人権意識の低い大教会長は糾弾されるべきである

先週、久しぶりに天理教人にお会いし話をする時間があった。この方は、いわゆる「道一条」と言われる方で、昔からの私の知り合いである。非常に信仰が篤く、毎月の上級教会へのお供え(心定め)も「親(上級教会)に喜んでいただきたい」と少なくないお供えをしている。もちろん、彼の生活は苦しい。 話では、130年祭に向けての天理教の動きや、先月の大祭の青年会総会の話や、天理教の教会が火事になった話など多くの話を聞くことができた。しかし、私は話の中で彼の思想が以前とは違うと感じることができた。

以前であれば、「宗教って怖いね」と私が感じるほど、上級教会や大教会、本部への忠誠心が前面に出ていた。しかし今回話をして、私は彼の忠誠心に陰りがあることを感じた。そこで多少、誘導的であるが「130年祭が終わると、天理教ってどうなるんでしょうか」と疑問を投げかけてみた。すると、「天理教は大転換を求められるでしょう」と思いがけない返答があった。以前の彼であれば一般常識から見ると、まるで天理教に洗脳されていると思わんばかりの、天理教体制に対する陶酔ぶりであった。しかし今回は、まるで覚醒したかのように現体制への猜疑心を露わにしていた。

あまりの変化に私の思考は止まってしまい、彼の話が何も頭に入ってこなくなった。そこで彼の変化に対する私の驚きを、率直に彼に表明した。「以前と違って、何か変わりましたね」と。すると、天理教の体制に対する問題点をどんどん述べていただいた。例えば、この苦しい日本経済の中で若手(青年)に対して雇用保険、国民年金を保証もせずに、幹部連中の中には生命保険にも入っている人がいることや、現場には「勇めよ」というばかりだが、大教会長は「本部の御用」ばかりで現場に顔すら出さない、顔すら出さないくせに教会の子弟たちに対して大教会には人が少ないからという理由だけで一方的な人事権を行使する。人事権だけならまだしも、その子の人生を左右するような進路や婚姻に対しても権力を行使する、天理教人がネットやブログなどで意見を表明するようなら、大教会から止めるようにと圧力がかけられるといったことが挙げられる。

上記に挙げた例が、すべての権力者に当てはまるかはわからない。一部の権力者なのだと思う。しかしこれまで天理教に心酔してき信仰者が、「今の経営者は無能だ」と言っていることは間違いない。私はこれまでのブログの中で、社会常識に無知な権力者と天理教本部の共犯関係を指摘してきた。しかし彼は天理教の衰退に関しての戦犯は「無能な大教会長である」と断罪した。

彼がいうには、現真柱が天理教のリーダーになってから真柱の統率力は一気に低下した。現真柱には宗教団体のトップとして求められるある意味異常なカリスマ性や、独裁的な指導力はない。別の見方をすると、現真柱は現実的で平均的で魅力がないリーダーになった。そして、現真柱の統率力が低下した代わりに、その取り巻きとなる大教会長(本部、教庁)の意見が強くなったようである。

さて、ここで問題なのはこの大教会長たちが、天理教衰退の原因であるのに、責任を問われることなく世襲制という輪番でしかないという点である。さすがに彼は大教会長のことを無能と表現しなかったが、私は経営者として無能だと思う。天理教がここまで衰退した責任を誰かが取らないといけない。少なくともこれまでと同じような方法ではいけないはずである。しかし天理教の経営は、京大で理工学を学んだ人間や、大学を4年以上かけて卒業した人間が相も変わらず偉そうに信者に説諭している。外部から見て、経営能力がない人間が権力を握っている。これほど滑稽で無責任なことはない。

私は彼の発言した事例に対して、すべてにおいて権力の濫用の可能性があるとして社会学的に説明した。天理教は企業ではなく就労契約も保証もおこなっていないため、信教の自由や表現の自由という憲法の基本は、絶対的に守られなければならない。ここは法治国家の日本であり、どんなに崇高な教えを天理教が持っていても社会の構成員として例外は認められない。

また今後、天理教がどのように生き残るかという点においても、硬直した垂直したピラミッドでは生存戦略としても可能性は低い。組織として多くの人に共感を与える組織になるためには、本部—大教会—上級教会という閉鎖的でトップダウンでは多様性も柔軟性もない。今の天理教は教祖130年祭しか見えてないが、教祖130年祭後を考えるのであれば、全国に散らばる教会を地域主体で立て直さなければ、天理教は私が予想するよりも早く終わるだろう。そこには大教会長が正解であっては無理だろう。

