天理教的世襲制について

天理教の世代交代は基本的に世襲的である。
世襲的と言い切ってしまうのは語弊があるので形態としてである。
教義上では『理』というものが次代の人間を決定する。
しかし、当然のごとく理は目に見えない。
なので、求められるポストに就いた後でしかその人に理があったとは言えない。

教会に生まれた長男は理を持つと考えられ、長男が後継者とされる場合が多い。
なぜ長男なのかは教義解釈よりも文化的慣習による部分が大きいと思う。
なので、今までの長男達は違和感なく理の使命を生まれた瞬間から受け入れたのだと思う。
また周囲の人間も日本文化と相俟って世襲的に違和感を感じなかったのだと思う。

しかし、現代において問題が生じている。
世襲を拒否する若者が大量発生する予兆があるのだ。
つまり、理を持つとされる子どもが「俺きょーみねーよ」と言って一般企業に就職する
人間が出てきた。そして後継者を一般公募しなくてはならない事態が生じている。
以前もそういったケースの教会はチラホラあった。そういった教会は事情教会(問題教会)
として秘密裏(あえて表に出す必要もない)に処理されていた。

当ケースにおける以前の事情教会は信者も少ない機能不全な教会に目立った。
しかし、現代では信者を多く抱える教会やサラブレッドの子どもたちにまでそういった現象が波及していっている。
人々は「理の継承は世襲という形態で伝授されているのではなく、継いだ人間に理は存在する」という逆転した時系列の考えを持ち始めているように私は思う。しかし、それを声に出して言うことは憚られ、発言者にも火の粉が飛んでくる恐れがあるので無意識に抑圧しているように感じられる。
つまり、理があるから継ぐのではなく、継いだ人に理があるという微妙だが大きい異変を感じ取っているのだ。
大きい異変というのは以前の理の使用では理は神からの天啓であると考えられていたが
、もしかしたら人間が作り出しているのではないかという畏れを喚起していることにある。
つまり、後継者は世襲に限定されず「誰でも会長になりえる。」という状況を作り出しているのだ。
しかし、長男に理があるのではなく継いだ人間に理があるということこそ、私たちが一番納得できる着地点のように思う。(教義上の理の概念では現実的に説明できない)

しかし今後、もし教会長の不祥事が多発し職を剥奪されるような事態が多発したら、
継いだ人間に理は継承されるという概念もまた検証し直さなくてはならないだろう。
ないと思うけど。
その場合の着地点は「理は人間には解釈できない。神のみぞ知る」となるしかない。

期を同じくして、ただ今おぢばでは「後継者講習会」というものが開催されている。
後継者講習会というのは後継者を育成するためのものだと思うが、
それに参加している人は大して問題ないだろう。
重要なのは後継意欲の持たない人間と後継を育てられない現センセイたちであろう。
育てる力のないものを会長としていることに本質的な問題を孕んでいると感じるのは私だけであろうか。後継者講習会は会長を対象にすべきなのではないだろうか?
育てようと思わなくても立派な人間に人々はついていく。

はい?  教会長資格検定講習会があるですって?  あれは会長の業務遂行能力検定であって人格的素養を高めるものではないのですよ。医者という資格を持ってるからといって決して人間として尊敬に値するというものではありません。

天理教的世襲制について」への14件のフィードバック

  1. 風鈴はぐれ雲

    『勘違い』

    教会の長男に産まれたから、理がある。
    それは、天理教阻止かによる、こじつけだ。
    世襲こそ、衰退のひとつの原因だ、

    ほんとは、因縁も理もないんです。
    あるのは、運とタイミング。

    因縁も理も、子供の頃に聞かされると、ショックをうけます。
    なぜ自分なんだと。

    天理教のな大人たちは。
    いたずらに、子供に天理教を押し付けようとします、

    教会など、継ぎたい人など少ないだろう。
    跡取り問題さえ、起きても当たり前。

    天理教が素晴らしいと思うなら、
    子を巻き添えにせず、
    社会に出して上げてください、

    大人の物差しで、子供を納めようとしてはいけない、

    そうやって、熱量のない教会ができて、
    信者がへって、
    家族が崩壊していくんだよ。

    理とはなにか?
    納得出来る説明できる、天理教人がどれだけいるのかな。

    親子ならば、宗教関係なき家族を作ることが必要なんだよね。

    因縁も理も、なくても人は生きていける。
    因縁が理が、足を引っ張っていく。

    大人たちの仕事場。
    子供たちに、自分の言葉で話し合えることだと思います。

  2. 古い元教会長

    AU氏のFBの投稿より

    FBの大きなお世話で「友達かも?」ってメッセージが入る。その中には結構お偉いさんがいる。先程も明らかに御本部の偉〜い方々のご子息だろうか、彼らのプロフィールを覗き見し吃驚した。米国の高校、大学を卒業?されている。

