天理教の言っていることが理解できない怒り

先日雨が降る中、近所の道を駅に向かって歩いていた。すると、住宅街の狭い道の真ん中で一人の若い女性が傘を差して、産まれたばかりの乳飲み子を背負ってチラシを配っていた。私は数10メートル先から、「あれ?選挙も終わったのに何だろう」と思って、その女性に近づいた。すると「天理教でーす。よろしくお願いいたします」ということで、私は絶句したままチラシを受け取ってすれ違った。私が絶句したのはこの極寒の中、傘を差して乳飲み子を背負って布教する大学を出たばかりだろうかの若い女性の姿に驚いたからである。
もし彼女が私の知り合いであれば、「子供が風邪をひきますよ。やめなさい」と言うだろう。それほど状況としては痛々しいものがあった。天理教人は誰も彼女を止めないのだろうか。むしろ、苦労話やたんのう(≠修行)として美談になるのだろうか。
受け取ったチラシを電車を乗りながら読む。全文(文末の教会名と住所は省く)を以下に引用する。

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「幸せのもとは」
人間にとっての悩みの多くは
夫婦、親子、兄弟姉妹のもつれ、
つまり家族に関するものです。
これが治れば、
幸せな社会になっていきます。
そのためには、まず、
この世界の元を知ること
人間は何のために誰によって造られたか・・・
人生の目的、創造主を知ること
人生の目的は陽気ぐらしであり、
創造主は親神様であります。
私たちは陽気ぐらしを目指して
努力しているのです。
その陽気ぐらしをするために
組み合わされたのが家族であります。
夫婦、親子、兄弟姉妹は
陽気ぐらしをするために
一番適したメンバーなのです。
そのことを自覚すると、
日々感謝して暮らせるのではないでしょうか。
家族におこる事情は、どんなことでも、
お互いが自分自身のこととして受け止めて、
話し合い、たすけあうことが大切
五本の指、どの指を噛んでも痛いように、
家族一人の痛みは、家族みんなの痛み
家族の一人に変わってもらいたいと思った時は、
自分自身を変えていくことが近道。
家族は一つにつながったもの
喜びも悲しみも家族で分かちあい、
生きている喜びが周りに伝わるよう、
その輪を世界中に広げていきたいものです。

願い通りの守護ではなく、
心通りの守護なのです。
心を変える為の信心であり、
自分が変われば全てが変わります。
思い切って教会を訪ねてみませんか?
どんな悩みも聞かせて頂きます。

天理教◯◯◯大教会
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やはり論理が飛躍して、何が言いたいのかよく分からない。日本語としての一文が長く、主語と目的語がごっちゃになっているため理解が難しい。天理教人との会話や神殿講話でよくある洗脳的特徴である。ましてや「世界の元」「創造主」「心通りの守護」など天理教的語用に親しみのない我々一般市民に通じると思っているのだろうか。それとも何が言いたいのかよく分からないことが宗教特有のレトリックであり、必要条件なのだろうか。宗教や神という輪郭が定まらないものだからこそ、畏敬の念を込めてシンプルに人間の言葉を丁寧に重ねる必要があるのではなかろうか(話を単純化した方がいいということではない)。

つくづく、天理教の布教活動はどこを目指しているのか分からなくなる。「天理王命」と書いた旗を先頭に一列になって歌をうたいながら行進する神名流しも、各家庭にピンポーンと天理教を勧める個別訪問も、駅前などで絶叫しながら話をする路傍講演も同様である。そこまで一般市民に人に避けられ嫌われてまですることに何の意味があるのだろうか。教祖の娘が浪速布教をして、民衆に好奇の目で見られたときと時代が違いすぎる。このような時代錯誤の勘違い布教がたんのう(≠修行)なのか。
教祖の雛形とは、ただ先人の真似をすればいいという軽いものだろうか。私には教義理解と経営戦略の点で今の天理教の布教論が理解できない。
かといって、こういった話をすると、これまで私が天理教人に言われたことは、「先人の雛形を辿り、先人の思いに心を寄り添うことが大事だから」と、耳触りが心地よく、そして全く意味のない言葉と実践ばかりであった。
一方で「万人に好かれるなんてことは目指していない。私たちの布教で、一人でも助かる人がいればいい」と言われたこともある。では天理教は社会的or精神的弱者のためだけの教えなのか。普通に不自由なく生活している者に「だめの教え」(最後の教え)は必要ないのだろうか。
これに応えられる普遍的な教義思想を語れる天理教人に出会ったことはない。多くが、天理時報で使用されているような、その場だけの耳障りの心地よい、中身がからっぽな言葉を並べているだけで発話者の個性は見えてこない。
素朴な疑問として、なぜ天理教人は天理教を信仰しているのだろうか。

こういった問いを天理教人に問い続けていると、いつの間にか「カインは気難しい」と言われて終わるのがオチである。
天理教自身の問いとてし果たしてそれでいいのだろうか。

同様に天理教の信仰に対して「天理教を信仰すると家族が円満になる」というが、天理教家族が平均以上に円満であるということを感じたことはない。もちろん円満な家族もあれば、そうではない家族もいるだろう。そうである以上、天理教を信仰すると陽気ぐらしになるという理路は当然成立しない。説得性もない。
特定の苗字ばかりの能力のない官僚組織や、後継者問題、信者離れで天理教の教会が激減していることも同根であろう。

今回、記事に書いたことが宗教の本質ではないことは私も感じるところである。私が取り上げていることは教義よりも行動経済学的であり、宗教を表面的に扱っている嫌いがある。宗教はより形而上学的に議論されるべきであると思う。しかし、天理教を語るときに、天理教という実践宗教を裏付ける理論的な浅薄さと、天理教人の矛盾した言動を野放しにはできないという思いが常にシコリのように残り続けていることも事実であり避けては通れない。しかし、二代真柱以降の天理教の理論的成熟を担う人間がいないことをここで嘆いても無意味であることは承知している。
しかし、私は極寒の雨が降る中、乳飲み子を背負った若い女性が必死で頑張っている姿を見て、これが天理教のいう陽気ぐらしの実態なのか戸惑うとともに、天理教教義の不安定さや偽善的信仰に憤りを覚えたことをここに記す。なぜ天理教人はこうも世間一般とのバランス感覚に欠けているのか、天理教の著しい衰退の一端を見た気がした。

天理教の言っていることが理解できない怒り」への29件のフィードバック

  1. 一文字隼人

     記事を拝読させていただきました。拙い文章ですが感想を書かせていただきます。
    生れたばかりの乳呑児を背負って、雨の中で布教している若いお母さんがどのような思いからチラシを配っているのか、ご本人さんに聞かないと何とも言えません。嫌々やらされているというのであれば気の毒としか言いようがありません。反対に笑顔で嬉々としてやっているのであれば、何か心の中に燃えるものがあるのかとも思います。傍目に見れば本人が勇んで布教をしているのであれば誰も止めることはできないと思います。

