先日、天理市の天理教本部に参拝に行った。
そのことに関しては前ブログでもちょこっと書いた。
それとは別に、怒りを覚えたことについて表明したい。
私は天理教後継者の知り合いと二人で神殿で参拝を終え、
車で移動し(かなりの渋滞)、昼食をとった後詰所に立ち寄った。
詰所では参拝を終えた信者たちが溢れるようにいた。
私はたびたび教会に行くことがある。
その教会関係の人たちも詰所におり、
その人たちと挨拶をしたり、世間話をして過ごした。
知り合いの詰所での用事も終わったらしく、「それじゃ帰ろうか」と
帰り支度をしようとしていたら、Mさんという男性が近寄ってきた。
Mさんは(前ブログでもMさんは登場したが全くの別人)
とある地方の教会の後継者である。
私との直接的関係はない。しかし何度か話したことがあるくらい。
もちろん、友達ではなく知り合いである。
そのMさんが、私に「今、何してるんですか?」と質問してきたので
「平日は終日仕事して、休日にはたまに天理教に関わらせてもらってます」
と言うとMさんは
「優雅な生活ですね」と言った。
一瞬私はMさんが言う優雅の意味が分からず「そうですね」とだけ言って別れた。
その話を知り合いに言うと
「Mさんは子どもさんが沢山いて、会長さんも高齢で苦労されているみたいですね」
という情報を得た。
自慢ではないが、私はその辺のサラリーマンより働いているつもりだし(平均労働時間をだいぶ超える)
賃金も同齢のサラリーマンと比べて多いとは胸を張っては言えない。
贅沢と言えば、週末の風呂上がりにビールを1瓶飲むくらいである。
毎月の家計のやりとりに関しては苦労しているし、
まして優雅なんて言われたことも思ったこともない。
なるほど、人は苦労すると他人に皮肉しか言えなくなるのか。
そういえば、日本電産の社長が「休みたければ辞めればいい」と発言したことに
関して巷では批判的意見が噴出している。
会社と宗教を同じ水準でものを言うことはできないが
宗教に対して「そんなに嫌なら辞めればいい」と言っても社会は批判してくれないだろう。
アントニオ猪木は幼少のころ貧しい家庭に育った。
それでも厳格な祖父の教えは「貧乏であっても心の貧乏になるな」であったと聞いた。
(あれ?アントニオ猪木じゃなかったかな?)
前ブログも含めて心の貧乏人が少なくとも天理教内に存在することは明言できる。
そして、その少数の心の貧乏人のせいで天理教が好きになれない人もいる。
私も天理教を人に勧めようとは思わなくなった。
自分の苦労で目一杯で 他人の苦労を理解する容量がないのですね。職場での人間関係や仕事の悩みを相談しようにも 教会は苦労の中やってて 世間は遊びの中やってるというスタンスなので相談しようにもできませんでした。