    30年以上前に私の友人が大学卒業後、米国の大学に留学した。その1年間にかかる費用は約600万円だったと記憶している。

    日本人が高校、大学を米国で就学すると4000万円以上の費用がかかるらしい。彼らの留学費用は本教本部が捻出している。その甲斐で彼らは、英語がペラペラになり、本教海外部の要職に就かれている。

    一方、教内のようぼく、信者の中には、高校から米国に行かずとも、自らの努力で英語がペラペラで世界で活躍されている方々が数多いる。
    これも徳の違いか?

    他意はないが、久しぶりの「なんだかなぁ〜」だ。
    K氏、N氏〜多額の留学費用に見合った働きをしてますか?

  3. 真義徳

    海外部の要職に就いているならまだいい方で、海外部以外の部署に長くい過ぎて英語がほとんど話せなくなった先生もいます。前内統領の山澤氏はハワイ大学出身ですが英語の発音を海外の信者にバカにされて別席を英語で取り次ぐのをやめたとか。何のために留学させたか分かりませんね。

  4. mami

    天理時報3/3発行3面に天理教社大教会長に小〇靖〇氏(37歳)と載っていますが確かこの大教会は兵神系統で代々、「市枝」〇〇氏と世襲で来たと思うのですが新任のこの方は尾〇分教会長されていた方のようです。珍しいケースです。
    世襲をやめて改革されたのか、何か特別の理由があるのでしょうか?

  5. 退職信者

    mamiさんへ
    2019年3月3日 9:48 AM

    >天理時報3/3発行3面に天理教社大教会長に小〇靖〇氏(37歳)と載っていますが確かこの大教会は兵神系統で代々、「市枝」〇〇氏と世襲で来たと思うのですが新任のこの方は尾〇分教会長されていた方のようです。珍しいケースです。
    世襲をやめて改革されたのか、何か特別の理由があるのでしょうか?

    私が聞いている話では、社大教会長さんは賭け事に係る不祥事を起こし罷免されたと聞いています。
    その賭け事とはどうやらパチンコ依存症らしいです。
    修養科生からも金を借りてパチンコするほど重症だったと聞いています。

    パチンコしている時だけが本部からの重圧に解放される時間だったのでしょうか・・・

  6. mami

    退職信者さん
    ありがとうございました。
    やはり、特別の理由があったのですね。
    信仰に世襲は無理という当たり前のことをわからせてくれます。

    最近、遅ればせながら「カルトの子ー心を盗まれた家族」米本和弘著を読みました。昨今の虐待事件でも思ったのですが「親権」って何なんだと。

  7. しん

    やはり、カトリックのように選挙が望ましい。天理教は衰退で、カトリックに吸収されたほうが良い。

  8. モリジロウ

    >崩壊さんへ
    >以前から疑問に思っていたのですが、真柱の世襲制度は一体、誰が決めたのでしょう? 

     誰もお答えにならないようなので、ちょっと書かせていただきます。スレも話題に合ったこちらのスレに投稿いたします。以下はWikipediaからの引用です。

    真柱は、宗教法人天理教および教会本部を統理する役職である。真柱は「教祖の血統者の系譜に基づき、本部員会議において推戴する」ことになっており、立教以来現在にいたるまで、その役目は教祖中山みきの子孫が代々世襲している。真柱は、天理教の代表者として教務を総覧し、天理教の信仰の中心として、教義や祭儀の裁定を行い、祭儀を執り行う。教祖殿において、存命の教祖の命をうけ、親神の「よふぼく」(布教者)となる信者に「さづけの理」を行うことは真柱の専掌事項となっている。
    第二次世界大戦が終結した昭和20年ごろまでは、「真柱」よりも明治政府の宗教法規上の呼称である「管長」や「本部長」、「教長」が一般的であった。「管長」は天理教はあくまでも社会的な呼称であり教理に基づくものではないとしている。昭和21年3月制定の『天理教教規』にて「天理教の教統は真柱に在り、真柱は教祖の血統を承継する中山家の男戸主之に当る、真柱は管長とも称す」と書かれている。(Wikipedia)

