三代真柱の死去に思う天理教の暗い未来

 

三代真柱が死去した。全国紙のニュースでも取り上げられた。その後の教団葬の様子は、天理時報でも大きく紙面を割かれていた。天理時報や天理教人の論調として多いものが「年祭の旬に大きな節を見せられた、全力で年祭活動に向かおう」(ex天理時報4387号)と異口同音である。

私は元々、天理教の年祭についてはあまり理解していない。来年か再来年に天理教の教祖が亡くなってから130年となる年祭だが、これは天理教にとってどういうものなのかイマイチ理解できない。というのは、これが喜ぶべきことなのか、悲しむべきものなのか、苦しむべきものなのか、喜ぶために苦しむべきなのか、じゃあ何をもって喜べるようになるのか、どのように受け止めればいいのかよくわからないということである。つまり天理時報や天理教人の言動を見ると、「年祭に向かって頑張らねば」とゴールのない全力疾走を求められるという悲壮感しか私は感じない。それ以外の情緒を天理時報や天理教人からは感じない。

素朴な疑問として年祭って何の(誰の)ためなのだろうか。三代真柱の死去が、年祭活動と意味付けられることで、三代真柱の生前の意思が薄められているように外部にいる私は感じる。このことは小さいことのようだが、意外に重要なことなのではないかと思う。三代真柱の生前の意思は、どのようなものかは私は理解してない。しかし初代、二代、三代、四代と後継されるたびに、天理教の社会的影響力は低下している感が否めない。東大出身の二代は各界の人脈も豊富であり、宗教的には教義の編纂をおこない、社会的には学校、病院などを作り実質的に天理教を全国的に認知させた人物である。亡くなった三代はスポーツに造詣が深く、教内的には時間があれば全国各地の教会に出向いて説教をしたと聞く。これらは多くの天理教人が同意してくれるだろう。一方、現四代については「どんな人?」と天理教人に聞いても、なかなかパッと一貫した回答を得ることがない。まさしく「目立った特徴がない」というのが特徴だと私は思っている。そんな中でリーダーシップを保持していた三代の死去である。今後の天理教はどうなっていくのだろうかと考えたときに、明るく考えることは到底できない。

前述したように、天理教の最近の枕詞は「年祭に向かって」としか内容がない。私は思う。「そんな直近のことばかり考えていないで、15年後、20年後の天理教がどうなるのか考えた方がいいのではないか、と。もし20年後にも天理教が天理教で存在したいのであれば、天理教のリーダーが求心力を低下する中で、年祭ではなく、もっと先を考えるべきである。

天理教の規模は、日本の新興宗教の中では大きい。しかし、世界に1万7千の教会がある中で7割が事情教会(後継者がいないなど機能不全教会)と言われている。また残りの3割の教会や、大教会、天理教本部の毎月の祭りを見てみよう。そこに参加する半分以上の信者が後期高齢者である。彼らが20年後の天理教を支える中心人物になり得るはずがない。

20年後の天理教には五代目が誕生しているだろう。なかなか見慣れない五代目が豪腕なリーダーシップを発揮すれば、直系の好きな日本人は「なんだこの人?」と違和感を覚えるだろう。反対に、五代目がリーダーシップを発揮しなければ天理教は高校野球だけの存在感に成り下がるだろう。どちらにせよ天理教のプレゼンスは低下の一途をたどる蓋然性は高い。

私はリーダーの存在は大きいと感じている。日本においても失われた20年と言われていたが、自民党が与党を奪取してから国際政治での日本のプレゼンスは向上していることは間違いない。そのことを今の天理教に当てはめるのであれば、今の天理教は民主党政権時代といってもよい。現四代目がリーダーシップを発揮しないために、臓器移植に反対の上田氏や天理時報の手配りという小手先しか発信できない布教部長など、理解しがたい政策発信で天理教を迷走させていると私は思う。

20年後に天理教が社会のプレゼンスを確保するのであれば、目先の年祭活動ではなく長期的視野に立つべきである。天理時報の手配りなどと、ゆとり世代のような甘い考えではなく、体力も知性もエネルギーも溢れる若者をとフロントに置いて社会と架橋させるべきである。高度経済成長を経験して父権性社会の古典的な精神論だけで通用すると思っているのは日本のまだまだ未熟な点であり、天理教を堕落させてきた点である。日本の企業がそうしているように、20年後に後期高齢者となっている者や60代以上の幹部は天理教のフロントから退場していただき、若者に責任と信任を与えるほどの大転換をしなければ、20年後に天理教の未来はない。ということを三代真柱の死去に思う。

tenrikyosyakaigakulavo@hotmail.co.jp

 

三代真柱の死去に思う天理教の暗い未来」への37件のフィードバック

  1. 匿名

    1. 久々ですね
    随分久々ですね。
    毎日覗いてはいたんですが、とても嬉しいです。
    これからも天理教について、独特な視点からの幅広いご意見をどんどん載せて下さい。
    頷きながら読んでます。

  2. yohuboku

    現行、天理教の信者です。私が見聞き知る天理教としてこのブログの問いにお答えしたいと思います。

    まず「天理教の年祭とはなにか?」ですが、「教祖が現し身を隠されてから今で言えば130年になりますよ、それはそれはありがたいことじゃないですか、教祖がいなくなって130年経ったときに、教祖に天理教はこうなりましたよ、とお伝えし喜んで頂くために、みなさんがんばっていきましょうね」ということを天理教教会本部は言いたいのだと思います。それだけでなく、その年祭に向かって自らも人(別席)と金(お供え)をつぎ込むことで、大事な旬だからこそのありがたいご守護が絶対に頂ける、だからこの旬にとがんばっています。少なくても天理教の人にとって年祭は限りなくありがたいイベントです。「年祭って何の(誰の)ためなのだろうか」天理教教会本部からするとお金の収穫時期、天理教末端信者からすると精神論で、助かりたければ人と金を出せというきっかけです。

    私は、「年祭に向かって頑張らねば」と唄う人に問いたいのは、30年前の天理教から何を学んだのかということです。教祖100年祭の時、100年祭だから100万円お供えしよー☆と、叫んでいた人たちと、その結果、銀行強盗を働いたり、信者に無理なお供えを強要したり、あげくの果てに詰め所から飛び降り自殺をした教会長は何だったのかと思います。「屋敷を払うて田売りたまえ」とは、まさにこの時の天理教を象徴して言われた言葉でした。「年祭に向かって頑張らねば」という言葉には、その過去の天理教に対して、どのような振り返りがあったのか、今の日本の経済状況を踏まえて、どのような根拠から毎年の教会に対する心定めを決めているのか、厳しく批判したいと思っています。