     今回は布教活動について書かれているようですが、私自身も布教戦略としてはこれでいいのかと思うところもあります。おっしゃる通り、こかんさんの浪速布教の時代と現代では違いすぎると思います。テレビもラジオもない、ましてや拡声器もない時代で人々にけっこうな教えがあるからと伝えるのに街角に立って路傍講演をしたり、戸別訪問をするのは自然なことだったのかとも思います。

     多くの人に素晴らしい教えで伝えたいと思ったら、その時代にあったメディアを使えばいいのかとも思います。路傍講演も戸別訪問もだめとは言いません。しかし、道具があるのなら積極的に使うことも考えて行かなければならないと思います。それこそ道具がない時代には大声を張り上げて人通りの多いところで絶叫するのが効果的だったのかとも思います。

     しかし、今の時代のメディアの一つであるインターネットを利用できない人も世の中にはまだまだいるのも現実です。いい教えだから人に伝えて陽気ぐらししてほしいと思うなら、どんな方法を使っても構わないと思います。雨の中、乳呑児を背負ってチラシを配っても、それはそれでいいと思います。体が不自由で外にも行けず一日中ベッドの上で過ごさなければならない人でもパソコンの操作に慣れていてSNSを使って多くの人に伝えることもいいと思います。

     おっしゃる通り先人の真似をすればいいというものではないと思います。ただ先人の足跡をたどってみたいというのであれば、法に触れたり迷惑にならない範囲でやればいいわけで誰も止める必要はないし、意見するほどのことでもないと個人的には思います。

     病助けで信者が増えて行った頃とは時代も違います。医療の発達した時代に拝み祈祷だけで助けを乞うのも何か違うように思っています。もちろん医療に頼らず不思議な助けをいただいた例を否定するつもりはありません。普通に不自由なく生活している人に「だめの教え」を伝えることも大事だと思います。むしろ今の時代であるからこそ、一見何不自由なく暮らしていながら、陽気に暮らせない人たちに「にをい」をかけて行くことが大事なのではないかと思います。

    >素朴な疑問として、なぜ天理教人は天理教を信仰しているのだろうか。

     私は不思議なたすけをもらったからです。詳しくは述べられませんが、助けてもらいたいと願い鮮やかな守護を見せてもらったからです。だからこそ、事情で苦しんでいる方のお宅におたすけにも通っています。また今の時代ですからインターネットでも活動すべきだと判断し、こうしてブログや掲示板にも時々、投稿しております。

    >特定の苗字ばかりの能力のない官僚組織や、後継者問題、信者離れで天理教の教会が激減していることも同根であろう。

     組織の問題は大いに改革していくべきだと思います。後継者問題は世襲制をやめて教会制度もなくし地域主体の集まりに変えていくべきかと思います。教会が激減するのは教勢倍加運動で一気に増えた教会がピラミッド組織の悪影響で力をなくし減っているのかと思っています。

    >しかし、私は極寒の雨が降る中、乳飲み子を背負った若い女性が必死で頑張っている姿を見て、これが天理教のいう陽気ぐらしの実態なのか戸惑うとともに、天理教教義の不安定さや偽善的信仰に憤りを覚えたことをここに記す。

     おっしゃることがよくわかりません。「ようきぐらし」という言葉一つでも天理教人の間であいまいに使われている感じもしますし、一人一人がイメージしていることも違うように感じます。

     話が乳呑児を背負った若い女性に戻りますが、現在、彼女が陽気ぐらしをしていて感謝の気持ちでチラシを配っているのか、今、陽気ぐらしをしていなくて、陽気ぐらしをしたいがためにチラシを配っていたのか、あるいは違う思いでされていたのか、それもご本人さんにきいてみなければわからないことです。
    チラシをもらった時に直接、聞いてみれば明快な答えが聞けたかしれないと思うと少し残念な気がいたします。

    「これが天理教のいう陽気ぐらしの実態なのか戸惑う」とのことですが、これは実態ではなく一例にすぎないと思います。見たままの感想を書かれるのも自由ですし、思ったままを話すのも自由ですから、「陽気ぐらしの実態なのかと戸惑われた」感想を述べるのも自由です。しかし、その乳飲み子を背負った女性の方と少し会話をされて、その反応を見てから書いていただきたかったです。

    >なぜ天理教人はこうも世間一般とのバランス感覚に欠けているのか、天理教の著しい衰退の一端を見た気がした。

     そういったご感想を持つのもけっこうですが、世間一般とのバランス感覚に欠けていない人も天理教人の中にいますし、一部を見て全体を語るのは少し危険かとも思います。教団の子弟も外へ出ていろいろな経験を積むこともバランスを養う上で大事かと思います。しかし、そうなると今の教団組織の異常さを知ってしまうことになるので戻ろうとはしなくなると思います。そこに問題があるように私は思っています。教理と組織の運営が乖離していると思われる今の制度では、無理があるのかとも思います。

    長文、失礼いたしました。

  2. まみ

    ごめんなさい。何回やっても「急ぎすぎ」ということで送信できなかったものですからもう1回と試しました。
    このブログを発見してから興味深く読ませていただいております。
    私は信仰の自由(布教の自由)から他者に危害が及ばなければどういう形であれ、いいと思っています。
    私が気になったのは乳飲み子の赤ちゃんの健康(人権)です。教会の仲間や友人に預けることが不可能だったのだろうか?母子一体と思っていてそんなことは考えもしなかったのだろうか?
    この母子に、はるか昔の母と自分を重ねてしまいました。母は世間から」見れば天理教狂信者でした。
    いろいろと妄想してしまいました!
    以下の二点について教えてください。
    (1)天理教教規1章総則8章「天理教を統べ理める者は真柱である。真柱は中山氏を名乗る。真柱の継承者は、教祖の血統者の系譜に基き、本部員会議において推戴する。」
    (2)<かんろ台>が建っている地点は、宗教法人天理教の所有地ではなく、中山家の固有財産として登記されている。 『天理教』青山震著 昭和43年発行 P286より
    現在もそうなのでしょうか?

  3. ようぼく

    (前回は荒々しい書き方をしてしまい失礼しました…)
    いつも興味深くブログを拝見させて頂いています。今回は「天理教の布教戦略」に対する怒りがテーマなのですね。ブログの中で出てくる「神名流し」「個別訪問」「絶叫路傍講演」そして「チラシの手渡し」も今年全部やってきました。カイン様のいう「つくづく、天理教の布教活動はどこを目指しているのか分からなくなる。」という言葉を自分なりに考えてみました。

    天理教の布教活動には二つの意味があるのではと思います。一つ目は組織活動としての布教。これは様々な解釈があるとは思いますが、個人的な認識としては「新興宗教としての教勢増大」です。ヒトかカネかで語られる天理教で考えれば詰まるところ「ヒト」の増加イコール「カネ」でしょう。教理的な解釈をするなら「陽気ぐらし世界の実現」です。