     ご質問に対し、短く答えると「天理教の教規で定められていること」です。つまり真柱に関しては世襲制になっています。一般教会長とは違います。ただ本部に倣えで、どこの教会でも同じように世襲で教会長を継ぐことが多いのかとも思います。初代管長は教祖に生まれたときから「真柱の真之亮」として将来もその役を担うことになっていました。しかし、明治41年に一派独立を果たし、その6年後、大正3年に出直し、その時には正善(二代真柱)が幼少だったので、代わりに管長摂行者として山澤為造(梶本ひさと結婚)がその役を担っていたわけです。大正3年といえば第一次世界大戦が勃発した頃であり、翌年には松村吉太郎も収監され、5年には教祖三十年祭を迎える頃です。本席は明治40年に出直して、おさづけの後継はナライトになっていましたが、大正7年に茨木事件が起こり、その少し前にも井出クニの教祖殿事件があり、また大西愛次郎(ほんみち)のこともありました。つまり、教内で天啓は伊蔵本席亡き後、ナライトと流れは出来ていたが、全権を次の後継者である正善に集中させるべく、本部員会議でおさづけは御母堂(たまえ)に代わり、これ以降、神の言葉というか天啓はなくなり、本部員会議の決定が天啓者のおさしずに取って変わったのです。天啓があったとされる本部員茨木基敬(北大教会)は罷免になります。この辺の事情は松村吉太郎の『道の八十年』や芹沢光治良の『死の扉の前で』などを読めば詳しく分かってくると思います。

    >本部員をはじめ、天理教幹部は公選制で決めるのが本来だと思います。特定の人間集団に
    >権力と利権を集中させる意図があるからでしょうか?

     神の思惑と人間の思惑とが違う場合があります。それは「教祖:秀司」であり、「本席:真之亮」の関係です。天啓者がいれば、人間を代表して神に「伺い」を立てていくことになりますが、その代表が真柱であり、初代真之亮も本席に伺いを立てていたわけで、本席の前の時代でも教祖に伺いを立てていたわけです。つまり真之亮初代真柱、御母堂(たまえ)、それとその親族の本部員は飯降家(伊蔵)、上田家(ナライト)、他にも天啓者とされる井出クニ、茨木本部員などが天啓を伝える者として出てきては不都合なわけで、全権が集中できない体制を続けるわけにはいかなかったのだと思われます。ですから正善が管長に就任する大正14年までには体制を整える必要があったのだとも思えます。
    天理教にとって大正7年は大きなターニングポイントだったのだと思っています。そしてその後、松村吉太郎の教勢倍化運動や関東大震災なども経て、大正14年に正善氏が二代真柱に就任し、昭和を迎え、現在に続く天理教の体制が確立したのだと理解しています。

     私は宗教関係の学者でも研究者でもないので、これくらいのことしかわかりません。教内には天理教の歴史について詳しく研究している人がかなりいるようです。現役の教会長や布教所長、あるいは先生と呼ばれるような人などが集まって幅広く研究されているグループもあると聞いています。ただ、多くの大(分)教会の会長が天理教の歴史についても詳しく勉強したり、研究したりすることもなく、世襲で教会を後継し、大正期から現在に続く天理教の体制を維持してきたことが、やはり神の望んでいる道とは少し違ったのかもしれないとも思っています。しかし、勉強しようとしたところで、毒にも薬にもならない本ばかりで、真実を求めるのは難しい時代を通ってきたのかとも思います。しかし、時代は変わり、インターネットの普及で、昔とは比較にならないくらい情報や資料も手に入るようになって、個々の研究する人同士の交流もできる時代になりました。