    「貧に落ち切れ」という天理教稿本教祖伝に言われる天理教株式会社最大のビジネスモデルは、八島英雄氏の裁判で、中山みき研究ノートに関する記載の全てを、天理教統括責任者が肯定し、櫟本資料館に保管される”おもと”の申告書から全面否定されました。教祖は「貧に落ち切れ」なんて一言も言っていない、貧に落ちきったのは秀司様が米商いに失敗して家ごと全て借金に取られた話を湾曲して伝えているのだと。つまりは中山秀司様をはじめとする中山家(真柱)体制の完全な終焉であり、30年経った今の天理教献金額は100億も下がっています。

    では三代真柱の死去とは何だったのか。匿名で恐縮ですが、極悪罪人が死んだだけでしょう。100年祭だから100万円お供えしよー☆なんて馬鹿げた施策を出したわけです。「貧に落ち切れ」という作り物の教えのために、100年祭だから100万円お供えしよー☆なんて愚策が生まれ、それにより数多くの不幸が生まれました。100年祭だから100万円お供えしよー☆という言葉が、今の修復不可能な天理教組織を作り上げています。

    このカイン様ブログにもあるように「20年後に天理教の未来はない。」のでしょう。本部役員や、各大教会長が、ゆでがえるみたいになっている今の天理教に未来はありません。明らかに高度経済成長を支えた日本人が作り上げた日本人が、結局は真柱様マネジメントにうまく踊らされていたことに気づきあきれ果て、教祖の想いも空しく落ちぶれていくだけです。三代真柱の死去とは「終わりの始まり」です。

  3. 匿名A

    教団は、「終わりの始まり」にならないように何をすべきなのか。
    それは、「おさしづ」は一旦おいて、まず、教祖が「みかぐらうた」と「おふでさき」を示された背景を論じるべきだ思います。
    講社祭りの際に、「おふでさき」を読んだが、何の意味かさっぱり分からない詩が多過ぎるということだ。そのためにも、もっと教学があってもいいのだが、残念なことにこの教団は、何か隠し事をしている節が感じられる。
    この不信感を拭うのは、真柱の鶴の一声ではないだろうか。「開けゴマ」の一声でいいのだ。それが出来なければ、もう終わりですね。
    教学で著名な天理大学の教授は自らの著作物を、二代真柱によって発表を止められました。その著作物とは何なんでしょうか。これでは、天理大学を造った意味など無いに等しいと思うのですが。この教授が書かれた教議の内容が異端だったのか、それとも中山体制の教団にとって都合の悪いものだったのか。いずれにしても熱心に信心をしている教信徒に対する背信行為に他ならないと思うのです。
    私は、まだ切れかかった糸であっても教会に繋がっている。しかし、いかに縦の布教が叫ばれようが、子供たちや孫にとっては縁のない世界になっているのは、想像に難くない。

    私の手元には、父母の遺品の一部ともいうべき「天理教教典」が一冊ある。折に触れ読んでいるが、よくもこのような「きれいごと」が書けたものだと思っている。本当は、もっと人間臭いものではなかったかと想像しています。
    巻頭言に「本書は、おふでさき みかぐらうた及びおさしづに基づき 天理教教会本部に於て編述したもので、天理教教規の定めるところにより これを天理教教典として裁定する
    昭和24年10月26日 真柱 中山正善」とある。
    これを何の疑いもなく30年間に亘り読んできたのです。無念です。

  4. 信じるものはなにか

    おふでさき関連の解説書物は複数出てますので、まずはそちらをおすすめします。
    次のステップとして、簡単に手に入るもので最も赤裸々な「おふでさき付註釈」読んでみて下さい。こちらには教祖伝には記されていない史実の記載も多々あります。

    おふでさきという書物は普遍的な解釈がされる一方で、史実性を色濃くもった性質があります。
    ですから、おやさまの道すがら、当時のおやしきの様子、時代背景を知らずにおふでさきの意味を求めようとしても限界があります。

    そしておふでさきには基本的に良いことは書いてません。ねぎらいはあっても、褒める内容の歌はありません。
    というのも、「口では言わん筆先のせめ」といわれるように、口で言うには厳しすぎるような戒めとなる部分が示されているからです。

    おやさまはおやしきに訪れた人々に常に優しく接せられました。しかし、神の意思と人々の心がかけ離れたときには、神の思いを筆に記し、それを当該者に見せられたといいます。
    また、言葉は忘れてしまいますが、書いたものは紛失しないかぎりは残ります。それほど重要なことが記されているということもいえます。
    ですから、おふでさきは重い。心にずっしりきます。

    おふでさきの解釈に関して、教団が何かを隠しているのかということについては不明ですが、一般人でも目にすることができる史料を使って、大体は解釈し得るものと私は思います。

    あと、匿名A様がきれいごとだと指摘する教典ですが、確かに原典に基づいていますよ。
    よくも100ページにまとめたもんだと感心するくらいです。天理教の教えは非の打ち所がないなと思えてきます。
    ただ、実行出来るかどうかでいえば、なかなか難しい。きれいごとと言われる所以はそこにあるのではないでしょうか?

    教典は教義として原典それぞれがもつ特色や歴史性がカットされています。だから、人間らしい泥臭さが感じられないんです。そのため親しみにくいものになっているのかもしれません。

    ちなみに私は教典はほとんど開きません。
    匿名A様がおっしゃるように人間臭さがないからです。
    ではどこに教えを求めるかといえば、おやさまの道すがらに求めます。
    教祖伝の行間を読み、さまざまな背景の中で、少しずつ積み重なっていった言葉や行動から教えを学びます。

    教典の基となった原典も、ひながたの一部です。
    十全の守護も八つの埃もおやさまの口を通して聞かせて下さったことです。
    教義や教学になると無機質ですが、元は営みの中で、おやさまによって示されてきた温もりのある教えです。
    ただ、それでは分かりにくさが出るため、教典としてまとめられているわけです。
    逆に当時の人からすれば、教典欲しい!ってなるんじゃないかと思います。

    ですから無念と思わず、おやさまの教えなんだと思って下さい。
    教団への不信感は私も強くあります。ただ、それでも、信仰が続くのはおやさまの教えがあるからです。

    教団のための人生ではなく、人生のための教えを求めて過ごしたいものです。

    最後に、著名な教授というのはどなたなんでしょう?
    私は初めて聞いた話です。

  5. 古い教会長

    信じるものはなにか 様。
    理想的な信仰感をお持ちだと思います。「信じるものはなにか 様」はきっといい人生を送れると思いますし、何も言うことはありません。
    只、この教えは万人助ける教えなんです。上手に悟れる人はいいのですが、そうじゃない人は興味も持たないし、熱心だった人も離れて行ってしまっています。どこかに問題点があるのでしょう。
    その問題点を議論しているのがこの場所です。愛するこのお道を世界の人たちに伝えるのに弊害となっている問題点を議論しているのです。

