天理教におけるお金の位置を考えさせられることがある。
また、それはウェブ上で展開される天理教批判と関連がある。
ウェブでの天理教批判で目につくのが金銭問題である。
ウェブ上でのことなので、真偽や信憑性には欠けるものがあるが
それでも火のないところに煙が出ないように、当事者がなんらかの問題を感じての行動であろうことは明白である。その主旨は、お供えを強要されたということが主である。
お供えを強要すること自体が宗教的矛盾を提示しているのだが、先ほども言ったように真偽は不明なので、だからといって天理教を批判はできない。
しかし、私がたまに感じることは天理教の人の金銭感覚と一般感覚との解離である。
内々の話になってしまうが、天理教の教会というのは上級教会への上納金がある。金額が設定されているのかは私は知らないが、毎月のお祭り(月次祭:つきなみさい)で信者から集められた金銭を上級教会の月次祭の際にお供えという形で上納される。だから、上級教会は、下級(部内)教会の月次祭より後に行われる。その上納金の金額が決められているのかは私は知らない。一部なのか、80%なのか、全額なのか・・・スパイではないのでそこまで詳しいことは聞けない。しかし、例えば上級教会にお金が必要な場合(ex普請:教会の立て替え)が生じると部内教会に毎月いくらという金額提示がされる。部内教会はお金集めに躍起になる。お金集めは「お供えは、あなたをたすける(ふしから芽が出る)」という問題にすり替えられ信者に言われる。
その点が一般人には理解できないのであろうと思う。天理教人の説明不足以外のなにものでもない。常々言っているように、理解不明な事象にこそ明確な説明が必要なのである。
ここで本題に入るが、天理教人のお金への執着は素晴らしい。
上納金は当教会への評価へと繋がるし、自己肯定にも繋がる。
ここで、執着という用語を検証してみたい。そもそも、天理教人のお金への執着というのは上記のように評価や自己肯定へ繋がる場合のみでしか発揮されない。
天理教人が行う集金は、なにがなんでも「お金儲け」ということとは異なる。なぜなら、結果的に手元に存在するお金は上納されるべきお金であって教会人個人のため収益とはならないからである。あくまで、金銭獲得という直接利益から生じる評価や自己肯定感という間接利益こそが彼らの欲すべきものである。
そのためか、彼らは「働く」ということに価値を置かない。働くことは生存戦略上の必須項目であるというのは社会のもつ共通の価値である。しかし、彼らはそれと一線を課す。むしろ、道一条(働かないで天理教一筋)という概念を対峙させることで働くという行為を卑下している視点さえある。そして、働きながら教会人をしている人に対して冷たい視線を送っている。(教会人をしながら働くということは家庭を経営していく上で可能だが、教会人だけでは食べて行けない=信者を獲得できていないというレッテルを張られる)
つまり、私が言いたいことは教会人こそ社会と進んで解離しているということである。
私見だが、教会に引き寄せられる者は社会から押し出された人が多い。そして、教会人は押し出された人とともに「社会は腐っている。社会の人間はお道(天理教の別称)を知らんから助からん」という飛躍した話題で盛り上がる。
社会と天理教との距離を縮める提案をする人を見たことがない。
1. 宗教のうちがわ
この記事は宗教の現実の一面を語っていると思います。困難に陥っている人を手助けすれば宗教の名を借りた偽善者を排除することが出来ると思います。