天理教幹部が贅沢な暮らしをしているかどうかは、本ブログでも何度か取り上げている。私の認識では、天理教幹部は決して贅沢はしていない。私が接したことのある幹部は、贅沢ではないが「普通」の生活をしている(と私は思っている)。この「普通」の生活が、天理教末端の貧しい人からしてみれば「贅沢」なのかもしれない。つまり末端の天理教人は国民年金も保険も払っていない中で、道一条というほぼ副業禁止の生活を強いられている。「神様にもたれれば、成るようになる」という人権無視な言葉とともに。一方、天理教幹部(天理教本部で役員として在籍しているもの)の「普通」の生活は、家を買い、自動車を所有し、複数の子供達を大学に通わせるだけの財力がある。この同じ信仰者の中でのギャップが、天理教幹部贅沢論の根源なのかもしれない。
また天理教の財政状況を調査する中で、使途がはっきりしていない莫大な金額が動いていることはこれまでも明らかにしてきた。人件費がどれくらいで、どの役員がどれくらいの収入を得ているのか、中山家の運営費がどれくらいなのか、さっぱりわからない。そこで、経営学の知り合いに宗教法人に関わる人の収入について相談すると「宗教法人だからといって個人の所得は免除されない。きちんと申告する必要がある。もし所得が高額であれば、2006年まで高額納税者公示制度があるから公開されている」という助言をいただいた。
そこで早速、過去の高額納税者一覧の資料を取り寄せて奈良県を調査した。すると天理教の幹部の一部は毎年奈良県の高額納税者の常連であることが判明した。調査した中での最高納税額は、昭和60年の中山善衛氏の9600万円余りである。約一億円。。。繰り返すが、この金額は所得額ではない。納税額である。私は開いた口が塞がらなかった。私は税法の専門家ではないため、間違っているかもしれないが、累進課税で1800万円以上の所得に対して40%の税率と考えると、当時の中山善衛氏は一人で約2億4000万円の収入を得ていたと計算できる。この金額を見て、私は天理教という組織は真柱のために存在しているのかとさえ思ってしまった。
しかし単純に、これらのお金が何に使われているのか疑問が残る。真柱を維持するための運営費(生活費、警備、護衛費、使用人の人件費などが考えられるのかな)に使われているのか、ここから彼らはどれくらいを天理教本部にお供えや寄付をしているのか明確ではないため、どれくらいを私的な財産としているのかはわからない。ただ言えることは、数億円規模のお金が一度は特定の幹部の財布に入れられているという事実である。
所得税率に関する参考リンク
所得税の税率ー国税庁
参考資料は青文社の「大阪国税局管内 近畿地方2府4県 1000万円を超える高額納税者全覧」の昭和59年〜平成16年発行を用いた。(それ以外の年代はなかった。ちなみに1991年分も資料がなかった)
教祖100年祭以降、天理教の収入が著しく減少しているのと同じく、中山善衛氏などの所得も減少していることがわかる。それであっても直近の平成16年分の三者の合計は約7000万円余りという納税額である。まるでプロ野球選手の年俸を見ているようである。
まだ私の知り合いの天理教人に感想を聞いてはいないため、天理教人はこのデータを見てどのような感想を抱くのであろうか。私は知りたい。また、この高額納税者一覧は納税額が1000万円以上の人間しか掲載されていない。そのため他の幹部役員が低所得であるということにはならない。納税額が1000万円までいかなくとも、高額な所得を得ている可能性もあるだろうし、奈良県以外なのかもしれないし、私が特定の氏名以外を探さなかったからかもしれない。しかしこれだけの収入を得ているということは、天理教の本部役員もそれなりの収入を天理教から得ていると考えることは自然であろう。
これだけ日本社会で格差是正のために富の再分配が叫ばれている中で、天理教ほど富が偏在しているのは、組織の激しい衰退と無相関ではないと考えるのが経営者の思考であろう。幹部のみなさん、その何億かのお金を道一条の若者の社会保障に回してはどうでしょうか。「勇め、徳を詰め」と言うより、圧倒的にやる気をおこさせるために効果的・長期的な経営戦略だと思いますよ。