    二つ目の意味は個人にとっての布教です。これはその人が布教活動に対してどのような意味づけをするかによっていろいろあると思います。私が行ってきた活動を振り返ると「人助けたら我が身助かる」という言葉がしっくりきます。先日、若い青年さんと話していたのですが「天理教知ってる人なら、人をたすければたすけるほど自分が助かるっていうことを知ってるわけだから、あとはただ人を助けるだけでしょ」と語っていました。「素朴な疑問として、なぜ天理教人は天理教を信仰しているのだろうか。」とブログにありますが、その青年さんからすれば「なんでこんな簡単なことも分からないの?」と言われるかもしれません。

    「時代錯誤の勘違い布教がたんのう(≠修行)なのか」…言ってくれますね(笑)ですが、私も同じ考えです。そもそも天理教の布教は上記のようなやり方以外は原則禁止に見られる傾向があると思っています。カイン様の他のブログでもありますが、天理教はインターネット等で個人的な発言があると、それを抑止します。これは天理教の記事が批判的なものが多く、布教上の風評被害と思われているからでしょう。私自身も天理教の布教のためブログで身近な天理教を知ってもらおうと記事を書いていましたが、教会の方が見たとたんに「削除しろ」と言われやむなく削除しました。組織や史実は知っててもできるだけ触れないようにし、あくまで布教につなげるためのブログだったのですが、残念です。つまり「時代錯誤の勘違い布教」以外は組織的に反対されるという残念な風習が根付いていると思います。個人的には路傍講演をYoutubeで流したいんですけどね(笑)

    その意味では今回の女性が配っていたチラシは実はとても先進的です。なぜかというと「天理教◯◯◯大教会」と名前が入っているからです。恐らくですがこのチラシはその大教会のオリジナルなチラシかと思います。これがあるケースは実は珍しくて「◯◯◯大教会」と名前が入っているなら恐らく大教会長が厳しく文章チェックしているはずです。(か、どうかは知りませんが)このようなオリジナルのチラシすら書いたら何言われるか分からないから、怖くて勝手には書けないと少なくても私がいる大教会では考えています。

    「なぜ天理教人はこうも世間一般とのバランス感覚に欠けているのか、天理教の著しい衰退の一端を見た気がした。」

    …仰るとおりですね。ただ天理教人の中には「道一条(専任)」と「かけもち信者(併任)」がいます。私などは普段は仕事をしながら休みの日には教会に行くようなかけもち信者なので、バランスに欠ける…というより、むしろあれこそが布教だと思ってるんじゃないか?くらい思います。それがいいか?などをちゃんと考えてる人はほとんどいないですね。むしろチラシを配る前に、「あなたに天理教をちゃんと説明できるの?」と… 私がブログを始める前にカイン様のブログで問題提起されていた言葉ですね。既に削除したブログにはいろんなこと書きましたが… 布教される皆さまもその問いを見つめ直すべきなのでは…と思います。

    長文、乱文失礼致しました。

  4. 神名流し始めた者

    カインさんブログ読ませて頂いております。
    今回は賛同しかねます。何時もならこの女性の信仰は自由だが乳飲み子には関係が無いとか云々ご指摘されると想像します。何時もと違う、らしくない文章です。

    お互いにこの女性に問うていないので、彼女がどのような経緯で始めたか、どのような信仰をお持ちか、は分かりませんが、リーフレットを配り神名を流し始めたのです。この女性は大学出の年頃とすれば二二歳以上ですね、教理云々より行動したのですね。もしこの女性がこのブログを見ることがあれば多分喜ばれてありがとうございますとお礼を言われると思います(そう言う女性で有ってほしい)。みかぐらうた三下り四ツ「いつもわらわれそしられて めづらしたすけをほどに」とありますので自分の事で天理教に対する論評を頂いた事は地で行けたと思われると思います。雨の中乳飲み子を抱えての子供の風邪ひきまでご心配頂いたことにも感謝されるとおもいます。その時の女性の表情がどうだったのか。もし嬉々としてちらしを配って居たのなら、問題はないのではないでしょうか。(子供を風邪ひかさせたのなら虐待かも知れませんが?!)

    私は天理教の信仰者です。この場面に遭遇したら「勇んでますね、勇ませていますね」と声をかけます。子供の心配はすべきですが。
    投稿者ネーム「神名流し始めた者」は神名流しを始めた者です、もし私の事でこれだけブログに論評して頂ければ私もお礼を申し上げます。
    神名流しを始めた者私は戸別訪問(逸話篇42人助けたら)は出来ませんが、神名流し(子寒様の難波神名流し真偽の程が定かでは無いですが、有ったと考えます)なら出来ますので始めました。(子寒様の神名流し史実だとしても信者さんが出来たと云々は聞いておりません。)私の場合の神名流しは交差点の一角でその場所の草抜きをして、三殿遥拝、拍子木を打ちながらよろづよ八首を奉唱、リーフレットを配り、またよろづよ八首を奉唱、三殿遥拝、時間にして三十分程度です。
    何故始めたかと言えば行動すべきと思い至ったからです。
    別席と三日講習は十五年前位に、五年前に修養科、教会長検定講習前期、後期、検定を五ヶ月間で済ませて自宅に戻って、何か成すべきと、単独布教、路傍講演、戸別訪問、神名流し、大教会住込み、上級住込みetc考えましたがしなかった。それよりネットでの天理教とはどう思われているのか検索してみて驚きでした。悪口雑言非難中傷でした。1年半位、見まくりました。基本さん、リ・ラックマンさんのブロガーを知りました。このブログ、天理教フェローシップetcも知りました。其々批評批判を読ませて頂きました。私の所属の大教会では聞かない聞けない話を知ることが出来ました。お陰で教理教義を自分なりに知り得たと思います。依って三原典を拠り所とすべきと思っています。おさしづは簡単に読み解けませんので「みさとブログ」を参考にしています。五年間を通して思い至ったのが「天理王命」の御教は絶対に良い、神名を流すべきと。「天理王命」が創られた人間世界です。神名を聞いて反応が有るはずです。わらわれてそしられて結構なのだと。先の通り始めたのですが未だにわらわれてそしられません、反応がありません。こころの阿呆になれて、神に凭れきることができれば良いのですが。

    カインさんには天理教をスタンス持って見て頂きご指摘頂いておりますが教団組織は結構に成り過ぎて自浄能力無しと思います。5~10年したら、先ずは130年祭が終わったら見えて来ます。年老いた信者さんが出直し、信者さんが居なくなりますから。(これこそ補充出来る)ご指摘の戦略戦術に基づく布教活動が出来ておりません。例えばこのような話が聞こえてきます。関東の武蔵野線の沿線駅の陣取りで、ある分教会に取られていると取られたと嘆いているだけです。支部等で話し合いが成されていないと言うか、そもそも私の地域の支部で布教活動に付いて話がありませんので、似たような状況と思われます。又、私の所属の大教会、直轄分教会の教会長会議でも配布される紙面の読み上げて連絡報告に終始しています。山名が東北布教を目指した時のような話はありません。

    私は天理教をフランチャイズ方式と思っています。ようぼく一人でフランチャイザーとフランチャジーを兼ねていて全地球がエリアなのです。でも本部大教会から販売促進活動は無いに等しいですね。

