ひのきしんについて

啓蒙主義以降の批判からキリストが復権したのはコツコツ取り組んだ奉仕活動が
大きな要因だったと言っても過言ではないと思う。

先日、キリスト教会所属の韓国人ボランティアがタリバンに拘束される事件があったが、
韓国ではキリスト教の勢力はかなり大きいみたいである。
その勢力拡大の要因としてボランティアの充実が挙げられていた。

ボランティアを天理教で言うと「ひのきしん」に相当すると考えられる。
私は以前、偉いセンセイの講演で「ひのきしんという用語は世間一般でも『ひのきしん
といえば天理教』というくらい有名である」と聞いたことがあるが、世間一般に在籍している
私としてはその感想に同意できなかった。

毎年5月には「全教一斉ひのきしんデー」という行事があり、全国(全世界も)の天理教人が
ひのきしんというボランティア活動をしている。それは主に地域等の清掃活動になる。

ひのきしんとボランティアの違いについては、行為に込める思いの違いである。
ひのきしんという行為は「他者の利益」のためでなく「神への感謝」である。
例えば、清掃活動という行為でもボランティアの場合「皆が気持ち良くなればいいね」というような思いを込められるが、ひのきしんの場合は「神様から借りている体とご守護に感謝しましょう」という思いになる。感謝の形態である。

思いの違いこそあるが、共通の利益のために行う行為なのでボランティアだろうが、ひのきしんだろうが非常に素晴らしい行為である。

しかし、ひのきしんの場合、単純に喜んでいいものだろうかと私は常々思う。
なぜなら、ひのきしんの説明において、「ひのきしんとは神への感謝」である。
という点で思考がストップしていることである。

「個人の神への感謝を共通利益に還元する必要性を今ひとつ説明しきれていない点」

「どういう時に神への感謝の必要性を体現しているのか」
という点である。
まず、説明しきれていない点については「神への感謝」なら「一人でしろよ」となる。
+ひのきしんをしている人に対して「ありがとう」ということは矛盾していることになる。
ひのきしんをしている人が持つ個人が感じる神への感謝と共通利益は直線ではない。

直線というのは贈り物をくれた人に感謝することである。
贈り物をあげてないのに「ありがとう」と言われるのは間接であり、そこには他意がある。
だから、説明をする場合「神への感謝」という言葉で終わらせてはいけないと思う。
「神への感謝をするために皆の利益になることをするのは・・・・」という付け足しである。
もちろん、その付けたしは人類は兄弟という思想から想像するに難くない。

では、2つめの「いつ感謝の必要性を体現するのか」という疑問については前述した
なぜ説明する必要があるのかという疑問と結びつく。

この間、敬老の日であった。養老先生がどこかで言っていたのが、
「敬老の日がわざわざあるのは、日頃から老人を大切にしていないからだ」
というようなことを聞いた。
それを「ひのきしん」にあてはめると「全教一斉ひのきしんデー」の存在意義も掠れる。
なぜなら、神への感謝は特定の短期間で終わるはずはないからである。
つまり、私がひのきしんと聞くとその背後には自己満足という背後霊がチラチラ目についてしまう。
そういった視点で見るとひのきしん自体がイベント的に使用されている感さえある。
何人かで集まると、とりあえず「日頃生かされている喜びを体現するためにひのきしんでもしよう」(こんなメンドクサイ理由を言う人はいない)と、「とりあえずひのきしんやっときゃいいでしょ」というものがあるように感じる。
以上、私の不埒なひのきしんへの不満を述べたが、それが理論的、教義的に正鵠を得ているとは思わない。私が強調するのは「神への感謝」を言い過ぎることによって他者への共通利益を生み出す理由をダブらせているという点である。
また一方で、ひのきしんという行為自体が布教という側面を担っていることを明示する必要もあるだろう。(そうでなかったら敢えて目立つことをする必要はない=「目立つためにひのきしんをしてない!という人間がいたら是非一人で誰もやらないことをしない必要性を私は聞き出したいものだ)
クリアな説明と、これは布教でもあるという意味を含めることを合意するだけでも
ひのきしんの存在意義は非常にクリアだし、意味も大きいと思う。

ひのきしんについて」への6件のフィードバック

  1. 匿名

    1. ひのきしん
    人それぞれで姿形は変わると思いますが、天理教本部で行われている土持ちひのきしんを御存知でしょうか?匂いを掛けるということに連想される天理教の布教形態である「にをいがけ」もそうだが、みかぐらうたに書かれた神の言葉の実践が基本姿勢だと思う。

    神の前には欲もなければ、打算もない。ただ、ひたすら神に喜んでいただける道を歩くのみですね。

    おやさまのひながたとは、神がみき様のからだをもらい受けられた時点から始まっています。つまり神のされることであり神の言葉であるわけです。ひながたを通ると言うことの意味は、神の思いを実践する。ひのきしんはそういう心の表れでなければならないのに、言われてもしようとしない横着者により全教一斉ひのきしんデーは始まったのでしょう。