     自分のルーツを辿っていくと、やはり神を求め、素直に懸命に道を求めていた先祖がいて、現在の所属教会に続いているのだとも感じます。そして今の時代になりインターネットで他の方々も同じような道を通られ、その方々のご先祖さんも同じ道を辿っていたのだということも知りました。

     激動の昭和が過ぎ、平成になっても変わらず、令和の時代になりましたが、「天理教教規」が変わらない限り、何も変わらずに、他の伽藍宗教と同じく、建物とともに衰退していくのだと思います。大事なのは個々人の「心の普請」を続けることであり、そこから皆が心を合わせて、よりよき社会を作ろうとすることだと思います。個人的には令和の時代に大きく教規を変え、神人和楽の教団になるように変革していくことが大事だとも思っています。しかし、それは容易なことではなく神の力なしにはできないことなのかと思います。その手始めが新型コロナなのかとも感じます。そもそも教団など要らないのではないかとも思うが、真実の神の思いを伝えるには何らかの組織も必要なのかとも思えます。

     極端な話、今の時代に上意下達で教えを広める努力はいるのだろうか?通信手段のない時代ならいざ知らず、瞬時に海を渡って、外国へ文章が送れる時代です。「教規」一つを変えられない教団に固執する必要はどこにあるのでしょう。個々人が常に「心の普請」を心がけ、自立して本物と思える教えだけを実践して、生きていけばいいだけのことではないかとも思います。そんな中で自然とコミュニティは生まれてきます。そのコミュニティこそが「地域の教会」であるべきだとも思うが、縦社会の直属系統で成り立っている現在のシステムは、既に役割を終えているとも言えるのではないでしょうか。

     玄関のインターを鳴らし、個別訪問をし、「宗教はけっこうです」と言われるのと、ツイッターで何万人も相手に真実と思える神の道を「つぶやく」のと、どちらが本当のにをいがけなのだろうか。断られても陰徳を積むのだと、がむしゃらにいくのも止めはしないが、新型コロナの新しい社会生活はそれを受け入れるものではないとも思います。ZOOMを使ってリアルにお互いに顔を見ながら、練りあいをしてもかまわないのです。正しい教えだと思うなら動画サイトで何万人に向けてにをいをかけてもいいのです。

     後継者がなく、名称だけ残っている教会の整理や統合などが言われているようだが、それは今までの組織のあり方がおかしかった結果にしかすぎないように感じています。教会本部に属さずとも「天理教」と名乗っても問題はないわけで、単立の教会として地域の教会として先にも書いたように神が望む人間になるように人々を導くコミュニティとしての役割を担っていくようにするのもありなのかと思えます。

  9. モリジロウ

    前回の投稿に続き、思うところがあったので、再度投稿させていただきます。

     そもそも世襲制は真柱だけで一般教会では世襲にはなっていないはずです。しかし現実は教会本部に倣えで、実質的に世襲で代々続いている教会も多いようです。しかし、ツイッター上では生まれた時から後継者と言われ続け、自分にはその道しかないのだと悩んだり、親不孝はしたくないと優しい心から不本意でも後継者として引き受ける場合もあれば、まだ親が健在で心が揺れているというような投稿も見受けられます。

     口には出さずとも苦しい胸の内は理解できます。しかし、それ以上に思うのは自ら求め、真実を知り、本当に「だめの教え」なのかをはっきりさせ、自らも子供のころから聞いてきた話が正しいのかを見極めたいと思う気持ちがないのであれば、やはり後継などしない方がいいように思います。なぜなら苦しむだけだからです。

     実質的な世襲制度の教団というのは、インドのカースト制度のようなもので、天理教の明らかな身分の違いを助長するような世界を作り上げるグループに属することになります。天理教の教団は縦の組織で成り立っていて、どこに生まれたかによって、身分が確定したような面があるからです。これは地方の教会だけでなく教会本部の中でも同じことです。今の時代にこんなバカな話があるのかとも思えます。下部に属する教会に生まれたことによって上級教会にはとにかくお供えを上げるという行為を繰り返していかねばならず、上級教会に生まれれば部内教会に行き、お供えを回収するというような役を続けなければなりません。またよくわかってもいない教理を上にいれば人々にわかったような顔をして説いていかなければなりません。