    たんのう、陽気くらしの単語の使われ方が今ひとつ違うように思えました。

    今後も論評を、批判批評をお願いします。コメント欄を設けて頂きありがとうございます。

  5. 大和 たける

    あなたの書かれた文章は拙い文章ではありません
    もっとも真っ当な文章だと思います。
    その時代にあったメディアを使えばいいというのも適切です。
    現代は暗雲たなびく時代です。人びとの心は荒廃し、時代がその底につかんとする時代なのです。
    そのような時代こそ宗教が必要ですし、衆生の済度が可能だと思います。
    世の中の人々は天理教に無関心で、振り向いて見ようともしないとのご意見もございますが、
    今、社会が必要としているのは、心の病を助けてくれる神仏の教え、すなわち宗教なのです。
    陽気に暮らせない人たちにしっかり「にをい」かけをお願します。

  6. 徳子

    家族って痛みを分け合い心をひとつにすることが、幸せのもとでしょうか?いろんなことが絡み合いながら苦しみながらでもそこに深い愛情があり、そして何より生きていく為の経済基盤が最も大切なことではないでしょうか?陽気ぐらしって具体的にどういうことなんでしょうか?私のように天理教の教会に生まれながらどうしても心の中でおかしいと疑問を抱き、日々のお勤めをする必要性があるのだろうかとめんどくさい気持ちでしておりました。近頃ではそういう疑念と思考停止とが結びつくような気がしてます。人間を支配するには思考を停止させ依存させることだと思います。だから私はいつもこの世に生まれてきたのは、天理教を信仰するためではない。と心から叫び続けてきました。子供にもどうか大人になるまで天理教の色に染まらず、自己表現ができるくらいの懐の深さがあってもいいのではないでしょうか。

  7. よっしー

    徳子さんの意見にまったく同感です
    私は生まれたときから母親に「お前が身体に不自由無く生まれたのは天理教の神様のおかげだから、神様の御用をするように」と言って育てられました。
    幼いころ父を無くし、自然と母の言うことを聞いて天理の学校へ行き、事情教会を継ぎましたが、信者さんも2〜3人で 働きながらなんとか食べています
    母も同居していていろいろ助けてはくれますが、将来に何の希望ももてません。上級からは、信者が少ないのは「お前のつとめが足らないからだ」と言われ、そうした上級も信者が数人で減る一方で、当然、お供えの要求も多くなりました。働いても働いても、そうした上級の生活費になっていると思うとやってはいけません。
    今の私の救いは、天理教ではなく、仕事と仕事関係の友人が唯一の救いです。
     支部の周りの会長も同じ様な感じで、仕事をしていない50過ぎの会長は将来は生活保護をもらうなどと
    五体満足でありながら、平気で言います。顔つきも変です。
    この宗教は本当に終わっていると感じます。
    天理教も昔は社会で仕事をしながら信仰する、まともな人が多かった様に思います。今は普通ではない、社会では通用しない人の方が多くなり、そうした人が2代、3代の会長になり、大教会や支部で大きな顔をしています。私の様な末端教会の言うことなど何も通りません。
    もう、会長をやめて、信仰から離れようと思います。
    宗教は恐ろしいなと切実に思いますし、今からは宗教の恐ろしさを伝えていかなければと真剣に思います。

  8. 一文字隼人

     徳子さんとよっしーさんのコメントを拝読して、少し感じたことを述べさせていただきます。
    「陽気ぐらし」とは神人和楽の陽気な世界でしょうか。具体的には神と人が共に喜び勇んで暮らす世の中でしょうか。仮にそう思えば今の世の中が実現しているとは思いがたいです。個人レベルでも然りです。

     お二人の文面から感じられたのですが、末端教会に所属されているのでしょうか。また「教え」そのものより「教会制度」に対して大きく不信感を持たれているようにお見受けいたしました。

     徳子さんは日々お勤めをする必要性があるのだろうかとお考えのようですが、私は「ある」と考えております。面倒くさい気持ちでされていたのなら残念なことですし、無理やりやらされていたのなら気の毒だったとしか言えません。またそれと同時にどうして面倒くさいのなら、やらなければいいのにやっていたのかと疑問も感じます。その行為自体が無駄以外の何でもありませんから。

     お子様もいらっしゃるようですが、決してお勤めを強制するべきではないと思います。どうして朝夕おつとめをするのか、その意義は何なのか、子供たちが自身で答えを出さない限り、強制しても無駄なだけだと思います。おっしゃるとおり、この世に生まれてきたのは天理教を信仰するためではないと私も思います。生まれてきたのは陽気ぐらしをするためではないかと私は思っております。信仰はその陽気ぐらしを実現する為に必要なのだと考えています。

     よっしーさんのお母様がおっしゃることもよくわかりますし、決しておかしなことだとも思いません。事情教会を預かり信者さんもいてお仕事もしながら、日々忙しく過ごされているのかと拝察いたします。上級から信者が少ないのは「お前のつとめが足らないからだ」と言われたら、「はい、その通りでございます!」と答えてはいかがでしょう。そして「上級会長さんの望まれる“つとめ”は私のようなものにはつとまらないので、お供えも今後一切できません。」と付け足して、上級会長さんの反応を見てはいかがですか。

     青くなって金づるが切れるという顔をしてご機嫌をうかがってきたら、もう事情教会は信者さんたちとよく相談してお返しすればいいですし、お返しして楽な気持ちで信仰を深めていかれたらいいかと存じますがいかがでしょう。もしくはお母様がいらっしゃる間はご自身がたんのうの心で通り、信者さん方と共に教会で勇んで月次祭などをつとめ、陽気ぐらし実現を目指されてはいかがでしょうか。教会を返すのはいつでもできることかと思います。

    縦の系統に縛られる現行の教会制度から抜けることと信仰を続けることは別問題だと思います。
    何をめどに信仰をしているのか、考えるべきではないでしょうか。

     高慢きわまりない文章を書いてしまったような気がして自己嫌悪を感じておりますが、お二人のコメントを拝読して素直な気持ちで書かせていただきました。あしからず含意をおくみ取りいただければと存じます。

  9. 徳子

    私は、天理教に対して憎しみさえ抱いております。敬神として似て非なるものであり、人間を支配し、自分の力で考え問題を解決する能力は人間だからこそ神から与えられたものだと考えております。教祖の思いに沿ってとは私には他力本願であり、自分で自分の人生を切り拓いてこそ生き甲斐がり充実した日々をそして幸福ではないでしょうか。なして天理狂にのめり込む母を見捨てることができなかったのか。これこそギャンブルやアルコール依存と同類の依存関係関係だったと思います。天理教での暮らしがあまりにも悲惨すぎたんでしょうね。

