三日講習会について

現在、本部では三日講習会というものが開催されています。
三日講習会とは修養科(3ヶ月)に参加できない人達を主な対象に
三日間だけの天理教講習会というわけであります。

これも実際は、参加者の大半は教会家族や教会内部の人間であって修養科に時間的理由で行けないという、天理教初学者は少ないであろうという見解は大きく間違ってはいないでありましょう。

以下、私が三日講習会のHPや伝聞から違和感を感じたことについて列挙してみたい。

三日講習会とは3つのレベルから構成されている。
Ⅰ~Ⅲというレベルがあり、参加者の習熟レベルに応じて講習できる。
Ⅰを受講した人はⅡへ、Ⅱを受講した人はⅢへと、ステップアップできる。

私が問題としたいのは、天理教を全く知らない人でも
3日間の講習を3回受けるだけで教会長資格検定試験前期を受講できるという点である。

あれ?  修養科行かなくても検定試験前期受けれるの?
三ヶ月も行く必要ないじゃん。

という結論は誰でも思い浮かぶはずです。

そして、これは3日×3回=9日間と三ヶ月という違いは本質的には変わりないと教会本部が認定したということになる。

つまり、三ヶ月の期間で経験する人間関係や仕込み、伏せ込みと言われるものの中から
個人を見つめ直し、天理教の教えを涵養させ人生の教えとして骨肉化させるという部分は修養科の付加価値であり主要課題ではないと認めたことになる。これはマズイと思う。
なぜなら、その三ヶ月で得られるものは知識やおてふり技術のような意識的作業よりも
無意識的な上記に挙げる付加価値の方が信仰として大切であると私は思うからである。

結果として、修養科の存在意義を低下させることになるのは明白である。
修養科の歴史的使命はもう現代では終結してしまったと本部は結論づけていると
考えないのであれば、理由は何であろうか?
もし、修養科の参加人数が減少したその理由を「三ヶ月は長い。仕事を休めない」という参加者理由を優先したのであれば宗教の本質に対して安易な道を選んだとしか思えないでしょう。

企業や、自治体が開催するような種々の講習会や大会で参加者に参加しやすいように
予定を組み替えることは営業努力であると言えます。
しかし、あくまで宗教団体が参加者の予定に合わせるという態度はよくない。
なぜなら、宗教は情報を伝えるのではなく信仰を伝えるからであります。

断固たる、揺るぎない教えを持つ宗教団体は、参加者の意図により教えの方法論を
安易に路線変更することは、同時に宗教性の尊厳を低めることになってしまいます。
そうでないとするならば、三日講習会の目的である修養科の参加人数の増加という明確な理由が必要である。
講習会を開催した結果、修養科の人数が減少したのであれば本末転倒であるし、
こういったシステムを容易に考えつく官僚は頭がよくない。三流企業である。

そういった意味も含め、もう一度、宗教の本質、天理教の歴史的使命を明確に打ち出す必要があるのではないかと思う。
天理教を広めたいのか、少ない子弟を囲い込みたいのか。
もう、天理教は社会では通用しないことを教団幹部は自認し、今存在する人的資源を囲い込むことに官僚が方針転換したのであれば、それはそれで賢明であろう。
しかし、その方法に長期的展望はないのは明白だ。

結論として、三日講習会の目的は理解できるが、修養科や教えの中での存在意義を説明できていない。

もう一つ、HPから講習会の概略を5分間の動画で説明してくれるコンテンツがある。
ここで、気づいたことの一つに、講習会ではビデオ教材を多用するという点である。

ビデオを使用するのに、何故奈良まで行かなくてはならないのであろうか?
「いや、ビデオはビデオであって、その要旨は講師が伝えます」だって?
じゃ、その講師込みのビデオを是非作ってください。

もし、講師の伝えることが大切ならばビデオを使う理由が見当たらないはずだ。
ビデオを使うことで基本的な教理知識の統一や、講師側の負担を減少する
ということであるならば教会本部は「講師の質が低下している」ことを暗に示していると
解釈できるのは自然である。そして、これを理由にしてしまうと、その理路の行き着く先は天理教の衰退でしかない。
講師によって、「○○と言う」人と「△△と言う」人と「□□と言う」人と違いがあることに危惧を感じているのであろう。本来であれば、そういった個人の違いも「個性」として内包されていたものの、それができなくなっている今、講師によって天理教解釈に決定的な違いや、看過できない事態が生じていると思われる。
それが、天理教の求心力の低下と結びついていると考えられる。

そこまで、私のように半ば妄想的に考えられているとは思わないが、
天理教の行いは少々「それってどうなの?」ということが非常に多い。
それは、また宗教という中で寛大さを失って、あーだこーだと目先の利益を追求する企業の悪あがきのようにも思える。

1年、2年後の天理教よりも、是非10年50年後の天理教のビジョンをど~んと示して頂きたいものだ。