今回私の理解が進んだことは、特定の幹部は日本社会の一般常識とはかけ離れているほど莫大な収入を得ていること、そして「貧に落ち切れ」という言説は真偽はさておき笑えないジョークでしかないということである。「お供え金」の解釈や宗教的意味性に関しては、個人の自由という考えが優先されるために特に私から意見はない。しかし私の昔からの知り合いである天理教人は、この事実を知らなさそうなので本当にかわいそうだと思う。
今回は2006年まで実施されていた高額納税者公示制度で公開されている情報をもとに調査した。2006年に同制度が廃止になったのは個人情報保護の観点からである。しかしそもそも宗教法人は税制上の優遇を受けており、その活動は社会的性格上の公益事業であることは宗教法人法でも記載されている。また「宗教活動はまさに「不特定多数の者の利益を実現する」ものであると考える」と藤原は述べている。宗教団体を社会として(宗教団体とは無関係な日本人も含めて)公益性を認めるかどうかは議論が残る。一方で、特定の団体を支える構成員においてはその宗教活動が不特定多数の利益のための活動(陽気ぐらしやおたすけ)である以上、最低限構成員に対して公益性が生じるのは必然である。つまり公益性を担う宗教団体が集めるお金は、そのお金自体に献金者の公益性という性格を帯びる。私も過去に天理教に献金した記録が残っており、私が天理教のお金の使徒を求めることは公益性にかなうことを意味する。加えて個人情報保護法では個人情報を「生存する個人に関する情報」(第2条第一項)と定義しており、中山善衛氏とその妻の中山まさ氏に関してはすでに故人であり該当しない。
話は変わるが、宗教法人法を読んでいると宗教法人の収益事業において興味深い点があった。天理市の信者用宿泊施設(詰所)では、一泊1000円と一食250円というのを聞いたことがある。これは、宗教法人の収益事業にならないギリギリの金額ということである。これ以上の金額を信者から徴収すると収益事業とみなされ課税対象になるということである。天理教は税金対策もよく考えているようだ。
『収益事業にあたる場合であっても、墳墓地の貸付け(法税基通15-1-18)や宗教法人の有する宿泊施設に信者や参詣人を1泊1,000円(2食付きで1,500円)以下の料金で宿泊させる場合には税務収益事業(この場合は旅館業)にあたらない』税務会計情報ねっ島
いつもと同様に一覧にした表を下記に用意したので自由にダウンロードしていただいて結構です。コピーフリーですので、自由に使っていただいていいです。しかし誤記などもふくめ、その責任は負いかねます。
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tenrikyosyakaigakulavo@hotmail.co.jp
大教会長の不祥事が続いていた頃、三代真柱は「大教会長は大教会を私物化している」といって怒られたそうです。大教会長たちは「中山家こそ天理教を私物化している」とささやいた、と聞きました。
中山家はお金が沢山あっても幸せではないのでしょうね。心が不自由されているように思えてなりません。回りに何もかも用意されて、気をつかわれて、そこに座るだけなのですから。
一度、人間同士として一杯呑みながら、じっくり話をしてみたいものです。
現実は少し違いますよ。三代真柱、現真柱はかなり質素な生活をされていましたし、現真柱は暇を見つけては、ご夫婦でにをいがけに出ておられますよ。
三代真柱は、以前かなめ会に二年余り出られなかったことがあります。理由は真柱の思いとだいぶ違う行動が教内で多々見られ、それに対する反省点が見られなかったからです。
現真柱も、苦労された現職の先輩信仰者に対しては、必ず「○○先生」と相手を立てて話されます。推測で物事を判断さるのも少し疑問を感じます。、
すみません。真柱様と親しくないし、生活も見たことがないので憶測でしか判断できません。
地方の教会へ来られた時の仰々しい接待しか知りません。
ただ、本部員の先生方も同じですが、考えられない、常識を超えたお礼は受け取らないようにしてもらいたいです。
ビカンテさん、真柱様の生活ぶりとか教えてください。知らないので憶測になってしまうのです。よろしくお願いします。
先輩信仰者に対して「○○先生」って?
