大人について

先日のニュースに「成人年齢の引き下げ」についての世論調査の結果が載っていた。
調査結果は年齢引き下げに反対が60%であり、その60%中の70%近くが「未熟である」という回答であった。
 私は正直、「ん?これは社会のドミナントなのか?」と思った。60%中の70%というのは大多数の人間が「未熟」を理由に年齢引き下げを反対しているように見える。しかし60%中の70%を計算すると全体の42%しかない。過半数割れである。メディアはあたかも「ほとんどの人がそう思っている」という論調であるが、「メディアの言うことなんて嘘っぱちだよな」と受信者の私たちはどれほど考慮しているだろうか。メディアや偏った思想のコメンテーターの意見をあたかも絶対的正解として語っている人は意外に身近に多いのではないだろうか。統計は絶対的科学性を持っているが、一方で使用方法によっては簡単に人を騙せるものでもあることを再認識。ものは考え方次第である。
 ただ未熟を理由に成人年齢引き下げを反対しているのは全体の42%であることは必ずしも社会のドミナントではないということを考えても42%というのは多いと思う。そしてこの多さこそ、私がこのニュースを見てゾゾっと悪寒を発生させたものである。
 私は何が言いたいのかと言うと、それは反対する60%の大人たちは「私たちは大人である」と思っているということである。「私は大人である」と思っていなければ「お前はまだ子どもである」などとは言えないはずである。分かるだろうか?大人という立場からしか「お前は子どもである」とは言えないのである。それは無自覚のうちに「私は大人である」ということを内包していなければ成り立たない。そして、私がゾゾっと悪寒を感じたのは「私は大人である」と言う人間こそが「大人ではない」と思われるからである。 
 「私は大人である」ということが「お前は子どもである」と言える条件である。しかし、最も重要視しなければいけないことは「大人という概念は周りが大人と承認することでしか成立しえない」ということである。その証拠に「大人とは何か」という問いに対して普遍的回答はないのである。「大人とは何か」という問いに対して答えられるものはせいぜい肉体的成熟度や経験という個人差ばかりの指標でしかない。それは同時に「子どもとは何か」でパラドキシカルに考えることができる。「子どもとは何か」という問いに我々はどのように答えるのだろうか。年齢だろうか、肉体的成熟度だろうか、社会経験だろか。否、子どもが子どもたりえるものは周りが子どもと思うことでしか成立しえない。だから年齢や体型、経験などに意味はないのである。そして、そこに意味を置くことでしか主張できないことこそ子どもの特徴の一つである。
 簡単に言えば「私は大人である」と言い切れる30歳と「まだ私も子どもです」と言う30歳とどっちが社会人として付き合いやすいかと言えば後者であろう。そういえば、この間のAERAで「出身大学による部下にしたくない人間」みたいなランキングが掲載されていた。堂々の1位は東京大学であった。理由は「使えない」からである。一見、東大出といえばエリート中のエリートであるが実際の人間関係や上下関係で使えなくては本末転倒である。その理路と同じである。天理教においても天理教的サラブレッドほど付き合いにくいという私の主観と合致する。「あー言えばこういう」ではないが、彼らに共通するのは人の話を聞かないという点である。慎みというキーワードは誰のものか疑問に思う今日この頃である。
 品格という言葉が流行って久しいが、この言葉を流行らした坂東さんはあるインタビューで「何かにつけて品格だ、と言う人間こそ品格がない」と言われていることは洞見である。「私は偉い」的な態度や思想は周りをうんざりさせる。またそういった大人は増えていないだろうか?大人の幼児化やネコ化と言われているが、私たち大人とされている人間こそ「まだまだ未熟もんだ」と言うことが大人への第一歩なのだと思う。
 最後になったが、私は年齢引き下げに賛成派である。それは「私も大人ではない」というものでも「早く成人させて大人としての自覚を促す」というものとも異なる。それは今後、少子高齢の人口減少の波を迎えることは、社会の構成員(担い手)を増やした方が「うまく社会がまわる」というかなりドライな考え方からである。成人基準を18歳にすることで、多く税金が掛かっているアルコールやタバコの消費量や少子化を打破する婚姻は増すであろうし、高卒就職率も増すであろう。大学淘汰時代において、大学に進学することは一部の高校生にとって魅力ではない状況は拡大している。また企業側も有能な人材を青田買いする傾向は、今後使えない大学生より使える高校生に拡大する可能性もある。また現在大人とされる私たちも社会の構成員が増えることで年金制度の安定や貨幣の流通による経済安定が見込まれるのではないかという推論できる。それは推論であっても、この状態のまま少子高齢人口減少ボックスに突入するという不安定な日本丸よりは、社会が安定する方向(政治的成熟度)へと向かう蓋然性が高いと思われるからである。また医学的、生理学的、心理学的、教育学的に飲酒、喫煙、社会契約の年齢を引き下げることは教育整備や社会整備などの多少のTune upによる障害や問題はあっても大した差はないと思う。それは、「今日からハタチになったのでお酒飲みまーす」という大学生が言うように、昨日と今日の私に一体どんな違いがあるのか誰にも判定できないのと同じである。それでも社会制度として一定の線引きが必要なら20歳と18歳に大した差はないと思うからだ。本人にとってどっちでもいいなら、周りにとっていい方を選ぶのは大人の作法ではないだろうか。

今回は天理教と関係のない話になってすまぬ。
ただ、全く関係がないとは思わない。
意外に「私は大人である」と思っている現象は天理教の中にも随分多くの人がいると私個人の思惑があるからである。無理矢理くっつけた感があるけど終わります。