身上さとしはについて

天理教にある「身上さとし」というのは到底賛成できるものではない。
突然断言して申し訳ないが、間違いではない。

天理教では、有機体である個人の肉体は神様からの貸借物である。
つまり、自分のものではない。自分のものは魂(こころ)だけである。
そのため、死ぬと貸借物は借り主の神様に返却するということになる。
そして、魂は新しい有機体を貸借し生まれ変わるのである。
だから、天理教では死を「出直し」と表現するのである。(出戻りではない)

外界とこころの境界である肉体は、こころの使い方を間違うことで不具合が生じる。
それが病い=身上(天理教的用語)というものである。場合によっては肉体ではなく、
環境クラッシュ=事情として表れる。しかし、これらの身上や事情は神様からのサイン
であり「お前の心の使用方法が誤りだから直せよ」ということである。
私たちが息をし、生活できるのための生体エネルギーは神様の御守護である。
なので、こころの使い方を間違うと体か、周辺環境に不具合が生じるという理屈である。

もちろんこういった理路は宗教ではありえるだろうと思う。特に「バチが当たる」という言葉があるくらいだから日本では浸透しやすい理路である。しかし、「陽気暮らし」を標榜する
天理教の神様は人間が神様の意に添わないと事情・身上を付与するというのは、あまりに醜い神様だろうとも私は常々思う。私は天理教学者ではないので、このことに関して教義解釈は存じ上げない。しかし、中山みきが言ったことと後々人間が作ったのでは意味は大きく異なる。中山みきがそういったなら、天理教という宗教価値はポストモダンな現社会において、求心力はない。もちろん、私もそんな宗教を尊敬する習慣は持てない。人間が言ったなら、天理教の存在意義のためにも改善するべき課題であろう。

同様に「身上さとし」という概念の発生も私はしらない。しかし、身上さとしという概念は存在する。同名の著書も多数存在する。
「身上さとし」とは、例えば体に不具合が生じた場合に、「あなたの○○(体の一部)が病気なのは、心を間違って使っているからだよ」というもの。
私は、実際に「身上さとし」という著書を読んだことがない(手に取る気がしない)ので
実際にはどういう指摘がされるのか分からない。しかし、私は以前センセイと呼ばれる人に
実際に指摘されたことがある。
私は、10代の頃から腰が悪い。原因はスポーツのやりすぎだが。それを述べた際に
「君は腰が悪いのか。腰というのは、人にお辞儀をするために重要な場所だから、君は他者に対して腰を低くしてないから腰が悪くなるのだ。」と言われたことがある。(基本的に私は態度がでかいのは当たっている)
私の知人は喉を痛めて声が掠れた際に「言葉遣いが悪いからだ」と言われたそうである。
なんて「センセイはエライのだろうか」と感服せずにはいられなかった次第である。

「身上さとし」の概念の内容は問わない。しかし、それを人に、そして病人に述べるという感覚が私には理解できない。病気というものは人にとって辛いものだ。辛い人に向かって「心の遣い方が間違っている」なんて言えたものじゃないでしょうか。二次被害の何ものでもない。やはり、そういったものは人の口を介して、人に言うべきものではない。言われた人は絶句してしまうだろう。なぜ、センセイたちはこの辺を理解できないのか私には理解できない。そういったものは「私の心の遣い方が間違っているのかもしれない」と患者(信者)が内省するものであり、センセイは内省を施しても一々教示するものではない。

話は変わるが、天理教管轄の病院である「憩の家」には事情部というものがある。
そこでは、入院患者の希望者に対してセンセイ(講師)たちが天理教的教えを説くというものがあり、広報的には「この病院では入院患者の心さえもカバーしている」と声高に主張している。しかし、そこでも「身上さとし」が横行しているようだ。センセイたちは、ナースステーションに出向いて患者の病名を聞き、その患者の病気に付随する「身上さとし」を病因論で述べるらしい。人間性で寛大な心で患者に安心感を与えて欲しいものだが、偉そうにするセンセイたちは病人に対して「こうしろ、ああしろ」ということに何の疑問も生じなかったのだろう。

しかし、ここ2、3年でセンセイがナースに病名を聞くことが禁止になったらしい。患者の苦情か、ナースの意見か、それとも事情部内部の意識向上なのか、私はこれを聞いた刹那「おぉ、分かるやついるじゃん」と拍手喝采したことは今も覚えている。「私たちのやっていることは二次被害である」と事情部内部での意識向上であったことを期待したいものである。