お互いに先生と呼び合うこと自体ずれているんじゃないですかね?
医者・弁護士・教員 特殊な職業の人は皆そうですが・・・・
教会長や後継者を、先生・若先生なんて呼んでるようじゃ批判されても仕方が無いし、質素かどうかとか謙虚かどうかとか誠実かどうかとか、何の関係も関連性もないと思います。
「三代真柱は、以前かなめ会に二年余り出られなかったことがあります。理由は真柱の思いとだいぶ違う行動が教内で多々見られ、それに対する反省点が見られなかったからです。」と書いてありますが、なぜ、その時に指導力が発揮できなかったのですかねぇ。真柱は絶大なる立場におられると思いますが・・・。
あ~お金取り戻したい。母の借金返済の為大学受験諦めた私の青春返して~!
〇〇教会で「私の青春返して」の裁判があり、天理教も社会にカルト宗教であることを広めたい。
その通りですね。
「思いとだいぶ違う行動で・・・・・二年余り欠席????」
子供か? 小学生が拗ねてるような態度?
自分がトップで皆を引っ張っていくという自覚が全くないことの証明でしょうか?
こんな行動を「良い人・正しい行動・誠実・前向き・謙虚・・・・」な例として紹介するのは、逆効果ではないでしょうか?むしろ隠しておきたいことなんじゃないですかね?
教会本部も一応法人ですので、所得の問題が生じます。只、天理教も奈良県では大企業?ですので、それなりの収入が必要でしょう。真柱の場合は、所得額はどのくらいかわかりませんが、ここに推測されているより少ないかもしれません。おさづけ拝戴時、五回の節気、大祭、各大教会、教区の各種行事に呼ばれたときのお礼等(他にあるかもしれませんが)が、申告をしていれば大きい金額になると思います。其れが総所得として公示されているかもしれません。
それが多いか少ないかは、どうこう言いませんがとにかく天理教は上から下まで、何かあるとお礼があたりまえに付いてくるやっかいな集団です。この辺からも意識を変えると、少しはましになるかもしれません。
多分、徳子さんの上級の会長さんのような人ばかりではないと思いますが、そのような会長を生み出す素地があることは問題ですね。
会長も、ニンジンをぶら下げられ、ムチを打たれながら、走らざるを得ない現実があるのです。のびのび、ゆったり、信仰生活をしたいものです。
検定講習の講師だった、とある大教会長様のお話ですが、縁あって、某有名な(誰でも知ってる政界の人)方を連れて、初席に参られた時に、真柱様は、本部のお客様として迎えられ、昼食をされました。大層なご馳走だったとの話を聞いた後に、真柱様からご自宅で夕食を食べて行きなさいと誘われて、夕食は、どんなご馳走かと思ったら、大量なお下がりのハンペンで、質素な夕食だったとの事。又、台所には、紐がいくつも掛けられており。そこには何回も使ってあるサランラップなどが干してあったとのことでした。
ちょっと待ってください。だから、それがどうか、ということです。末端の教会はそれがあたり前ですから、人にいうこともありません。あたり前のことですから・・・。
その講師の先生も、なにも、そんな大勢の前で言わなくていいでしょう。あたり前ならば・・・
そのことが、トピックでありニュースであるから言うのです。
それが普通になってもらえばいいです。真柱も本部員も質素で謙虚で見るからに「なるほどの人」であり「ひながたの人」であればさえ、いいのだと思います。
なにも人にアピールすることはないのです。
