天理教批判と反省について

ネタがないので「天理教」をキーワードにググッてみる。
(ググる=googleの動詞化した意。つまり検索すること)
すると天理教公式のサイトをはじめ、各教会や各団体のサイトが並ぶ。

と同じくして天理教批判のサイトも目立つ。

ネットサーフィンに精通している天理教人なら一度はこれらの
アンチ天理教サイトに訪問したことはあるのではないかと思う。

宗教をひっくるめて批判するものも
天理教教義を批判するものも
個人的体験から天理教を批判するものも

だいたいこんなところか。まぁ色々ある。

宗教や教義批判に対しては一天理教人にはどうすることもできない。
ましてや信教の自由の国において
ましてやマイノリティ教団に対して、
ましてや匿名性が高い(すぎる)ツールの上でのことである。
なんら真摯に受け止める必要もなく、問題ではない。

そんなものにイチイチ付き合ってられない。

しかし、個人的体験から天理教批判を行うものは看過できない。

なぜなら、天理教の布教実践は民衆に根ざしたボトムアップの布教だからである。

宗教なのだから、民衆に根ざすことは当然なのであるが、
特に天理教に関しては新宗教の割に下部の布教実践は緩く、フレキシブルであると私は思う。
つまり天理教の教えに基づいていれば、その布教実践はバラエティに富んでいる。
確かに教会人員の高齢化や古い思想の方などがカイチョウサンの場合、
定式化された布教実践や古典的な活動ばかりで民衆に共感されにくい。
しかし、若い方がいて活動性の高い教会は色々な活動をされている。
私の知っているところでは、フリマや慈善活動などのオープンなものから
地域単位でのレクリエーションやスポーツ大会などがあると聞いた。
天理時報を見ても教団的指示内容記事より、
下部の活動を熱心に取材している部分も多いと思う。

もちろん、組織としてのヒエラルキーは厳密なものである。
しかし、アイデアを出し合っていかに人々が参加しやすい行事を企画するかは
決して大衆迎合とは言えない。
これを天理教団としてトップダウンしては大衆迎合になってしまう。

地域と天理教との信頼というものは代替不可なものとして絶対である。
天理教というわけのわからない宗教に対して人々はあらゆるイメージを持っている。
「あそこの天理教の教会は毎日太鼓をドンドン鳴らして不気味だわ」と
「天理教って分からないけど、あそこの人はいい人よね」では
天理教は分からないという部分では共通してても、そこへ向ける目は全く異なる。

そして、これからの天理教の行く末もまたこういった人間的な部分によって決定されるのではないかと思う。

だいぶ前置きが長くなったが、たとえweb上のことであろうと
それは、実際にそこに苦しんでいる人がいる。
また、その原因を作った人は天理教人であるというのは事実であろう。
天理教人が犯罪者紛いの行いをしたかの真偽は定かではない。
しかし、誤解であろうと天理教人が苦しみを作ったことは
当事者の天理教人個人に帰結されるだけではすまされない。
それは、万人に好かれ、誤解を招かない人はいないということでもある。

以前指摘した、朝青龍の問題も、温暖化の問題も批判し愚痴をつくことは簡単である。
しかし、同じ社会の構成員として社会的責任を感じるオトナは容易に批判などできない。
若者論から環境問題まで私たちにも責任はあり、私たちオトナが目障りな問題は
私たちが長い間かけて作り上げた問題でもあるのだ。
(私も若いころは若者を嘆くオトナに「お前らが作った社会の結果だろーが!!!」と言っていた。)
資本主義経済の合理化のもと、便利な社会を求めた結果として色々な歪みが生じているのは自明である。その問題群の中で個人が責任を感じることは同時に、「こうしなくては」と建設的な将来を考えなくてはならない。それが反省である。

環境問題を論じる際に、為政者はアメリカや大企業に頼る。
確かに、温室効果ガスを大量に排出する者へ「なんとかしろ」と言うのは当然である。
しかし、国や企業の責任だけとしていては環境問題の本質的解決にはならない。
こういった「責任者出てこい」的な現象が環境問題に関わらず色々な所で出てきている。

専門家はこれらのことを地域共同体の崩壊や家族観の変容などという言葉で誤摩化してしまう。

特に環境問題の場合、あと2、3年の地球の変化で100年後の環境は大きく変わるらしい。100年後には今いる社会の構成員はほとんど皆死んでいなくなっている。「どうせいないなら、今を好きに生きようぜ」では陽気ぐらしなどできるはずがない。
そういった部分でも、天理教の出直しという概念に込められている意味はあるんじゃないかと思う。
(私は出直しという狭義の宗教的意味は知らないが、その意味に加え上述した社会的意味も十分付置されていると考えられる立派な概念だと思う)

閑話休題。「今そこに苦しんでいる人を助ける」という原則は天理教人が最も本領発揮できるものであると思う。例えインターネットでさえも社会に向けられている以上、社会の構成員として反省することが大切である。

天理教への批判は確かに見たくない情報ではあるけれども、「へっ、どうせ嘘だぁ~」と流すのではなく「私も知らないうちに人を苦しめているかもしれない」と自問することはオトナにしかできない作法である。

天理教批判と反省について」への2件のフィードバック

  1. 基本

    > 地域と天理教との信頼というものは代替不可なものとして絶対である。
    > 天理教というわけのわからない宗教に対して人々はあらゆるイメージを持っている。
    > 「あそこの天理教の教会は毎日太鼓をドンドン鳴らして不気味だわ」と
    > 「天理教って分からないけど、あそこの人はいい人よね」では
    > 天理教は分からないという部分では共通してても、そこへ向ける目は全く異なる。
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    神を感じなければ、地域と天理教の信頼は共有できない。神を感じたら共有できる。
    そして誰もが中山みきの子である。

    今日は全く一二どしかあっていない人に「天災と天罰の天理」の話をした。
    「関東の水がめには、降ってないんだよねえ」と、先方が言った。毎日情報を確認しているらしい。おやさまの子だ。

  2. 中山育男

    私は、天理教は良い宗教だと今も思い、お助けに常に気配りをしています。しかし、72歳に50年の夫婦生活を、終えました。嫁は、布教所を母親から受け継ぎ見た目は立派な用木ですが、言葉がおもんばかった言い方が出来ない女でした。親である教会長の不平、不満、愕然とする様な言葉を結婚後6年目に、聞きそれが50年の間、5~6回ありましたが、これは、教示だと、何度か諭しましたが聞く耳もたずで、諦め分かれました、財産全て失くしました。私が嫁と自分が選択したから、しかし、教会は違えど月参りは、欠かさず続けます。

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