告白について

早いものでもう2月である。

最近ブログの更新が遅れている。
まことに申し訳ない。

今回のテーマは告白についてである。

前回の続きになってしまうのだが、前回のブログでは知り合いの知り合いの教会にいったことを書いた。大祭のことである。

今回のブログは、そこでの体験第2弾である。

少し話を巻き戻しして、2時間ほどのおつとめが終了し、次はエライ(同意しかねる)大教会長さんの講話(説教)である。

と、その前に実は「感話」というものがあった。

「感話」というのは選ばれた信者が自身の宗教体験や感じ、考えていることを話すものである。時間にしたら10分もないもので、エライ大教会長さんが登場するまでの繋ぎ役のような感じであるのだろう。

その時「感話」に選ばれた信者は50代のご夫人である。

彼女の感話の内容の概略はこうである。

「私は幼少の頃から天理教が嫌で嫌でしょうがなかった。大人になっても天理教を敬遠していた。そして結婚した。すると旦那がとんでもない男であった。借金、女性問題、育児放棄、定職就かずetc 私の人生はドンゾコであった。しかし天理教に反発していたことがダメだったと改心し教会に足を運ぶようになった。以来、旦那もまじめに仕事をするようになった。家庭もそれなりにうまく行くようになった。天理教から離れてはいけないのです。天理教から離れたら不幸になります」

ということでした。
文末の「不幸になります」というのは実際に言ってないけど、ダメになるとか同じような言い方であったと思う。

これらの「いかに不幸から助かったか」という言説は私もよく知っている。
しかし私はこれらの言説に対して批判する気はない。
聞き飽きた感があったとしても発現者のストーリーは絶対固有のものである。
そこから学ぶものがあるかないかではなく、語ること、聴くことという行為は
立派な宗教的行為である。
そういう点では何が言いたいか不明なエライセンセイの話よりは2万倍興味が持てる。また発表後に「あなたも苦労してるのね」とか「立派な感話だったよ」というやりとりが信者間でなされることは明白であり、各々の信仰を涵養する上では宗教教育という点において当然である。

しかし、しかしである。
一つ気になることがある。
それは、自己開示の水準が高すぎる点である。
たった10分の感話の中で、私は彼女の個人情報を必要以上に知ってしまった。
家族構成、名前、住所、財政状況、家族内力動、夫婦生活etc
これには正直言って開いた口が塞がらなかった。

日本人は恥の文化で本音を言わないというのはもう過去のものなのか。
「最近どうでっか~」「ぼちぼちでんな~」という適当で何を目的としているか分からないようなコミュニケーション戦略は日本人の得意分野ではないのか。

日本人がそういう不透明なコミュニケーション戦略を採用しているのは自己防衛のためであることは周知の事実である。欧米列強は「攻撃が最大の防御なり」というコミュニケーションであり必ず「私は・・・あなたな・・・」という主語が無くては成り立たない。「あなたを攻撃しませんが、自分は自分で守ります」というしたたかな姿勢こそが日本人的であり、私は誇れるものだと思う。

日本人は和(調和)を大切にするという観点から考えると
秘すべき個人的内情を開示することは同時に和を不安定なものに変容さすことは推察できる。
「最近どうでっか~」「そうですな、上半期より黒字ですわ~」と言うことはできないのである。
同時に日本社会では過大の自己開示は己を守る防護壁を取っ払うものである。
つまり、一人だけ何が飛んでくるか分からない外を裸で歩くようなものである。
裸で外を歩けば、瞬時に身体情報は外部へと伝達する。
それは非常に生存戦略的によろしくない。
「私はみんなのこと知らないけど、みんなは私の知らないことまで私を知っている」という状況がどれほど危険なものかは社会人なら安易に類推できるものだ。

ではなぜこれらの誰のためにもならない告白が行われるのか。
後で聞いた話によると、天理教では度々「感話」という催しが行われるようだ。
各教会毎でも、色々な規模、集会、対象によってよく行われるのである。
しかも、全ての感話は行き過ぎた自己開示が行われているのである。
つまり「自分がいかに不幸で天理教によって助かった」というストーリーである。

また、負のストーリー限定ということも考えなくてはならない。
「私の家庭は貧乏で天理教のおかげで心が豊かになった」という告白は許されるが、「私の家はお金持ちで何不自由しないがとりあえず暇なので天理教にきてみた」という告白は許されないのである。

こういった負の告白は、他者に共感を強制する面がある。
感話に選ばれようものなら、負のストーリーを構築させねばならない。
しかし、この負のストーリーはなかなかやっかいである。
それは集団への帰属意識を高め、集団内の均質性を高めるからである。
帰属意識は宗教として必然であるが、均質性というのは何か。
均質性とは、要するに「みんな同じ性質だよ」ということである。
つまり均質性という概念の中には柔軟性、多様性という言葉は存在しない。
「みんな同じような苦労しょってんだよね」という感話による共感は
「他者が共感する強制力を孕んでいる」ことを忘れてはならない。

そういった意味では、感話という技法の使用方法を再考する必要がある。
それは宗教が持ちやすい強制力や強迫を、天理教も採用するのかということでもある。
「どういう結果や効果があるか分からないけど、あるんだからいいじゃん」的なものはマインドコントロールである。
(そういえば精神科医の斉藤環がヤマギシのマインドコントロールについて書いていたのを最近読んだな。影響されているのかな)

健全な宗教とは何かということを考えた時に、「感話」と同じように無意識的な暗黙の了解をもう一度丁寧に意識化して再考する時期に天理教はあるのだと思う。
それが、私が度々主張する天理教のおたすけやにおいがけの方法論と教義とのズレなのだろう。
そもそも天理教が健全な宗教を目標としているかどうかは聞いたことがないけど。

一人の中年女性の非常に個人的不幸な告白を聞いて、「聞きたくなかった」と思った私の方が不健全なら、私の言うことは全て間違いということでよろしい。

告白について」への1件のフィードバック

  1. 匿名

    カイン様は
    何年も何年も前から説いて下さっていたのですね
    私は最近 偶然こちらのブログに出会いました
    一刻も
    一刻も早く教友に拡散したいです

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