    >最後に、著名な教授というのはどなたなんでしょう?私は初めて聞いた話です。

    故人ならいいでしょうが、子孫もおられたら名前は出しにくいですね。今でも、論文とか教内雑誌の記事などは厳しいチェックが入っています。
    教学に関しては自由な研究や発表は出来ません。誰も読まないような所で、コッソリ発表するしかないのです。

  6. 匿名A

    信じるものはなにか 様
    古い教会長 様

    ご丁寧なご指導と解説を下さりありがとうございます。
    教祖の教えを伝えることが出来るのは人ですよね。その身近な人のなりを見て子供や孫は離れてしまったんです。
    著名な教授が著わされた本は多くあるそうです。その中でも発禁に近い処分を受けられた著物のタイトルは分からないのですが、今は天理大学附属図書館、国立国会図書館本館、奈良県立情報図書館および徳島県立図書館に蔵書されているのみだと聞きました。
    天理大学附属図書館に閲覧に行ったことがあるのですが、このような仔細のある本を閲覧したいと言ったところ、タイトルを言う必要と所属教会長の承認が必要とのことで、遠い天理には行っていません。

    この著物の存在を言った人は、一言付け加えてくれました。「おふでさき」は1711首だけではないんですよ。もっとあるんですよ、と。これが嘘か誠か。
    何か隠している節があると書きましたのは、三島神社移転問題一つ取りましても、真相が分かればビックリすることが余りにも多いからも知れません。多くの教信徒は余りにも知らなさすぎると思っています。

  7. 信じるものはなにか

    古い教会長様

    「只、この教えは万人助ける教えなんです。上手に悟れる人はいいのですが、そうじゃない人は興味も持たないし、熱心だった人も離れて行ってしまっています。どこかに問題点があるのでしょう。」

    同意いたします。ただ、この道は万人助ける教えであると共に、「この道はなにか難し めずらしい 道であるぞや思案してみよ」ともあるように、簡単ではないのです。だからおふでさきでいうところの「取次」がしっかりしないといけない。
    今の立場でいえば本部役員や教会長がそれにあたるかと。しかし、残念なことに、おやさまの取次という機能を果たしていない方が多い。教えを深めない人が多い。口と行いが矛盾していることに気がついていない人もいる。そこに問題があると思っています。
    結局のところ、教えの素晴らしさは取次の人間性が入り口となって伝わるんですよね。

    匿名A様

    お孫さんにとっては匿名A様も「教えを伝える人」の一人です。なにも教会に無理につなげる必要はありません。

    発禁となった書物、興味がありますね。
    以前道友社から発売されて回収となった書物ならば一冊所持しております。
    中身は教団を揺るがすようなものではないですが、教えの解釈において問題があるかなという程度です。

    1,711首以外のおふでさき。おやさまから個人にお渡しになられたものです。

    かぜよけをでけてあれどもしまりなし はやくしまりのもよふするなり
    いつまでもくらすばしよにしやんせよ 心さだめてはやくをちつけ
    をちつけばきものくいものふじうなし はやくに人をかやす事なり
    このに人こんどかやした事ならバ これにいほんのとふりようとなる

    なにもかも神のゆう事しかときけ あしきの事はゆうてないぞや
    よろつよによをきつとめもといてある しんじつ心まことあるなら
    しやんせよ神のゆう事きゝながら そばな心にみなまよハされ

    てをとりやかくらすとめをするならば かみの心がいさみくるなり
    いちれつにかみの心がいさむらり なにゝついてもあしき事なし

    いまゝでハなにゆうてもゆいけされ このたびこそハかやしするぞや
    このかやしどふゆう事におもうかな みよだいなりとしりぞくとしれ

    にち/\に心つくしたものだねを 神がたしかにうけとりている
    しんぢつに神のうけとるものだねわ いつになりてもくさるめわなし
    たん/\とこのものだねがはへたなら これまつだいのこふきなるそや

    たん/\とこのものだねかしたなら これまつだいのこふきなるそや

    これ以外にもあるかもしれません。

  8. 末端教会子弟

    >しかし、残念なことに、おやさまの取次という機能を果たしていない方が多い。

    教組様の取次ぎを果たしていない方が多いと共に、取り次ぐ内容を誤解(曲解、歪曲)している方が多いように思います。

    通常、世界中の宗教関係においては「創世記」であるとか「起源説」のような「神話」が語られ、それらを信じる人の方針や指針になっています。

    「古事記・日本書紀」であれば、国生みの神話によって天皇の祖先が日本列島を形作り、それを治めるべき存在として高天原から天下って来ました。
    旧約聖書では、万物創造の神が世界を造り、それを支配するために人間(アダムとエバ)が造られて「産めよ殖やせよ支配せよ」となって、世界中に支配の爪を広げた歴史があります。
    イスラム教やインド宗教も同様であり、その支配者の権威付けと正当性を主張する「神話」があります。
    これは、各々の「憲法」とも呼べる基本的な指針や方針、約束事であり、信者を含め全ての人が守るべき、信じるべき「根本」でもあります。勿論、布教の際にも「根本」からお話しするのが一番伝えやすいでしょう。

    天理教では「泥海古記」が該当するかもしれませんが、これは教祖様の承認を得ていません。多くのお弟子さんが書かれたとありますが、どれも「よし」とは言われていません。
    「よし」と言われていない「泥海古記」を基準にして「元の理」を造り教えて来ましたので、話を聞いた人や信者さんが「教祖様の正しい教え」を理解できないのは当然の事であり、逆に言えば、取り次ぎの人達も教祖様の教えやお話を誤解・曲解・歪曲して伝えている事になります。

    「教祖様の教える元の理」⇒「みかぐらうた」と伝え、違いあるなら「うたでしらする」という流れが、教組様の急き込まれた「こうき」ではないかと考えます。
    一日も早く「教祖様の話された元の理」を成文化し教内に広める事が、天理教組織の立て直しには必要だと考えます。
    これによって、誤解や曲解、歪曲は自ずと排除されるのですから。

