私は時々街を歩いていると天理教の人達に遭遇することがある。たまに。
この間は、金曜の19時くらいに大阪難波の駅前で路傍講演をしている天理教人と遭遇した。
10人くらいで、一人が「天理王命」(てんりおうのみこと)と書いた垂れ幕を掲げ、その隣では青年が拡声器で天理教の話をしていた。残りの人は信号待ちの人にビラを配って・・・
関西の人なら分かるものだが、大阪難波というのは繁華街である。ましてや金曜は・・・
しかも、オーロラビジョンやらクラクションやらでもの凄い喧騒である。
一生懸命拡声器で話しているのは分かるが何言ってるか聞こえない・・・
ビラを配るのはいいが、スクランブル交差点では邪魔でしょうがない・・・
このような光景が天理教と社会の解離を端的に表していると思う。
彼ら側には人が多いところで活動したということが適度な疲労感が満足を呼ぶかもしれない。しかし、歩行者側は騒音が一個増え、進路を遮られ、「うぜーなー」と思われていることに想像が及ばないことは理解に苦しむ。彼らは何のためにあんなところで活動しているだろうか・・・ もちろん、数打ちゃ当たるということでビラを貰ってくれる人も、ふと立ち止まって話を聞く人もいるかもしれない。
そもそも、神名流しという行為自体が私は理解できない。いつも誰のためだろうと思う。
個別訪問(天理教人が布教のため、家庭を『天理教ですが話を聞いてください』と押し掛ける)も同じで、これらは世間一般の人は「嫌がる」もしくわ現代人の得意技「雑音として処理する」ことで終わる。まさか、サブリミナルを狙っているわけではないだろう。
神名流しや高校野球などはサブリミナル効果もあるかもしれないが、個別訪問は他者に拒絶される。これはサブリミナル以前の問題である。
現代社会で突然得たいの知れないものに家というパーソナルな敷居をまたがれたら拒否するのが通常である。よく考えて欲しい。しかも天理教人はそこになんの疑問も感じない。むしろ、ことわれ続けても行うことに美徳を見出すほどである。どMでしかない。しかも、彼らは教会に異教徒が来た場合に「そんなもん。いらんいらん!」と追い返す場面も私は見たことある。
もし、これを『たんのう』としてしまうなら、その代償は大きすぎるだろう。だってマジョリティが拒否するよ陽気ぐらしに人が集まるわけがない。
こかん様(教祖の子ども)が浪速に神名流しをしていた時間軸で考えてみよう。
あの時代、神名流しをしていて民衆のマジョリティとして拒否していた人は少ないことは容易に推察できる。民衆は好奇な目で見て、「おや?おもしろいものが出てきたぞ。いっちょ話くらい聞いてやるかー」となったと思う。実際私はそう聞いている。それを現代に当てはめるのは無理がある。その時代の現象をひな形としても、同じことをやってては価値がない。ひな形というのは、温故知新的進化に価値があることではないのか?
私は以前、こういったことを天理教人に言ったことがある。「理解に苦しむ」と。
すると、相手は「それでも引っかかる人にとっては天理教を知ることで助かるんや」と。
つづけて、99人拒否しても1人助かればいいということも言ったが私は到底理解できない。
なぜなら、天理教の教えは苦しんでいる人限定ではないはずだからである。
確かに布教戦略上、そういった視点で布教することは信者獲得のためにアリだと思う。
しかし、そこに集中して「興味ない人は来なくていい」というのは違う。
天理教はだめの教えのはずであるからだ。(だめの教え=ダメな教えではない)
だめの教えなら、みんなに伝える必要があるはずなのだ。
もしそうなら、「感謝・慎み・たすけあい」というスローガンは必要ない。
「救済」します。というメッセージだけで済むことだ。
病んでいる社会を救済し、真の陽気ぐらしを伝えることが天理教人の仕事ではないか。
だから、一人でも助かればいいというのは、残り99人をなんとか減らすために、分かってくれない99人に向かって言わなくてはならない。99人は分かってくれないから、次の100人の内の一人に言ってみようでは一部の均質性の高い人間しか集まらないだろう。
そこで満足するのは、カルトである。
私が言いたいのは分かってくれない人に分かってもらえる努力をしろということである。
そういった社会通念上「当たり前」のことを「じゃ、現代だからこうしよう」ということを皆言わないのはなぜなのだろう。「やっぱこれっておかしーよね」という感覚こそが大切なのだと思うのだが。
追記
韓国ではカトリック系のキリスト教に入信する人が急増しているらしい。その理由は何かと言うと、教会がボランティアをしまくっているかららしい。とりあえず、真面目にコツコツとボランティアを行うことが結果的に布教になり、民衆の信頼を獲得したとTVは解説していた。天理教人がどうしたいかという議論ではなく、どうしたら民衆の信頼を獲得できるかという議論に転換した方が天理教の将来は明るいだろう。
はじめまして。とても勉強になるブログ、拝読させていただいております。
天理教の人からいったら、このコントラディクションは、理と情の間の過程ではないかと思いますね。
このブログ?を見つけてくれた、お世話になってる天理教元布教所の若者に、「たんのう」って何?と聞くと、「腹の立つのを我慢して、もっと前向きな気持ちになること(ずいぶん表現は違うけど)。」と教えてくれた。ヤマギシでは「腹の立たない(立てないじゃなく)人になる」ことを目標としてると説明しておいた。
「我慢」するのはあまり好きじゃないです。最近はまっている「法輪功」にしても、テーマが「?・?・忍耐」というのが気になります。
神名流しね。
特に奈良駅周辺は多いね。
天理駅→奈良駅→大阪→全国へ
という、中学生が夢見る都会の世界へ羽ばたくコースをそのまま辿っています。
中学の時、初めて行った大阪の街には感動したな~
奈良にはマクドナルドがあったしな~
そんな中で恥をかくという自傷行為に酔いしれる集団。
喧騒の中の異物感。
ドM集団。
達成感。
変態や!笑
変態が歩いてきたぞ~い!!
みんな逃げろ~!
http://inochinonakigoe.grupo.jp
このコメントを入れて半年かぁ。
どういう巡り合わせか、修養科905期となり、11/27/2016に終了です。
この部分同感です。
>だから、一人でも助かればいいというのは、残り99人をなんとか減らすために、分かってくれない99人に向かって言わなくてはならない。99人は分かってくれないから、次の100人の内の一人に言ってみようでは一部の均質性の高い人間しか集まらないだろう。
天理だけでなく、全ての宗教、宗教的なもの達は、現在、
いちれつ勇んで世なおりを目指し、お救けをして行く時だと思います。
11/20/2016 00:17 天理中河詰所喫煙室にて。
広島基町 一ノ瀨厚 62歳
ヤマギシ会会員 19歳
顕正会会員 61歳
創価学会会友 61歳
入獄中の友人より、日月神示のメッセージが送られてきます。
修養科の皆さんの勇んだお姿にずいぶん勇気づけられました。ありがとうございます。
回廊のほこりを無心にとっておられるお姿を見ていると、自分の心のほこりを払わないといけないなと思わせていただきました。
明日、 という人物が神名流しをやろうとしています。迷惑以外のなんでもないので止めてほしいです。まさに本人達はそれが正しいといわんばかりに迷惑行為に気づいておりません。だから嫌いなんです。
なにかの漫画で イタ車は 派手であればあるほど 世間から見ると 変だけど イタ車愛好家の中では 神とあがめられると描かれてる箇所がありました。