文献について

私は頻繁に大型書店に行く。
本は基本的にamazonで注文するのだが、
「見てみないとどんな本か分からない」本は実際に書店に出向いて
中を見てからでないと判断できない。
amazonは欲望の赴くままにクリックしてしまうので既に持っている本を注文してしまうこともある。

「これは買う必要がある本だ」という本はamazonであるので、
私が書店に行く理由は「何かいい本がないか」と無目的に行く場合と
「あの本は買う価値があるのか」という確認の2つの場合しかない。

今週、仕事の移動中に時間ができたので近くのジュンク堂まで足を伸ばす。
特に欲しい本もなく、ブラブラしていると、ふと
「そういえば天理教の本ってあるのだろうか」と思い、宗教関連の棚に向かう。
すると180cmくらいの高さの棚に30cmくらいの幅で「天理教」という棚がある。
全部で40~50冊くらいであろうか。

一般の書店にもこれほどの天理教関係の本があるのは驚いた。

見たことのある本から、全く知らないマニアックな本まである。
結論として私はその天理教コーナーに2時間近く立ち読みしていたことになる。
その中で一番面白かった本は「新宗教と巨大建築」という本である。
これはおもしろかった。天理市の本部神殿の建築をメインに書いてあるのだが、
切り口が建築であるだけで、いや建築が切り口ということで
非常に分かりやすい平易な言葉で天理教の説明を行っていると思う。

他の天理教関連の書物はタイトルからして怪しくて、あまり読む気が喚起されない
また読み始めても聞き飽きた感やうんざり感がともなうものばかりである。

私は天理教を知りたいと思う。
しかし天理教が発行する書物からは私の知りたい天理教は知れないとも思う。

天理教をより発展させたいと思う時こそ天理教内部で生み出される理論ではなく
別の目、外部の目、または批判的な目からみた天理教というものを丁寧に読む必要があると思う。
それはまたアカデミックで常識な反対意見こそ自分の理論を発展させるチャンスであることと反する。

自分の意見を支持する意見ばかり聞いていては井の中蛙である。
現状を打破する必要があると思うなら、反対意見を聞き、反対意見に反対できる理路を構築する必要が
あると思うのだが、天理教にはその点が欠けているのではないか。
それは、内部において毒を吐き合って、傷を舐め合っているように捻くれているともとれる。

そう思うのは、私も似た様な体験をしたことがあるからである。
天理教人は天理教に反対する意見や人に対して「この人は分かっていない」「あの人は助からない」
という説明をして、反対意見に聞く耳を持たないということを何度か目にしている。
こういった無根拠に他者を排除する方法では天理教に将来はない。
また、こういった宗教に何の魅力もない。
そのことに早く気づくべきだと思うのだが、天理教の他者を排除する言説は
無意識的であることが厄介な一つであろう。
それは別の視点では、他者を排除するということが習慣化しているとも考えられる。

この間TVで見たのだが、お店や会社に文句を言うクレーマーというのは
お店や会社にとっては非常に有効なビジネスチャンスであるということだ。
クレーマーというのは文句を言う厄介者であるのだが、一方では文句には
お店や会社が成長できるヒントや伸びしろを含んでいるということである。
つまり、クレームを文句として聞く耳を持たないお店や会社は「終わっている」のである。
逆にクレームに対して「どんなクレームですか?改善したいので是非教えてください」という姿勢は
「行き残る」会社であるということである。

狭い理論に固執して周りを見ない天理教か
どんな意見にもとりあえず話を聞く天理教か
あなたならどちらがいいでしょう。

「あの人は助からない」という言説を聞いたことがある人は少なくないと思う。

本の話から随分脱線してしまって恐縮である。