会長の違いについて

大教会とは、50以上の分教会をまとめる教会のことである。
元々、大教会として特別な存在として誕生したものではない。
下部組織である分教会を増やして50にした結果、大教会へと変わることができる。
簡単に言えば子会社が50ある元締めの会社である。

つまり、大教会なるものの条件とは。
特別な能力や性質があるのではなく下部教会の数という
デジタルな数字上のみである。(もちろん例外も存在する)

そのため、大教会が持つ性質や雰囲気や力関係に統一したものはない。

その結果、天理教の特徴の一つである緩さ(自由さ)がある。

新宗教とカテゴライズされている中では珍しい現象だと思う。
通常の新宗教は本部直轄で支配されており、教師と信者間の関係性や道場や教会の
雰囲気は厳格であることが多い。また、そういった厳格さを持ち合わせることが
新宗教を宗教として存在することができるのであろう。
初めから緩くては、教義自体が個人の解釈を許してしまい、結果収拾がつかなくなる。

その点では天理教は、歴史と規模において一定の社会的認知を得ていると思う。

しかしウェブ上で見られる天理教批判を顧みてみると
その緩さが致命的と思われる現象が見てとれる。

「え?天理教はそんなにお供えを強要しないし、強引に入信させないよ」

と信者なら言いたくなるような訴えが見られる。

そういえば私が実際に聞いたことだが、友人が
「天理教ってセックスするとき避妊したらダメらしいぜ」
と言っていたのを聞いたことがある。何年も前だが。
その時の若い私は「だから天理教の教会は子どもが多いのかー」と思ったが
冷静に考えれば、そんな教えがあるはずないことは自明である。

閑話休題。ウェブ上で見られる天理教批判を鵜呑みにすることはできないが
それでも「火の無い所に煙は立たず」であり
信仰者、もしくわ上に立つ者として「梨花に冠を立たさず、瓜田に沓を入れず」である。
天理教に関連する裁判が存在するように、それが事件や事案として扱われることもある。

天理教の特徴である緩さも、個性や、その教会が持つカラーとして機能している間は
非常に魅力的であり、十分に意義はあると思う。大いに歓迎すべきである。

しかし、その緩さ故に人を苦しめることになっては本末転倒である。
カイチョウさんは、その権力の不透明さに慎重であるべきである。

そういう意味も込めて、カイチョウさんの資質向上を一貫して私は訴えている。
後継者や信者のための講習会に大した意味はない。

それが無理なら教会本部は、天理教特有の緩さを是正し厳密に
カイチョウ職を定義づけるか、第三者が閲覧可能な監査機関を設けるか、
理の親という概念を撤廃すべきであろう。

そうしてしまうと信仰というものを伝える宗教では意味がなくなるのかもしれない。
また上記に挙げた例は、極端であり現実的でない。現実的には私も望んでいない。
しかし、私が訴える命題は
「カイチョウの質に関してなんらかの策を講じないと、この先ヤバイんじゃないの?」
ということである。

それほど、私はカイチョウのコセイの行き過ぎに憂慮している。

この間も某有名K大教会のカイチョウの弟(分教会のカイチョウ)が酔っぱらって
信者とセックスしてしまい奥さんと離婚したというのを聞いた(噂だが、かなり高確率で事実らしい)。
そのK大教会のカイチョウは天理教の中でも厳しいことで有名らしい。
そのK大教会の信者いわく、K大教会のカイチョウさんとは信者にしてみれば雲の上の存在らしい。
気軽に「おっす、カイチョウ」なんて挨拶できない、まさしく神格化されているのだ。
カイチョウとして勘違いも甚だしい。K大教会のカイチョウ自身の人間性は知らないが
周りがカイチョウを神格化していることに気がつかなくてはカイチョウとしての能力を疑ってしまう。
またそれが事実でなくても、信者にそう思われていては同じである。
そんな振る舞いをしていては周りにいい影響を及ぼさないことすらもK大教会のカイチョウは
考えが及ばなかったのであろうか。
昭和の大企業が平成になって不祥事が続発しているのと同じ構造である。
ヒエラルキーの一番上にふんぞり返っていては、何も見えないだろうし
下は何も言えないだろう。ただ社会(信者)の問題意識は厳しくなるのみである。

厳しくて有名なK大教会のカイチョウ。
その厳しさが、近親者である弟にさえ伝わっていなかったのである。
事件後の弟がその後どうなっているのかは知らないが、極秘裏に処理されている
可能性が高いことは想像に固くない。

しかし上記のことも、その他の不祥事も、信者にとってはたまらないだろう。

もう少し、いや欲はいわないが、せめて誰かを傷つけないほどに
カイチョウさんは、その職責の影響力や不透明さに自覚的であってほしい。

追記
もちろん、取りあげたカイチョウさんは一部の一部である。
立派なカイチョウさん、人として素晴らしいカイチョウさんもいる。
しかし、「私はエライ」などと勘違いし、「私は常に正しい」と思っている
カイチョウさんは主観的だが結構いると思う。
昔、オーストラリアの福祉の専門家と話をすることがあり私が彼に、
「プロフェッショナルの条件とは?」と問うと
「それは常に『私は間違っているのではないか』と自問し続けることができることだ」
と彼は答えた。
天理教のカイチョウさんも天理教のプロフェッショナルであってほしいと思う。

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