  10. 徳子

    よっしーさん一緒に天理教に対する批判を声高に伝えていきませんか。天理教の教会で生まれ育った者でないと解らない苦しみ憎しみなどがあります。この教団の本質を見抜くための糸口になれば幸いです。ちなみに私も50代ですが、まだ希望を棄てず本来自分がしたかった夢を追い求めています。今この年齢で近い将来生活保護をもらうことを企んでいるのは言語道断です。税金の無駄使いです。必死で働いて税金を納めている人達を舐めてはいけません。それこそ天理教本部に生活の面倒をみてもらいなさい。それが本筋ではないでしょうか。

  11. よっしー

    徳子さん ありがとうございます
    私は、ここでいろいろ天理教の批判をするつもりはありません。ただ、徳子さんの様に私と同じ様に苦しんでいる人がいると知るだけでも、ちょっとホッとします。
     私の親は、私が宗教の恐ろしさに気づき、離れようとすればするほど、猛反発と親という言葉を巧みに使い、感情に訴えてきます。子供として親を大事に思い、親の喜ぶ姿をみたいのは当然のことで、それが出来ない自分がだめな子供なのかと おろおろと悩み、50を越え自分も親にもなってもなお子供で、悩んでしまいます。情けない話ですし、宗教に関わっていない普通の人から見たら、依存関係の気持ちの悪い親子でしかありません。信仰は自由なはずですが、祖父の代からの家族皆が熱心な家だと、自分一人抜けることは家族との絶縁を意味します。本当につらいことです。自分は家族と幸せな家庭を築きたいのに、現状では親を捨てなければ、お供え等の金銭的にも、精神的にも、出来る状況ではありません。

    私が思うに、天理教は早く親という言葉を利用するのを止めなといけません。親神として神様にだけ使い、人間にあてはめて、親は絶対などと、あたかも教理の様に使ってはだめだと思います。
    素直な優しい人達や子供を、教理という縄でしばらない様にしてほしいです。もう遅いかもしれませんが。
     早く、教祖が望まれた様に、かんろだいを中心に縦の信仰ではなく、皆が横の一列兄弟の信仰になるように望みます。本部に大教会、教会制度を排除する決断が出来れば可能だと思いますが、無理でしょうか?

  12. すみません。ちゃんと読んでないですが、雨の日にチラシを配っていた人のことで、思ったことがあるので。
    雨の日に1人でというのは個人の自由なのでいいと思うのですが、乳飲み子連れてというのは、母親の独りよがりな気がします。
    信仰の前に、母親として子供のことを考えるべきだと思います。
    天理教内で、家族の不仲の原因は親が子供より布教を優先していた場合が多いような気がするからです。
    天理教嫌いと言う友人は、天理教に親を取られたというような感覚を持っているように、感じました。
    神様から見たら、どれが正しいのかは私にもよくわかりません。
    でも世間の人から見て、おかしいと思われることは(路傍公演や神名流しなども)どうなのかなあと思います。私は絶対やりません。

    極寒の雨の中で、乳飲み子抱えてチラシを配る姿は、世間の母親から見たら異様でしょう。チラシの内容が家族なら尚更。

    私はハッピを着て駅前のゴミ掃除をするほうが、においがけになるような気がします。私なら、ハッピ着るのも嫌だけど。

  13. 悪魔の鉄槌

    信仰とは「酔い」みたいなものです。
    酔っている本人は。
    布教行動をしているという自己満足感。
    神様、天理教の為に、という自己勝手な責任感。
    極寒の雨の中…シチュエーションも重なり。
    酔いは、少し熱も帯びるかもしれません。

    酒でも薬でも、依存しすぎすと、中毒となり。
    本人だけならず。
    家族、周り、社会にも、多大な害を残す。
    天理教的な素晴らしさとは、天理教内の自己陶酔なだけの話で。
    周りには、有り難迷惑なのがほとんどだろう。

    布教チラシの内容も。
    天理教独特の、漠然とぼかし誤魔化し。
    相変わらずに、現実からの責任逃れを。
    さも綺麗事かのように、綴っている。
    天理教は、明確な答えも持たない割に。
    他人に、答えを求めさせようとする。

    そもそも、この布教チラシの内容の言葉文面を。
    教内の臭いことを、教内の理不尽、不条理を。
    確信ながらにも蓋をし続け。
    腐敗続けることさえも、信仰とする天理教が。
    恥じらいもなく、書き、堂々と配付することに。
    腹立ちしか残らない。
    そして同じぐらいに、個として、人として。
    腐敗続ける天理教を、哀れにも思う。

    私がその場を通り、チラシを手渡されたら。
    チラシに目を通して、ポケットにしまい。
    「手渡されたゴミは、私の方で処分しますので。
    あなたは、お母さんです。
    もう家に帰って、お子さんと温まって下さい。
    まだ、自身の言葉も話せない、立ち歩きも出来ない
    お子さんです。
    お母さん、あなたが今すべきことは。
    お子さんとの時間を大切にすることです。
    お母さんとお子さんの間に、
    天理教も信仰など、無い方がいい。
    あなたは、お母さんです。
    大した意義のない、薄っぺらい天理教信仰に酔うことよりも。
    あなたとお子さんの日常の時間には。
    比べ物にならない程の、もっと大切な想いが沢山にあるはずです。」と、伝えたい。

    社会、日常、多くの方々との会話の中で。
    時々に、こんな話題、会話が生ずることがある。
    「どうして、宗教団体、宗教に染まってる人は。
    家にまで来たり、街頭でチラシ配ったり。
    何が目的で、勧誘するの?」と。
    宗教信仰と、接点のない方々にしてみると。
    本当に勧誘という行動は、不思議である。
    ただ、されている側は、迷惑していることは確かなことである。

    そのような、宗教疑問の会話に。
    私はこのように、会話に交ざります。
    「食事に行ったラーメン屋さんがとても美味しくて。
    あそこのお店のラーメン!とても美味しかったから。
    是非、機会があったら食べに行ってみて!」と。
    「ラーメンが宗教信仰に変わっただけで。
    自分にとって、美味しかった、良かったから。
    他人にも勧める感じです。」と。
    それだけで済めばいあのですが…

    「ただ、新興宗教の勧誘とは。
    喫煙者が、タバコを吸わない人に。
    タバコ吸うと、美味しくて、気分も優れるからさ。
    あなたも吸った方がいいよ!と。
    相手のことなど構わずに、
    自分の主観を押し付けているだけです。
    もちろんに、タバコは百害あって一利なしです。
    タバコの税収は、国の予算に成ってはいますけど。
    喫煙者も、リスクを知って吸ってもいますし。
    お金もかかります。
    世間では、喫煙場所も限られて来ています。
    周りの方々にも、気を回して吸う方も多いですけど。
    匂い、副流煙…その場にいるだけで。
    吸わない方々は、不快な思いもしてしまいますね。
    新興宗教の勧誘って。
    人のため、世界のため、…は建前で。
    信者さん増やして。
    組織が贅沢運営するための、資金集めですよ。
    信仰と偽り。
    お偉いさん方々の、自己満足と自己権力の為の。
    上納金集めですよ。

