おさづけとその意味性について

天理教には「おさづけ」という行為がある。
「おさづけ」は、病気の人に行う宗教的行為である。
行為自体としては、「おつとめ」の手振りと類似しており、
その一連の流れの中で病気の患部に対して手をかざしが行われる。
時間にして、5~10分程度だろうか。

「おさづけ」を行う(取り次ぐ)資格は別席を運んだ(完遂した)者である。
別席とは本部施設内で約90分天理教のお話を聞くことである。
それを9回行ったものは9回目に本部神殿にて、おさづけのお許しを頂くのだ。
「おたすけ」を掲げる天理教の活動主体はこの「おさづけ」と言っても過言ではない。
身上者(病人)がいれば、「おさづけ」を行い、病気の治癒を願うものである。

説明が長くなったが、今回はこのおさづけをテーマに掲げる。
通常は社会学的視点から天理教を考察を試みているため、
天理教学者でもない私が天理教的テーマを真正面に掲げるのは腰がひける。

しかし、私の頭の中は何かをきっかけとしてテーマが浮上すると、そのことで一杯になる。
増やせるものなら、脳内メモリを増やしたいものだが申し訳ない。

今回、私の頭に浮上してきた「おさづけ」のきっかけは
「おさづけを取り次ぐ(行う)と取り次いだ手が温かくなる」と不思議そうに
語っていたA氏のレトリックである。私はこのような言説を何度か耳にしたことがある。みなさんはないだろうか?

しかし、この現象は科学ですでに説明可能である。
私の学部時代のゼミの教授は自律訓練法(Autogenic Training)の専門家でもあった。
自律訓練法とは、リラックス法である。身体を弛緩し、重感・温感を中心に
意識を身体に集中させる方法なのである。
学生の時に、その根拠となる生理学的実験を行ったことがある。
それは生体情報を記号化してフィードバックするという方法である。(Ex脳波、心拍、皮膚電器…)
例えば意識を指先に持っていくと指先の温度は有意に上昇するのである。
簡単な話、右手の指に対して「右手は温かい」と意識を集中させる(念じる)と
2℃くらいは簡単に上昇するのである。5℃のやつもいた。
それは別に画期的な実験ではなく、基礎心理学の分野では合意形成されている。
つまり、おさづけで「手が温かくなる」というのは自明のことなのである。

私が、おさづけに対して言いたいことは
上記のようなおさづけの周辺事案はおさづけの本質を低下させる恐れがあるということである。

もう一つ、おもしろい話がある。

どこかで立ち読みしただけなので、はっきり覚えていないのだが、
手かざし療法なるものが科学的に確立させている海外の研究者がいる。
手かざし療法とは、その名の通り、患者に手をかざして治癒させるものである。
もちろん、この研究者は手かざしの効果を科学的に証明している。
かなり本格的に取り組み、活動を拡大しようとしていた矢先のことである。
これに単純な疑問を持った人が、効果はないという証明をした。
というものである。そして、その反対の証明をしたのは9歳の少女である。

この出典は確かイグノーベル賞の本だったかな。
9歳の少女が疑問に思い証明したことは、専門家バイアスを単純に浮き彫りにしたのである。

そういった意味では、おさづけも手かざし療法である。

私は、これらの事実から「おさづけ」の意義を失わせたいのではない。
むしろ逆である。

「おさづけ」の効果や科学性というような点に着目していては天理教の意義はない。

「おさづけ」の本質は効果ではない。自己満足でもない。
おさづけの本質は私見では「教祖の代理」だと私は思う。
「なーんだ、そんなん誰でも知ってんじゃん」と言われそうだが、
純粋に教祖の代理を本質と置いているのかは懐疑的である。

少なくとも、おさづけという行為に評価や検証をすることはしてはいけないことなのだ。
「なぜ、してはいけない」のかという問いは、同時に「教えに対して私は懐疑的である」
という意味を孕んでいるからだ。

「おさづけ」の主体者は、取り次ぎ人ではなく神である。
神の真意を、人間が検証し操作することを認めてしまっては、その時点で神の意味は失せてしまう。
神の真意は、我々人間の内省をもって仮説としてしか扱えない。
また、その仮説は事実を検証できるものでもない。
人間にできることは、「おさづけ」の結果をも神の守護であると疑いを持たないことだ。
「おさづけ」の結果、病人が死のうとも、治癒しようとも、その結果こそ立派な守護である。
あまりに自明の基本的な守護である。
その意味において「おさづけ」の結果は治癒や回復ではないのだ。

神を主体と考えた時に「おさづけ」の効果に人間的意味はない。
人間がいくら望もうとも、死のうが治癒しようが結果という守護は神の裁量である。死ぬという結果も神の守護である。

それでも、「おさづけ」たる行為が存在しえるのは
「教祖の代理」としての人間の振る舞い方なのではないかと思う。
「おさづけ」の結果に意味がないのであれば、行為自体に意味があるしかない。
その行為とは、あまりに根源的な「他者への祈り」であると思う。

手かざし療法が、なぜ効くのか。
それは、誰かが誰かのために祈るという気持ちでしかない。
その結果、プラシーボであると言われても、それはそれでいい。
ただ、プラシーボで全てを説明できるとは思わない。

「おさづけ」の結果は神の意志であとうとも、その行為者は人間であるというアンビバレントの意味は大きい。
結果は神がもたらすという意味で、人間は無力である。
しかし、その中でも懸命に他者のために祈るという行為こそ「陽気ぐらし」の本質である。

「あの先生のおさづけは必ず効く」や「効かないおさづけなんてない」という言説を何度か耳にするが
こういう議論はとてつもなく無駄なのである。
前者はおさづけを行う人間を差別化し、後者はおさづけを行う人間を平等化している。
しかし、両者とも効くー効かないという人間的意味において解釈しているにすぎない。
私たち人間にできることは、ただひたすらに他者のために神に祈る。
ただ、それだけだ。

そして、他者のために祈る姿こそ人間臭く、一番美しい姿だと思う。

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