会長という名称について

組織のトップであったら、組織形態を冠とすることは当然である。
会社なら社長。
組なら組長。
町なら町長。
などなど。

そういった意味では教会という組織のトップに対して会長という名称は適切である。

しかし、私は「会長さん」と聞くとどうしても違和感を覚える。
一般的に「会長」と聞くとどうしても平社員からのヒエラルキーを上り詰めた功労者という
背景を想像させられるのが普通ではないかと思う。

結論を先んずれば、私の会長に対する違和感の所在は、通常会社の会長という名称に付随されるべき人格者としての尊敬に値する実績が担保されていないからだと思う。

人格者というのは単に「いい人」という意味ではなく、とりあえず組織のトップに立ったこと
のある人間という価値に対しての一定の評価である。
実績の担保というのは例えそいつが人格的に「嫌な奴」であっても会社を運営(設立)したという実績は個人的感想に依拠しなくとも社会的に評価される人であるという意味である。

会社というのは事業が何であれ、利益を上げ社員に賃金を払っているという金銭の流動を行っている時点で社会に貢献しているので、すでに個人としての資質は秀でている所があるというこのになる。

一方、教会の会長の場合、通常背景に付随する実績が担保されていない。
そのため、会長というポジションが信頼できない。

なぜ、私がそこに疑問を抱くかと思えば主観的に尊敬できない人間が多いからだ。
挨拶もできない、人間関係もできていないのに偉そうにアゴで使う会長を私は知っている。
それは決して嫌な奴ではない。嫌な奴以前の問題だと私は感じている。
だから、そういった会長に対して批判的なのである(個人的感情が大きいが)
そして、実績もないのに「会長さん」と言われ続けることに酔っているとしか思えない。
毎日、教会でも家庭でも外出先でも「会長さん」と呼ばれればその気になるのが当たり前だ。
私が提案するのは会長という名称の変更か、会長へのエリート教育である。
名称の変更に関しては、代表者や責任者で十分ではなかろうか。
会長という名称では人格を問う以前に崇高なイメージに左右されやすい。

会長へのエリート教育というのは聞こえはよいかもしれないが、
社会人として当たり前の振る舞いができるように教育するということである。
挨拶から、他者への配慮などである。世間に出たことのない会長さんは意外に多い。
現実的対応として審査機関を設けることであろう。「この会長さん、適切ではないので
懲戒請求したい」というのもアリだと思う。(橋本弁護士が言う法曹界みたいだね)

しかし、審査機関を設けて「じゃ君は会長としての資質がないので免職」ということはできないだろう。だって、会長への登用は神の判断(おさしず)だから。神の判断が誤りだとしてしまうと宗教として存在意義はなくなってしまう。
その辺の境界が難しいのだが、是非本部には知恵を絞って欲しいものだ。
なぜなら、会長の資質低下は現場の喫緊の課題であり、組織の崩壊というのは中央から崩れるのではなく現場からボロボロと崩れるのが当たり前であるからだ。

追記
私なりの会長批判を行ったが、尊敬できる会長、一教会に留めておくのも惜しい会長も
いるのは覚えていて欲しい。

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