クリスマスについて

メリークリスマスアップ
といっても、もう日付が変わりそうです。

今日のテーマは  天理教×クリスマス

天理教を信仰する家庭はクリスマスをどのように過ごしているのか。
もちろん、周知の通りクリスマスはキリスト的宗教行事である。
なので、天理教を信仰している人がクリスマスを味わうことは異端である。

なんて古いこと言いません。

クリスマスという行事は日本では、宗教行事としてより、
すでに文化としての要素が大きいのではないかと思う。
そしてこの認識は大多数で、クリスマスに教会(天理教ではない)に行き
聖歌やゴスペルに参加するというコアな信者以外は宗教行事に参加している
という認識はないと思う。
そうした社会認識の上で、天理教の人がクリスマスを敬遠することは
日本人が「俺って無宗教。もしくわ無神論者」って言っているのと変わりない
と思う。なぜなら日本人の宗教観は曖昧であっても、日本文化(生活)と宗教は
切り離せないからである。ex冠婚葬祭、お正月、各種イベント、身だしなみ,,,
日本文化をしない日本人は存在しないのだからね。

かといって、私の周りにクリスマスを敬遠している天理教人は特にいない。
もちろん、敢えてツリーを置いたり七面鳥を食べて祝うこともないのだけど。
みなさん普通に「まぁ子どももいるしケーキぐらい食べようか」的に
きちんと文化的イベントとして過ごされている。

それでいいと思う。

では、なぜ私がここを問題にしたかと言うと。

私が師走冒頭に天理教人に「みなさんはクリスマスはどう過ごされるのですか?」
と聞いたら「いや、何もしないよー」とセンセイ達はおっしゃられたのだが、後で
その子どもたちに聞くと「ケーキぐらいは食べるよ」という矛盾した内容が聞かれたからである。

この場合、子どもの言っていることは事実であると思う。
実際に、この天理教人の家庭ではクリスマスにはケーキぐらい食べるのだろう。
しかし、なぜ父親は「何もしない」と嘘をつく必要があったのだろう。
この天理教人にとってはケーキくらい=何もしない程度のことなのか。
もしくわ、やはり冒頭に挙げた宗教的行事としてのクリスマスを意識して、天理教だから異教の行事を祝えるかと思うことなのか、それとも他者には自分のことを積極的に披露しないという日本人特有の謙遜というものだろうか。
たぶん前者である。

クリスマスという行事は宗教的行事ではなく、文化的行事として日本では合意ができている。しかし、やはり背景にあるクリスマスは異教の宗教的事実であるということに小骨が引っかかって素直に祝えないということだろう。

なんと悶々とした葛藤を持つことか。

いや、しかし、こういった矛盾を孕むことはまことに人間的で健康的ではないか。

「私は天理教だから、クリスマスなんて知らない」
「私は天理教だけど、クリスマスはイエス様を祝うんだ」
とどっちになられても困るものだ。

そういう意味では、天理教人(日本人)は絶妙のバランス感覚をもたれていると思う。
自分の信念はきちんと懐に隠しつつも、状況適応能力はかね揃えている。
かといって、適応的に信念を出す時には出すというようにね。

だから、私は別に「お子様はケーキを食べるって言ってましたよ。」なんて
イジワルなことは言わない。「そういう矛盾したバランス感覚でいいんですよ」と
共感もしなかった。
どっちにしろ私が矛盾を指摘することにメリットはないと思ったから。
指摘してしまうと矛盾を意識化しどちらかの意見を強化してしまう恐れがあるからだ。

私は、ただ「そうですか」と微笑み返しただけである。
それでいいと思う。

あ、書き終わったらクリスマスは終わってた。。。
明日も早起きである。あぁ。