神殿講話に意味はないについて

神殿講話とは、教会の神殿にてセンセイのお話を聞くものである。
主に、月々のお祭り(月次祭:ツキナミサイ)の終了後に行われる。
主に役員センセイや、カイチョウさんや、その上のセンセイや、
とりあえず偉いセンセイが信者に対して教育的演説を行う。

講話であるので、教育的色彩が強い。
つまり、指示的であるのだ。

しかし、私がこの神殿講話でいつも感じるのは
神殿講話が終了する頃の人々の顔は疲れきっているということである。
確かに、お祭りの場合2時間程度の「おつとめ」の後でのお話であるから
身体的に疲弊しているというのは当たり前なのであろう。
しかも、講話中、聴衆はその話を聞いているのさえも不明である。
大半の聴衆が起きているのか、寝ているか、聞いているのか、
どれにも判断がつかない微妙な姿勢であることが多い。
(聴衆の人々の不可解な姿勢を見ると笑いが込み上げてくるのは私だけだろうか)
2時間の後の30分程度(長い人では1時間以上とも)の難しい話は苦痛でしかない。

それでは、講話のもつ教育的意義は全くないのであろうか。

クールなビジネスマンがいたら、
「疲弊した状態で長時間話を聞いても何も頭に入らない。
記憶に残したいなら3分以内で要点を絞って話すんだな。ふん。」
といいそうである。

確かに、話す人の話力も検討しなくてはならない。
「この人は一体何を言いたいのであろう?」と論理的にバラバラな話を
いうセンセイは非常に多い。
一方で、ただひたすらに話に聞き入ってしまうほどのセンセイは少ない。
(うまい人は本当にうまい。)

しかし、そういった話者の力不足を考慮しても私は長い話を無駄だとは思わない。
確かに、「聴衆の記憶に残る話」を目標にしてしまうと前述したビジネスマン
のような合理的結果を導いてしまう。
しかし、神殿講話は例え無駄な話であろうとその話を聞いてる(フリ)
ことは非常に大切な宗教的行為だと私は思う。

別席という行為が、同じ話を複数回聞くことも同様の意味だと思う。
(注:教義上、なぜ9回聞かなくてはならないかは私は知らない)
つまり、複数回同じ話を聞くという行為に意味はあるのだ。
それは、話の内容よりもその場所で、話を聞いたという身体運動が最も重要なのだ。
もし、話の内容が最も重要であるなら9回も聞く必要はないし、理解した時点で終了のはずだ。
大切なのは、話の内容を理解しようがしまいが、そこにいて話を聞いたという事実なのである。

話は変わるが、天理教の人はなぜか「涵養」(カンヨウ)という言葉をよく使う。
ある日、私が「『涵養』ってどういう意味ですか?」と問うと、
「『重要』という意味だ」と言われたセンセイがいたが間違いである。
『重要』という意味のカンヨウは『肝要』という字である。

何が言いたいかと言うと、涵養というのはシャツにこぼした醤油が広がるように
じわじわと浸透するという意味である。
そして、教えというものも涵養であるのだと私は思う。
それは即時的な理解ではなく、超長期的な納得であるのだ。

前述したビジネスマンは、なんとか話を理解したいのであるが、
神殿講話は教えを納得する場所であるのだ。
そう考えると、どれだけつまらない神殿講話でも無駄ではない。
同じようなことを、ダラダラと話すことによって聴衆にはその教えが骨肉化されていくのが教えだと私は思う。

また、その意味においても私たちの理解の及ばないところに何かしらの神の真意
というものがあるのかもしれない。私たちが宗教の効果を計れないことが宗教の持つ逆説であるのだ。そういう意味では教育も同じである。

誰も「これに何の意味があるのか」なんて分からない。
意味があると判明するのは、だいぶ後になってその人が死ぬときや、後継に聞くことでしか確認できない。(自分が死んだ後に後継に聞くことは不可能である)

私たちにできることは、「意味がなくても、とりあえずやっとく」ことでしかない。
意識は寝ていても体に神殿講話という無意味なシャワーを浴びることは個人の信仰という意味において重要なのである。
信仰は難しいがシンプルなのである。

だからといって、私はつまらない話を迎合しているわけではない。
センセイたちには、なるべく興味をひく努力を見せて欲しいものだ。