身上さとしはについて」への14件のフィードバック

  1. こんにちは

    言いたいことは、よく解ります( ´ ▽ ` )。
    アタシも、子どもの頃から両足に持病があるので身上さとしを愛のない関係の方、病んだことのない方が、軽々しくされるのに反発感があった若い頃があります。
    信仰をしていないのに、よく勉強されていますね!素晴らしいです。
    でも、信仰心がないせいか、真意を理解されていない感じです。

    逆の発想から申しますと、世界を見てください。悪い心使いをするとみーんな病気になっていますか? 健康な人はみーんな心使いが良いですか?
    おそらく、いいえの答えだと思います。神様はとても寛大で、自由です。この世の中そのままです。むしろ、自由過ぎるぐらいに感じます。笑
    神様は親なので、子どもが痛いのは悲しいし辛いのです。でも、そのままの心使いでは、生きていることが当たり前で毎日不満ばかりの毎日で、そのまま生きていたんでは可哀想。この病気で、生きていることが当たり前じゃないと感じることで、感謝が生まれ。その方の日々の景色が変わる。
    バツではありません。親心なんですよ(*^^*)

  2. こんにちは

    病気や事情には、身上さとし以前に
    因縁など深い要因があるので、その方の両親、祖父母などのことも良く知る。親心を持って対応できる方の意見を聞くのが一番です。

    それに、深谷先生の身上さとしも
    開いてみるとかなりアバウトなことにビックリされるのでは?と思います。厳しいことが書いてあるかもと思い切って開いても、想定外の意見もあって参考になったり。先生も、あくまで身上さとしは参考程度にお使いください。などと書いてあります。まして、人を傷つけるような使い方にも注意されていたと思います。

  3. まずよく調べられていることは確かですね〜。素晴らしいですよ!
    ですが、そこまで…。
    やっぱり我々は信じて神様という存在を追っかけている人も居れば教祖様様!!な方もいらっしゃいます(笑)いやいや笑ってはいけませんがそれも人間らしいじゃないですか〜。
    信仰心ってのはその人それぞれの生き方にちょっとしたお薬をお与え下さっているんじゃないでしょうか。
    たくさんの宗教、沢山の仏教神道…それぞれの人種生きる環境によってそれぞれに合わせて教え理解出来るように宗派があると思います。
    結局、人が本当に陽気に幸せにただ楽しく人生生きられればそれで良くないですかね?
    家族が出来、大きな争いなどなく優しく心を磨く道のりを私達は教えてもらってます。
    そこで間違いがあれば親が子を正すように、我々も親である親神に正してもらってるんですよ。
    理解出来なければせんでええよ。
    貴方にはあなたの道があるからです。
    ですが、忘れないで欲しい。
    自然の恵み身の回りにある水や火、風…これらに感謝し自然界に何か還元する事が徳ある人間になっていきますよ。

    それぞれの人生観で楽しんでいきましょうよ!

  4. 匿名

    柳井某氏や深谷氏他、身上サトシの本はいくつかありますが、本当に過去生を映せる超人的な方々がケースバイケースでお話になった事をつまみ食いしながら本になさっている訳ですね。
    優しい低い心で通りましょう。という結論に誘導するには、ムゴイ高慢な精神をさんげされてからなら有効かもしれませんね。
    心が弱っている人に対して、上からサトス馬鹿大教会長は、クズですけどね。

  5. りんこ

    皆さんはじめまして。

    去年の暮れから身上が相次ぎ、これは何のお詫びなんだろうと「身上さとし」で検索していたところ、此方のサイトに辿り着きました。

    あんまり深く考えなくても良いのかな?

    身体は神様からの借り物、神様から頂いた身上ですものね。
    上手に労わりながら使わさせて頂こうと思います。

  6. 古い教会長

    りんこ様。
    >去年の暮れから身上が相次ぎ、これは何のお詫びなんだろう・・・

    よく、こういう発想をしますが、これは教理でも何でもありません。発想が暗くなります。
    与えられた身上をポディティブに前向きにとらえ、向上していければいいですね。

    >あんまり深く考えなくても良いのかな?
    身体は神様からの借り物、神様から頂いた身上ですものね。
    上手に労わりながら使わさせて頂こうと思います。

    その通りです。

  7. りんこ

    古い教会長様
    ご返信ありがとうございます。

    お詫びという教理は無いのですね。
    若い時から病気がちで、私が身上になると母が神様の真意はどこにあるのかと深刻な顔をして考えていました。
    そんな事もあって身上になると神様は何を訴えているのか、何をお詫びしなければいけないのかと、考えるようになっていました。