最後に彼は、大教会長が権力を手放すか、勘違いを正さなければ天理教の未来はないと断言して別れることになった。教祖130年祭に向けて、意気軒昂に勇まなければならないのは現場の天理教人ではなく、大教会長であることを記す。大教会長という権力の適正化を望むばかりである。

人権意識の低い大教会長は糾弾されるべきである」への15件のフィードバック

  1. 権兵衛

    信仰初代のものです
    信仰しはじめのころみかぐらうた12下りに
    いずれとうりょう四人いる
    というフレーズを聞いたとき
    天理教真柱は四代目だからこの代で真柱は終わりなのか
    と感じたことを思い出しました
    後継者が決まりましたがこの先の天理教の行く末が気になることには
    かわりありません

  2. sss

    一週間ほど前にこのブログを発見し、興味のある記事から読ませていただいています。
    青年に対して雇用保険や国民年金の保証がされていないというのは知りませんでした。
    近くない将来に青年になるであろう自分にとっては、興味深い話です。
    ただ、経営能力うんぬんの下りは少し引っかかるものがあります。
    「京大の理工学部卒」でも「大学を四年以上かかって卒業」しても
    経営能力が低いとは言い切れないでしょう。
    ただ単純に「経営能力がない人間が権力を握っている」だけです。

  3. 一文字隼人

     130年祭が終わった後には、大きく転換しないと益々、教団自体が衰退することは明らかです。多くの教会長が感じている部分ではないかと思います。教祖の教えとは裏腹に組織としての存続やピラミッド型の江戸時代にも似た幕藩体制を維持していくことは土台無理なことだと思っています。時間をかけて少しずつ衰退していくのが自然な流れかと思います。大事な部分は教祖が説かれた「教え」を一つ一つ守り、どうして人間が創られたのか、人間が何をすべきでどのような暮らしをしていくことが「人」としての道なのか、今一度、振り返ることだと思っています。

     教祖が神がかりになり月日の社として伝えた“教え”があり、それを多くの人に伝え、共に“陽気ぐらし”を広めていこうと神ではなく「人間」が組織として作ったのが教団であると考えています。ですから「人間」が作った組織ですから、間違いもあれば過ちもあるのは自然なことかとも思います。

     組織を維持することやお供えを集めること、信者数を競うこと、別席者数を増やすこと、おさづけの取り次ぎ数を競うことなど、このような信仰というよりは人間思案の見栄や自己満足のためにやっていては、教祖が望んでいることとは大きく離れて行くようにも思います。教団が今後、どのようになるかは正直なところ、どうでもいいことです。
     なぜなら教祖が直々に説かれた教えを守らず、人間思案ばかりで人の道を外したことばかりしていたら、結果は明らかだからです。そのような事例はこの教団に属していればたくさん見聞きしているはずです。また表に出ていなくても、それぞれ教会長・信者が自分の所属する直属大教会の事情を見れば、蒔いた種がはえてきていることを十分に理解できると思います。

     個々の教団の中のだめな事例を論えても根本的な解決にはならないばかりが、意味のないことだと思います。本部員といえども大教会長といえども「人間」です。いいこともすれば、誤ったこともします。教団全体が世襲制ではないと言いながらも実質は世襲制の縦社会というようになっています。それこそ継ぐ意思もなく、幼少のころから後継者だと言われ続け、自覚もできないまま、金銭的に困ることもなく、贅沢に甘やかされて育ったものが、この教団組織の中枢を占めているのであれば現在の衰退しつつある教団の状況も自然な流れなのだと理解できます。「天」の「理」のとおりかとも思えます。

     しかし、ある意味、逃れることのできない大教会長・分教会長の境遇を考えると気の毒でもあります。いや、大教会長・分教会長だけの話はありません。真柱も同じです。むしろそのプレッシャーは大教会長レベルの比ではありません。批判の矢面に立ち、進むべき道をしっかり示し、人々を陽気ぐらしへ導いていく人々の集まりのトップでなければならないからです。よく調べもせずに表面的なことをあれこれ批判するのは簡単ですが、全てを理解して前向きにどうしていくべきかを考えることは容易いことではないと思います。

     (長くなったので、一旦、切らせていただきます。 続く…)

  4. 一文字隼人

    (前投稿からの続きです。)

     130年祭が終わった後、140年祭までの間に組織を大きく変えていかなければならないように思います。具体的には現行の縦割り教会制度はなくし、自主的に教祖を慕い、道を求める者が地域ごとに集まり「講」を結び、「講元」は世襲制を取ることもなく、それぞれの地域で「陽気ぐらし」を進める「ようぼく」として活動していくべきだと思います。

