前回、天理時報を切り口に天理教の心理主義を概観しました。
天理時報は心理主義しているという点について「あれは単なる情報ペーパーと考えれば
心理主義だが独善的だろうがいいじゃないか」というご意見があったので私の考えを述べたいと思う。
天理時報は新聞である。新聞は立派なメディアである。
社会を「知る」ときに私たちはメディアの何を用いるだろうか。
テレビ、新聞、ラジオ、広告、伝聞(電話、メール、井戸端会議)、直接体験
であろうか。多種多様である。
しかし、重要なことは如何なる手段であろうと私たちが知ることは
そういった方法で「伝えられたものでしか」ない。
つまり、私たちの脳に収納される情報はすでに発信者によって選ばれたものであるのだ。
(直接体験は複数の身体情報が付随するという利点があるが、その情報は汎通的がない)
著名人たちのNHK批判の一つに、NHKが掲げる「公正、客観、中立」を挙げる。
カメラのファインダーで映された、時間、場所は何らかの意図があるのは当然である。
なぜなら、報道は24時間、360度、誰の意見もなしに全世界を映しているわけではない。
TVで報道されるのは、「視聴率がとれそう」なのか「メディアの社会的使命」なのか
分からないが、「これは報道しよう」「これはカットしよう」と取捨選択する人物は必ずいるにちがいない。要するに「公正、客観、中立」なんてあり得ないのである。
そう考えたときに、私たちはあまりに容易にメディアの情報を信頼しきっている。
結論としてはもう少し与えられた情報に対して懐疑的になってもいいんじゃないか。
ということです。特に不透明な宗教団体は、その信仰を信頼するためには情報ペーパーで
あっても「これだけじゃ、わかんないよね」「結局天理教って陽気ぐらしって漠然と言っているけど、どこに向かっているの?」とかね。
もちろん、情報受信者の私たちにも問題はあるのだが、発信者である教団にも
少なくとも信者には教団情報のアクセス権をしっかり明示する必要がある。
追記:
上記の場合の社会を天理教に当てはめてもいいのだが、天理教は対外情報も非常に少ない。天理教にはドウユウ社という子会社が存在する。そこでは、天理教関連の出版物やラジオ、テレビの発信をもおこなっているらしい。なので、情報の取得手段としては複数あることになる。しかし、格差社会で問題とされている現象がここにもある。
それは情報のアクセス権へのアクセスがみたされていないのである。
「天理教もバンバンCMしちゃいなよ」とか「広告にお金つかいなよ」といっているわけではない。信者の天理教へのアクセス権を確保すべきということである。
上記では主に情報の受信者側からの視点になったが、発信者である天理教は
もう少し丁寧に現実に即した情報を披露すべきだろう。
例えば天理教HPの単純さには宗教という不明瞭なものを不明瞭なまま理解させるのにはぴったりであろう。参考比較に某学会のHPはコンテンツが多い。
私の希望としては具体的には、毎月1回でも記者会見なりプレス発表をすればいいんじゃないかな。例え記者はいなくても一般社会と純粋に対話するという場を設けることは非常に健全な組織運営ではないか。ただでも怪しい団体が怪しい広報活動をしていたのでは誰からも信頼されないのは社会の常識であろう。
今回は情報の発信者と受信者の両面から考察してみました(考察にしては陳腐だけど)
私事で申し訳ありませんが最近激務でして、なかなかブログUpできてません。
なので、記事もバーと書くのであまり推敲されてません。読みにくくて申し訳ないです。
天理教に対する質問があれば私なり(社会学的)にお答えしますので、匿名でもメールでしたらお答えしようと思います。ただ、記事にするかもしれないことを御容赦くださいませ。