    そんな事を考えていたら暗くなってしまいますよね。
    前向きにポジティブに考えを変えていこうと思います。
    ありがとうございました。

  8. 匿名

    かしものへの感謝を深め、明るい陽気な心と優しい心を養う。

    教祖が再来すれば、都度お話しも伺えるでしょうけど、今の宗教家の利益誘導型オサトシにはウンザリです。

  9. 東風Z

    病気になるとか、ならないとかを、いちいち心配していたら楽しく生きて行けない。
    たまに来る息子の自動車を借りて安全運転していても反対から来る車がセンターラインを越えて来たら一巻の終わり。それと同じだと思っている。だからと言って、自動車の運転を辞めるわけにもいかず、仮に、路線バスに乗っていても偶然に起きる結果は同じである。
    80歳目前の私だが、過去に二度大病を患っている。一度目は30歳にもならない時だった。医師からもうダメと言われて覚悟した。持っていたお金をすべて使い果たしたときに全快した。医師はしきりに不思議がった。
    二度目は7年前。ガンだったが偶然にも素晴らしい医師始め医療関係者に巡り合えて完治した。
    今の唯一の悩みは、爪水虫だが、これもルコナックという薬が出来て快方に向かっている。

    酒・タバコは遣らず。腹7分目、早寝早起きの日課に周囲は何を楽しみに生きているのかと問うてくるが、食べる物が美味しく、出る物が出て、よく眠ることが出来れば何に不足があろう。
    敢えて座右の銘を述べるとすれば、「嫌いなもの・嫌なもの」が薬だと思っている。
    但し、天理教だけは薬とならず、気持ちがへこんでしまった。今は、お供えを止めた分、少額ですが国際的な医療機関に毎月寄付をして医療への感謝の気持ちを表している。
    ただ、生まれつきや慢性的な病気を抱えている方々に、かける言葉がなかなか見つからない。そこへ宗教が割り込んでくるのであろう。天理教が説く真の助かりとは何であろう。いまだに分からない。

  10. 匿名 

    東風Z 様
    >医師からもうダメと言われて覚悟した。持っていたお金をすべて使い果たしたときに全快した。医師はしきりに不思議がった。
    これは、お供えにお金を使い果たしたということでしょうか?それとも、お供えは関係なく、治療費にでも使われたということでしょうか?その点をちょっとお伺いしたいのですが。

  11. 東風Z

    2017年4月18日8:22PM 匿名様

    お尋ねを頂き有り難うございました。
    お供えでも治療費でもありませんでした。18歳から貯めたもので、当初の日給月給は2千5百円程度でしたから5~6年間貯蓄しても大した額ではありませんでした。更に、勤め先が個人事業で健康保険も無かったのです。それでも父母はお供えをするようにと云いましたが、当時は、教会も今ほど、お供え、お供えと言わなかったように思います。その当時は結核は死の病でした。身長は176cm・体重は50㎏前後とやせ細っていました。当時の抗結核薬は高額で、治らないとの思いが強くあったこともあって途中で治療を辞めざるを得ませんでした。残り少ない資金で気の向くままに好きな鉄道で死覚悟の旅をしました。ただ、クマザサが良いと聞いていたので近くの山にとりに行くき、乾燥して、石うすで粉にして飲んでいました。
    お金が無くなる寸前に、まだ生きていることを不思議に思い、久しぶりに医師の診察を受けました。医師は治療を続けなかったことを怒りながらも、胸の影が消えていることを不思議がっていました。周囲、特に教会は父母の信仰のお陰と言っていましたが、父母が教会にどのようなお尽くしをしていたのかは知りません。余談ですが、今、思えば結核菌をまき散らしていたのかもしれません。
    私の年代までの人の多くは、若くして結核で命を落としている人は多かったのです。そして、現在ほどの危機感も持ち合わせていなかったようにも思います。現在では開放性肺結核は強制入院させられるのではないでしょうか。
    その後、私のような者を雇ってくれる企業があり70歳近くまで勤めることが出来ました。死線を超えて生きてきましたので、ただ感謝あるのみですが、後々に教会からの毎月の月次祭への参拝要請やお供え要請が出てきました。体は頑強ではなく、更に、時間的余裕や経済的な面で素直に応えることが出来なかったのは事実です。
    今思うことは、教団本部は何故あの巨大な不動産を持つに至ったのか、正に欲の塊としか思えないのです。
    宗教としての有りようは、教学の場が充実していれば、それで十分だと思うのですが、余りにも短時間のうちに色々なことに手を広げ過ぎて、教学の場がおろそかになり、その尻拭いに追われているように感じられてならないのです。