匿名にて、講習の話を書いた者ですが、アピールと言えば、そのとうりだと思います。ただ、そのお話の場所は、教会長検定講習なのです。天理教について無知な人の集まりではありません。私も、立場で言えば、末端の教会の教人です。亡くなった祖母は、教会の娘でした。私も、若い頃は親に連れられて、無理やり教会に行くのがイヤでしたが、(教会に行くのが当たり前と育ったので) 今は、困っている方をお助けしたいと思い、お道の話を身近なお助けを必要と思う方にしています。(さすがに神一筋単独布教はムリ) 又、このサイトにあるような、お道の教えとはかけ離れた方たちも見てきました。二十数年前、私が修養科に行った時も、とある大教会からの修養科生は、ほとんどの人が、占い師に修養科に行きなさいと言われて来た人でした。教えを間違って伝えている方も確かに居ますが、一部の情けない人達の行いに、この教えを汚れたくない。というのが私の意見です。
同感です。
三代真柱様とかなめ会の一件、初めて聞きました。
その真偽のほどはわかりませんが、仮に事実だったとしても「子供の拗ねたようなもの」という見解は浅いように思います。
というのも教祖のひながたに習ったということがいえるからです。
教祖はとある信者が神意を汲み取ろうとしないことから、長い期間にわたってその信者に無言をつらぬかれたそうです。
無言であることの意味からその信者は自身の考え違いに気付き、神意を深く悟ることができたという逸話があります。
三代真柱様がなさったことはそういった意図のものではないかと思います。
初めてこちらのブログを見させて頂きました。
凄く同意できるところもあり、違うんだけどなぁ~と思うところもあり。当たり前ですけど。
本部の人や大教会長と言われる人の中に勘違いされている人がいるということは事実だろうと思います。
ただ、真柱家については贅沢はしていないと私の中では確信しています。
こういう場で書き込むことが良いかどうかの判断が出来かねるので具体的なことは申せませんが、真柱家の支出としての相当な額があることは、教内のある程度の方は理解してると思います。この場での書き込みが妥当か分からないから書き込まないだけであって、直接的な付き合いのある方なら堂々と言える内容です。親心の支出と私は思っています。百年祭当時は、教団の規模もピークなので当然支出も多く、その為に真柱の収入も大きくなって仕方がないかなと思います。
修養科の時の担任の話なのですが、夏場にその担任の教会に三代真柱様が巡教に来られたそうです。暑い時なので扇風機を回していたら、止めるように言われたそうです。真柱家ではこの暑さでは扇風機を使わないんだと感心したと言っていました。
その後、まさ奥様の出直しがあったのですが、出直される何日か前に真柱宅にエアコン取り付けの工事に入る様子を見かけました。まさ奥様の容体が良くないという話は聞いていましたので、療養のために付けられるんだなと推測したのですが、逆に言えば、それまで真柱宅にはエアコンの付いた涼しい部屋が無かったんだなと、付けようと思えばいくらでも付けられるところなのにと思いました。
まさ奥様の出直された時も、三代真柱様が出直された時も一般の弔問を受け付けておられましたので、真柱宅の奥の方まで入らせて頂きましたが、贅沢な雰囲気は感じられませんでした。
私個人としては、そういう見聞きしてきたことから判断すると、資料としてはかなりの額の収入があることになってはいますが、真柱家は決して贅沢をしておらず、日常は質素な生活をされていると確信しております。
そうなんですか、そういう場所に入る立場でもありませんので、知らないことばかりです。そうとなれば、何故、本部の先生に対して、世間の常識では考えられないようなお礼とかの習慣がついてしまったのでしょう?また、身を削ってのお供えはどこへ行ってしまっているのでしょう?そもそもお供えは必要なものでしょうか?神様が要求されているのでしょうか?
