大祭について

先日、知り合いの教会の大祭(タイサイ)に参加させていただいた。
今回はその感想文にかえたいと思う。

その教会は私の知り合いというか、私の知り合いの知り合いの教会。
もちろん、初めて行った系統の教会である。

あ、初めての人に大祭とは
天理教の教会では毎月決められた日に月次祭(ツキナミサイ)というものが行われている。
何をするかというと、おつとめのフルコース(90~120分)とお話と直会である。
ただ、1月と10月には大祭月でありおつとめは同じだが、お供えや教会の装飾の規模が大きくなり、お話も通常よりもちょっぴりワンランク上の人が行う。
分かりやすくいうと、いつもより気合いが入っているのである。
なぜ1月と10月は盛大にするのか、その宗教的意義についてはここでは割愛する。

とりあえず、朝10時頃に知り合いの車でその教会へ行った。
都市部から車で30分ほどの、のどかな田園風景があるところであった。
その教会では、大祭ということで大教会長という人が来られており
教会の人たちは落ち着かない様子で接待したり、挨拶したりと大変そうであった。
信者といわれるその他の人は20~30人ほどだろうか。若者は2人であった。

私は神殿の隅っこの方に座り、みなさんの行動を眺めているだけであった。
(もちろん、社会人なので挨拶や近くの老人と世間話くらいした)

そのうち、おつとめが厳粛に始まった。
この時点で、久しぶりのお祭り参加である私は足が痺れて集中できなかった。

おつとめ中はずっとおつとめの様子を観察していた。
今まで、いくつかの教会のおつとめを見てきたが、
この教会のおつとめは少し今まで見てきたおつとめと何かが違う。
私はおつとめ中、ずっと「何が違うのだろう」と一生懸命考えていた。

そして分かったことは、乱雑さの中にある一体感である。

乱雑さというのは私が少し「あれ?」っと思った違和感と同じである。
それは、おつとめの形式を守っていない点である。

おつとめでは楽器(鳴りもの)があるのだが、
その鳴りものは男性性と女性性に分けられている。
太鼓などのパーカッション系は男性で
お琴や胡弓、三味線は女性が行う。

また、おつとめにも前半と後半があり、
その間では楽器を担当する人が変わる入れ替え(小休憩)があるのである。

一応、おつとめではこれらのルールが存在するのだが、
これらのルールが守られていないのである。

後で知り合いに聞いた話では、
男性楽器を女性が行うことはよくあるということである。
それは、人数の偏りで担い手がいない時などはしょうがないのだそうだ。

しかし、その知り合いも「あれ?」と思ったことがあるそうである。
それは、前半と後半の入れ替えの時間が長いことと、前半と後半のハーフタイム以外にも小休憩が採用されていることであるそうだ。

通常のハーフタイムは5分以内だそうだ。
だって、場所を変わったりするだけだから。

それが、この教会では15分位。
しかも、皆座ってお茶を飲みつつ談笑するのである。
またハーフタイム以外にも5分程度の小休憩をちょいちょい採用しているのである。

これには天理教人の知り合いも驚倒したようである。

それには、知り合いは「まぁ老人が多いからなー」と結論づけていたが、
私は老人が多いから休憩を多く採用しているという結論は早計だと思う。

確かに全体的に見れば老人が多いが、中年層も少なくはない。
楽器ごとに体力の疲労度も異なるので老人には極力体力の消耗が少ない
負担が少ない楽器を担当してもらうことが優先される。
つまり、ルールを遵守しようとするならば負担の少ない楽器を高齢者、
負担の大きいものを、より若い人に変更すればいいのである。

誰がどの楽器を行うのかは、この教会では自主性が尊重されるみたいだ。
通常の教会ならば、上記事情を会長が考量し「この人は高齢だし負担の少ない楽器をしてもらおう」となるらしいのだが、この教会では会長が
「あなたは何したい?」と聞いて回るのである。
だから、演奏者は自分のしたい楽器を選択できるのである。

その結果、高齢者=負担の少ない楽器 ということにはならない。
高齢者でも、負担が大きくてもやりたい楽器をすることになる。
そのため、試合(おつとめ)中にちょいちょい休憩が入る。

以上が知り合いが出した、「まあ老人が多いからなー」という意味である。

しかし、ちょいちょい休憩を挟むのは「老人だから」という理由だけではない。
第三者の私から見て例外なく、この教会のおつとめは短く感じた。
短く感じたというのは、私の意識がおつとめに没頭していたということである。
簡単に言えばおつとめが苦痛に感じられなかったのである。

そこで、冒頭の一体感の説明になるのだが、
この教会のおつとめから感じられた一体感とは。

それは、紛れも無いおつとめに対する調和だと思う。
私は今回初めておつとめというものが音楽であると感じた。

それは、楽器の演奏スキルが高いということではない。
演奏する楽器の質が高いというわけでもない。(会長は「安物」と言っていた)

特に後半部分ではピッチがかなり早くなり、リズムを刻むような心地よさを覚えたのである。(一応私は10年以上電子楽器を趣味で演奏していた)
ライブで言えばグルーブ感ということなのだろうか。

おつとめには芯(拍子木)というものが存在する。
一定のリズムでおつとめを牽引するもので、
他の楽器はこの芯のリズムに合わせるのである。

しかし、この教会で感じたsymphonyは「合わせる」という感覚ではない。
「重なり合っていた」という感覚の方が近いように思う。
芯に合わす場合は、芯の音を聞いて、その音にズレないように音を出力するので
あるが、symphonyとは全体や他の楽器全部の音を入力して出力するのである。
全楽器が芯の役割として合わさせる音、また合わせる音を同時に出していたため
円環的symphonyが感じられたのではないかと思う。

そう考えた時に、前半や後半でちょいちょい挟まれる小休憩は
高齢者のための休息ではなく、「あれ?音合ってないんじゃない?」
「なんか、しっくりこないね」という合奏やリハーサルなどでよく見られる
超感覚的な仕切り直しのようにも私は感じたのである。

おつとめ=音楽 という理説には異論が多いのではな
いかと思う。
しかし、おつとめでよく言われる「心を合わせる」という意味を再考する
上ではいい教材に出会えたのでははいかと思う。

おつとめに音楽的クオリティを高める要素は不要なのかもしれない。
しかし、「いいおつとめをしよう!」という意志が結果として
音楽的要素を高めることがあっても不自然ではない。

厳粛なルールのもとで、つまらない(と感じる)おつとめと
多少ルールを守らなくても、いいおつとめをしようとするのと、
どちらが健康的か容易に推察できる。
もちろん、おつとめの意義や理念は前提であるが。

その結果、ほどよい満足感と疲労感で、その後の大教会長の講話が
睡眠の時間となっても誰も後悔はしないと思う。

ちなみに大教会長の講話は、ニュースになった子どもが親を殺すという具体的事象から、やっぱ心の教育を大切にしなきゃという包括論的結論で何が言いたいか
サッパリ理解できなかったことは言うまでもない。