私は新聞も含めて定期購読をあまりしない。
なぜなら理由は簡単。読みたいと思うものがあまりないからである。
私が読みたいと思うものの条件は、私の知的興奮を喚起し、「ほ~なるほど」と思える
文脈があるものである。
ここ最近はメディアの論調も均質化しておりどの広報物も論点は大して変わらない。
一昔前までは、「この新聞社はウヨだね」なんて言葉が各社毎に聞かれたものだが、
今となっては何がウヨかサヨかも分からず、軒並み同じような論調である。
なので、読まなくても「こういったことを言ってるだろな」という私の想像を裏切ることはない。
なので、「何があったか」という情報は新聞を購読しなくともクリックだけでよい。
その中の知的興奮を喚起しない出版物の一つに「天理時報」が挙げられる。
私は2007年現在ではほとんど読んでいない。
昔はある場所に行けば最新の天理時報があったので時間潰しにいつも読んでいた。
しかし、読む度に何も掴んだ実感が持てない。
「この意見ちょっと使ってみよ」とか「僕はこの記事の意見には反対だな~」といったことがまったくない。
宗教新聞という特筆上、無難になんとなく結論を覆い隠す必要があるかもしれない。
しかし、天理時報の場合その結論が少し心理主義に偏っているのではないかと思う。
宗教なら多少独断的、強引な視点も有りかと思う。しかし、心理主義的な天理時報では
すべて「こころの問題」として片付けられているような印象を待たざるを得ない。
そして、「こころの問題」こそ非常に厄介なものである。経験的に。
なぜなら「こころの問題」という結論は、実は問題の結論を持っていないのである。
濫用される「こころ」に私は嫌気が差したのである。
そもそも、「こころ」という形のない言語に対して天理教は説明できているのか聞いたことがない。
天理教での「こころ」の概念が明示されていないのだ。
「すでにあるもの」として使われているにしかすぎない。
しかし、この問題は今ある問題をどのように考えるかという点で非常に大切な問題である。
私の友人に心理学や精神医学の友人がいるが、その人達も「こころ」の定義は異なる。
基礎心理学の准教授をやっている友人は心理学を志す理由の一つに「心理学辞典に『こころ』がなくて驚いた」ことを挙げている。
知り合いの精神医学の友人(精神科医&臨床心理士)は「『こころ』なんてないよ」と言っていた。「こころなんて虚像にすぎない」と。
心理学は行動の科学という点では原因論ではなく現象論にすぎない。
宗教という性質上、こころを身上・事情の原因に挙げる姿勢は批判できない。
しかし、もう少し問題を一つ一つ丁寧に検討する姿勢も必要だと私は思う。
その詳細は次回。
心の道と心通りの神の守護(現象)を説き分けるスーパーパワーを持った人間が教祖だったんじゃないかな。
見抜き見通しってやつかな。