各記事に対するコメントは従来のままですが、それ以外のコメント・ご意見に対する投稿欄を設置しました。ホーム画面のタイトルの下です。(非論理的な文章や迷惑コメントなどは勝手に削除します。投稿されたコメントには責任は負いかねます。)
http://tenrikyosyakaigakulabo.com/?page_id=405
tenrikyosyakaigakulavo@hotmail.co.jp
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芹澤光治良先生の「神の微笑み」の中で、伊藤幸長青年に中山みきが降臨したと書いてあり、その青年が大徳寺と名前を変えて中山みきの教えを説いているそうですが、一度はお目にかかりたいようなでもこの教祖の教えによって人生を家庭を破滅させられた者もいるのも事実であり、どなたかお会いした方がいたら教えていただけませんか?会いたさ見たさそして怖さがあります。
大徳寺さんに会った事はありませんが、オフィシャルのホームページもあるので
一度、ご覧になってそれでも会いたければ箱根の方へご訪問なさってはどうでしょうか。
http://www.daitokuji.com/tenmeian/
無理な勧誘や金銭の要求などはされないと思います。
毎月8の付く日に開放されているようですから。
天理教をはじめ、様々な宗教は人間が勝手に始めたるものでありて。神に宗教なんぞ要らぬものであり、関係ないものでありて。天理教も教祖の言葉や教えを利用し、他のものが勝手に始めたるものでありて。
信仰なるは心の学び。
心の学びの場となるは、この地球上でありて。宗教の場に限ったものではないものを。宗教なるものに執着し、依存しておる人間は、何故それがわからぬか、実に残念でならぬもの。頭と口だけ回っていても何もならぬもの。頭と口が回っていても首から下が動かぬでは何もならぬ。首から下が動けば自然と頭と口がついてくるものでありましょう。理屈、洗脳…そんなものは要らぬもの。口より行動。良い話しの連鎖ではなく、良い心、賢い心使いの連鎖。それにはまずしっかりと心を使わせて頂き行動に出る。余計な話も良い話しも要らぬもの。その姿こそが誠真実でありて。
すわりづとめより
あしきはろうて
たすけたまえ
てんりわをのみこと
↓↓
各々、悪しき心
濁りたる心を払うて
人々の心を助けたまえ!助けるのだ!
(親神から見れば自分自身も周囲の人間と同じ、人!自分、他人は、人間社会において人間なるものが決めた決め事。親神にしてみれば、自分も他人も同じ人間でありて。それ故に、他人が助かり自分が滅びるようではならぬのや。どの子も助からねばならぬのやで。
自分自身という人も含む、人を助けたまえ!という事。)
天理王命より
という意味。
>>他人が助かり自分が滅びるようではならぬのや。どの子も助からねばならぬのやで。<<
この理不尽極まる教会の上下組織で、上級や本部の言いなりが素直と褒められ、彼らを助け、他人の助かりばかりを願って自分が滅びている末端教会。
どの子も助からねばならぬのやで、は正に神の思召しと確信します。
どの子も助かる陽気暮らし実現のためには、天理教団が消えて無くなるのが一番の早道と、はやる気持ちで期待しています。
一極集中の豪雨ではなく、ここはひとつ、全国にくまなく雨を降らせてくれませんか。今こそ天理教の本領発揮の絶好のチャンスではありませんか。
熱中症続出の因縁とは何ぞやですぞ。願っても無理は承知の上ではありますが・・・。
天理時報8月10日の特別号に成ってくる理を楽しむ、と言う記事があった。現天理教の姿と重ね合わせて、何言ってんだかと笑ってしまった。
「・・・力んでいる姿は、ちょっと外から見ると、いかにも緊張しているように見えるが、内側は空っぽで、一つ穴があくとへなへなになってしまう。締りのある心と言うのはそんなものではない。外に心を使うのではなく内にしっかりしたものを摑むのである。力む生活は自分を立派に見せようとする虚勢の生活である。締りのある生活と言うのは外からどう見えようと、それは問題ではなくて、内を満たそうとするのだから真実である。
成ってくる理を楽しむと言う生き方には力みがない・・」
婦人会110周年に向けての決起集会に人が半分も集まらないようだ。県内県外、他府県の信者のだれでもいいから声をかけて参加を促せとの本部婦人会の名前でのお達しが来た。成ってくる理を楽しむのではないのか?目標の半分に満たないなら、それが天理教本部の真の姿であり、成って来るのが天の理として受け止めるべきです。
