以前、センセイと言われる人とお酒を酌み交わしていたときふとキリスト教の話になった。
何年も前のことなので、何故そのような話題になったのかは分からない。
しかし、内容ははっきり覚えている。
そのセンセイは「え?キリスト教は天理教が作ったんじゃないの?」という発言をされた。
私の頭にはクエスチョンマークが点灯した。
よく話を聞くと「キリスト教も天理王命(てんりおうのみこと:天理教の神名)が作った」と思っているらしいのだ。私はそれには同意する。なぜなら天理王命は万物の創世であり、いざなぎといざなみから人間を創造したのだから、人間誕生も含めすべての行い(イエスの誕生さえも)が天理王命の御守護だとするのは宗教の教義としては異論はない。(ちなみに、いざなみといざなぎは天理教オリジナルではなく日本書紀の物語である。勘違いしている人は多い。)
しかし、この後に同意できない言葉が続いた。端折って言うとキリストは天理教より下である。だからキリスト教信者もイスラムも天理教信者である。だからキリストの話をわざわざ親心から聞いてあげているのだそうだ。(ちょうどこの頃天理大学では「キリスト教との対話」だったかな、そんな名前で西欧のキリスト教系の大学と大々的に交流していた)
なんと天理教はエライのだろう。
こういった人としてなめた発言ができる人は天理教以前に人間として私は尊敬できないことを感じないのだろうか。そして、私の感覚は世間に近いと思うのだが。
天理教の常識は世間の非常識と言わざるを得ない。
何故、天理教が最後(ダメ)の教えであるという理由が説明できないと、空しい議論にしかならないのですね。