    タバコを吸わない方に、タバコのうまさ?はわかりません。
    タバコをうまいと思わない、吸いたくないから吸わないのです。
    吸わないなら、吸わない方が良いに決まってます。
    喫煙者も、辞めたくてもやめわれない方々も多いです。

    タバコを吸わない方でも肺癌にもなります。
    人の人生や!明日でさえも。
    その時にしか、わからないから。
    何が良くて、何が悪いのかも。
    自分次第で、自分で決めて行くことかもしれません。
    宗教信仰とは、人の弱味を狙い打ちし続けて。
    そう、思い込ませて誘導する。
    信仰していても、癌にもなりますよ。
    癌は、癌として受け止めて、解決法を探るのです。
    固執した偏った信仰心は。
    本質を駄目にするだけです。

    とりあえず、新興宗教の勧誘は。
    蓋を開ければ、胡散臭いことばかりなので。
    タバコで寿命が縮むことの方が、個人として自己責任で済む範囲が大きいです。
    宗教信仰で身を壊し、滅ぼすと。
    個人の自己責任では済まない範囲まで広がります。

    日常の中で、宗教作法や文化を残すのは。
    日本人の情緒です。
    でも、
    宗教信仰を、利用しようとして。
    結果、酔いしれ、染まってしまい。
    結局、財や金を搾り取られてた…
    そのようなこともあるので。
    関わらないことが、一番ですよ!
    勧誘には、キッパリNOと言える勇気が大切ですね!」と。

    無責任な理不尽な、閉鎖的な天理教社会世界。
    天理教教内は。
    風通しも悪く、換気扇もなく。
    天理教権力に溺れた人達が…
    天理教信仰に酔う人達が…
    吸って吐き続ける煙を。
    嫌々にも、匂いもつき、副流煙を吸わされて。
    知らず知らずに、天理教信仰という病に。
    閉鎖的な天理教社会の中で。
    さらに蝕まれていくだけに、そう思われる。

    天理教社会学研究所。
    ブログ主のカインさんが、記しているように。
    「素朴な疑問として なぜ天理教人は、天理教を信仰しているのだろうか?」
    私も、全ての天理教人に聞いてみたいものです。

  14. 匿名

    「どうして、宗教団体、宗教に染まってる人は。
    家にまで来たり、街頭でチラシ配ったり。
    何が目的で、勧誘するの?」と。
    宗教信仰と、接点のない方々にしてみると。
    本当に勧誘という行動は、不思議である。
    ただ、されている側は、迷惑していることは確かなことである。

      教会長などに、においがけをすれば、人をたすけることになり、又自分もたすかるのだと言われているのでしょう。
     私も教会長に、かつて言われたことがあります。「神様、教祖が一番お喜びになることは、においがけなんですよ。」と。でも私には、においがけなど出来ませんでした。生真面目な方が、会長さんなどの言う事を聴いて、「人たすけ」に、「神様、教祖の御心に沿わせて頂くため」に、チラシ配り、個別訪問、熱心にされているのでしょう。迷惑がられていると、知ってか、知らずか。

  15. 悪魔の鉄槌

    「神様、教祖が一番お喜びになること…」
    天理教では、「親神様、おや様、御霊様」にあたりますね。
    においがけでも、出来ないことは出来ないと。
    ハッキリした態度の方が、ご自身の為にも良いと思います。

    宗教信仰者が「神様、教祖様、教え…」と、対人、対面に使うことは。
    信仰当人の方には、とても都合の良い言葉であり。
    相手方には、とても無責任な言葉、無責任な行動に感じます。
    社会、世間、組織、もちろんに宗教団体も。
    人の集まりであり、人対人です。
    人が人に対することに、神様を持ち込むことは、必要なのでしょうか。
    神様を持ち込むから、宗教なのかもしれませんが。
    神様を持ち得ないと、対話も出来ないのでしょうか。
    結局は、どこか信仰への自己満足度と。
    宗教看板への依存のようにも感じて。
    対人として、相手として。
    人を人として、見て考えていないように感じてしまいます。

    天理教、他宗教でも。
    信仰熱心と呼ばれ、布教活動される方々は。
    相手方に非難、文句を伝えられても。
    相手方への迷惑とは、感じないのでしょう。
    これも修行、道を通る…と。
    宗教思想で、反省も弱く、自己都合よく受け取ってしまいます。

    時々には。
    宗教団体、宗教関係者に、強要もしくは脅迫に近い言動をされて。
    布教活動させられている方々もいます。
    相手方に非難されて、組織に帰ってからも、宗教用語で非難される方々もいます。
    哀しくもあり、悲しいですね。

    路上講演、神名流し、個別訪問、チラシ配布…。
    布教、においがけ、と称する方々に。
    天理教によって、困惑困窮している方々、過去に被害を受けられた方々の声を。
    「どう思われますか?」と問いたい。
    「私の教会は違います。 そのようなことは知らない、聞いたこともない。 天理教の中の一部の人々。 天理教の中でも、色々な人がいますから。 天理教の教えは良いけど、組織方針は間違っていて。などなど…。」
    そのような返答の予想を思います。

    自身の同宗教組織内での、諸問題、人権問題、犯罪紛いな事柄を棚にあげて。 社会、教外に。
    布教、においがけ、陽気ぐらし、と唱えることに。
    誰が、耳を傾けるのでしょうか。
    そのような、希薄な考えに、誰が振り向くのでしょうか。
    教内の問題を、問題と感じないのならば。
    社会、世論、周囲の反応や感情は。
    天理教集団を、反社会、カルト、非常識と。
    そう判断する方々が、さらに多くなるでしょう。
    天理本部、役員、会長、教人、信者、天理教内の全ての方々が。
    それでも良いのならば、構いませんが。

    この記事に記載されている、布教チラシの内容文面。
    社会、世間、教外に配布するものでなく。
    天理教内の全ての方々が、身に染みて読むべきこと、ではないのでしょうか。
    「天理教の言っていることが理解できない怒り」
    私も、カインさんとは別の感情かもしれませんが。
    その通りに思いました。

    天理教社会学研究所 カインさんのブログ。
    天理教社会を通じての、宗教心理、問題、課題を。
    調査、提言もされ、客観的にも、持論もあり展開されています。
    組織集団、組織運営、社会時説、哲学要素…などなど。
    多様な視点でも、興味深く読めます。
    各々の記事、内容に、コメントも分けられてもいますね。
    また時間の合間に、読み進めていこうと思います。

  16. 匿名

     全教一斉においがけデーというのが、毎年3日間に渡ってあります。そして、においがけの報告を支部に出さなければなりません。 においがけデーは苦痛です。報告書には、随分と水増しして書いて出しますが、こんな事をさせて、信者が大幅に増えるでしょうか?
     又、支部などで、ご巡教の先生のお話へ出席したかどうか等、上級へも報告が行ったりして、出席していなければ、上級から注意を受けたりします。
     そうして、管理されるのは、あまり気分のいいものではありませんが、そのようにでもしなければ、皆あまり自発的には動かないということでしょうね。