     現在ある多くの事情教会も整理し、縦系統で繋がった個々の教会は「お供え」という名の上納金制度は廃止、活動を進めていくための運営費などは集めざるを得ませんが、会計は明朗にし、会計監査も行い、真実真心のこもった神への「お供え(金銭でも物でも)」は月毎の祭りの際に“神に御供え”し、講元が管理し、講の運営費、活動費に使っていくべきだと思います。私利私欲に使われない制度も整えるべきです。口で言うのは簡単ですが、並大抵なことではないと思います。

     「経営者として無能な大教会長」を責めたり、断罪したところでどうなるのでしょう。教団がここまで衰退した責任を誰かに問うたところで何になるのでしょうか。「天」の「理」のまま、行ったことの結果は出て来ていますし、これからも出て行きます。それこそ「まいたる種はみな生えます。」大事なことは「真柱様にお喜びいただけるよう…」とか「大教会長様にお喜びいただけるような…」などの時々わけのわからないスローガンではなく「親神様にお喜びいただけるよう…」“神”が喜び勇み立ってくれるように、人間が力を合わせて仲睦まじく暮らしていくことが大事な気がします。

    天理教に未来はあるのか?

     衰退していくのも神の思し召しだと思えば受け入れるしかありません。しかし、神は魂を見極め、その魂に体を貸してこの世に生まれさせ、自由に活動することを許されています。未来を作るのも人間であるなら、明るい未来を作るために、どう歩むべきかを教えてくださった教祖の教えを一つ一つしっかり心に治めて、個々人の持ち場立場で勤めることが大事かと思います。その上で教団が衰退するのなら、それも「天」の「理」であり、素晴らしく発展し世界中が「YOUKIGURASHI」とグローバルに広がりを見せるようになるのも「天」の「理」かとも思います。

     だめなもの、よくないものにはよく目が向けられますが、どうしようもない本部員、どうしようもない大教会長だけが存在しているのではありません。真摯な気持ちで道を求め、育ってきた人もいます。慈愛に満ち溢れ“人を助ける”心をしっかり持った素晴らしい人も存在します。人に「アホや」「無能や」と言われても「アホは神の望むところ」と意にも介さず、“神”をめどに日々、おたすけに回る人もいます。

     一方的に一部の悪い部分だけを挙げるのはネットを利用する上で危険なので、読んで下さっている方々に悪い人ばかりじゃないよと伝えたいです。所詮、立場があっても“人間”です。立場を利用しほこりにまみれてしまっている人も出て来るのは当然のことです。反対に立場にふさわしい人がいることも知ってほしいです。

  5. T

    宗教は弁証法的であると思います。神と生身の人間という二つの対立する、概念と事実が一人の人間の中で結び付くとき、実生活において容易ならざるべき事態に直面します。いばらの道を進み、血みどろになる教祖の姿は、人の心を打ち、人を行動に駆り立てます。相対する概念のぶつかり合いのなかで、物事は昇華して行きます。天理教と、相対する概念として人権(基本的に神威が尊重される世界です)があります。天理教が、人権と神威の
    関係構築に真剣に取り組めば、必ず陽気ぐらしの土台が見えて来るはずです。(私は天理学園在籍中、陽気ぐらしの定義を聞いた事がありません。ぼんやりとした、イメージは聞きましたが。)
    そして、もう1つの概念として、他の宗教があります。天理教はなぜ三島神社を移転してしまったのでしょうか。三島神社を手厚く保護し、教祖が飛び込もうとした鏡池を温存し、何世代も伝えてい行くことで、見事な宗教間対話と歴史の保存と言う教団の立派な姿勢を、内外に示せたのでは、と思わずにはおれません。日本人の根底にある宗教観として、1192年鎌倉幕府制定の、御成敗式目の一条にこう記されています。
    「神仏は人の敬を集めその威をまし、人はその徳に寄り添い運をえる。」逆を返せば、敬を集められない神は、忘れ去られて行く運命にあると言う事と思います。天理王命を忘却させてはなりません。

  6. 一文字隼人

    なぜ宗教があるのか、どうあるべきなのかいろいろ考えておりました。教団がどうあるべきなのかについて前回の投稿でも申し上げた通り、組織の運営に関しては人がすることであり、間違っているのなら修正すればいいと思っております。また修正できる立場の人が気づいて適正な方向へ改革してくださればと願っております。一般信者にはできないことですから。

     私は宗教とは神が人間に教えた道筋であり、それを規範に生きていかなければならないものだと思っております。具体的に申し上げると日常生活の中でどうするべきか、何を為すべきか迷った時には教理を基準に判断し行動しなければならないものだと思います。教育の中にも経営の中にも自然に息づいているものだと思っております。外国に住めばわかりますが、キリスト教、イスラム教、儒教など宗教が人の営みの中に息づいていることを感じます。現地の人が意識していなくても自然と行動の規範になっていることがわかります。