数字合わせに多くの人を動員し、数字を増やすことばかりに執心し、虚勢をはる姿は滑稽であり、正に内側は空っぽでいずれはへなへなと崩折れる。外(数字)に心を使うのではなくて、内にしっかりしたものを摑む様に信者を導くのが本部の役目でしょうに。
特別号などで信者に説教を垂れる前に、自分達の心の姿勢を問うたらどうだ?と言いたいですね。こどもおじばがえりの帰参数字も1人が3日居れば3人になる延べ人数で計算していて発表された数字は結構水増しらしいですし。格好ばかりをつけたがり虚勢を張る天理教。肝心の内側が空っぽの証明であり、内を満たそうとしないのは虚偽である。嘘八百の教理で我々を縛ることなく、教祖の真実の教えを我々に開示して信者の内側を満たさせて欲しいものです。
匿名
2019年8月10日 7:00 PM
≪婦人会110周年に向けての決起集会に人が半分も集まらないようだ。県内県外、他府県の信者のだれでもいいから声をかけて参加を促せとの本部婦人会の名前でのお達しが来た。成ってくる理を楽しむのではないのか?目標の半分に満たないなら、それが天理教本部の真の姿であり、成って来るのが天の理として受け止めるべきです。
数字合わせに多くの人を動員し、数字を増やすことばかりに執心し、虚勢をはる姿は滑稽であり、正に内側は空っぽでいずれはへなへなと崩折れる。外(数字)に心を使うのではなくて、内にしっかりしたものを摑む様に信者を導くのが本部の役目でしょうに。
本部婦人会名でのお達しが出たのですか。
参加しましたが、本部派遣の講師の話の内容が貧弱すぎて、時間と交通費が無駄になったと感じました。
今の本部の心のうちが数字に捉われているだけの貧しい心だから、それにふさわしい内容だとも言えますが。
中には仕事を休んで参加した人もいて、気の毒でした。ハッキリ言ってバカバカしい内容でしたから。
信仰とは自分の内面を見つめ、深堀する行為が必須でしょう。
教祖様の言葉をオウム返しに諳んじてみたところで、空虚としか言えない。
自分の頭で、心で考える事が出来ないまま、受け売りの言葉を吐いたところで自己満足にしかならない。
もう、いいかげんに、受け売りの信仰を止めましょう。
受け売りの言葉で信者に教えを説くのは滑稽なんだがなぁ・・・。これに気が付かない大教会夫人が多いようだ。
大教会夫人といえば私のような一般信者が知りようもないことだが、天理教内での結婚だから、本部員の娘だったとか、中山家の出で、今はどこぞの大教会夫人になっている人とかいるようです。
そもそもの出自が狭い天理に限定されている訳だが、どなたか系図を作ってくださいませんか?
現在の姓では出自がよめないので史料価値のあるものだと思うのです。つまり、上記のような本部講師はどこの家の出かがわかれば、見えてくるものも有るからです。
予想では昔からの奈良県天理村で本部員となってきた人たちの末裔が日本中の大教会に配置されているのかもしれないと思えるのです。
そうした婚姻関係でがんじがらめになって成立しているヒエラルキーの元、勘違い夫人講師がお説を垂れているのが決起集会なのでしょう。
本当にバカバカしい。
匿名様 8月10日 10時42分pm
本部婦人会の名前です。大教会からの発送でしたが勝手に本部の名前は使えないでしょうから「本部婦人会」からの要請でしょう。
この集会は 馬鹿馬鹿しい内容であり、信仰の本質に触れる心を揺さぶられる様なそんな内容では無い事は、10年、20年前の参加経験から知っているので、信者さんには一切ご案内しませんでした。本当に、時間と交通費の無駄です。内面の深掘りではなく、信者増強計画。その為の活動です。
心が渇望していて、真の神を求めている人間にとっては、天理教に身を置く事は、可笑しな活動に振り回されるだけで、そう言う人にとっては場違いと言えると思います。
天理教婦人会本部から発表されている会員数は約75万人。
一教会平均40名。こんなに多くの会員がいる教会は見たことがない。
それでも婦人会本部は100万人会員を目指しているそうだ。
各教会は会員がいる居ないにかかわらず、人数分の会費を納めている。
猫でも犬でも幽霊でもいいから、なりふり構わず会員を増やして、会費収入を増加させたいと思っているように思えてならない。