     ある教会では呼んでもいないのに月次祭に上級教会長が来て、お接待を受けて、お供えばかりか車代やお礼などの名目で小遣い稼ぎのような真似をしているところもあるようです。教会の信者さん、会長からも疎ましく思われていることにも気が付かず、恥ずかしいとも思わないのでしょう。しかし、上級を立てるということが大事だと教わり、それを守ってきた教会長にしてみれば、不足には思ってはいけないと「たんのう」し、甘んじるか、広い心でできる限りのことはしてあげるという優しい会長さんもいるように思います。また親族の関係にあるから強く言えないケースもあるように思います。

     問題はここからで、そんな姿を見ていた教会子弟や信者さんが果たしてついていこうと思うのだろうか?親もそうだったけど、自分もそうしなければならないと思っただけで、後継はしたくないと思うのも無理のない話です。目立つこと、歯向かうこと、素直じゃないことは戒められるようにできている隠ぺいばかりされた天理教史から作られた「五目交じり教理」で育てられてきているのだから自分に正直にもなれないのではないだろうか。ですから誰にも言えなかった時代とは違い、インターネットが発達した現代では匿名で自分とは明かさずに、心の思いを吐き出しているのではないかとも思えます。

     新型コロナウィルスは考える時間を皆に与え、無駄な集まりには参加しなくてもいい、国家神道からの流れで明治から続く祭儀などには顔も出さなくていいと導いているのではないかとも思えてきます。気を許したらまた感染は拡大もするだろうし、また自粛もしなければならないでしょう。しかし、若い人たちに言いたいです。新型コロナでは若い人たちは重篤化したり、死ぬことはあまりないようです。持病があるケースなどは気を付けた方がいいのでしょうが、恐れすぎる必要はないとも思います。ワクチンや特効薬もいずれは開発され、インフルエンザくらいの感覚になっていくだろうとも思います。

     新型コロナウィルスでテレワークや在宅ワークなど働き方や生き方が変わったところもあるでしょう。インターネットの利用も更に進んできたように思います。そこから天理教においても縦のつながりだけではなく、横のつながりも更に広がっているように思います。隠されたり、表に出ていないことも更に出てきて研究することも容易になってきています。教会を後継し、家族、信者さんと共に真実を求め、本物の地域のようきぐらしの手本となれる場を作り上げるのだという気持ちになったら、後継するべきだと思います。その覚悟もなく嫌々継ぐのならやめた方がいいと思います。何と言われても逃げるべきです。しかし、その場合でも、うしろめたさを感じながらも、自分のやるべきことはこれだと信念を持っていなければ同じことです。自分が正しいと信じたことを迷わずやればいいのだと思います。

     大きくにぎやかだった教会も今は信者さんも来ず、その家族だけでやっているような教会も増えてきたように思います。部内教会がいくつもあったのに、もう頼れる部内教会もないというところも出てきているようです。今一度、世襲制度、組織の在り方、更に混じりっけなしの教理なのか精査することが天理教を信仰している個々人に問われているように思います。

     多くの人の書き込みには教団が悪い、変われというような意見が多いように感じますが、私はむしろ信仰している個々人が考え、素直になり、変えていこうと努力することが神が与えた試練であり、新型コロナウィルス禍なのかと思います。

  10. 中心執行部次第で教会長達も気の毒だ。

    >業務遂行能力検定であって人格的素養を高めるものではないのですよ。医者という資格を持ってるからといって決して人間として尊敬に値するというものではありません。

    先ず業務遂行能力を養成するには人格的素養を高めないとね。従って人格的素養を伴なった大先生がお地場の中心人物でなければおかしいだろ。
    業務遂行能力の究極は真理を感得し、体現し、伝達する事なのですから、お地場の中心に啓示者の存在が必要な訳ですね。
    教会長の業務遂行能力の先立つ、真柱や表棟梁さん達の神の想いを伝えるという業務遂行能力を問うべきなんですね。ハイ

  11. 中心執行部次第で教会長達も気の毒だ。

    お地場の中心に啓示者の存在が不可欠なのですね。

  12. 崩壊

    モリジロウ 様
    2020年7月8日 9:36 PM

    >>多くの人の書き込みには教団が悪い、変われというような意見が多いように感じますが、私はむしろ信仰している個々人が考え、素直になり、変えていこうと努力することが神が与えた試練であり、新型コロナウィルス禍なのかと思います。<<