  9. 匿名A

    信じるものはなにか さま
    末端教会子弟 さま

    いろいろとアドバイスを下さり有り難うございます。
    幾度か書き込みをしましたが、教団の歴史的背景の勉強もせず、子供の頃からただ単に講社祭りの折に、弟妹と共に祖母や両親の傍に座り「天理教々典」、「おふでさき」を読んでいただけでした。祖父母・両親も亡くなり社が残りました。
    その後も、長らく講社祭りを続けてきましたが、数年前に知人(天理大学宗教学科卒業者)から、思わぬことを聞いてしまいました。それは、今の天理教は真の天理教じゃない、中山教だと。これを裏付ける数々の話は、本当かと思われるものばかりでした。例えば、「人足社」と呼ばれる方の存在も初めて聞く話でした。
    それ以来、講社祭りはお断りをしています。祖父母、父母の霊に日を決めてお勤めをしています。それも夫婦だけで勤めることが殆んどです。今では教会へのお供えも春秋の霊祭の折のみ心ばかりの額です。
    教典第一章の冒頭「我は元の神・・・」とあるが、教典が出来るまでは「我は天の将軍なり」であったと聞きました。
    また、修験者市兵衛の寄加持の台となった勾田村「そよ」の名は、勾田村の人別帳に記載はなく、さらに、市兵衛自身が学僧であって、祈祷師ではなかったと、中野市兵衛宅の子孫がご健在で語っておられると言う事をある方から聞きました。
    ことほど左様に、教典を始め稿本教祖伝の内容がどこまで本当の記述なのかと思い、知人の言葉が本当なのだろうとの思いに至ったのです。
    小さな言葉尻のようにも思いますが、この疑念の思いをはっきりとさせることが出来るのは、教団本部以外にありません。所属教会長にこのことを話したところ、そのようなことをすれば大変なことになると言われたのですが、大変なことになってもいいじゃないですか。是非、史料集成部を全面公開してください。
    教典第四章に書かれている「十全の守護の理」など、本当に分かりやすい解説であると思ってるのです。
    例えば、呼吸が5分も止まれば生死を分ける大事に至ります。「かしこねのみこと」の守護である「人間身の内の息吹き分け、世界では風の守護の理」は、簡潔な解説ですが、「くにとこたちのみこと」、「をもたりのみこと」、正に火・水・風の大切さを感じずにはいられません。
    どうか教団は多くの教信徒の思いを裏切らないように大きな舵取りをされんことを期待するばかりです。

  10. 匿名

    不思議な魂達を地場に引き寄せて、神が天下り続ける事によって、神の口開け場所、神の打ち明け場所を実現させてゆく事がお地場の理の根本である事を見逃し続けているのが、今の天理教本部の実態なんでしょう。
    天理教の偉いさんは総ざんげですね。

  11. 基本

    おふでさきだけあればよいのだと思います。
    教団幹部も人であり、人は、めどうにしてはならない。

    現状、実に充実した天理教だと思います。さびれぐわいも程よい。

    中山教で何が悪いのでしょうか?真柱教で何が悪いのでしょうか?
    人としての彼らは目標(めどう)ではなくて単なる道具です。使っているのは中山みきです。
    みなさま使い主を、馬鹿にしていると感じます。
    中山みきの能力が天理教であり、他はその場の賑わいです。

    組織や思想や思想リーダーや、無用です。
    中山みきお一人で間違いなく世界は陽気になります。だから親神と呼ぶのです。
    信じる必要もありません。信じているものも信じていないものも、同じように陽気になります。
    そして、信じているものも信じていないものも、同じように天罰の対象になります。

    バチに精通し、呪詛の仕方を学びたいなら天理教です。信者になる、他に目的はいりません。

  12. 基本

    間違ってかじ取りしている教団幹部に、天罰を与えるために必要なことは、相手を悪く言わないが鉄則です。
    悪口言っていれば、兄弟げんかだから、・・高山は悪く言わせて谷底のストレスを軽減させるテクを使います。

    「言わん、言えんの理」(おかきさげ)とは「呪詛の鉄則」です。
    「何かの理も鮮やかという」(これもおかきさげ)とは、何かの理とは、お筆先の「何かの理」のことで、つまり心得違いの事です。
    心得違いの人間への呪詛、バチを当てるには「言わん、言えん」です。

    「悪しきをは払う」とは、埃の掃除ですが、直接には「悪人の掃除」、つまり「排除」です。
    本当は教団幹部をかばうために批判するのは最悪で、基本的には呪詛の対象になります。

  13. 匿名A

    基本 さま

    仰る通りだと思います。
    ただ、教団はことあるごとに、縦の布教・初席者何名・おさづけ拝戴者何名・修養科生何名と立て続けに、声を大にして発破をかけてきます。しかし、我が家の家系を見ても神様を祀っているのは、今や私だけです。兄弟・子ども・孫・甥や姪に至るまで全く無関心です。あんなに熱心だった父母のことをどのように思っているのか問うて見たところでなんの反応もありません。私とてご存知のように教団に対して批判的です。ただ、現状では亡き父母が悲しむだろうとの思いが心の片隅にあるのみです。
    あれだけ子供おぢ場帰り・鼓笛隊にと行っていたものですらです。
    幸いにも、皆がそこそこの生活を送っておりますが、教会長は、それこそ両親の徳を引き継いでいるからだと、的外れにも近い言葉が出てくるのです。
    これでは、信仰の理念すら感じられないのではないでしょうか。
    周辺では、若い人たちは都会に出てしまって、教会は「じじ・ばば」ばかりになってしまったそうです。仮に、私が教会に参拝をしても、この仲間の一人に過ぎません。たまに見る若い人は教会長の子弟か親戚の方だそうです。あれほど賑やかだった教会は、これから何処へ行くのでしょう。

  14. 末端教会子弟

    匿名A さま
    >私とてご存知のように教団に対して批判的です。
    >ただ、現状では亡き父母が悲しむだろうとの思いが心の片隅にあるのみです。

    立場は違うかもしれませんが、天理教の信仰に対する取り組みの状況がにているような気がしましたので失礼します。
    私の両親は小さな教会を継ぎ、上級からの尽くし運びの要求をこなしながら精一杯信仰を続けて来ました。その様子は子供の私から見ても「苦労が多く報われる事のない」ありさまで、上級へのお供えやお礼を用意するために、自分たちの食費を削って少ない年金からやりくりしてきた道すがらです。その間私は、教義の解釈も組織運営の有り様にも批判を続けており、信仰から離れていた時期もあります。
    私自身、「両親のやって来た事をそのまま引き継ぐ」ことが親孝行なのかと思っていた時期もありましたが、やはり疑問がぬぐい切れずに両親と本音で話し合ってみました。
    ・親父自身が会長を継ぐ前は上級に批判的だったのに、会長就任後は上級に何も言わずに従って来たのはどうしてか?
    ・両親の苦労のしわ寄せが私(子供達)に来ている。そのまま継続して苦労を孫に押し付けていいのか?
    これらの事を両親も真剣に受け止め、会長職はそのままですが、現在は私の考えを尊重して任せてくれています。