     戦前は天皇を中心とした神の国というように神ではない人間を神として崇めて教育も進められてきたように思います。しかし戦後、宗教的なものは排除され、社会が道徳の面でも荒廃し、陽気に暮らしている世の中とは言えない現在の状況になっています。むしろ戦前の方がよかったという人さえいます。

     私は宗教が人間の営みに息づいていなければ、宗教自体が何の意味も持たないものだと思っています。歴史から学ぶことは多いですが、天理教の教団も貴族制のような人事制度を廃止し、真柱は象徴として、選ばれた人々を役職に任命する役割を担い、教団は海外も含め地域単位で教えを伝える組織に変えていき、現在のような縦の教会制度を無くすべきだと思います。誤った組織運営を続けてきた結果が今の状態であり、神が望むものでないとするなら、軌道修正を早く取らないと間違った方向へ進み続けることになります。

     また“だめの教え”と伝えられている教理は本物なのか、ようぼくになった人が更に人々に伝えて行くに値する物なのか、教理自体が歪められたものになっているとか、教祖直々の教えとは違うといった話も見聞きします。異端とされ分派した教会もあり、教会本部から離れた教会や信者もあると聞いています。「稿本」ではなく、真実の教理を説いた書物は出てこないのでしょうか。本当に復元はされているのかという疑問も持っております。

     天理教は海外布教もしていますが、“だめの教え”であるのなら、この地球上の人間すべてに受け入れられるはずです。日本の地方都市にある田舎の宗教で衰退して行くのか、時代を見据え今後、グローバルに展開していくのか岐路に立っているようにも思えます。その岐路が「年祭」なのかとも思えます。残念ながらその岐路ごとに衰退している現実は、やはり何か間違っているのかという思いにつながってしまいます。

     「年祭に向かって・・」と教内では勇み立つようにハッパをかけているようですが、巡教を繰り返し、代わり映えのしない話を説き、受け入れる教会・支部は本部の立派な先生が来られると大そうに準備、お出迎えしていますが、末端の教会長、ようぼく信者は「またか。」という思いばかりしているように見受けられます。これでは勇みようがないばかりか、離れて行く人を増やしているようにも思えてきます。

     「年祭に向かって・・」というのであれば、まずは教団のあり方を見直し、ようぼく一人一人が勇めるように組織を改革し、教祖が伝えた教えに復元できていないのであれば、それを正していくことが優先されるべきではないかと思います。本来、年祭を期に更に教勢が伸びて行くのが自然な姿だと思います。

     宗教は学問ではないと思います。社会学的見地でいろいろ検証し研究していくことも大事だと思っております。ただ、研究した内容からどうすべきなのか先を見据えた意見を多くの人に「わかる言葉」で問いかけ、共に道を求めなければ意味がないようにも思います。そうでなければ2chの天理教批判の掲示板のように批判、中傷、揚げ足の取り合いの繰り返しとなり、やがては消えて行くということになりかねません。

     もし投稿内容がこのブログの主旨に合わず、不適切なものであるようでしたら管理者様、削除など適切に処理いただければと存じます。

  7. picante

    隼人さんの言う通りだと思います。私は系統が違いますが、愛町のあり方も一つの参考になるのではないでしょうか。

  8. よふぼく

    ブログもコメントもとても興味深い内容でした。天理教をされている方は、ずっと前から感じていることですね。思うところを少しばかり述べさせて頂ければと思います。

    まず本部員から始まる大教会長や天理教体制への批判は以前から限りなくあります。なぜなくならないか考えたことはありませんか?個人的な解釈からすれば、本部員の人は分かりやすく言えば’ゆでだこ’のような状態で分かってはいるけどやめられないのです。考えてみて下さい。「徳」という言葉だけで何もしなくて年収が現代の平均取得の二倍以上も入ってくる方たち。今の生活を崩してでも、このブログやコメントにあるような正義論に燃えると思いますか?彼らがそう思うのは「まぁ、お供えも減っちゃったんで来年の年俸はたんのうで半分で(笑)」と言われてからです。もしあなたがその立場だと思ってみて下さい。辞めたくてもやめづらいのではと思います。