  12. 末端教会子弟

    >ただ、生まれつきや慢性的な病気を抱えている方々に、かける言葉がなかなか見つからない。

    難しいテーマですね。
    教祖様ならと考えても、なかなかしっくりくる言葉が見つかりません。
    今の個人的知識や考えでお話しさせて頂くなら、

    「貴方が今借りているのはその身体なのだから、それをどのように使っていくか、そして活かし役立てていくか貴方の胸次第です。「健康頑健が良い」というのは人間が考える価値観ですから、神様から見れば、健康頑丈に生まれようが病弱障害を持って生まれようが、同じ立場であり価値のある人間の『心』です。
    乙武氏も『障碍は不自由ではあるけれども不幸ではない』と言っています。
    ボクシングの世界チャンピオンが女性を暴行して訴えられたという事件もあります。
    もし、貴方と同じような苦しみを味わっている人を少しでも救いたいと思うなら、その為に人生の時間を少し使ってみたらどうでしょう?方法は一緒に考えましょう。」

    てな感じですかね。
    皆様の修正案を募集します(笑)。

  13. 東風Z

    匿名です 様

    御守護なんてありませんでした。御守護があれば病気になんかなっていません。あの頃は結核が流行病だったのです。多くの若者が結核で命を落としました。食べる物も満足にない状態でした。貧しい家庭で、牛肉などは年に数回ほど食べられればいい方でした。初めてバナナを食べたのは小学5年の頃でした。それも1本のバナナを兄弟姉妹6人で分けたのですよ。その時のおいしさは70年余を経た今も忘れられません。甘いものが無く、庭の柿の剝いた皮も捨てずに、糸を通して干して、乾くと石うすで挽いて粉にしたものを砂糖代わりになめていたのです。魚を食べられるのは月の初めと、15日だけでした。その魚も何時もイワシばかりでした。
    小学3年まではお米のご飯も食べたことがありません。毎日毎日ダンゴ汁とサツマイモと米軍からの臭い匂いの粉乳でした。小学4年生の頃になって、週に3回ほど米と麦が半々のご飯が茶碗に一杯盛り切りでしたが食べることが出来るようになりました。その美味しかったことも忘れられません。そのような少年時代を過ごした者に体力はありませんでした。
    昭和19年小学校に入った子供達は裸足で来ていた子供、藁草履の子供ばかりで、靴を履いている子供は少数でした。少学3年生の頃だったか、米軍のジープの古タイヤで作った草履が売り出されました。無理を言って買ってもらったのですが、一日中履いて帰ると足の裏はタイヤの粉で真っ黒になり、洗っても取れず、布団まで汚して母が困っていたのを覚えています。
    冬になれば、しもやけが出来て足の小指の骨が見えている子も居たのですよ。今のように国民健康保険も無く、医師に掛かることも出来ず、和紙に墨のような黒いペースト状のものを塗って貼り付けていました。
    上野駅では、毎日毎日親の居ない子供達が死んでいったと両親が言っているのを聞きました。そのような地獄にも等しい実態が有ったのです。「鐘の鳴る丘」の歌は今も忘れられません。

    少しセンチメンタルな話になりましたが、そのような少年時代を経て今があります。信仰をしていた両親を悲しませないために、信仰の真似事をしていたのかも知れません。ですから、今日の生活に何の不足がありましょう。だからこそ自分に打ち勝つ努力が出来るのではないかとも思っているのです。内統領や表統領のようにブクブク太っていません。前にも書きましたが、酒は飲まず、タバコも吸わず、早寝早起き、三食は腹七分目、食べる物の好き嫌いは少ない方ですが、それでも嫌いな食べ物が薬だと思って何でも喜んでいただき、出る物が出て、夜はぐっすりと眠ることが出来れば、これに勝る喜びは無いのではありませんか。
    教団本部の方々も、お金、お金と言わずに進むべき道があると思うのですが。匿名です様も波動がどうのとか仰らずに、日々の人の有りようを説かれては如何ですか。
    現行天理教はお金のことばかり言うので信用していません。が子供の頃から教会で、一寸先は闇だ、と言われてきました。だからこそ老い先短い日々の、ひと時ひと時を大切に、少しでも大きい喜びを感じられるように生きてゆこうと思っているのです。

  14. 匿名

    そういえば昔は、傷口に「お息の紙」を貼ってもらってましたね。
    今のバンドエイドより効き目があったように、子供心に記憶しています。

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