前回の記事は長くて読みにくいという意見を頂いたので
要約します。
タイトルの通り、結論としてはおさづけは効かないのであります。
いや、効いてはダメなのであります。
おさづけは周知のように「既に病人」の方を前提としています。
つまり、一般的なおさづけは、おさづけによって病気が治癒、
もしくわ寛解することを目的としています。
しかし、私たち人間が望む効果は歪んでいませんか?
なぜなら、病気も含め、生まれてから死ぬまでが神様の御守護であるからです。
つまり、被おさづけ人が病気になるのも、治癒するのも、死ぬのも神様の
ありがたい御守護なのです。
なので、我々人間のおさづけによって病気が寛解、治癒することは教義上許してはならないのです。
おさづけの結果として病気が治癒しても、それはおさづけの効果ではなく
神様の意図と人間の願望が「たまたま」合致した結果なのです。
なので、「おさづけが効いた」「あの先生のおさづけは必ず効く」という
言説は、人間思案に溺れているとしか考えられません。
では、なぜ意味もないおさづけたる行為が存在するのか。
おさづけが病人のためではないとしたら,残るは自分しかいません。
「他者のため」に誠心誠意、神に祈るというのは陽気暮らしの金科玉条であります。
自分ではなく、「他者」のために祈るという姿勢は他の宗教に例外なく美しいのではないでしょうか。
そして、その姿が自明のものとされているからこそ、「人を助けて我が身助かる」という陽気ぐらしの本質があるのではないのかと思います。
初めて天理教本部の神殿に行った人(特に他宗教の外人)は例外なく
天理教の他者性に驚倒するという話を信頼する人から聞いたことがあります。
なぜなら、宗教とは自分(家族や同じ神を信仰する同志)を中心に
考えることが「当たり前」なのであります。
○○の神を信じる者だけ、契約を結んだ者だけが、極楽浄土や天国に行けると他宗教では聞かれますが、
そういった小さいことにこだわらず、他宗教をも同じ人間(兄弟)として内包する教義を持つ天理教を「すげーなー」と思うのは私だけなのでしょうか?
天理教人でこの点について共感してくれる人はほんと少ない。
(ある役員夫人は、「キリスト教は天理教が作ったんじゃないの~」という迷言を私は聞いたことがあります)
あと、難しい点に天理教の他者性は目的的であり手段ではないということです。
あくまで無意識的な他者のためにという目的が、意識的な手段になってしまうと、
おさづけは誰のためでもなくなって崩壊してしまうという点です。
つまり、「他者が助かるために」他者におさづけを行う→「自分が助かるために」他者におさづけを行うとなると、その意味は大きく異なります。
「他者が助かるため」から「自分が助かるため」という風にズレていることについて私が耳にした例を挙げますと
「徳を積むために云々」「いんねんを断ち切るために云々」と言う理由が使われます。
こういった動機で、ひのきしんやおたすけ、においがけ、伏せ込みを行ってもなんの意味もないでしょう。
天理教で用いられる「素直」という言葉は他者に対して「素直」なのではなく、
神(教え)に対して「素直」であるべきという意味でしかありません。
つまり、自己の羞恥や闇の部分(いんねん)を暴露することでも、
打算的に自分への見返りを思案することでもなく、
陽気ぐらしを信じて素直に神の教えを信じ、「こんな私でもできることはやらさせてもらいます」というあまりに謙遜(慎み)な姿勢であり、シンプルな結論なのです。
今まで一心不乱にお助けをしてきたのに、この記事によって
お助けの他者性を意識化してしまった人には申し訳ない。
どうであれ、ただ、「この人のためだけに」という思いこそ神様は見ていると信じるしかないのです。
あぁ、要約なのにまた長くなりました。すみません。
この記事には共感出来ない。
おさづけは、人間がするものではない。
取り次がせてもらうもの。
人を助けて我が身助かる、入信のきっかけはそうでも、この人に助かってもらいたいという気持ちだけでおさづけを取り次ぐ人はいっぱいいると思います。
>「徳を積むために云々」「いんねんを断ち切るために云々」と言う理由が使われます。
こういった動機で、ひのきしんやおたすけ、においがけ、伏せ込みを行ってもなんの意味もないでしょう。
入信したばかりの人は、このような動機でも構わないと思います。意味なくはないでしょう。
全人類をたすける為に天下った神の意志とその働きに溶け込む人間達がいるというはなしは、掛け値なしに驚異的に美しく感じます。世知辛く汚れた小生が、カイン様同様、天理教応援者である所以です。
又その事で、当事者達の魂数代に渡る悪因縁が払われ、魂の徳にもなってゆくという教えは、神の営みの遠大さを感じさせます。 セッカチな小生が傍観者として惹きつけられる理由でもあります。
遠大な神による救済を、具体的に地上に顕す為に、お地場に引き寄せられた魂達の、血の末裔が、現在の教会本部のお偉いさん達であるわけですが、この方々のお姿を神の代弁者として相応しいと思えないところに、外野応援者以上でない理由もある訳です。
お地場の神楽勤めも含めて、お話しとお勤めとお授けの、治癒効果を客観的に統計をとって調査した資料は無いのだろうか?
