謝ったら負けについて

先日、女子青年の女性たちと話す機会があった。
とてもキュートで親しみのある方たちでした。

その中の一人が「先日、車で接触事故をした」ということであった。
私は会話には入らず(輪に入っていたけど)、ふむふむと皆さんの会話を
聞きながら茶菓子をいただいていた。

会話は事故の際の対応についてに移る。
結論として事故は「謝ったら負け」ということである。

謝ったら自己の過失を認めることになるのだから自分が悪くても
「決して謝ってはいけない」という非常に危険なリスキーシフトな流れであった。

そこに私は非常に危惧を覚えたのである。
「事故の際に謝ったら負け」という言説は私も何度か耳にしたことがある。
しかし、陽気ぐらしをメドウとする天理教人の方たちから何の違和感もなく
発せられたことに違和感を感じたのである。

私が危惧を覚えるのは、自己の利益の追求には自己の過失を可能な限り認めない
という醜い且つ正論なのである。そして正論は正論であるが故、質が悪い。

私は米泥棒を許した中山みき様のように相手の過失を許せと言っているのではない。
自己の利益はともかく相手の過失を責めるのはもってのほかだ、ということでもない。

事故を起こした刹那、そういう利害関係を発生させることが非常に生きにくいと思うのだ。

「いやーすみませんね」から始まる円滑な人間関係は遺産となってしまったのであろうか。
それとも単に私がオジサン化してしまっているのだろうか。

事故の責任の割合は第三者や専門家にまかせればいいのである。

事故処理と、それに発生する心理的負荷は比例するものだと思う。しかし、余計に
相手を罵り、批判するという最も生体エネルギーを奪われる行為を天理教人が推奨
することが私は腑に落ちない。

事故の際の対応スキルであるならば、相手も責めず、自己も不利にならない
アサーションが必要なのである。

経済合理主義な日本社会の功罪として彼女らもまた人間関係を損得で考慮しているのだろうか。レストランでお店側の不手際をこれでもかと罵るサラリーマンを見かけるぐらいに非常に空しい感覚を覚えたものだ。

天理教人の思考回路が一般人の合理主義と同じになった今、天理教の存在意義とは
何だろうかつくづく考えさせられるばかりである。