道一条について

道一条(神一条)とは簡単に言えば「天理教一筋」ということだろう。

この言葉はことあるごとによく耳にするが、これは教義にのっているのか私は知らない。
つまり、教祖が発した言葉なのだろうか? 人間の都合で発せられたのだろうか?
この発生の差異は意外に重要だと思う。別に原理主義を気取るわけじゃないけど。

そして、何をもって道一条とするのか定義も知らない。(知らないばかりで申し訳ない)

天理教以外を信仰しなければ道一条なのか。
公的な書面の職業欄に「天理教布教師」と書ければ道一条なのか。

前者と後者の差異は中味と外面である。
仕事は会社員でも天理教を信仰しているという中味の問題とする前者と
熱心かどうかは不明だが、とりあえず社会的職業としては天理教布教師であるという後者である。

もちろん、私が主観的に判断してドミナントなのは後者である。
そして、後者であることに高い価値が置かれているのが現状である。
(私の主観は主観でしかないのだが、私は常々申しているように、こういった「なんとなく・・・」といった主観的体験を非常に大切にしている。数値で表すことよりも、理由は分からないが経験に裏付けされた気づきは時として物事の本質を射ている場合が多い)

前回、「御用がないときは日中でもPCでネットサーフィンしているカイチョウがいる」というようなことを書いたが実際にいる。もちろん、ヒマなんてない熱心なカイチョウもいるだろう。しかし、私はサーフィンしているカイチョウを批判する気はない。
ダラダラするのも仕事の内だと古き良き古代人の私は思う。

私が問題にしているのは、そういった現象を無視し、何をもって熱心とか考えない、
業務はカイチョウに一任されている、等の周辺事案をほったらかしにしているのに、
平気で他者をコントロールするために教義が濫用している点である。

そして、安易に職業的道一条を強調することは社会を破滅に向かわせることとなる。
以下、説明しよう。

前回のブログで道一条に高い価値が置かれている意味が分からない云々・・・
と書いたが、道一条であることに高い価値を置くことは間違っている。
なぜなら、道一条に高い価値を置いてしまうと、道一条ではないことの価値が低くなるのが自明の道理である。すると、価値を追求し続けると国民全員が道一条となってしまう。
全員が職業的に道一条となっては誰が社会を回すと思われているのだろうか。
「いやいや、極端だなー」といわれそうだが、これは極端ではなく当然の理論的結果である。極端を嫌うのであれば極端にならない理論を作るのべきであろう。

それと、職業的道一条は当然のごとく信仰の形骸化としか言えないのが現状だろう。
日本ではイベント化している宗教だが、それでも信仰は形式ではない。

以上、道一条を職業としてしまう危険性について考察してみた。
それでも道一条は職業ではなく、中味の問題だと言われる方がいたら
「じゃあ、私の信仰が道一条かそうでないかは誰にも分からないだろう」と言うしかない。
やはり、道一条などと言える人は常人にはないスーパーパワーを持っているとしか思えない。
おやすみなさい。

道一条について」への2件のフィードバック

  1. 匿名

    1. 久しぶりですが
    おやさまの言葉としては信じる道を誤るな、だと思いますよ。仕事として会長職に就いている人は道専従といい、道一条とは言わないのが普通でしょう。

  2. 改憲勢力

    神のかしものかりもの、心通りの神の守護。大安心と大喜びの心に還った永遠の人生街道であれば、どんな魂も憂い事は減少してゆくわけです。
    神の道は一筋とは、お地場に天啓者が途切れる事なく、増え続けるという意味です。
    その天啓者を排斥しておいて、無反省に、宗教家業マンセー宗教施設マンセーという解釈を続けてしまった事が、専従者集団の陰気暮らしにつながっているのです。
    現状の解釈のままでは、短気で陰気な不労専従者さえ増やしてしまう事につながりかねません。
    何より寿命にさえ悪影響を及ぼす、個々人を陰気にする事は、人類と神への冒涜であるとさえ考えます。
    真柱が統理者を自認するのであれば、これまでの公式解釈を革新してゆく責任があるのではないだろうか。

コメントは停止中です。