弔問は誰でも入らせて頂きましたよ。どんな立場の人でも行かせて頂けました。まさ奥様の時は真柱宅で記帳をしているとの噂があり、仲間たちと行かせてもらったら、どんどん奥に案内されて入った部屋にはまさ奥様がおられ、前真柱様、真柱様、はるえ奥様が羽織袴で丁寧に弔問のお礼を言って下され、びっくりするやら恐れ多いやら、本当にに恐縮しました。その時の私は20代前半のただの若僧ですよ。
前真柱様の時は月次祭前のということもあり大勢の方が弔問に訪れ、何時間も待ってやっとお会いできるという状況でした。修養科生も弔問に行かせて頂いたくらいです。大教会長だろうが修養科生だろうが同じように並んで待って会わせて頂いていましたよ。立場なんて一切関係ありません。
お供えは必要と思いますよ。「金銭は二の切り。」神様のお言葉です。助かる道です。助かるということについては、何に使われているかは何の関係もなく、出した行為にともなう心を神様がお受け取り下さるものだと私は理解しているのですが。
ですが、やっぱり出したお金の使われ方が気になる方が多いのは事実です。教会長の立場であれば、信者さんに堂々とお供えを説けるような裏付けが欲しいと思うのも仕方ないことなのかもしれません。ですが、それは甘えだと思う謙虚さも必要かと。もちろん、お供えを受け取った側が相手に不足をさせない、埃を積ませない振る舞い、使い方も必要であると私は思います。
ただ、敢えて不足をさせるような振る舞いであったり、無茶をさせて丹精する、助かってもらうという事もありますよね。一流の先生方は私達がびっくりするようなことをしたり、させたりしてますもんね。それが、おたすけの姿、たすかる姿であるわけですが、それは自身が通ってきた姿がなせるわけで、相手を見極める力だったり、信頼関係だったり、もちろん神様のお働きもあり、それができるだけの下地があるからのことだと思います。
ですが、その見た目の形だけを見て、下地も無いのに相手に無茶をさせたらその人は助かるんだ、自分の言うことを聞いていたら助かるんだという考え方をしてしまっている二代、三代がいて、それによって不足しかしない、不足しながらのお供えだから御守護も頂きにくい、御守護を薄く感じるから子供にまで伝えようと思わない、結果としての教勢の衰退と繋がっている面はあるんじゃないかと思います。残念なことです。
しかし、我々まで不足していたら助かって頂ける方にも助かって頂けなくなってしまうんじゃないかと思います。問題点はもちろんありますし、解決に向かって行かねばならないことだとは思いますが、それにとらわれ過ぎると助かって頂ける方に助かって頂けなくなるかもしれないんだということを自分に言い聞かせて、環境ではなく、自分と助かって頂きたい方との関係で物事を考えることが大切なのではないかなと思っています。
偉そうなことを言っていますが、自分自身が難しいことは環境のせいにしたい性格です。不足の多い人間です。ですが、それでは前に進めないし勇みに繋がらないので、私なりに考えてみたことで、そういう考え方が出来る人間になりたいと思っております。
あなたは素晴らしいですね。頑張って下さい。
ただ、私は不足を言っているのではなく、疑問を言っているのです。私もたすけて頂いているし、私のまわりの人もたすかっています。沢山のご守護を頂いていますよ。
でも、思うこと、感じること、おかしいことを言ってはいけないのではなく、大いに語り合ってよりよく、していくことが大事だと思います。それが駄目なら、口にチャックして貝になるしかありません。
すみません、気分を害させるようなつもりはありませんでした。
やっぱり顔も合わせず文字だけのやり取りは難しいですね。安易に考えていました。申し訳ありません。