    ひのきしんの一番の実践形態とはおさづけであり、そのおさづけで人を救えない人が増えてきているのも事実でしょうね。

  2. おしょん

    ボランティアとは、奉仕活動の事と思います。無償奉仕です。対価を求めない、無関係な人々に喜んで頂く行動と思います。
    ひのきしんとは、天理教の教えの「人助けたら我が身助かる」と言われまして、人を助けたら、我が身(自分)助かると言って行う自分本位の考え方です。これは、全ての教義に当てはまります。陽気暮しも、朝起き正直働きも雛型の道も全ての教義に当てはまります。私はひのきしんよりボランティアの方が素晴らしい行いだと思います。
    ちなみに、私はA大教会(直属)T分教会(所属)ですが、真言宗の檀家です。貴方と同じ天理教の応援者です。

  3. ひのきしん

    ひのきしんとボランティア活動の違いがずっとわかりませんでしたが、最近、少しわかった気がします。
    他人から見るとひのきしんもボランティアも全く同じ様に見えます。ですが、この二つの行為の違いを定義する場合に大切になのは、やっている本人の意識の違いなのだと思います。
    お道の教えをしっかりと心に修め、親神様に感謝して行うなら(社会でもなく、自分でもなく)、その行為は、すべてひのきしんだと思います。一方、ボランティアをしている人の思いは、人それぞれであり、一義的なものではないと思います。かといってどちらとも素晴らしい行為には違いありません。私個人としては、違いはあるかもしれませんが、優劣をつけるものではないかと思います。

  4. 崩壊

    「ひのきしん」は天理教の教理として次のように教えられています。
    人間の体は親神から借りた「借り物」(レンタル品)であり、親神からすれば「借し物」であるということです。個々の人間の肉体の所有者は親神であり、人間の「心」だけが人間が自由に使うことができる自己の所有物だとされています。この教理は、天理教では「借し物・借り物の教理」と呼ばれています。人間の肉体のはたらきはすべて、親神の支配下にあり、親神が守っている(守護)しているとされています。人間が誤った心を使えば(こころえちがい)、親神は、人間に心の使い方を正して軌道修正させる為に、人間を病気にしたり、病気以外の人生上のトラブルや困難を与えます。それは、あくまでも、人間の生き方を軌道修正させるためであり、人間を苦しめたいからではありません。「ひのきしん」とは親神から肉体を借り受けて、親神から守っていただいていることへの感謝の意味をこめてする奉仕活動のことです。
     しかし、上記の意味合いをもつ「ひのきしん」が悪用される場合が多々あります。ひのきしんは奉仕活動であるために無償です。つまり、人件費が不要です。それをよいことに、大教会では「青年」とよばれる若者がタダ同然の賃金で「ひのきしん」をしています。大きな規模の分教会では「住み込み人」と呼ばれる人達が、教会で寝起きし、タダ同然の賃金で働いています。教会本部では青いヘルメットをかぶった青年会の若者達が、タダ同然の賃金で作業をしています。そうした「タダ同然の賃金」は天理教では「お与え」と呼ばれています。「お与え」とは極めて「上から目線的」な表現で、私は大嫌いです。今の天理教では、「ひのきしん」は本来の教理とは大きくはずれ、「人件費をうかす手段」として利用されているケースが往々にしてありますので、世間一般で言うボランティアや奉仕活動とはニュアンスを異にする異質のものだと思います。

  5. ひのきしん

    崩壊さんのおっしゃる通りですね。
    ひのきしんとは、信仰者自身の自由な発送により行われる行為であり、立場の強いものから強制されるものではありません。本部や大教会、有力分教会は、敷地や建物が大きくなりすぎた故に、内向きの奉仕作業が多すぎるかと思います。時代の流れにより、スリム化し、外に向かってのひのきしんが今より数倍できるだけで天理教のみならず社会が変わると思うのは私だけでしょうか?

  6. 匿名

    ひのきしん様。
    その通りです。敷地が余りにも広くなり、ひのきしん者は無給の都合よく使える単なる労働力です。内向きの労働力確保であり、強制労働。そこに自分の意志はありません。小さな教会での住み込み青年がちょっと休んでいたら、教会長夫婦から真面目にやれと突っ込みを入れられる。
    ボランティア各位に真面目にやれ、と言いますか?自分達が都合良く使おうとするから、押さえつけが起きるのです。教会長夫婦にご奉仕ありがとうの気持ちがあればそんな態度に出るはずがないです。ひのきしんで徳を積ませてやっていると言う、傲慢さからでしょう。
    立派な若者が神への徳積み、ひのきしんと称して一日中草むしりをさせられる姿は哀れです。
    ひのきしんはあくまでも自主性によるべきものと思います。

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