    そのため現在、上級とは「かなり希薄な関係」です。
    また、みかぐらうたの精神に則り、信者さんには「陽気で明るい豊かな毎日が送れるよう、日々の仕事と人助けの精神を持って通らせて貰いましょう」というお話と供に、教会独自での具体的な人助けの企画をしております。
    上級や本部がどういう方向に向かうのか、行こうとしてるかは知ったこっちゃありません(笑)。

  15. 匿名

    匿名A様と同じく、亡き父母が悲しむだろうと言う思いで、教会を引き受けておりますが、在り難いことに、今ではそういう思いは完全に払拭できました。
    現在の私。朝夕のおつとめしません。朝夕の神饌物お供えしません。布教しません。講習会誘いません。天理教で不幸になる人は増やしません。

    御霊様にのみお供えし、ご先祖様に毎朝手をあわせております。現状のお供え物の流儀も、作法も、教団組織幹部が考えて形にしたもの。親様がこの流儀で、この作法でやれ、と教えられたわけではありません。流儀、作法は「信仰」ではありません。匿名A様と同じく、兄弟姉妹子孫一人として、全く興味も関心も示しません。子供などは親を憂慮し、「お母さんはお母さんらしく。作法や儀式は信仰の本質ではないから、大した問題ではない。自分の流儀でやればいいと思うよ。」と助言してくれるほど。
    (月次祭は信者様と実施していますが、毎日のすわりづとめは今の私には出来ません。とおやさまにご容赦いただいております。)

    親神様はいつもいつも何くれとなく無償でお守り下さっています。お金も物も欲しがりません。大事なことは、我々人間が常に親神の心を我が心に感じ、その御心に自分の心を重ね、生きる指針を「親神様」につなげていること。信仰とは親神の御心に沿った生き方をする「心の様」だと思います。

    教会に掲げてある歴代会長の父母、祖父母の遺影を見上げるたびに語りかけます。「お父さん、教団に振り回されたね。信じ込まされて財産逆さまになって差し出して。私たち子供も巻き添え食らったんだよ、知ってる?でもお父さん、信じてたんだよね。上を立て切ることが信仰だって。財産差し出すことが信仰だって。改めて思うよ。お父さん。天理教の為に人生捧げて、苦しくてもそれが幸せなんだと思わされて。お父さんの半生、辛かったね。おとうさんは本当に幸せだったの・・・?」

    写真の父母、祖父母からは、返事が返ってくるのです。「そういう時代だったんだよ。いいんだよ、今のまんまのおまえでいい。今お前は幸せそうだ。それでいいから自分の人生を歩め。」

    多くの人生を踏みにじり、自分を自分として生きていけなかった日本全国の多くの犠牲になられた今は亡き多くの信徒、その家族と現状の天理教団の姿、「風前の灯」を思う時、天理教が犯した罪は「天が許さん」と言うことだと思います。

  16. 匿名

    みかぐらうた や おふでさき を読ませていただいても、お地場には不思議な魂が引き寄せられて、教祖や本席様のような方々が増えつづけ、千里眼や念動力や未来予知やらを発揮し、病まず弱らず死なずという健康人間の雛形で溢れるように感じますが、今の天理教には、そういった信仰はないのでしょうか?

  17. 末端教会子弟

    匿名 様

    >みかぐらうた や おふでさき を読ませていただいても、お地場には不思議な魂が引き寄せられて、

    「一列兄弟」が教えです。
    人間はもともと「泥鰌」を種にして同時に生み出された命ですから不思議な魂など存在しません。
    たまに「いざなぎ(いざなみなど)の生まれ変わり」などと言う人がいますが、天理教の10柱の神名は道具であり守護の理ですから魂を持っておらず、生まれ変わる訳がありません。

    >千里眼や念動力や未来予知やらを発揮し、

    どこのSF小説のお話ですか?
    教祖様はほんなんでもない百姓屋の女ですし、本席は単なる大工です。

    >病まず弱らず死なずという健康人間の雛形で溢れるように感じますが、

    教祖様の教えてくれた「ふしぎなふしん」で作られた社会なら、実現する健康社会だと思われます。
    「みかぐらうた十二下り」で教えられている通りです。

    >今の天理教には、そういった信仰はないのでしょうか?

    天理教の本部役員関係者で115歳まで生きた人はいなかったと思います。
    それどころか平均寿命もやっとの有様ですから、天理教の有様が教祖様の教えからズレているということが明白です。

  18. 基本

    >>千里眼や念動力や未来予知やらを発揮し、
    > 教祖様はほんなんでもない百姓屋の女ですし、本席は単なる大工です。
    ↑ 原典と史実無視のご発言です。
    この所 神一条。五十年以前からの元の理を聞いて 心に治めよなら、成程(なるほど)の理も治まろう。
    天理王命と称するは、一つの宗旨(しゅうし)である。
    天理王命と 元一つ称するは、天の月日である。
    元一つ始めるは 女一人である。
    元よく聞いてくれ。
    〔おさしづ 明治21.7.31〕

    ほんなんでもない百姓屋の女が、「元ひとつ始める」。千里眼や念動力や未来予知やらを発揮ししなければ「元ひとつ始める」のは出来ない。
    百姓女一人は、自動書記にて、「見えてから説いてかかるは世界並み、見えん先から説いておくぞや」第一号 18と、予言すると宣言している。予知は百姓女の「ぞや」である。
    「三ッ みなせかいのむねのうち かゞみのごとくにうつるなり」 百姓女作詞作曲の御神楽歌の歌詞であり、「見抜き見通し」はほん何でもない百姓女の、何でもない普通である。

    SF小説のお話ではない。

  19. 基本

    私の父親は学校長をしていて全財産を無くして布教して布教所は出来たが有力信者は教会が教会の直の信者にして、
    ともかくも両親はなに一つ残せなかったが、私と弟の二人を残した。
    何も残さなかった両親は天理教がしたかっただけである。
    そして天理教を極めてみたかっただけである。愚かにも基本教理の何一つもわからない両人であったが、お供えするしか出来ない未熟者であったが、間違いなくこの世に基本を残した。

    それは素晴らしい信仰だったと、いつも懐かしく思い出す。

  20. 末端教会子弟

    >千里眼や念動力や未来予知やらを発揮ししなければ「元ひとつ始める」のは出来ない。

    教祖さまが「世界助け」の道を決意し、その為の思案と思索を繰り返し「元ひとつ始める」事になったのは事実でしょうが、だかと言って、千里眼や念動力や治療術などの超能力的な力を持っていたと解釈するのはいかがなものか?

