M君について

今日は、なぜ天理教にコミットしていない私が
内情に詳しいかということについて明らかにしたい。

私は天理教人ではないというのはすでに言明してある。
しかし、実は幼少の頃から天理教と全く無関係ではない。
幼少のころは、おぢばがえりにも行ったし、教会にも行っていた。
しかし、小学校行くころには全く関係を持たなくなった。
関係がなくなったというのは、物理的環境が許さなかったのである。
簡単に言えば引っ越しただけである。

天理教に関係を持ったというのは私の家が教会の近所であったのと
近親者に天理教信者がいたからである。
しかし残念ながら幼少の頃の天理教の思い出は消えてしまっている。
かといって、天理教に悪いイメージは全くない。
むしろ「昔お世話になっていた」という事実は変わらないし
天理教に対する無根拠な批判には嫌な顔をしてきた。(つもりである)

幼少の頃に天理教と関わって以来はそんなに関わりはない。
しかし、2年前にひょんなことからある企画に呼んでいただいたことから
天理教人と関わることが多くなった。(本当にひょんな出会いがあった)
昨年は月に2度は濃密に関わらせてもらえる時間があった。
そんな中で幼少の頃とは違って天理教、延いては自分の信仰を考えさせられた。

それは信頼、安心、母性であったり、
懐疑、葛藤、不信などであるのかもしれない。

簡潔に言うなれば、教えvs組織 であるのかもしれない。

それは単に宗教批判、天理教批判となってはいけないと思う。
基本的な立場は天理教を応援しているが、主観的立場(ステイクホルダー)でない人間が
考察することも重要だと思う。
いや、外部の人間だからこそ積極的に問題提起する必要があると思う。
なぜなら、天理教の教えの根本には天理教の教えを伝える使命があるからである。
伝えるというのは当然、教えを知らない人間にであるからである。
宗教というナイーブな課題を扱うからこそ不透明な問題はクリアにし、
踏み込んではならない所は畏敬の念を込めて結界を明確にすることが大切なのである。

そして、現在の天理教もまた不透明な部分が目に余ると思われる。
それは教義解釈の点から、ヒエラルキーの階層、集団内力動など様々な水準においてである。
また、同時にそのような課題で悩んでいる人も見ている。
「人助け」を掲げる天理教によって「悩める人間」を作っているという矛盾がある。

一定の組織規模以上になることは、同時に批判や問題が含まれているというのは社会の常である。
しかし、天理教の将来を鑑みたときに本質的課題は組織的な衰退にあると感じられることが多い。
それは、一定の批判や問題ではなく全体的な信仰への欺瞞という感じが天理教人にさえ瀰漫している。
身内の組織に対して「これでいいのか?」と不信に思っている人間が、その信仰の良さを
他者へ伝えることができるのであろうか。私にはそういった人が伝えるものを信仰する習慣はない。

また天理教に対して不信感や(不必要な)葛藤を抱える人間は予想以上に多い。
これらは私が出会ってきた天理教人から直接聞かされ、感じた感想である。

こういった問題点はきちんと少数であってもきちんと表明する必要があると思ったためブログという
ツールを使っているのである。

そこで本題の、なぜ私が天理教の内情に詳しいのかという案件である。
それには某教会の青年であるM君の影響が強い。
M君とは2年前に出会い(実はM君が小さい時にも会っているらしいが私は知らない)その後
かなり懇意にさせてもらっている。またM君は有名大学(天理大学ではない)を出ており
かなり頭がキレるのである。そんなM君は青年という立場で、非常に理不尽な体験を多々されている。
しかし天理教組織内に組み込まれているため、彼はその理不尽な体験を意識的に抑圧しているのだ。
天理教で生きることと、天理教組織で生きることは背反するのである。
M君はいかに天理教組織が機能しないもので私物化されているか非常に丁寧に教えてくれる。
私はM君の代弁者にすぎないと思う。
M君も私は天理教人は基本的に「いい人」だと思っている。
しかし勘違いしている人が多いのも事実である。

私は今後、天理教に入信するかは分からない。
しかしどっちにしろ天理教を知ることは無駄ではないと思っている。

ちょっと中途半端だけどそんな感じである。

最後に、結局ブログで扱うことは私が感じた主観にすぎない。
私の体験が天理教全体に当てはまるとは到底思えない。
神格化している大教会長から、フレンドリーな大教会長まで色々である。
メディアに絶対はなく「天理教にはそういう側面もあるんだー」という
程度で見てもらえることが一番有意義なブログ(メディア)の読み取り方法である。