    それと、宗教の教えとそれを運営する組織に異論を唱えるコメントの方に申しますと、天理教は宗教の教えは、救いようがないとはいえまだマシな状態にあると思います。言いたいのは、本部役員、大教会長が、それを無視しているのではなく、むしろ誰よりも教理や教えは勉強していること。彼らも立派な信者さんなのです。ですが、それと天理教組織は別です。お金をちゃんと取らないと運営が回せない、詰め所の借金があるところもまだ沢山あるでしょう、本部へのタテマエもある、不景気なのはなんとなく分かっているし、毎年の収益も見てるので信者さんがそんなにお金無いのは知ってます。でも、たとえば130年祭のような理由付けでマネジメント的観点から、お金を取ろうとするのは中山家が作ったマネジメント理論に基づいた立派な集金システムであって、大教会長がそこを意識しないのは当たり前なのです。

    直近の話をさせて下さい。私の大教会では130年祭に向けて、途方もない別席数値を出しました。当然達成できていません。それで11月に大教会から何を言われたかと言えば、「人ができないなら金を出せ、最低一人十万以上」です。これが今のお金の集め方です。そもそも130年祭なんてどうでもいいのに…と思ってるこちらからしたら、いい迷惑なのですが。彼らの側に立ってみて下さい。私は一般信者ですが、生涯分かり合えないくらい絶望的な認識の差があります。彼らは間違っていると思っていないのです。このブログのタイトルもそこに気が付かないとただの意見にしかならないのです。

    では、社会学ではないですが、定量的に話しやすい今後の天理教の話をします。まず、天理教は過去30年で信者およびお供えを約半分失いました。30年前といえば銀行強盗や自殺事件で賑わったあの教祖100年祭です。前のコメントにも書いていますが、天理教はあの100年祭から何も学んでいない。つまり衰退の一途を辿っています。個人的な見解ですが、このままいくと天理教は130年祭から30年後にまた半分になります。これは「なってくるのが天の理」です。一番の理由は現在、60%~80%を占めると思われる団塊世代教会長の出直しです。後継者のバッファを見込んでも30年後に信者数が半分は十分妥当です。

    では、このブログやコメントを見て頂いている皆さまにお伺いします。このブログのタイトルにも意義申し上げます。「大教会長や本部役員に頼るんですか?」更に申し上げます。「これからの人が増えればいいんですか?何をモノサシにして論じたいのですか?」

    天理教社会学研究所様の欠点は、現行への愚痴でしかないことです。そんなの詰め所でみんないくらでもやってます。天理教社会学研究所様があるべきを示すのであれば、あるべきではなく「これからの天理教」なのではないでしょうか。どのブログもどのコメントも、愚痴にしか見えないと思います。では、それを受け入れるとしてこれからの天理教をどうしようか?自分らがいまどう動いたら10年後の天理教が変わるんだろうか?まわりは変わらないとしても、せめて自分が変わるにはどうしたらいいか?これがマジメ系な20代天理教青年が、いま一番こだわっているテーマです。我々の世代が、今を憂いて終わるのですか?あんなにこだわっているのにそれだけですか?せめてこの場にいる皆さんであるべきを次世代につなぎませんか?

    テーマに戻らさせて頂きます。「人権意識の低い大教会長は糾弾されるべきである」…そんなのみんな知っている。甘い、愚痴なんか要らない。せめてこの場であればその先を、30年後の天理教を論じて欲しい。それがでkる場所を他に知りません。

    これからも、真摯に熱い議論をお待ちしております…

  9. 一文字隼人

     よふぼくさんのコメントを読んで、感じたことを書かせていただきます。皆様に問いかけている部分もあるようなので思うところを述べさせていただきます。まず本部員の方の年収についてですが、実際の本部員の方から年収を聞かれたのでしょうか。もう一点は「現代の平均取得の二倍」とありますが、そうおっしゃる根拠を是非教えていただきたいです。ネットにあるような各年代別平均所得との比較でしょうか。少しあいまいな感じがいたしました。

     本部員と言っても縦社会で序列があるようです。一年目の人もいれば、本部の重鎮として動いている人もいます。また大教会長を兼任している人もいれば、信者数もない直属の分教会を預かっている人もいます。また教会もなく、にをいがけ・おたすけしてできた信者さんのところへ講社勤めに通っている本部員さんもいると聞きます。一様ではないことをまるで全体として扱っているように感じ、少し違和感を覚えました。ですからその根拠を教えていただきたいと思いました。

     本部員を擁護するために言ってるのでもなく、ようふぼくさんにけんかを売るつもりで書いているのでもありません。ただもし憶測で言われたのであれば、不特定多数の方が見ているこのコメント欄で偏見や誤解を招きかねないからです。私の知る限りの本部員さんはそんなにもらっているとは思えません。豪奢な生活をし部下教会に御供えを要求してという話はあちこちで確かに聞きます。実際一昔には結構あったようにも思います。しかしそういった例は教祖が働いて粛清されているようにも感じています。

