天理大学という昼下がり

昨今の大学事情においては少子化の影響をモロに受けている。
特に地方の大学や私立大学などは定員割れをおこしている大学が多く
学園はその運営に苦慮しており、実際に統廃合も含めた再編を強いられている。

一方、有名私大などにおいては財政難の大学を傘下にし
また幼稚園や小学校を創り益々巨大化している。

このような二極の状況でいわゆる中堅以下の大学存続のキーポイントは
その大学の特色を生かすオリジナリティである。
この場合のオリジナリティの概念についてはそれぞれ意見がある。
軽卒にオリジナリティを捉え間違えると、余計地盤沈下しかねない。
流行にのって新学部を作ったはいいものの結局学生には魅力がなく廃止された
学部や学校は少なくない。

今回はそこには言及せず、ざっくり特色と言い切って天理大学を考えたい。

ちなみに私は天理大学には在籍したことがない。
敷地の中には2度ほど入ったことがある程度である。
なので、必然的に外部の人間から見た天理大学の見方ということになる。
大学というアカデミックな社会的組織に外部の視点は無駄ではないだろう。

外部の人間が天理大学のオリジナリティと聞いて思い浮かぶのは
一番に宗教学科の存在であろう。
宗教系の学校が宗教系の学部を持つのは当たり前と言えば当たり前である。
宗教学部が宗教系の学校の核をなすと言っても言い過ぎではなかろう。

2番目は・・・外国語学部であろう。
あまり知られていないことだが、天理大学の外国語の多様性はハンパない。
英文系ならどこにでもあるだろうが、その種類の多さには感心する。(詳しくは大学HPを)
これは個人的な憶測であるが、ここの卒業生は国際的活躍や、それこそ
海外拠点を持つ企業や外務省にも採用されやすいのではないかと思う。

3番目は・・・体育学部であろう。
天理大学の体育学部は日本のスポーツ界でそれなりに目立っている。
それだけでなく私が強調したいのは体育教諭の養成である。
全国の中学、高校の体育の教諭で天理大学体育学部卒は少なくないらしい。
関西以西ではそもそも体育学部自体が少ない事情もあるのだろうが。。。

以上の3点については一般的に聞かれる天理大学の秀逸すべきオリジナリティである。
もちろん、私の持っている天理大学のイメージが間違っている可能性もあるが
他の人が天理大学をイメージする際にもあまり違わないのではないかと思う。

そこで一つ天理大学に対して私が「まずいんちゃうかなー」というものがある。
それは大学院の存在である。
大学HPを見たら分かるように、天理大学には大学院が一つある。
それは臨床心理学である。

私はこの大学院の設置には少々疑念を抱く。
なぜなら、天理大学の臨床心理学は、そこまで社会的高評価を得ていると聞いたことがない。
にもかかわらず臨床心理学の大学院を設置するのはいかがなものか。

日本の臨床心理学の祖と言われる故河合隼雄氏は、天理大学からスイスのユング研究所に
行き、帰国後はかの有名な箱庭療法を日本で最初に天理大学に置いたのである。
しかし、河合氏が京都大学に移ってからは天理大学の臨床心理学は日本を牽引する
存在としてあるようにはとても思えない。
臨床心理の専門家ですら天理大学をもって臨床心理学の拠り所であるとは聞いたことがない。

天理大学が臨床心理学の大学院を設置したのは、臨床心理士の養成が大学院修士卒業が
条件であるという事情がそうさせたのは言うまでもない。
つまり、制度的な必要性に駆られて設置したのである。

それが決して悪いと言っているわけではない。
心理主義に囚われた安易な方法を選んだとしか思えない心地悪さがあるだけである。

それは宗教学や外国語学、体育学部に大学院がないのになぜ臨床心理学が・・・
という非常にシンプルな問いである。

天理大学の経営側が順番を間違ったのである。

もちろん、現在の心理主義の日本では臨床心理学の大学院は人気である。
その波及効果は教団の宣伝、学部の潤いなどにおいてマイナスではない。
大学の経営戦略的には成功と言える。
天理教の新聞「天理時報」を見ても、度々「心の時代」として
臨床心理学の大学院関係の記事が見てとれる。

しかし、前述したように心理主義的流行に駆り立てて大学というものを
経営することに私は賛成できない。
なぜなら、そこには天理大学の長期的オリジナリティを損なう要因しか見当たらない。
臨床心理学の大学院は全国にあまたあり、それを天理大学の特色とすることは
かなり金銭的、時間的投資を頑張ってもらわないといけないのである。

また、私個人の憶測としてそんなに「心の時代」(心理主義)は長続きしないと踏んでいる。
これはアカデミックな終焉ではなく日本社会が臨床心理士を「心のスーパーマンじゃなかったね」
と臨床心理学の限界に気づくのではないかということである。(つまり現在は何か事件、事故、悩みが
あれば過剰に心理カウンセラーや臨床心理士と言われるが、そんなに万能ではないということ)

個人的な経験であるが流行に乗ると後々、後悔することが多い。
例えば若かりし頃、流行にのって有名人の髪型を真似て長髪にしたり
ダボダボのズボンを履いたりしたが、今当時の写真を見せられると顔面から火が噴く
くらい恥ずかしい。(当時は、それがカッコイイと皆思っていた。)
しかし、一方で短髪でモノトーンな服装というシンプルな格好をしている者は
多少時代が違ってもそれほど違和感を感じないものである。

閑話休題。
伝統があり、且つ地道に社会的評価を獲得している宗教学、外国語、体育は
大学院までは必要性がないというのが天理大学の結論である。

現状では問題がないかもしれないが、順番を間違えるような人間が
大学を経営していては、天理大学の社会的評価を得ることは難しい。

私が経営者であれば、宗教学や言語系、体育系の大学院を創る。
それらの研究を促進しその発展を天理大学の存在意義として明確にする。
それが天理大学としての「らしさ」であり、長期的視点から
大学として「生き残る」蓋然性は高いと言い切りたい。
つまり、それらのフィールドの大学院が天理大学にできた場合、
世界的に牽引する研究者や実践者が生まれるのは想像に難くない。
だって元々、その方面を勉強してる人が少な