     常識的に考えれば、教団とは信者に宗教の教えを説明し、人間の心の持ち様や生き方を教え伝えるのが本来の役目だと思いますが、現状は、指導され教えられる側にある信者個々人から非難され、ひんしゅくを買うような現状です。物事を考えていくには、一定の基準、物差しが必要ですが、基準や物差しが歪んでいれば、一般信者個々人は何を基準にどのように考えればよいのでしょう。何をどのように変えていこうと努力すればよいのでしょう。また、曲がった物差し通りに、素直になれば、元々、真っ直ぐなものでも曲がってしまいます。おっしゃっていることが、漠然としていて私には分かりにくいので、もう少し単刀直入、具体的にご説明いただきたいと思います。

  13. 匿名

    お地場の中心に啓示者の存在が不可欠なのですね。<<
    そう思います。善亮、大亮路線では教祖の教えを元へ戻すどころか、神とは対極の品のない金、カネ路線を強化しています。どう見ても世間一般の高潔、知的レベルに及ばない人間を頭につけてもどうにもなりません。
    昨今のおかしな決定(教校学園の閉校、マーチングバンド消滅等々、、)を見ても彼が如何に阿◯かが分かります。真柱は存在感ゼロだし、、。
    今後啓示者が出ても追い出すのは分かりきっています。腐った頭を追いかけて信者に神が見えるでしょうか?

  14. モリジロウ

    崩壊様
    レスをありがとうございます。ちょっと抽象的なことばかりだったかもしれません。
    具体的なことを述べていきたいと思います。

    >物事を考えていくには、一定の基準、物差しが必要ですが、基準や物差しが
    >歪んでいれば、一般信者個々人は何を基準にどのように考えればよいのでしょう。

     まったくおっしゃる通りだと思います。深く同意いたします。ですからその基準や物差しが、まずは「本物」かどうか、偽りが混じっていないかをしっかり検証し、歪みがあれば直すことが先決だと思っています。ですから私は微力ながら天理教の歴史を調べ、一つ一つの事象(特にネット上でも指摘されているようなおかしい部分)を取り上げて調べています。

     一般教会長、布教所長、信者でも今の時代、研究しようと思えば、誰でも自由にできます。その研究している過程で「なるほど」と思えることが出てきます。そして間違った明治教典で我々の両親、祖父母世代が通ってきた道を今の我々世代が正していくことが大事かと思います。

     我々世代は復元後の天理教の中にいるわけで二代真柱が戦後、「復元」と称して国家神道に追従してきた教団を本来の姿に戻そうとしたのですが、果たしてそれが本当に本来の姿にもどったのか?むしろ都合よく「復元」の機会を利用して、不都合な部分は伏せられて、簡単には崩れない現体制に続くようにしたのではないかと私は思っています。

     名前を出して恐縮ですが、参考意見さんや匿名の方が過去の文献などを調べて紹介されています。出典も併記されています。インターネットが普及した今の時代では情報はいくらでも入ります。ただその情報が正しいのか、真に受けていいのかは「検証」が必要です。信じるに値するものかどうか、正しいことなのかがはっきりしないまま、拡散していくとネット上でよくある不幸が起こるのは皆が承知のことだと思います。
    また拡散した人も恥ずかしい思いをしなければなりません。正義のつもりがそうでなくなる場合も現代のネットでは起こります。

    >おっしゃっていることが、漠然としていて私には分かりにくいので、もう少し単刀直入、
    >具体的にご説明いただきたいと思います。

     すみません。また話が抽象的になってきているようなので、単刀直入に述べます。
    ずばり皆が調べ、事例を出し、皆で検証し、そこから「まなび」、本物だけを世界に広めていくことだと思います。その具体的な方法や行いは個々人に任せられると思いますが、自分の良心に従い、所属教会でも教内の仲間とも話し合って、共に真実を見極めようとすることが大事かと思っております。

     教団など組織はなるようにしかならないと私は思っています。だんまりを決め込んでいる今の教団では先が見えてきているようにも感じます。過去にも調べたこと、そして感じたことをネットに述べていきましたが、これからもそうするつもりでおります。それが我々の子世代、孫の世代への役割でもあるかと思うからです。

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