     またおっしゃるように詰所で教会長さん、役員さんたちが集まって愚痴をこぼしたりということもあると思います。よふぼくさんの教会では本当に大教会から「人ができないなら金を出せ、最低一人十万以上」と言われたのでしょうか。だとしたら大きな問題です。法律に詳しい方がいらっしゃったら罪にならないか教えていただきたいところです。また「蘇れ天理教」で書かれていた百年祭の時に起きた悲劇がまた起きても不思議ではないかもしれません。みんなで防がねばならないと思いませんか。

     よふぼくさんのおっしゃる通り、現状への愚痴ではなく「これからの天理教」が大事だと思います。私自身は年祭に向けて心定めとか目標とかについていろいろ考えました。よふぼくさんは「そもそも130年祭なんてどうでもいいのに…と思ってるこちらからしたら、いい迷惑なのですが」とお考えのようですが、私はどうでもいいとは思っていません。何をめどに信仰しているかを考えれば、教祖に喜んでもらうことを考えなければ意味はないのではないですか。「教祖の年祭」なのですから。残念ながら本部が行う10年ごとの年祭では教祖が喜ばれているとは思えません。その結果が数字的にも現れているのではないかとも思います。

     教内では一般的には別席者数○人、ようぼく○人とか、お供え○円とか数値的に目標を出させたりすることが多いのではないかと思います。しかし私は本当に教祖の年祭を考えて、本当にこの時期に何をどう実動すればいいのだろうかと考えました。もちろんおたすけにもにをいがけにも行っています。月次祭も勤めます。お供えもしています。しかし、それは私個人の問題でやっているだけのことです。しかし、それ以外にできることと考えると、今の時代、ネットで活動するのがいいのではないかと思い立ち、あちこちに投稿しております。

     よふぼくさんのおっしゃる「マジメ系な20代天理教青年が、いま一番こだわっているテーマ」に応えてあげることも大切だと思いますし、今の時代はネットを活用することも立派な「おたすけ」になるのではないかと思っています。ITには「光と影」があると言われていますが、正しく活用すれば人類に大きな恵みを与え、誤って使えば人類に大きな不幸を与えると思っております。「道具である」からこそ、使い方を誤ってはいけないと感じています。ですから一方的な誹謗中傷があってはならないし、一つの事例で全体を語ることは危険であると思っています。私はネットでは個人的な意見として思うところを述べて行けばいいのかとも思っております。

     「愚痴のこぼし場所」も結構ですが、「愚痴」というのは本音が出せないから、内輪で話せる人に話すのかと思います。ならばそこに「本音」や「解決への糸口」が隠されていると思いませんか。そこから前向きに改善していくことがもっと大事だと思っております。また同じような思いの方も多いのだと想像しております。

     こちらのブログは「社会学」と銘打っていらっしゃるので、教理面の意見を戦わせるところではなく、事象の分析をするところなのかと想像しております。コメントがそぐわないものだと管理者様が判断されたら、削除など適切に処理いただければと思います。長文、失礼いたしました。

  10. 腹がたった。

    自分のblogでどういう観点から何を語ろうが自由なはずです。愚痴を書こうが、どういう論じあいをしようが。
    そんなに意義とか言いたい事があるんだったらテメェで自分のblog作ってそこで論じてろよ!
    このボケ。

  11. ようぼく

    (一文字隼人様のご指摘)
    まず本部員の方の年収についてですが、実際の本部員の方から年収を聞かれたのでしょうか。もう一点は「現代の平均取得の二倍」とありますが、そうおっしゃる根拠を是非教えていただきたいです。

    結論から申しますと実際に本部員の方から直接聞いたものではありません。そのあたりの情報は公開していないので推測でしかありません。一文字隼人様の仰るとおり一様ではないことをまるで全体として扱っていたのは、私としても反省し、以後は客観的根拠をよく考えて投稿させて頂きます。大変申し訳ございませんでした。

    とはいえ何の根拠も無いのかというとそうではなく、今から30年前、「天理教その堕落と悲劇(既に廃刊)」という本が刊行され、その内容は踏まえていると思っています。そこでは「天理教は末端に行けば行くほど苦労が多く、上に行けば行くほど、逆に信者たちから集めた金によって、”天理貴族”と呼ばれる豪勢な暮らしができる(P39)」「昭和六十年十一月七日、天理教の幹部役員(本部員)三人が、大阪国税局の税務調査を受け、合計約8,000万円の脱税を指摘され、約2,500万円の追徴税を課していたことが明るみに出た(P95)」等は見ています。30年前の事を今更出しても…、上の指摘も一部と全部という観点からすると一つの点に過ぎない…というご指摘はあるかと思いますが、事実は事実だと思います。30年過ぎた今、この状況が変わったのか、そうでないのかは分かりませんが、変わったと分かる根拠もまたないかと思います。