    雛形ならば誰でも通れる道であるはずで、教祖さまの教え通りに心定めをすればそういった力が使えるようになるのですか?
    基本さんは大変よく教理研究をされてるようですから、そういった力が使えるようになったのでしょうか?
    それならば、そこに至るまでの方法と手順を多くの人が理解し、身につけられるようマニュアル化してください。某麻原のような「宙に浮く」という怪しげな超能力でさえあれだけの組織になったのだから、千里眼や念動力、予知能力が合わされば世界最強でしょう。

    基本さんは他の板でも「予言説」を主張して解説していましたけど、予言ならこれから先、未来のことを解釈して説明してくれませんか?過去の事を辻褄合わせのように解説してるだけでは読んでいて辛いので、是非お願いします。

    「おふでさき」自体が「違いあるならうたでしらする」ものを書き連ねたもので、周囲に対する叱責やお仕込み、励ましと解釈するのが妥当だと思われます。
    自分の言うことが正しいと確信持てれば「見えん先から説いておくぞや」(私の言うことは理解できないだろうが真実正しい道だ)位のハッタリは誰でも使いますよ。
    実際にみかぐらうたで教えられている世界観は、世間並みの現実世界で汲々としてる人からすれば「見えん先の世界」なんですから。

  21. 匿名

    心通りの守護。将来的には、心の道と現象の関連を説き聞かされるお地場になってくるのだろうけれど、他人の前世だけでなく、将来の病気とか寿命を含めて、見通し、且つ改善する為の心得を施していったのではなかったかな? おや様も本席様も、常人から見ればスーパーヒューマンだったのでしょう。
    天啓者待望論が起こってくることを恐れた偉いさん方の支配欲によって、啓示・霊能者すべてを異端や魔女やと磔にしたバタ臭い宗教の二の舞になっているのが現在の天理教なんですね。第二キリスト教も第二イスラム教も世界タスケにつながらないから、神がお地場を顕したのでしょうにね。

  22. 基本

    基本が投稿している別板のことについてのご質問は、一つは、
    ① そういった力が使えるようになったのでしょうか?
    ② それならば、そこに至るまでの方法と手順を多くの人が理解し、身につけられるようマニュアル化してください。
    ③ 某麻原のような「宙に浮く」という怪しげな超能力でさえあれだけの組織になったのだから、千里眼や念動力、予知能力が合わされば世界最強でしょう。
    先ず③これですが、おやさまの教えはおやさまが世界最強であって、(天の将軍)、はおやさまです。
    例に挙げた麻原ですが、麻原の熱烈な信者たちは腰痛を治してもらったというような小さなけれど実際の症状改善、禅や体操の効果、そういうもので信者になっていて、「宙に浮いた」から信者になったわけではありません。
    麻原は天理教の布教を模倣したわけです。病助け利用で、それでは病助けで教団組織をつくったらどうなるか、です。
    そんなもの最強どころか最低の組織になります。悪のひな型と言って、最悪のモデルが理の親信仰で、麻原は全財産供えなさい、教団に人材も財産も集めました。これも天理教が教えたことです。
    つまり、基本は自分が能力者になる予定ですが、最強の天の将軍の道具にはなりますが、自分はとどかん者なりのやりかたしかしません。
    次に①ですが、① そういった力が使えるようになったのでしょうか?です。
    おやさまは基本のために力を使って下さることもあります。
    基本を裏切って死んだ人、病になった人、実例の枚挙は多々あげられますが、不幸になられた方の個人情報ですのでいつの日かお会い出来たらお教えします。
    過去の基本の投稿を読まれていったら、先に説いていたことがあることは気づかれるはずです。
    余り書いてしまうと、歴然と出てしまうから、「言わん言えん」と言われまして、露骨には書かないだけで、よく読めばちゃんと的中であって、過去の投稿の的中例は自慢話に過ぎないので意図的に回避しています。
    次に②ですが、他の板では順々に書いています。
    天理教教典がちゃんと読めないと能力者にはなれません。天の将軍の部下になるには天の将軍の教えをきちんと知るべきですからね。
    天理教教典基本講座を別板にて投稿しています。
    麻原は権威をサリンで示そうとした。あほですね。そんなことしなくても天の将軍はバチをあたえる。
    バチを当てるには腹を立てない、理を立てるこんなことでも天の将軍様はバチを当ててくださいます。

  23. 基本

    基本が投稿している別板のことについてのご質問は、今一つは、
    ④ 教祖さまが「世界助け」の道を決意し、その為の思案と思索を繰り返し「元ひとつ始める」事になったのは事実でしょうが、?
    との件です。
    おやさまはその為の思案と思索を繰り返し「元ひとつ始める」事になったのではありません。
    おやさまは元のおやだから、天の月日が入り込んで立教した・

    「天理王命と 元一つ称するは、天の月日である。」
    バチを与えるのは天災を返すのは天の月日です。

    基本が投稿している別板のことについてのご質問は、今一つは、これです。
    ⑤ 雛形ならば誰でも通れる道であるはずで、教祖さまの教え通りに心定めをすればそういった力が使えるようになるのですか?
    誰でも通れる道として示されたのは、貧に落ちきれです。「貧乏せい」です。
    教祖伝にはこうあります。
     月日のやしろとなられた教祖は、親神の思召のまに/\、「貧に落ち切れ。」と、急込まれると共に、
    嫁入りの時の荷物を初め、食物、着物、金銭に到るまで、次々と、困って居る人々に施された。
     一列人間を救けたいとの親心から、自ら歩んで救かる道のひながたを示し、
    物を施して執着を去れば、心に明るさが生れ、心に明るさが生れると、自ら陽気ぐらしへの道が開ける、と教えられた。
    「金持ちになれ」は誰でもできるとは限られませんが、貧乏なら、なる気なら誰でもなれます。
    ひな形だから誰でも通れる道がある、それは貧乏せいです。

    しかしそれすると皆が批判し非難します。これもひな形です。
    ほめられることは難しいが、馬鹿にされ笑われることは簡単です。おやさまを信じきったら、皆から馬鹿にしてもらえます。
    そしたら、おやさまがお力をお貸しくださるでしょう。

  24. 基本

    心定めただけでも、一瞬は力は貸していただけます。
    しかしそれが嘘だったら、バチが当たりますから、嘘でない心定めで、試してみてください。

  25. 末端教会子弟

    >誰でも通れる道として示されたのは、貧に落ちきれです。「貧乏せい」です。

    みかぐらうたには「さんざいこころをさだめ なにかにつくりとるなら やまとはほうねんや」とありますよ。
    「さんざいこころをさだめ」は「貧乏せい」では有り得ませんし、「貧乏せい」は天理教教団の上層部が言っているだけです。教祖さまが嫁入りに持ってきた「布団」が「おまさ」さんに伝えられていたということは、櫟本分署跡で確認できますね。
    現実に天理教上層部が「貧乏していない」のですから、教祖さまの教えを守っていない訳ですね?

