錯覚から天理教の終焉について

26日は教会本部の秋季大祭でした。

私が教会本部の祭典でいつも感じることは信者の高齢化であります。
少子高齢化は天理教も例外なく当てはまる。
一方で、天理教の発行する媒体には信者の中で若者が多いという意見がたまに見える。

たしかに、若者の育成に天理教が力を入れているのは素晴らしいと思う。
しかし、天理教的イベントに参加する人たちや天理教関係の学校に通う若者が
すべて天理教信者と換算するのは非常にマズイと思う。

日本の数多ある宗教の信者の総和は、日本総人口を容易に上回ることは周知の事実であります。
信者という定義も問題ですが。

それが、どう天理教にとってマズイのかと言うと、
天理教の信者数も類推するに、公式に発表された数より少ないであろうということであります。
つまり、各信者や天理教人は「天理教って信者数多いよね。」と思うことによって、
天理教が日本宗教(新宗教)のドミナントという安心感を覚えます。
安心感は同時に危機感を無意識に抑圧してくれます。

よく、大きな祭典などで「よくこれだけの人が全世界から集まるよね」と思うものですが
(実際に私も思った)、よく考えると天理市のごく一部の時間に、一部の地点に人が集中することを考えたら、大きなな宗教といえどあれだけの限定した神苑にしか人が集まらないという見方もできます。

渋滞した市内と、なかなか動けない神殿では私たちの目も錯覚を起こして当然です。

各教会を見ても、信者家族とされていても熱心に信仰しているのはお婆さんやお爺さんだけという家族が多い場合が結構あるのかと思います。

祭典の人ごみや若者の伝道などを見て天理教的使命が完遂したとは全く思えません。
また、そこで「天理教は凄い」と錯覚を覚えるのは、天理教の将来を考えた場合に消化不良でしかありません。

私見としまして、天理教の歴史的使命の結論は20年後には出ていると感じています。

嫌味でなく、現実課題として熱心な信者の大多数である方たちが亡くなった後
ほぼ同時期に、次期リーダーの継承をどうするかというのが決着した後
自ずと結果は見えてくるのではないでしょうか。

現在の私の類推では、20年後ほぼ天理教という集団が社会のマイノリティになる可能性が高い。

若者が興味を持つ天理教の楽しい部分vs天理教子弟がどんどん流出している暗い部分
人格者として振る舞えない会長vs天理教を知らない人の方が人格者
方法論が進歩しない布教実践vs天理教を白い眼で見る社会
社会的弱者を囲い込む信仰vs社会に通用しないのに説明責任を全うしないカイチョウ
人間より神が大切vs親でもないのに親孝行を強いられる

など、決着してなくて、進行させねばならい議論が沢山あると思います。(vsに特に意味はないです。ごめんなさい。)
これらを一体、どれくらいの人が真剣に考えているでしょうか。

ある教会長子弟が私に「天理教は理不尽なことばっかりや」と言っていたことがあります。
身内の子どもに「魅力ない」と言われて、天理教の素晴らしさを布教できるはずがありません。しかも、複数の人が「理不尽だよね」と賛同していた。
いくら立派な法律があろうと、運用する政治家が悪くては(法解釈が曖昧)いい国に
なるはずがありません。
法を教義に、政治家を会長と当てはめも問題ないでしょう。

カイチョウさんがいかに素晴らしいものか私は知りませんが、
人として尊敬できない人の教えを信じる習慣は私にはありません。
そして、一般社会のバランス感覚も私の感覚に非常に近いのではないかと思う次第です。
(最後感情的になってごめんね)

錯覚から天理教の終焉について」への3件のフィードバック

  1. 基本

    天理教には中山みきを信じていても教会にはいかない行事に出ないという本物の信者がおります。
    人としての尊敬なんて、その場合無意味だ。
    教会なんて無くなってよい。
    中山みきは地場に居る。それだけで十分に幸せな、本物の天理教とは、教団なんてとっくに見捨てている。

  2. 匿名

    基本様
    始めて基本様に全面的に同意致します。(笑)
    何やらオカルトめいた、「ノストルダムスの大予言」のような、基本様のご意見の数々、納得できることもあれば、?と思えることもあり、ですが、今回のご意見は、全くその通りと思います。

  3. 匿名です

    教祖の教えを学べるのは、天理教の努力の賜物だと思います。
    暑い中長袖の教服と帽子をお召しで、長時間座り続けておられる先生方や、長時間夜を超えて神殿を守り続けておられる本部の皆さんや、その他の大変な本部勤務の皆さん、詰所を守り続けておられる皆さん、教会や布教所を守っておられる皆さん、信者の皆さん、天理教に関わる皆さんに感謝して参拝しています。
    教祖は教祖殿を拠点に各地を動かれているように感じています。
    天理教があって天理だと、私には思えます。

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