    (一文字隼人様のご指摘)
    よふぼくさんは「そもそも130年祭なんてどうでもいいのに…と思ってるこちらからしたら、いい迷惑なのですが」とお考えのようですが、私はどうでもいいとは思っていません。何をめどに信仰しているかを考えれば、教祖に喜んでもらうことを考えなければ意味はないのではないですか。

    私がいま経験している天理教が他の教会でも同じかどうかは分かりません。ですが、私が所属している大教会では実際として三年千日がサイクル化しています。教祖130年祭の前は大教会創立○周年、それに向けての三年千日、さらにその前は別な三年千日がありました。そのたびに「今こそこの旬に心定めをさせて頂こう!」という言葉を何百回も聞いています。その都度、問題になるのはその心定め、つまりお供えです。前にも書いたとおりまずは「人」の心定め、それができないとなると、それを埋めるための「金」の心定め。「よふぼくさんの教会では本当に大教会から「人ができないなら金を出せ、最低一人十万以上」と言われたのでしょうか。(一文字隼人様のご指摘)」はい、言われました。いきなり言われたんで録音できなかったのが残念です。でもその以前は「心定め足りないから100万出せ」とも言われました。毎月マジメに日参もしていますが、あまりの少なさに私自身、いつも肩身が狭いです。教会住まいの方は家賃もなく、更に税金もないのでけっこうな額を出していますが、それと同じレベルを一般信者の私にもたまに要求されるので困ります…。

    (一文字隼人様のご指摘)
    私は本当に教祖の年祭を考えて、本当にこの時期に何をどう実動すればいいのだろうかと考えました。もちろんおたすけにもにをいがけにも行っています。月次祭も勤めます。お供えもしています。しかし、それは私個人の問題でやっているだけのことです。しかし、それ以外にできることと考えると、今の時代、ネットで活動するのがいいのではないかと思い立ち、あちこちに投稿しております。

    一年前の私と全く同じです。私の今年の活動を振り返りますと、まずブログを立ち上げました。天理教という外から見たら分かりづらいものを日々の活動を通じて知って頂きたい。たとえば全教一斉ひのきしんデーであるとか、少年会総会であるとか、ひのきしん隊に入ってその活動レポートとか。自分の部内教会の月次祭も休みの日なら遠いところでも行きました。他の方から「そんなに意義とか言いたい事があるんだったらテメェで自分のblog作ってそこで論じてろよ!このボケ。」と指摘を頂いてしまいましたが、私の場合、書いていたブログを教会から言われて削除しなければなりませんでした。仰るとおりボケで申し訳ございません。また質問掲示板も「天理教」という文字を見たらそれに対して匿名で投稿しました。多くのベストアンサーも頂きましたが、「天理教の布教がしつこいから何とかしたい」という投稿の中で、質問者と議論した結果、「天理教なんて結局人集めじゃないか、布教される側の迷惑をどう考えているんだ!」という結果になってしまい、それも止めました。インターネットを使った活動もいいかと思いますが、天理教(の中の少なくても私がいる大教会)はそのような個人による発言を見つけたら削除を要求してきます。ですが、私もまだネットの可能性は捨てていません。そのような方が今後も増えてくればよろしいのではと思います。

    ※私の投稿が管理者様から見て不適切であれば、削除頂いても一向に構いません。ですが「このボケ」という個人的な批判をされるようなコメントも如何なものかと思います。このコメントの方を批判したわけではないのにこのように個人批判されてしまい、非常に不快です。

    長文、乱文、失礼致しました。

  12. 一文字隼人

    ようぼくさま
     ご丁寧な私への回答をありがとうございました。こちらこそ失礼いたしました。

     天理貴族と言われるような大教会は確かにあったと思います。実際に自分の目でも見ているので否定しません。半世紀くらい前の話になりますが私が子供の頃、会長宅へ連れて行かれ子供心にすごいなあと思った記憶があります。調度品にしろ家電にしろテレビさえない時代にカラーテレビまであって、大教会長の子息は贅沢な生活もしていました。
    30年前の幹部役員の脱税のお話も十分、事実だと受け取れる内容だと思います。