    >基本を裏切って死んだ人、病になった人、実例の枚挙は多々あげられますが

    その程度の経験は私だってあります。
    いや、誰でもあるでしょう。
    「生き延びた方」が勝手に解釈できるのですから。
    個人的には「口にするのも憚られる」事です。

    その他も「超人的パワーありき」で説明されているようですが、夢があってよろしいのではないかと思う反面、それを広めるのは「ゲームと現実の区別がつかない子供を増やしてしまう」のと同様の害悪が勝るように危惧します。相手が子供ではないだけに、その危険性と影響は測りしれません。
    「超人的パワー」を語るなら、現実に「超人的パワー」を見せた上で解説や理論を展開して頂きたいと思います。

    それに「教祖さまが示されたのは、貧に落ち切れだけです。」というなら、超人的パワーを解明、解釈しようとする基本さんは、教祖さまの示されたこと以外のことをやっている、という事ですか?

  26. 匿名

    基本様

    ちょっと失礼致します。 
    基本様
    >ほめられることは難しいが、馬鹿にされ笑われることは簡単です。おやさまを信じきったら、皆から馬鹿にしてもらえます。そしたら、おやさまがお力をお貸しくださるでしょう。
     
     本部が天理教を作り広めてから、大勢の信心深い人々が、全財産を投げ出して、教祖の雛形をお通りになったと思います。その人たち皆、おやさまがお力をお貸しくださったのでしょうか?教団に身ぐるみはがされて後悔し、泣いている方の方が多いのではないでしょうか?貧乏すれば、おやさまがお力をお貸し下さる、というのは、基本様の恣意的なご意見、独断ではないのでしょうか?

  27. 末端教会子弟

    >教祖伝にはこうあります。
    >月日のやしろとなられた教祖は、親神の思召のまに/\、「貧に落ち切れ。」と、急込まれると共に、
    > 嫁入りの時の荷物を初め、食物、着物、金銭に到るまで、次々と、困って居る人々に施された。
    >一列人間を救けたいとの親心から、自ら歩んで救かる道のひながたを示し、物を施して執着を去れば、
    >心に明るさが生れ、心に明るさが生れると、自ら陽気ぐらしへの道が開ける、と教えられた。

    稿本教組伝には確かにそのような記載がありますけど「みかぐらうた」の精神に反しますね。

    三に さんざいこころをさだめ
    四つ よんなか
    五つ りをふく
    六つ むしょうにでけまわす
    七つ なにかにつくりとるなら
    八つ やまとはほうねんや

    ここまでを考えるに、「散財心で金銭や物に対する執着心を捨てる」が始まりではあるものの、その後の「なにかにつくりとる(何でも生産をする)」事を忘れては困ります。
    『皆を助けるために「散財心をさだめ」、「その理が広まる」と「むしょうにでけまわす」し、皆で「つくりとる(生産する)」から「やまとはほうねん(豊かになる)や」になる』わけで、一人だけ「さんざいこころをさだめ」ても「豊かになる」訳がないのは、子供でも分かります。

    それを「散財心を定めてお供えお尽くししろ」「貧に落ちきれ」とだけ説教して、「なにかにつくりとる」事を教えずにきたのが天理教上層部で、稿本教組伝にも「貧乏せい」が中心に書かれていますね。その為に多くの信者さんや末端教会が貧乏になってしまったのは誰の目から見ても明らかです。
    基本さんの解説は、その天理教上層部の説くお話を強化し、擁護してるだけにしか聞こえません。

    教組さまが「貧に落ちきれ」と言ったなら、どうして中山家の家屋敷土地全てを売り払わなかったのでしょうか?全て売り払って施しをして、自分たちは路上生活でも良かったはずです。

  28. 基本

    この手の問答はいつも同じパターンです。
    >それを「散財心を定めてお供えお尽くししろ」「貧に落ちきれ」とだけ説教して、
    >「なにかにつくりとる」事を教えずにきたのが天理教上層部で、稿本教組伝にも「貧乏せい」が中心に書かれていますね。
    >その為に多くの信者さんや末端教会が貧乏になってしまったのは誰の目から見ても明らかです。
    基本の目に明らかなのは、「誠に出したらたすかる」「埃に出したらたすからない」という単純なことです。

    お金を出すのは助かりたいからで、天理上たすけられない人に出したら、出す人が埃。
    たすかる人に出したら、出す人がまこと。

    >教組さまが「貧に落ちきれ」と言ったなら、どうして中山家の家屋敷土地全てを売り払わなかったのでしょうか?全て>売り払って施しをして、自分たちは路上生活でも良かったはずです。
    この言葉は、なにかにつくりとるならと語っていることに矛盾します。
    落ちきったら吹き上がる、そういう天理があるわけで、中山家は日本中に財産いっぱい作ったわけで、落ちきったこととおちきった結果の証明そのものです。

  29. 基本

    > 信者さんや末端教会が貧乏になってしまったのは誰の目から見ても明らかです。
    そして落ちきったとして、吹き上がらないのは理由はなぜでしょう。三つ考えられます。
    1、中山みきの教えは間違っている。
    2、貧に落ちきることの途中にある。
    3、金出す相手を間違えた。

  30. 末端教会子弟

    質問や突っ込みを入れるのもバカバカしい気がしないではありませんが・・・。

    「さんざいこころをさだめ なにかにつくりとる」ことからも、教組さまの言う「たすけ」がお金を出すかどうかの話ではない事は明らかではありませんか?
    >「誠に出したらたすかる」「埃に出したらたすからない」という単純なことです。
    は、全くポイントがずれてますよ。
    「お金を出すたすけ」ではないのに、「お金を出せ」と教えて来た天理教上層部が問題だと言ってるのです。

    >落ちきったら吹き上がる、そういう天理があるわけで、中山家は日本中に財産いっぱい作ったわけで
    宗教法人の財産は中山家の財産ではありませんが?
    勿論、中山家の人間がかなり自由に使える財産であることは否定しません。
    それよりも、中山家がそうなった1つの事例だけで「そういう天理」と言い切ってしまう事が理解できません。
    日本中に沢山いらっしゃる「ホームレス」の人達等は、いずれ中山家と同じように財産が出来るのでしょうか?

    まともな回答は期待できそうもないので、以後、基本さんへの投げかけは控えます。

  31. 匿名

    基本様
    >基本の目に明らかなのは、「誠に出したらたすかる」「埃に出したらたすからない」という単純なことです。
    >お金を出すのは助かりたいからで、天理上たすけられない人に出したら、出す人が埃。
    >たすかる人に出したら、出す人がまこと。
    〇〇万出せば助かる、と言われて、教会に多額の金を出した場合、埃に出したからたすからない、というえわけでしょうか。「天理上たすけられない人に出したら、出す人が埃」だそうですが、信者にしてみれば、会長にそう言われれて、たすかりたい為に出してしまっ方〃たくさんおられることと思います。このような場合でも出す人は埃なのでしょうか?埃に出す人は埃、ということだそうですが、しかし、素直に、会長さんを信じて出して、あるいは全財産をはたいて、誇りに出したから助からない、では、あまりに理不尽なことですね。勿論、騙した教会長は、神様の酷い罰があたってるのでしょうね?

