真心のお供えについて

色々なところで耳にすることがある。
それは「天理教は信者には貧に落ちきれと言うが、幹部は贅沢している」という文脈である。

貧に落ちきれという教えを信者には強要するが、
強要する方は教えを実践していないという矛盾を指摘しているのである。
なるほど。

それには私も事実として見聞きしたことがある。
高級車やハイスペックPCなどを所有している教会を知っている。
噂では、天理教の首長はベンツに乗っていると聞いたことがある。
本当に必要なのか?という視点では疑問である。

また、こういった矛盾を現役の天理教人、しかもカイチョウさんから聞いたことがある。
このことから、この矛盾にはかなりの信者が潜在的に疑念に思っていると推測できる。

しかし、私はこういった現象は非常にマズイと思う。
それは矛盾を抱えることがマズイと言っているのではない(人間は矛盾な生物である)。
そういう矛盾を矛盾として認識している点がマズイと思うのである。

それは、矛盾を感じる人はお供えを「誰に対して、何の目的で」お供えしているのか
分かっていないのではないかと思う。
矛盾を感じている人はお供えと税金を勘違いしているのではないのか。

お供えというのは、神様に対して、他者(人類)の陽気暮らしを願うという目的でしかない。
そして、それを判定できる(見ている)のは神様しかいない。
そして、神様の真意は我々人間では一つも汲み取ることができない。

この前提を忘れてはいないだろうか。
またこの前提こそが宗教たりえるものの金科玉条であり、存在意義である。

つまり、お供えというのはお金や物品の流れ方ではない。
個人が、思いを込めて神様に捧げるという行為である。
それ以上でも、それ以下でもない。それだけなのである。

お供えをしたからといって神様が喜ぶかどうかは我々人間には分からない。
ただ、できることは思いを込めることである。
高価なお供えで思いがこもっていないお供えか、安価でも思いが込められたお供えか。

エラソウにしている幹部が贅沢な暮らしができることもお供えをする方にとっては
いいことではないかと思う。だって贅沢な暮らしができて喜ばれているんだから。
他者に喜んでもらえるということは、天理教教義的に正しいと思う。
思いを込めたお供えものを、幹部が私利私欲のために使おうがそれはお供えをした者が
関知することではない。

矛盾は、お供えをした人が感じるものではない。
お供えをした行為も、そのお供えものをどう扱うのかも神様は全て知っているということである。

そして、「自分らは贅沢なくせに、信者には貧に落ちきればっかり言いやがって」と思う
妬ましい思いも、それもまた神様は見ているのではないだろうか。

あぁ恐ろしや。

真心のお供えについて」への8件のフィードバック

  1. 匿名

     お供えは、困っている人や福祉関係に使われてこそ、出す方にとっては嬉しいものである。苦しい中でも出した甲斐があろうというものである。次も頑張ってお供えしようと思える。神様にお供えしたものを、教会長がどのように使おうが、いいではないか、というのは、関係無い者の理屈だ。天理教は人助けと教わっている。お供えが人助けに使われてないとすれば、空しい思いがするのは当然であるし、出す行為自体が尊いのだ、という理屈は、誠真実を出せという、本部の歪曲教理として今まで散々利用されている。そして、幹部達は金にまみれ、信者、末端は、貧に落ち切っていく。

  2. tnyo

    お供え(理立ても含みます)は究極は自分のためにすることです。増野鼓雪先生も自分のためにすると思えば
    自分のためになると。確かに心は第一に神様にお供えする気持ちです。神様にお供えしたものは、後はお下がりです。そう思えば、人の段階で何に使われても構わないのです。そこがお供えと税金の大きな違いだと思ってます。税金こそ使途の監視はすべきです。しかしお供えは(強制されるものは除きます)まず神様(報恩)に、二番目に間接的に人助けになり、三番目に人を助けてわが身助かるという一石三鳥の身の行いだと実行して来ました。

  3. 匿名3

    立派です。私も長年そのように思ってました
    何の不足もなければどうぞ頑張って下さい

  4. 匿名

    本部に集まったお供えは現実には、人の為に使われていません。本部勤務者の給料だったり、箱物修理だったり、真柱や幹部が高額納税者として名前を連ねる、その基礎となる収入源になるのです。「お下がりのお金」がそうした高山のほこりに使われても、それこそ何の不足もなければめでたい限りですが、「二番目に間接的に人助けになり」にはほとんど当たりません。自分(教団)の為にしか使われていないということです。教団に更にほこりを積ませる加担者にもなるのです。
    報恩は神様(本部や教会)にしなくても、自分の周囲の人たちに直接的に、目に見える形で尽くせばよいのです。教団を通す必要はなく、神は宗教・宗派・人種にかかわりなく「人が喜ぶ行為」を受け取るのであり、「人を助けてわが身助かる」の真理・法則は教団を通さなくても完結します。
    全知全能の神は天理教教徒だけを助けるのではありません。どうかお供えで無理せぬよう、心を縛る天理教的発想から解放されることを願っています。

  5. 徳子

    増野鼓雪先生とやらは、自分の為に何が何でも「お供え」の名目で「お金」が欲しいわけです。
    そこんとこをきちんと見抜かなければ、ただの「おバカ」になりますぞよ。

  6. 一大阪人

    だいたいお供えをするのに、少しでも「自分のために」という考えがあること自体がおかしいのではないですか?
    自分には何の見返りも期待せず人のために使ってもらおうと言う気持ちであってこそ
    純粋な信仰とお供えなのではありませんか?
    「人を助けて我が身助かる」って、何を期待しているんでしょう?
    そんなことを考えて人助けをしているのは天理教人だけなのでは?
    人のために、って言うけど、結局はすべて自分のためなんでしょう。
    ほんと、教えが支離滅裂で混乱します。
    こんなとこを小さい頃から聞かされるから、教会子弟は精神を病んでしまうのです。

    人間みんな自分のために自分の人生を生きていく事が命題なのに、
    変な教えで生きづらくしないでほしい。

  7. 古い教会長

    増野鼓雪先生、若くしてお亡くなりになりました。

    理想と本部の現状の狭間で悩んでおられたのでしょうね。

    >増野鼓雪先生も自分のためにすると思えば自分のためになると。

    苦しい説明ですね。誤魔化しです。

    ブログ<原典からの出発>植田義弘先生のブログです。
    http://tenkoku0805.blog9.fc2.com/
    天理教の「御供え」についてをリンクします。
    http://6706.teacup.com/5051/bbs
    命の泣き声~天理教への信仰でお悩みの方へ~
    「命の泣き声」さんのホームページのリンクを張ります。
    http://inochinonakigoe.grupo.jp/
    huruikyoukaityou@yahoo.co.jp
    http://twitter.com/huruikyoukaityo

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

【投稿コメントについて】
以下のようなコメントは削除します。通常の迷惑メールに加え、敬語を使わない、10語以内、他者の意見に耳を貸さない、名前を変え何度も同じようなコメントをおこなう、非論理的文章など読者に配慮しないものも含みます。なお1度削除しますと、以降自動的に同じIPアドレスからはコメントできません。悪質な場合は自動的にアクセスブロックとなります。