についても、
「大学は全柔連に暴力の事実関係を報告していなかった。藤猪部長は、この問題を把握し、 けがをした部員らに謝罪した後の8月21日、暴力問題など相次ぐ不祥事を受けて体制を 刷新した全柔連の理事に就任したが、「問題を大学の学生部に報告しており、学校の処分も出ていなかったので、(全柔連に)言い出せなかった」と経緯を説明した。 全柔連には、「読売新聞の取材を受け、3日に報告した」という。最終更新:9月4日(水)3時10分 Yahoo!ニュース(読売新聞)」
というように危機感のなさが露呈している。「まさか、こんな事件になるとは・・・」というのが率直な感想ではないだろうか。

今回の事件が根深いと言われるのは、その師匠と弟子のような上下関係が明確であればあるほど、その権力の危険性はどこに向かうのかという不確定性からは逃れられないということである。一昔前に「いじめられたと感じたら、それはいじめだ」というような極論が聞かれたが、そのような物言いすらも認めてしまうような極端な風潮が今の日本にはある。つまり暴力まで行かずとも師匠の「厳しい練習」であったとしても弟子が「こんな厳しい練習は暴力だ」と思ってしまえば、指導などということは成立しない。そして、私が難しいと感じるのは、この厳しい鍛錬に耐えることこそ美徳とするような心性が日本人には共通にあるということである。つまるところ「勝利至上主義はいけない」と言いつつも、勝利したら嬉しいという矛盾にどれほどの人間が自覚的かということであろう。奇しくも、東京オリンピックが決まり、どれほどの人間が1964の東京オリンピックのような日本の勢いを夢見ていることだろうか。どれほどの人間が柔道界の勝利至上主義を批判しつつも、金メダルの数を数えることに喜びを見出すだろうか。大阪の桜ノ宮高校の体罰事件でも、体罰を伴うような指導を容認してきたのは、選手であり、保護者であり、地域住民であったことは言うまでもない。

全国クラスである天理スポーツに関しても、多くの人間が応援し、そして利用してきたことを認めなければいけない。その視点から今回の天理スポーツの事件を天理大学と柔道部と元部長だけに責任が帰結されてもいいのだろうか。

では次に天理教を見てみたいと思う。天理教の組織では身分関係が非常に明確に線引きされている。天理教の教団幹部は、そのすべてがメンバーズオンリーの血で決定される。そこには能力も平等もない。

二代真柱と嘉納治五郎に泥を塗った天理大学柔道部の暴力事件の根深さ」への2件のフィードバック

  1. 匿名

    1. 天理柔道関係者諸氏へ
    柔道は武道でしょうか、スポーツでしょうか?私はこの二つの要素は,柔道にとって不可分な物であると思います。特に武道の要素において、今回の不祥事を考えると、(トカゲの尻尾切り) は卑怯であると思います。いじめと暴力の伝統を残していったのは、他ならぬ我々天理の卒業生だからです。今回の事件を現役柔道部員に背負わせ、ほお頬かむりを決め込むのは、自らの人生において、ある時期、全てを打ち込んできた大事な物を汚す行為であると思います。心あるOB、関係者諸氏は今一度、自ら出来る事をすべきではないのでしょうか。一年もすれば、この話はすっかり忘れ去られますが、天理柔道の魂の一部は死ぬでしょう。そしてまた、マスコミにに叩かれる日がやって来ます。我々天理学園のスポーツはあと何十年同じことを繰り返すのでしょう。今回俎上に乗らなかった、 他の運動部OBも考えるべきではないのでしょうか。中山正善の書で道場に掲げている(自他共栄)は、下級生を大事にし、自分も大事に扱うことで立派な人間(あえて 用木 とは書きません。)になりなさいとは、読めないものでしょうか。

  2. 匿名

    2. 更新されませんね
    毎日訪問していますが、なかなか更新されませんね。
    楽しみにしていますので、そろそろ書き込んで下さい。
    お待ちしております。

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