     

  32. 匿名

    誇りに出したから助からない   →  埃に出したから助からない

       変換ミスです。すみません。
      

  33. 千里眼

    いずれお地場に現れる4人の棟梁は全神人間。教祖の晩年に顕した超常現象を伴なった救けを施し続ける人達だろうと思います。
    又、本来お地場に居続けるべき、本席様の様な存在は、半神人間なのかなと思います。
    又、その神人間の候補者としての大工の人達は、分派の人達も含めてお地場に繋がっている、お道の人達なのでしょう。
    お地場に啓示霊能者を不要としてきた、昭和の時代の本部の人達は背教者であると感じます。又そのことで大きな利益を得てきた昭和の時代の本部員達がいたとしたら、売教者だと感じます。
    道具衆の魂であろうが真柱として生まれようが、彼らの来生には相応の苦労があろうと思います。
    啓示霊能者達の存在を本部に要求し続けない事は、謙虚な天理教人であっても、遠慮気兼ねの埃に当たる事だと思いますね。
    それが御神楽歌の精神の根本だと思います。

  34. 末端教会子弟

    千里眼 様

    「全神人間」って何ですか?
    「教祖の晩年に顕した超常現象を伴なった救け」って具体的にどんなことですか?
    「半神人間」って何ですか?
    「啓示霊能者」ってどんな人ですか?
    「御神楽歌の精神の根本」ということですが「みかぐらうた」の何処に上記の言葉が書いてありますか?

    非科学的とかSFチックを全て否定するつもりはありませんが、教祖様の教えをどのように解釈・理解すればそうなるのかが知りたいのです。

  35. 千里眼

    いずれ棟梁四人いる。とは神の化身の様な人達。透視能力や遠隔治療、念動力、読心術、未来予知、その魂の心の道と現象の関連を説く事の出来る能力。などを発揮しながら人間を救け、且つお地場の人衆を集めていったという、逸話の中に散見される、晩年のおやさまの道程から想像できる人間像です。
    いずれお地場に現れる神の化身の様な人間を「全神人間」。
    一に大工のうかがいに何かの事もまかせおく。とは常時お地場に居なくてはならない本席様の様な人間。必要に応じて「神の想い」を伝える人間。「半神人間」
    おやさまや本席様の様な人間をひっくるめて「啓示霊能者」。そんなイメージですかね。
    お地場を実現する為の御神楽歌やお筆先のあらすじであり根幹ですね。
    神が、かしものかりもの心通りの守護。という根本原理をどう使って人類を救けるつもりなのか?
    過去生を含めた魂のいんねんを映して、説く事の出来た教祖や本席のような超人的な。かつてこの宗教の中心にいらっしゃった様な人間像ですね。
    現在のお地場がどこまで進んだのかは知りませんが、お地場にそういった存在を期待しながら育った一人の末端教会子弟の空想的原典解釈でしょうか?

  36. 末端教会子弟

    千里眼 様

    確かに逸話編や教組伝には教組様の超人的な力や能力を想像させるような記述が見受けられます。
    もし仮に「記述が全て真実で教祖様が超人的能力を持っていた」としたら、その人生や生きざまは「ひながた」と呼べるでしょうか?皆が通れる道として「教える事」自体に無理があると思いませんか?
    教組様の教えを守る事で誰でも超人的力を身に付けることが出来、それを使って人助けや世直しをしなさいという事なら、これまでどれ程の人が「超人的力」を身に付けることが出来たのでしょうか?
    尊敬する教祖様のなさりよう、お言葉なので、尾ひれが付いたり大袈裟に伝えられている事も多いのではないかと考えます。
    また、噂程度で「〇〇分教会の会長さんは・・・」とか「△△の初代は・・」等という話を伝え聞くことはありますが、真偽の程も内容も怪しいモノばかりです。

    子供向けのヒーロー番組では、超人が悪人を懲らしめて世の中を平和に導いてくれますが、大人になれば、現実の世の中でそんな事はありえないという事を誰でも理解するでしょう。
    超人が全てを解決してくれるなら人間は何もしないで待っていれば良いという事になりますから、あらゆる努力も工夫も、考える事すら無駄になりませんか?

    私も末端教会子弟という立場ですが、みかぐらうたやおふでさきの教えを「現実的」に解釈して、教組様の教えを理解していきたいと考えています。

  37. 千里眼

    教祖の初期の頃や本席様を半神人間として、晩年の教祖を全神人間と定義すれば、50年の道程は半神人間から全神人間に成人していったひながたではあるんでしょうし、39歳までの教祖も常人を超えた驚くべき慈悲心をお持ちだったのでしょう。
    啓示以前の教祖の真似事さえ難しいのが現実ですが、成人の方向性を定めるのにはいいんじゃないですか?
    混沌とした社会で麻原や様々なカルトの教祖達に方向性を定める気の毒な人達さえいる訳です。

    >これまでどれ程の人が「超人的力」を身に付けることが出来たのでしょうか?

    どれほどの効果があるかは知りませんが、見返りを期待せず、無責任且つ自己流で、お願いのおつとめをさせてもらっています。
    モーゼやキリストやムハンマドや仏教の上人達やらの起こした奇跡にも、種類も程度も様々でしょうけれど、全知全能の親なる神の化身と呼ぶにふさわしいのは晩年の天理教祖だろうと思います。日本民族の素晴らしさを忘れた現代日本人と教組の凄さを見落としている天理教人はなんだか似ている様に感じますね。

    とうどこのたびみえました、おおぎのうかがいこれ不思議。極少数であっても千里眼の初期的能力を発揮される方はいらっしゃるんじゃないかと想像します。

    現在の天理教幹部や八島教がどのような理屈を並べるのかは知りませんが、逸話の編集にそれほどの誤謬はないと信じます。

    常人は転生する先さえ選べませんが、
    教祖は外的要因が無ければ115歳以上生きたであろう上に、転生を拒否してお地場で働き続けることに決めた訳です。現代の常識?ではありえない超常現実を起こしている訳です。
    親神は、尚その上に最低でも本席様の様な半神人間を永遠にお地場に現し続け、全神人間、神の化身の出現も預言している訳です。
    超常的であってもそれがお地場のありようの「現実的」解釈ではないでしょうか?

    モーゼやキリストやムハンマドや仏教の上人達が起こした奇跡

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