天理大学や病院があるなら、シンクタンクでそういった研究を深めて頂きたいと思います。
病まず死なず弱らずをうたい文句にしているんだから、本部員さんのオタスケはさぞ効果があるんでしょうね。
効果があるのか、ないのか知んないけれど、理立だてという御礼をしない限り、効果は望むべくもありません。
理立てなんて、教団が作った多くの歪曲教理の一つです。神様が、金のお礼をしなきゃ、治してやらん、なんて仰せになる筈はありません。ご心配なさらんように。理立てなどしなくとも、一生懸命、おさづけだけして差し上げればいいのですよ。効く時もあれば、効かない時もあるでしょう。でも、理立てをしようがするまいが、おさづけの効果に一切関係ありません。
嘆かわしいですよね。理立てという取引をしないと、効果がないと言う発想は。神はいつでもどんな時でも分け隔てなく見守り、守護し続けておられます。理立したから効くものでも、しないから効かないものでもありません。神の望む心で毎日を過ごせば良い。理立てと言う脅迫に惑わされてはいけません。
ただ、手の温もりや触れられる感触で脳内に「オキシトシン」が分泌され、気持ちよさとか、幸せな感覚を覚えるのは医学的に証明されています。おさづけで癒されるのは天理教の専売特許ではありません。誰でも、どこでもおさづけのように、心を込めて相手の患部に手を触れているだけで、相手は癒されるのです。軽度の病などは、癒される経験を重ねて心が安心し、心や体の病気が軽減していく。医学的にタッチパワー(触れるということ)は人を癒すのです。(NHKより)
おさづけを天理教独自の売りにするのは、違う気がします。これからは、おさづけをしてやろうと言われたら、「身近な人に触れてもらうだけで勝手にオキシトシンが出ますから結構です」と言いましょう。このオキシトシン分泌が神の守護の姿です。身の内で絶え間なく神が働いています。お金は要りません。
2016年6月11日 11:27 PM 匿名様
おさずけが天理教の専売特許では無いというご意見、おおいに賛成致します。つまり、神のパワーによるご守護は、天理教信者だけに与えられるものではない、と思います。天理教かどうかなんて、人間の目線による些細なことです。
神様はそんなことよりも、心のきれいで素直な人間を、宗教、宗派、異端、関係無く、お救け下さるのでしょう。
コメントをして下さった皆さんへ
理立てが間違っていました。ごめんなさい。
でも、亡くなった母は、よくオタスケをしてもらって、遠いところをスマネエといって、交通費と理立てをしなきゃーといって金封を二つ渡していましたよ。国民年金のみでよくがんばるナーと見ていたが、自分の老後を想像すると、とてもじゃないが真似出来ネーと思ってしまうのも事実ですネ。
>交通費と理立てをしなきゃーといって金封を二つ渡していましたよ
そうですね。やっぱり、遠い所をわざわざ来て頂いてた場合、やっぱり、只、というのは申し訳なく思いますね。
でも、はっきり言いまして「理立て」は必要ありません。それは教えの歪曲です。相手に渡すなら、交通費は渡さないと申し訳ないならお渡しするとして、後はお礼を気持ち程、で宜しいのでは?大金を渡す必要は全くありませんよ。
身内の病気で、三夜の御願い勤めをしていただいたら、お財布事情にもよりますが、3夜分の日当程度はお礼しなきゃと思いますね。
請求は来ませんけど。
人の助かりを願って教会が身上の快癒を願うのは当然の行為です。金品を請求するのは恥ずかしすぎます。心苦しいなら気持ち程度で。三日分日当は多すぎます。
教会は自立すること。信者のお与えなどと甘えた気持ちを起こすことなく、純粋に祈ればよい。自分の生計は働いて自分で稼ぎ出す覚悟が必要。
お金が入りだすと、不純なものが入り込む。天理教の情けない現状はこういったお金にまつわる人間の欲からです。秀司さんがお金に惑わされ、教祖を泣かせたように。
教祖一家は家業を持ち、自立した生活をしていたのです。これが「ひながた」です。
神様はお金の取引はしません。安心して祈ってもらってください。
おさづけに対する考えはやはりこれだと考える
理立てに対する考え方は、結局は逸話篇のお餅のお供えに対する神様にたいする思い方と全く一緒で、その人その人の心が反映するようにも思える。言うなれば、その心持ちは他に対しても同じ様に分かれる。
同感です。