     しかし、神様は人々を平等に見ているようです。私がそう感じた内容をここに書いたら恐らく多くの方が「ざま~みろ!」と胸がすくような思いをされるかもしれません。しかし、それをしたからと言って何になるのかという思いもします。数年前のある日、その大教会長がつえをついて娘に抱きかかえられてスーパーで買い物をしているのを見ました。本当に哀れな姿でした。哀れに見えた理由は書きません。詳しく書くと特定されるのでこれ以上は書きませんが、半世紀の姿をずっと見てきて、これが天の理かと思いました。恐ろしささえ覚えました。

     我々は何をめどに信仰しているのか、百三十年祭の三年千日と仕切って仕上げの年と言われていますが、掛け声ばかりで教祖の年祭にふさわしい実働をしているのかと思います。

    大教会の月次祭の講話でも本部の月次祭講話でも感じるのですが「年祭に向けての心定め」だの「にをいがけ、おたすけ」と連呼しても何も心に響いてきません。これはなぜでしょうか?本当に教祖に喜んでもらおうと思って言ってるのですか?としか思えないのです。つまり、もう集まった人々に見透かされているようにも思います。

     教祖に本当に喜んでもらうために、お供えするより助けてもらった話を人々に伝え、あなたも助ける側へ回って人を助ける喜びを味わい、その姿を教祖に見てもらおうじゃないかと訴えてもいいんじゃないでしょうか。

     口だけの「にをいがけ、おたすけこそ大事で云々・・」という台詞は一般信者が聞き飽きているのが現実のように思います。それならむしろ本部は今、お供えが上がらず経済状態が厳しいとズバリ訴えた方がまだ説得力があると思いますがいかがでしょうか。

     ようぼくさんはブログをされていたのですね。もう一度されてはいかがですか。インターネットは道具です。道具を使う人の心さえ濁っていなければ素晴らしい道具として人を助けることができると思います。逆の使い方をすればどうなるかは言うまでもないことです。包丁と同じだと思います。教会から言われて削除したとの事ですが残念ですね。拡声器も電話もない時代に大声で神名を張り上げて人々に伝えることは自然なことだと思っています。今は時代が違います。これほど有益な道具を使わないでいることは不自然すぎます。ネットの可能性を捨ててはいないとのことで少し安心いたしました。

     「このボケ」はいただけませんね。きっと言い過ぎたと思われてるかもしれませんし、勢いあまって書いたのかも知れませんね。人間ですから誰でも感情がありますし文体から見てまだお若い方が書いたのかもしれません。不快なお気持ちはお察しいたしますが、ニコニコと笑っている教祖の姿が私にはなぜか浮かんできます。

    管理者様、場をお借りして私信のような文を書いてしまい申し訳ありません。私の駄文を削除くださっても結構ですので、よろしくお取り計らいくださいませ。

  13. 大和 たける

    拝啓
    マジメ系な20代天理教青年様へ
    天理教の現状や問題点は多くの方が知っておられるとおり、周知の事実です。
    あなた様がこれからの天理教を論じたいのだとおっしゃることはよく分かります。
    天理教を信じて信仰を広めるために、どう行動すればよいのかを議論したいということだと思います。

    キリスト教は2000年近く続いていますが、その間にマルティンルターの宗教改革やスイスやイングランドでも宗教改革が起こり、教会体制上の革新運動がなされているのです。そのような改革をしない限り、ジリ貧になっていくのは自明の理なのです。

    教会制度に問題があることを認めて、改革することが重要だと思いますが、早急にできる話ではありません。
    信仰をする若い人びとが力を合わせて、新しいシステムで、新しい組織で信仰する人びとを増やして、
    実力を示すことが改革につながっていくと思います。

    世の中の人々は天理教に無関心で、振り向いて見ようともしないとのご意見もございますが、
    今、社会が必要としているのは、心の病を助けてくれる神仏の教え、すなわち宗教なのです。
    現代は暗雲たなびく時代です。人びとの心は荒廃し、時代がその底につかんとする時代なのです。
    そのような時代こそ宗教が必要ですし、衆生の済度が可能だと思います。

    お励みください。よろしくお願いします。

  14. 匿名

    教祖の年祭だから個々人で、一日一善を心がけましょう。ってならわかるんだが。
    年祭に人出せないなら金を出せって、どこの組長さんですか?って(笑)

    おや様をやくざ者にした、論外な大教会(教会)長はネットに実名出すしかないだろう。自浄作用がないんだから。

  15. 匿名

    >教祖が飛び込もうとした鏡池を温存し、何世代も伝えてい行くことで、見事な宗教間対話と歴史の保存と言う教団の立派な姿勢を、内外に示せたのでは、

    八島教は論外としても、彼の教祖の史跡の保存と歴史の掘り起こしに熱心だったところは本部も見習うべきところがあったな。

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