A5サイズのプリント一枚、大教会の封筒で届きました。全国の委員部長宛てだから切手代バカにならない。4分の1に切ってメモ用にしました。早くから会員配布のチラシ割り当てられていたのを探し出して、一応お知らせしないといけないので、日時と会場、500円必要な事だけ書いて信者さんと娘達に渡しました。高齢の信者さん達は二つ返事で行かしてもらいますでと、言って下さったので会長に送迎してもらいます。娘達は、絶対に行かなあかんの?と貴重な日曜位ゆっくりさせてと言わんばかりの表情。強制はしません、好きなように、と、言っておいたので絶対行かないでしょう。娘達の配偶者に別席運ばせるなんて愚かな事はしていないので、日曜に当たった月次祭にも家族で来て、お勤め中、別室でテレビやスマホで時間を潰し、直会は一緒に上級会長とも親しく過ごしています。孫達は手が足らないのでお勤め通しで出てくれるけど、クラブがあればそちら優先。うちの大教会は割とお供えや数の事をうるさく言わない方なので白分を殺してまで無理はしてこなかったです。一番大事なのは自分の家族ですからね。見栄や体裁なんて考えた事もないので、上から言われることもうちの家族にとって意味ない事はしません。うちは成ってくる理を楽しんで受けさせてもらい今は家族揃って言うことなしです。無理は理が無くなるとはその通りです。近所迷惑になるので朝夕のお勤めの太鼓も赤ちゃんが叩く位、匂いがけもしません。町内会からは、よく動くし困っている時には当てにされている程度。家族の次に御近所付き合いが大事ですから。天理教しか知らない上の方は、町内会の掃除は住み込みさん任せ。ゴミ出しもしたことない。お勤めの騒音の苦情がある事も知らない。それこそ、テレビのバラエティ番組、平成の若者、とり肉って何の肉、そんなの考えたことない、のレベルの人達が世間の情勢も知らず、本当に助けないといけない人には関わらず、100万会員なんてすっとぼけた目標数を掲げ、一体何をやってんだか!まわりの強者どもに操られ、自らの意思も無くしたような生気の無い表情のはるえさん。天理教の被害者の一人かもしれません。
> 教祖様の言葉をオウム返しに諳んじてみたところで、空虚としか言えない
↑ 匿名様のこのご意見、同意いたします。
鳥類で言えば、もう一つ「鵜(ウ)呑み」 もよろしくありません。元の理に、(神様は人間創造の時)、「食べてその心根を味わい」 とありましたが、人間の心根を味わった、ということは鵜呑みにしなかったということですから、人間も神様の心根(教え)をよく噛んで、良く味わっていただくべきであります。それから、動物で言うと、サルも感心しませんね。サル真似。よく解らないまま、手踊りやお筆先の朗読やら、周りの真似をしていくうち、やがて集団催眠に陥(おちい)っていきます。空虚とか虚無とかいったものを捕えて、実りがなかったら、その信仰は何の役にも立ちません。
「誠真実」 から程遠いもの。オウム返し、鵜呑み、サル真似、ステレオタイプの返事、人目を引くためにする、上っ面(つら)のパフォーマンス、教条(きょうじょう)主義。
・・以上、お先真っ暗の草子(そうし)十三段、デシタ。
>数字合わせに多くの人を動員し、数字を増やすことばかりに執心し、虚勢をはる姿は滑稽であり、正に内側は空っぽでいずれはへなへなと崩折れる。外(数字)に心を使うのではなくて、内にしっかりしたものを摑む様に信者を導くのが本部の役目でしょうに。<
その通りです。外面や体裁をいくら繕っても常識ある世間一般の人には通用しません。教会本部が危篤状態になっている一例です。教会本部は「溺れる者、藁をも掴む」の心境なのかも知れませんが、根本的にピントがはずれています。もっと早くに自らの過ちに気づき改めるべきでしたが「時既に遅し」。後は、少しでも天理教にゆかりのあった者が、崩壊(最期)を見とどけるだけです。
>「誠真実」 から程遠いもの。オウム返し、鵜呑み、サル真似、ステレオタイプの返事、人目を引くためにする、上っ面(つら)のパフォーマンス、教条(きょうじょう)主義。<
天理教システムを真似たことで有名な、かの「オウム真理教」の洗脳手段とそっくりですね。オウム真理教が天理教システムを真似ているので、そっくりなのも当たり前と言えば当たり前ですが。「オウム真理教」の
「オウム」とは「オウム返し」という意味でしょうか? 読者の皆さんの中でご存知の方がおられましたら、お教え願います。