  17. 悪魔の鉄槌

    においがけ、とても苦痛だと思われます。
    天理教信仰をされている方々さえも。
    天理教に対して、苦渋している訳です。
    天理教信仰に対しても、想いは無いでしょう。
    自身の「偽り」を相手に勧めるわけですから。
    苦痛が生じる方々も多いでしょう。

    においがけデーなどは、流れ作業的だと思われます。
    天理教のチラシ、パンフレットなど。
    カラー刷りで、お金かかっているように思われます。
    無駄に刷るので、余る部数も多いでしょう。
    配る方も、渡された方も、読む気持ちは少ないと思います。
    資源、大切にして欲しいと思いますが。
    天理教は、強迫脅迫的上納金システムなので。
    資金の心配はないとは思いますが。
    お供え金の使い方、もっと考えて欲しいですね。

    「なぜ天理教人は天理教を信仰しているのだろうか」
    無論、理由などなく。
    親、生まれた家、嫁ぎ先が天理教信仰をしていたから。 それが、大多数だと思われます。
    布教、においがけ、などで入信された方々も、少しはいると思われますが。
    なぜ自身は天理教信仰をしているのだろうか?
    天理教を考える前に、自身はどうなのかを考えることが大切ですね。
    天理教信仰に自身が求めるものはあるのでしょうか?
    信仰と自身、各々に沢山の形や思いはあると思いますが。

    報告書の水増しですか。
    天理教は、公表している信者数も水増ししています。
    天理教信者とは、基準は漠然としていますね。
    そして、天理教内で流れる、お供えなどの金銭は。
    公表している金額より、もっとあるはずなのですが。
    所々で吹き溜まる役職の方々の、懐金や贅沢品にもなっています。

    天理教の信者が増えることは、間違いなくありませんね。
    社会も世間も、天理教が考えている程、無知ではありません。
    一昔前、「天理教に関わると、土地も屋敷も金も全て奪われる。家庭が壊れる。摂取の天理教。」
    「全国組織のネズミ講」「陰険、弱い者虐め、卑怯」と、一斉を風靡した天理教です。
    その業は、今でも残ってもいます。
    そして、オウム事件に始まり。
    多様な宗教団体、霊感マインドコントロールのトラブルが報じられています。
    「宗教」=「危険」は、社会の常識になっています。
    天理教は違う…は、通る話でもありません。

    組織上部からの、威圧も大変だと思いますが。
    天理教のリーダー、本部役員、先生方々はじめ。
    大、上級、分教会長などの役職の方々。
    それほどに、偉く、威厳があるのでしょうか?
    大人として、個として、尊敬できる方々なのでしょうか。
    社会では、若い世代によっては。
    天理教のことなど、ほぼ知らないと思います。

    上下関係は、人が集まればつきものですが。
    あまりにも、天理教は上役を立てすぎる。
    過剰に立てすぎるから、上役はさらに暴走する。
    例え上役でも、度が過ぎていれば。
    馬鹿には馬鹿と…言ってあげるのも、人助けなのではないのでしょうか。
    天理教の狭い村社会ルールは。
    日本の中では、1つも通用しません。
    「天理教の常識は、世間の非常識」でしたね。

    天理教が、世界助け、人助けと、唱えることが間違えである。
    腐敗する天理教が唱える人助けは、人助けになっていないからだ。
    そもそも、逆なのである。
    天理教が、日本国、社会、教外の方々に。
    助けてもらっているのです。
    天理教が、布教、においがけを社会に発する度に。
    社会は、さらに天理教を軽蔑し、見放すでしょう。
    教外へのパフォーマンスは、もう見苦しい。
    腐敗する教内への取り組みを、いい加減始めた方が。
    社会は天理教を、少しは見直すようになると思いますが。
    耳を傾けないのも、信仰と言うものなのでしょうか。

    やはり、社会、世間からどう思われようが。
    天理教組織としての、集金力が。
    天理教の守りたいもの、なのでしょうね。

  18. 匿名

     においがけデーで、門から中に入って行こうとすると、「敷地に入るな!」と大声で怒鳴られた。こんな嫌な思いをしながら、個別訪問なぞ、勘弁して欲しい。
     天理時報などでは、酷い事を言われても、にっこりと受け流し、それで自分の因縁を取って貰えてるのだから、かえって有り難いのだ、又、天理時報、チラシ等配りながら、においがけに精出しているうちに、家族の病気が治っただの、事情が解決しただの、書かれている。
     本当だろうか?作り事なら、実に罪深い事である。雨の中、チラシを配っていた若い女性も、何らかの悩みがあり、天理時報などの記事を読んで、身上か事情が解決するもと思ってのことかもしれない。

  19. 悪魔の鉄槌

    怒鳴られてしまうと、トラウマになりますね。
    世情は、過敏になっています。
    住民リホーム営業、保険の勧誘など。
    メディアでの、詐欺、空き巣狙いなど。
    宗教勧誘などは、特に非難は浴びてしまいます。
    私の家に、天理教が勧誘に来た場合として。
    怒鳴りはしませんが、天理教に対しての問い詰めは徹底して伝えると思います。
    チラシも受けとりませんし、二度と来ないで下さい。
    近所の方々も宗教勧誘に対して、とても迷惑しています、とも伝えます。

    天理教当人の方々にも、苦痛な勧誘だとしても。
    天理教当人の方が、天理教無くも魅力がある人だとしても。
    相手側は、害として受け取ってしまいますので。
    天理教の理屈は、天理教の中でしか通じませんし。
    社会、世間は。天理教者の天理教都合社会の同意を求めて欲しくないのです。

    天理教信仰に対して、迷い偽りがあるのならば。
    においがけ、個別訪問などは出来ませんと、拒否して良いと思いますし、そうするべきだと思います。
    においがけせずとも、天理教信仰は出来ると思われます。
    天理教異常社会の中でも、人権はあります。
    嫌なことは嫌、出来ないことは出来ませんと。
    理不尽なことは理不尽ですと。
    例え上役でも伝えなければ。
    苦痛がさらに積もります。
    苦痛が積もり重なると、腹の中の膿みに変わります。
    染まってしまった方が、楽かもしれませんが。
    天理教信仰に、何を探し求めますか。

    カインさんも、他の記事に記してあるように。
    天理時報、宗教機関誌などは、偏りに特化しています。
    そして、お道の創作美化要素も含まれています。
    増長、着色、そして不都合は省くと思われます。
    掲載された当人が記事を読んで、望まない内容になっていた…と、そんなこともあります。
    私も天理時報は、見かけたことはありますが。
    天理教用語の強調された見出しを見かけただけで。
    とても、目を通す気にはなれませんでした。
    教内外に、読み感じ得ることはあると思います。

    さて。
    天理教は、いんねん、身上、事情が大好きです。
    天理教信仰を植え付け継続させる、原因と理由を作り上げないといけない訳です。
    脅迫まがい?…というか脅迫も強要もありますね。
    天理教団の運営費、上納金を。
    回収、摂取し続ければなりませんから。
    天理教信仰で、身上事情が解決しているのかもしれません。
    天理教信仰に偏ることで、身上事情として、感じなくなってしまうのかもしれません。
    天理教信仰に偏ることで、周囲が呆れて諦めて、
    解決になっているのかもしれません。
    風邪が治ることが、風邪薬の効果なのか、自身の治癒力なのか、もしくはご守護?なのかは。
    その人が、自身で思い決めていることです。