不足をするのは私自身です。疑問を感じること、おかしいものはおかしいと判断できることは必要と思います。私も不足と疑問は違うと思っていますし、それを口にしています。前のレスでも問題と思うことは述べていますし。でも、私の場合はそれが結局は不足になってしまってることが多いんですよね。言っているうちに調子に乗っちゃうんですよ。そこに陥っちゃうと何のプラス要素もないなぁと最近感じるようになっちゃって。なので、出来るだけ自制を心掛けています。私は基本的にアンチテーゼの塊のような人間なので、気を付けていないと大変なことになっちゃうんですよ。
今の体制の問題点を指摘しつつ、御守護を頂いている姿は大切な存在です。やっぱり素晴らしい御守護を見せて頂いている人の発言でないと説得力に欠けてしまうところはあると思うんですよね。
残念ながら私の周りで体制批判をしている人の多くは、私にとって魅力的ではありません。古い教会長さんのような方が近くに居て下さればいいのになと思います。
ただ、ちょっと悲しい思いになったことがあります。私は古い教会長さんからのレスに?マークが3つありましたので、私なりにその?に答えさせて頂いたつもりです。もちろん、言葉足らずで不快な思いをさせてしまったかもしれませんし、それは反省すべきことです。
ですが、「あなたは素晴らしいですね。頑張って下さい。」という言葉を言葉通り受け取ることが出来ません。私は出来た人間ではないので、なんだか流されたように感じてしまいます。もし、そうではなく本意で言って下さっているのでしたら、本当に申し訳ありませんとしか言いようがありません。文字だけでのやり取りの難しさということでお許しいただけたらと願います。
大いに語り合ってと仰っているのに口にチャックして貝になるしかないと仰っておられるのにも少し違和感があります。古い教会長さんと私では当然ながら考え方が違います。私に古い教会長さんの考え方を封殺しようとする意図はなく、自分の考え方を述べたまでです。気に入らない表現があったかもしれませんが、違う考え方を述べたところで、それでは口にチャックして貝になるしかないと言われてしまうと、私こそ口にチャックして貝になるしかないことになってしまいます。大いに語り合ってと仰られるのであれば、違う考え方も受け入れて頂ければと思います。
貝になれと言われているように感じさせてしまう私の表現にも大きな問題があったと思います。私自身も反省しなければと思っています。
実際、いい子ぶりっこな表現が多いかなと読み返してみて自分自身で感じますし、それが鼻につくという方がいても仕方ないですよね。申し訳ありません。
本心から、あなたは素晴らしい方だと思っています。
私は有難いことに本心から語り合える仲間がいますので、救われています。
私もかつて、あなたが言っておられるような「いい子ぶりっこな表現が多い」人間でした。
今の自分は、本音で生きていますので、本音の相談をしてもらえるようになりました。みんな肩の荷が下りたとか、楽になったと言って下さいます。
ありがとうございます。そして、申し訳ありません。
やっぱり私はひねくれた人間のようです。こちらのような顔も見えず文字だけでコミュニケーションを図るのは私にはハードルが高いのでしょうね。
まだ私は若造なので、神様はいい子ぶりっこを求めておられるのかなと感じることが多々あります。お前が本音を大きな声で言うのはまだまだ早いんだと言われている気がするのです。元々攻撃的な性格なので何度か偉そうなことを平気で言ってしまって、結果は良いことなしというのを経験しましたし。
もちろん、気心の知れている仲間たちとは本音で語り合っていますよ。
きっと古い教会長さんのように、しっかり通った年限を経れば本音の話で皆が楽になれるようになるのでしょうね。私なんかはまだまだその段階は遠いです。
今は神様からのOKサインは見えませんが、いつかOKサインを貰えるようにしっかり通らせて頂きたいと思います。
私のここでのコミュニケーション能力は低いということが分かりましたので、今後のコメントは差し控えさせて頂きます。
良い勉強をさせて頂きました。有難うございました。
Aは善司、Bな妻のハルエですね。
なぜふせているのでしょう?
天理教は富裕層の信者が多く、財務が健全です。真如苑も富裕層の信者が多い事で知られています。