陽気ぐらしという定義

陽気ぐらしについて書くのはひょっとしたら2度目かもしれない。
わざわざ、過去の記事を探すのは面倒である。
また私の考えも以前と変わっているかもしれない。
変わっているのに気づいた方は、申し訳ないが新しい方を採用してください。

陽気暮らしというのは天理教の金科玉条である。
天理教の最終目標は天理教なのである。
逆説的に考えると陽気ぐらしが達成されると天理教の存在意義は無くなる
といっても言い過ぎではない。

では、その陽気ぐらしとは達成可能なのであろうか考えたい。

そもそも、陽気ぐらしの定義は存在するのであろうか。
私は聞いたことがない。
私が問うた天理教人も明確な答えは言ってくれない。

ひょとすると、私が知らないだけで天理教内では陽気ぐらしのコンセンサスが取れている
かもしれないが誤解を恐れずに私見を述べたい。

私が問うた陽気ぐらしの定義に対しての天理教人の答えは以下のようなものである。
戦争がない。
争いがない。
平和な世の中。
などなど。

言わんとしていることは分かるが小学生が言うように抽象的であり、
私たちの実生活までなかなか落ちて来ない。

陽気ぐらしを私たちの実生活に落とすとどうなるのか。

その点について、具体的例示を言ってくれる人がいない。

では具体的に考えてみよう。

私は戦争を安易に否定することはよくないと考える。
もちろん、戦争はキライだし起こってほしくない。
しかし、私たちは戦争から多くのことを学んだのも事実である。

戦争を肯定ー否定の一元論で考えないで現象学的に考察してみたい。
戦争とは国同士の争いである。争いの原点は誰かと誰かの怒りの衝突である。

戦争を安易に否定することは、怒りを否定することに繋がりかねない。
これには注意が必要である。
私たちは人間である。人間に備わっている感情の一つである怒りは生物学的に
大切な機能である。そう考えると、国同士の戦争も子どものケンカも本質的
には何の違いもない。規模や質は異なるが「怒りによって我を通す」という点において同じである。

まずはここにきっちりと明確な線を引かなくていけない。
ここに線を引かないと定義が定まらない。定義がない論理は他者に理解されない。
その上で、なぜ戦争はNGで子どものケンカはOKのような雰囲気が生じるのか。

それは、戦争(大人のケンカも含む)が理性と知性がある大人の行為であるからである。
子どもは、怒りの感情が芽生えた時に損得で思考できない。
大人は損得で戦争もするし、戦略を練ることもできる。
しかし、そこにこそ私たちは大きな落とし穴に入っていると思う。

例えば、子どもを持った親は理解しやすいと思うが
子どもが何か悪いことをした時に、瞬間的に手が出てしまうことは1度くらいある。
瞬間的に手が出てしまう瞬間に、大人は本当に「子どものため」とは思わない。
子どもが悪いことをして、とっさに手を挙げた親の頭には「くそ!この野郎」ぐらいしかない。
これは私の経験からも明白である。
親の怒りが「子どものために」というのは事後的に親の都合で作られたストーリーに過ぎない。

戦争もまた引き金は損得ではなく怒りによって始まっている。
関ヶ原の豊臣家もWWⅡのアメリカも日清、日露も全部きっかけは報復という怒りから。

そう考えると、私たちは怒りから生じるケンカも戦争も否定はできない。

そして私たち人間に備わっているもうひとつ高次の機能の一つに反省がある。

ケンカも戦争も事後的に反省ができるのである。
反省は後悔ではない。反省は同時代的人間にも後世に繋がる人間にも伝えることができる。
少々飛躍するが、つまるところ私の結論として戦争やケンカそのものを批判することに将来はない。
当事者責任ではなく、戦争を止められなかった我々に責任が帰せられるべきものなのである。
そして、我々に責任が帰せられたときに「争いはだめだよ」と争いを非難することができる。

世界各地で起こっている争い、関係のないように見える我々に少なくとも
社会の構成員としての責任が少なからずあるという内省こそが陽気ぐらしであると私は思う。
世界全人類ハッピ-なんて、達成できるはずがない。
怒り、悲しみ、葛藤、未練、嫉妬、
これらの忌避される感情は誇るべき人間の機能であることを無視してはいけない。
不幸や逆境を抱えながら、それでも腐らずに懸命に生きる人間に私は拍手を送りたい。

ということで、私なりの陽気ぐらしの定義は「建設的志向性」なのである。

陽気ぐらしという定義」への1件のフィードバック

  1. 末端教会子弟

    「陽気ぐらしの天理教」などというキャッチフレーズもあるが、教祖さまの教えが「個人の陽気くらし」を目指しているものではなく、「人間が皆陽気ぐらしが出来る社会」建設を目指して教えを説かれた事は明らかだろう。

    社会(人間の集まり)を成り立たせる重要な要素に経済と政治がある。どのような社会にすれば皆が陽気に暮らせる経済と政治体制が出来るのかを「みかぐらうた」で教えている。
    経済は一下り目、政治は二下り目である。

    一下り目、「人間が皆散財心をもち、何かに作り獲り、豊かな社会」は、現実社会と正反対と言っても良いくらい価値観が違う。
    二下り目、「難渋を救い上げ、社会的病いの根が切れたら、争い事も無くなる」は、差別の無い平等社会を目指す現代でも遥か及ばない世界だ。

    これが実現したときに、現実問題として、今と何がどう変わるのか、想像の域を越えている。

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