    ただ、天理教内で起こり続く、様々な問題、トラブル、異常社会は。
    身上、事情ではないのでしょうか。
    天理教が関わることにより、さらなる問題が生まれ。さらにもつれ、被害になることもあります。
    天理教への、恨み辛みに変わることもあります。

    天理教は、人を助けて我が身助かる、でしたね。
    でも現実の天理教は、我が身助かりたく人助ける
    ふりをしている…そのように感じます。
    人助け…とは、とてもに労も気もいることです。
    自己を犠牲にすることも、とてもに大きいです。
    人助けを、軽く語って欲しくないのです。
    天理教が唱える人助けとは、何なのでしょうか。
    天理教で、人が助け救われているのでしょうか。

    雨の日に、若い母が幼子を背負いチラシ配布行動。
    何となく、教会、近親関係の方に感じられました。
    天理教信仰するのも、自由です。
    天理教信仰に、何を求めるのかも自由です。
    いんねん、身上事情なくとも。
    純粋に、誰かのために何か出来ることを…と。
    若者には、利益を求めない正義感、責任感が多少あります。
    ただ、歳を重ね、大人、年輩者になると。
    利益を求める偽善、が増えて強くなります。

    人生の前半、人生のとても重要な時間。
    若い世代、子供たちには、そのままの感性で。
    夢中に、追いかけて、立ち止まって、また駆け抜けて欲しいと願います。
    宗教などに、毒されず、偏り過ぎず、振り回されずに。
    大人達の作り上げた、大人都合、に染まらずに。

    掲載されたチラシの文面内容に。
    天理教者は、何を思いますか。
    異常社会の天理教が、この文面内容の言葉を。
    社会に、発することはどうなのでしょうか。
    そして。
    今の天理教を、若者達にどう説明するのですか。
    今の天理教を、若者達はどう感じるだろう。

    カインさんの、社会学研究所ブログ。
    記事各々に、読み感じ得ることがあります。
    また、読み進めて行こうと思います。

  20. 匿名

     「身上、事情は道の花」、といいますが、これはどこに載っているお言葉ですか? おふでさきにあるのですか?
    年を取ると、いちいち、どこにある言葉だと覚えてられませんが、このような言葉が天理教では言われておりますね。天理教信仰をしていると、身上、事情も、自らの因縁なのだから、仕方が無い事、あるいは、神様のお引き寄せなのだからありがたいこと、と受け止められるようになるのかもしれません。どうにでも受け取り方次第、という事ですから。
     どういう疑問に対しても答えを用意してくれている、つまり、因縁であり、お手引きであり、お知らせであり。そして、「神様の御用に勇んでいれば、たすけて頂けます。」天理教が用意した答えで、自らを納得させているうちに、天理教から抜けられなくなり、それ以外のものを受け付けられなくなっていきます。そして、「あなたが得を積んであげなければ、子供さんにも同じような因縁が出ますよ。」 これは親にとっては、とどめの言葉です。脅し、脅迫でもあります。
     天理教の「洗脳」は、こうして「信者=被害者」を増やしていきます。
     
     

  21. 一読者

    布教組織だけではなく、諸問題、諸事情に関しての相談窓口が本部にない事が根本問題でしょう。
    「よろず一切を説き聞かす」 という神の宣言が成立していない教会本部そのものが、教団発行の書籍上の希少な成功体験に誘導されるような仕組みを容認しているわけです。本部の巧妙な責任回避ですね。
    初代さん達の時代は、本部に教祖や本席様が居られたから、どんな質問でも神の答えを期待できたから、バックに神がついていてくれたからこその成功体験であったわけです。

    かしものかりもの心通りの守護を意識して、家業第一、内々孝心。優しく穏やかに陽気に通る事だけでも心掛ければ素晴らしいと思いますね。
    本部の大改革が終わるまでは、子供の事を思うなら、スーパーヒューマンでない限り、無理は避けて通るべきでしょうね。

  22. 古い教会長

    一読者 様。
    >布教組織だけではなく、諸問題、諸事情に関しての相談窓口が本部にない事が根本問題でしょう。
    「よろず一切を説き聞かす」 という神の宣言が成立していない教会本部そのものが、教団発行の書籍上の希少な成功体験に誘導されるような仕組みを容認しているわけです。本部の巧妙な責任回避ですね。

    まさしく、その通りですね。「いかなものでも 恋しなる・・・・・」と言われているのに、知れば知るほど嫌になる組織とは・・・神の思惑とは、かけ離れてしまっている証です。

    命の泣き声~天理教への信仰でお悩みの方へ~
    「命の泣き声」さんのホームページのリンクを張ります。
    http://inochinonakigoe.grupo.jp/

    天理教社会学研究所さんのブログです。
    http://tenrikyosyakaigakulabo.com/

    ブログ<原典からの出発>植田義弘先生のブログです。
    http://tenkoku0805.blog9.fc2.com/

  23. 一読者

    本部の無責任、無応答によって、ムゴイ組織形態も容認したままになっちゃっているのですね。
    教会子弟の苦しみの大半は、本部の無応答性にあるのかな。

  24. 匿名A

    熱心だった母の信仰の延長上から「天理時報」を取っていますが、読んだことはありません。そもそも「真柱」は敬称でしょう。その上に「様」を着けて「真柱様」と敬称を重ねて報道しているばかばかしさに辟易していて読む気になりません。
    ある宗教団体の新聞は、自らのトップを「〇〇会長」として報道している。これがまともですよね。
    これが天理教の全てです。完全な階級社会ですね。

  25. プチャ

    自分は過去に「布教実習」と言うことで3か月間1人で戸別訪問をした事があります
    自分自身、天理教のことについて赤の他人に対しどういって切り出していいか
    また、どんな話をすればいいか分からず
    偉い先生方に相談した所「自分の身上(病気)になった話をしろ」と言われ
    自分の病気(慢性骨髄性白血病)や(左目網膜剥離による失明)などを赤の他人に聴いて貰おうと頑張りましたが
    赤の他人からしたら「それがどうした?」的な顔で文句を言われ・・・それが元で「自分自身戸別訪問でどんな話をすればいいのか全く分からない状況に」陥り

  26. 匿名です

    先生方が体験談を医学知識で補強された話をされてて、そういうのを聞く機会がありますが、すごさがよく伝わります。

  27. 匿名

    前出の 若いお母さん 気持ち悪いですね雨の中 子供を連れて……
    そんな非常識な事ばかり やっているから天理教は レベルが低いと馬鹿にされるんですよ!
    うちは 教会ですが ビラ配りなんてした事ないです
    私は教会生まれではないし 貧乏臭い教会の奥さん達 大嫌いです
    正直言って 付き合いたくないですね!

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